2017年05月20日

20170520 Karimabad (Hunza)

Uyghur-Pamir 2017.05.20.2 Karimabad_Hunza

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 PassuからHunzaへ分岐する起点Ariabadまでは所要一時間程度、ヒッチ相場は200PKR (2017年現在) である。私は250PKRを提示したが運転手は200PKRしか取らなかった。出発して程なく、地すべりで寸断されていたK.K.H.の区間を通過した。それはGulmitの手前から旧道と別れ、地すべりでせき止められてダム湖になった川を飛び石状態でいくつも橋で飛び越え、あるいはトンネルで抜けるものだった。それまでの素朴な風景は一変し、日本でよく見かける高架橋による高規格道路になっていた。トンネルの出口には「中」の大きな文字が見られ、ここにも中国の影響とそれを誇示する姿勢が色濃く見られた。

 乗客は3人いずれも男性で、Passuの北の村からAriabadへの買物客でり、道中いろんな話をした。私がこれからKarimabadへ数日滞在した後、GilgitからRawal-Pindiを経てLahoreへ出ると言うと、彼らは口々に、Hunza北方の、ここGojar地方の良さとイスマイール派の穏健な慣習について触れた。特にパキスタン北部辺境地域は、同国他地域とは文化的にも経済的にも、もちろん歴史的にも隔絶された形になっていて、それが彼らのアイデンティティとして息づいていること、彼らが言うその南限はGilgitで、そこでは半数近くがすでにスンニ派になるという。言葉の感触からして、K.K.H.が整備されて中国からパキスタンの首都への交通が便利になり、Gojarが栄えることは喜ばしい反面、北から中国、南から絶大な多数派のスンニ派による影響で、自分たちの故郷が変えられてしまうのではないかという警戒感が感じられた。その辺りのニュアンスは、Gulmitの高校生の話にもあった。しかし彼は若いだけあって、より一層、中国からの影響を敏感に感じ取っていた。なぜならトンネルだけでなく、Gulmitの村の周りの道路のガードレールのあちこちに「中谊/ Pak-China Friendship」の文字が踊っていたからである。小一時間ほどのドライブでAriabadに到着。運転手は親切にもKarimabadへ上がる「スズキ」を見つけて私をそこへ降ろしてくれた。

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 さて、パキスタンへ来たら「スズキ」、どこへ行くにも庶民の足は「スズキ」である。しかし私はここで初めて「スズキ」にお目にかかったのだ。もちろん「スズキ」は日本の自動車メーカーの名前であるが、軽トラの荷台を改造して幌をつけ、人が10人ほど乗れるようにした簡易乗合バスのことを総称して「スズキ」と呼ぶ。生粋のスズキの自動車から外したと思しきエンブレムがそこらで売られていて、どう見ても「Acty」や「Hi-Jet」なのに、正面中央に「SUZUKI」のエンブレムが誇らしげに取り付けられているのをみると、どうやらパキスタン人にとっては、ホンダ製であろうがダイハツ製であろうが、断固としてそれは「スズキ」なのである。そして、いくら小さくても幌や車体に過剰な装飾が施されていることは当然のことである。これは彼ら運送業者のプライドであり誇りであるからだ。たとえ人や荷物で重量オーバーになったとしても、それで燃費がかさんだとしても、その負担に耐えきれずにパンクが頻発し、坂道でエンジンがオーバー・ヒートが頻発したとしてもだ。

 Ariabadは、この「スズキ」の存在に象徴されるように「街」である。SustoもPassuも「村」だったが、ここは「都会」ではないものの、少なくとも「街」である。混沌と喧騒、商売と物流、通りにあふれる人、クラクションの音・・・「街」だ。私の乗った「スズキ」は坂を登りはじめると、私の期待を裏切らずにパンクしたり、エンジンの連動が外れて立ち往生したりした。そのたびに乗客は全員降りて修理を待った。運転手も慣れっこで、助手席の下にある工具箱を取ってすぐに車体の下に潜り込み、なぜか私を助手に指名してあれこれと指図した。「なぜだ ?? 」と訊くと、「これは日本製だろ ?? 」というアフリカでもブラジルでも聞き慣れた言葉が返ってきた。以後、私は膝の上に彼の工具箱を置いて、故障と同時に飛び降りた。乗客の女たちがゲラゲラ笑っていた。

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 Karimabadは、Hunza川沿いに走るK.K.H.から急な山道を30分ほど上がったところにある比較的なだらかな斜面にひらけた街である。その入口、町の最も下の拠点は「Zero Point」と呼ばれている。そこに古くからあるバック・パッカー用の安宿「Haider Inn」(400PKR) があり、とりあえずそこに荷を下ろした。宿は斜面に張り付いたように立っていて、通された部屋はレセプションのある階のひとつ下でありながら、その下の道を見下ろす形になっている。大きな共用バルコニーに面していて、常に誰かがいる。宿泊客に旅行者はむしろ少なく、どちらかというと、住んでいる者や近くへ働きにきた労働者の方が多い印象だ。部屋は質素でそう悪くない。到着したのが昼過ぎだったので、とりあえず陽のあるうちに一回り。渓谷を取り囲む山々、藩王国時代の王宮「Baltit Fort」を遠望し、街のおおよそを把握するのに一時間とかからなかったが、あまり舗装の行き届いていない坂道を「スズキ」が頻繁に行き交い、人並みをかき分けるようにして歩かなくてはならない状態に、これまでのゆったり感が消し飛んで、少し疲れが出た。

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posted by jakiswede at 00:00| Comment(0) | Uyghur-Pamir 2017 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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