Uyghur-Pamir 2017.05.23 Gilgit-Pindi
早朝、万一キャンセルが出た場合に備えて、6時半に空港へ行ってみた。空港はホテルからほど近く、鉄柵で囲われただけの簡易なものだった。「キャンセル待ちだ」と伝えると、警備員が通してくれたので中に入り、玄関の前のベンチに座って待った。まだ職員は出勤しておらず、客も来ていなかった。7時頃になってようやく、客がちらほら集まりはじめ、やがて乗務員が到着した。警備員が私を紹介してくれたので、キャンセル待ちを伝えたが、今日の便は全て団体客で一杯なのでキャンセルはないと告げられた。せっかく待ってもらったのに申し訳ないね、とパイロットや警備員に言われたのには驚いた。心が暖かいのだこの国の人は・・・
というわけで、のんびり朝食を済ませ、屋上で日向ぼっこなどをし、飛び立って行く飛行機を眺めたりして時間を潰した。HunzaからRawal-Pindiへ早く到達したい人は、Ariabadを8時ごろタクシーで出られれば10時のRawal-Pindi行きのバスに乗るのは十分可能である。もし9時の飛行機の予約が取れているのであれば、6時半くらいに出てぶっ飛ばせばこれもできるかもしれない。タクシーにしろといったのは、Gilgitへ至るK.K.H.がHunza川の右岸を走ってくるのに対して、Gilgitの街は左岸にあり、スズキやバンが街に入る橋はぐっと遠回りな位置にあって、空港やバス・ターミナルとは逆向きになるからである。タクシーであれば脇道に入って手前の橋を渡って直接乗り入れることができ、これは市内渋滞を避けて大いに時間の節約になる。旅を計画されている方はどうぞご参考までに・・・
いよいよPunjabに向けて出発である。バス・ターミナルというものは、どこも興奮と活気にあふれていて無国籍な治外法権的な匂いがする。荷物を屋根に放りあげると、係員が受け取って整理してくれる。チケットを運転手に見せると「お前は俺の後ろに座れ」とぐいっと掴まれて座席に押し込まれた。運転手のすぐ後ろの通路側だ。どこにでも見られる喧騒とヤジと怒号が飛び交って、座席の争奪も落ち着いて、控えの運転手と武装した兵士を乗せて、バスは発車した。これで山岳地帯ともお別れだ。
バスは、陽のあるうちは渓谷の川沿いを走った。急峻で樹木の少ない、見るからに脆い岩の谷間を縫うように道は続く。川は泥水。いたるところに崩れがある。時折、その崩れと崩れの間の、ちょっとマシな斜面に張り付くように、小さな集落が現れる。周囲にほんのわずかな畑があったりするが、すぐ上は崩れ、すぐ下は濁流、どこへ逃げる ?? どのようにして暮らす ?? 全く想像のつかない環境で、ここの人は暮らしている。K.K.H.の交通量はかなり多い。途中で何度か羊飼いの群れを見た。決して美しい風景ではない。殺風景の連続だ。殺風景すぎて、荒涼とし過ぎていて、自然環境の厳しさ、非常に脆くて儚い微妙なバランスの上に翻弄される人の生活を見た。それすらできないほど厳しく切り立った回廊も延々と続く。延々と無人の、茶色く染まった、埃っぽい渓谷が続く。
発車して7時間後、小規模な土砂崩れに行く手を阻まれた。待機車両がずらりと列をなす。その向こうに小さな土煙が上がっているのを見ると、まだ発生から時間が経っていないという感じだ。車が止まって、乗客は腰を伸ばすために降りた。様子を見に行く奴らもいる。中には川に降りて用を足す奴らもいる。別に焦る様子はない。車中で隣席になった顔見知りの何人かと話していても、よくあることだと落ち着いている。周りの状況から、別に心配もなさそうなので、私も様子を見に行くグループとともにあたりをうろついてみた。気のいい運転手が笑ってポーズを取るデコトラは日本からきたもので、しかも大阪府の排ガス規制をパスしている。つまり私のカリーナちゃんより新しくて環境に優しい車というわけだ。これが良い気分転換になり、乗客とも仲良くなって、小一時間後に出発した頃には、かなり打ち解けていた。
途中、昼食と夕食に、地元の食堂に立ち寄ってたが、豆のカレーしかなかった。結構食べ飽きた。日のある間に数回、夜中に数回程度検問があったが、これは外国人の通過をチェックするためのもので、そのうち2回は直接降りて接見しなければならなかったものの、ほかはパスポートのコピーを出しただけで済んだ。運転手が私を自分の後ろに座らせたのは、「コピーを用意しろ」とすぐに声をかけられるようにするためだった。私一人のために検問で止められるのは心苦しかったが、まあその度にみんな休憩していたのでよしとしよう。座席は通路側でもたれるものもなく、シートはリクライニングしないものだったので、流石に日が暮れる頃になると疲れてきた。乗客の大部分は埋没していたが、私は熟睡できなかった。うつらうつらしては「コピー !!」と言って叩き起こされ、その度に乗客から失笑やうめき声が聞こえた。一度だけ、真夜中に検問で私だけ降ろされたことがある。運転手が「大丈夫だ。行け。」というので兵士と共に詰所に通されてパスポートの写しを取られた。彼らの対応は威圧的なところは微塵もなく、終始紳士的で穏やかだった。その詰所は、地域でもかなり大きな部署らしく、前庭のついた立派なコテージで、別荘風の外構が設えられていた。近くで川の音がしていたが、真っ暗で兵士の一人が懐中電灯で足元を照らしてくれるほどだったので、あたりはほとんど見えなかった。そこでバスはしばらく休憩時間をとった。運転手によると、「もうこの先から平野に入る」とのことだった。
乗客で私の隣の窓側にいたのは、だいぶちゃらけた感じの若者だった。パキスタン訛りというか、ほとんど日本語のカタカナをインド人が棒読みしたような英語で大変わかりやすかったが、まあつまらん話を延々とするものである。通路の反対側には年配の商人二人がいて、その後ろに二人組で見るからに敬虔なムスリムがいた。白いシャルワール・カミースに身を包み、パコールではなくツバの無い白いイスラム帽に、柄のない白いシュマグをまとっていた。二人とも動作が控えめで物静かだったが、眼光が鋭く、外国人である私を見るからに警戒していた。のみならず、日中は小休止のたびに時計を確認しながら地面にひれ伏して礼拝を捧げていた。そこまで敬虔なムスリムは、数十人いた乗客の中でも彼ら二人だけだった。あとは、どこにでもいるごく普通の人たちだ。
何度かの休憩で行動を共にすることがあって、やがて彼らから話しかけてきた。こういう人たちが、見たところ異教徒である外国人に対して切り出す第一声は「あなたはムスリムですか」という質問に共通する。ムスリムであるか、イスラムを信じるか・・・無神論者である私には当初きつい質問だったのだが、これは文字通りを意味しないことが多い。あなたは神を信じるか、という問いをかけられて、YesかNoで答えなければならないと考えるのは律儀すぎる日本人の癖である。別に二者択一を迫っているのではない。イスラム世界はそのような風土なので、そのような表現になるだけだ。ここでNoと答えれば、次に来るのは「なぜだ ?? 」という質問になり、雰囲気が険悪にな方向へ向かう。かといってYesと答えれば嘘をつくことになる。このように、日本は世俗国家であり、一応仏教国ということにはなっているらしいが、国民のほとんどは不信心者の集まりなので、この問いを極めて重く受け止めがちである。しかし多くのムスリムと話をすると、この質問にはそんなに重い宗教的な疑念を含んでいない、ということがわかる。ムスリムは同朋意識が非常に強く、見知らぬ人がどんな出自を持っているかがはっきりしないと安心できない、そこまでいかなくても、何か共通の地平を持つことができれば安心するようなのだ。私が日本人であることはすでに知られている。まあここんとこいろいろあったので、日本がアメリカの手先であることも、よく知られるようになった。ではお前は何をするためにここにいるんだ ?? という、誰もが抱く半分の疑問と、半分の好奇心がないまぜになって、しかし一般論として仏教の話を持ち出されても困るので、手短に、わりと気楽に「あなたはムスリムですか」という質問を発するのである。これに当たり障りなく答えるには、「ムスリムではないが、大変興味があってやってきた。ここは素晴らしいところだ。」などと言って、YesかNoかには答えずに友好関係を築こうとする。すると先方も、その二者択一は置いといて、互いの友好の方に興味が移って、会話の地平が開かれるのである。彼らにとって、この慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御心を知らぬ異教徒を正しく導くのはムスリムの務めだという意識では共通する。しかもこのバスは、北部辺境のイスマイール派のエリアから、南部平原のPunjabへ向かっている。自ずと、両者の信者がそこに混在し、それが議論の的になっていくことはやむを得ない。要するに長距離バスで夜の帳も降りて、することがなくなった退屈しのぎにすぎないので、私を含めて途中で眠りこける奴もいたり、目が覚めて議論に加わる奴もいたり、はじめは私にも聞かせようと英語で頑張ってた奴らも、いつしかウルドゥ語に変わってしまったりして、話は夢か現か、とりとめもなく時間は過ぎて行った。
パキスタンの北部辺境から中国・タジキスタン・アフガニスタンの北部一帯のパミール高原には、イスラム教の中でもシーア派の分派であるイスマイール派の信者が多い。古くは「暗殺教団」などと呼ばれ、それを意味する英語assassin、アラビア語でHashishi、転じて「大麻」の語源となり、若者を扇動するに楽園に拉致して大麻に溺れさせ、そこを追放しておいて「いうことを聞けばまた楽園に戻してやる」と甘言を弄して若者を操る老人の話が出て来るが、その説話の元となったのがイスマイール派だといわれている。イスラム教の中でも戒律に対して懐疑的、生き様が宗教的というよりむしろ哲学的、外の世界に対して開放的で合理的な考えを有するとして知られている。私がこれに興味を持ったのは、その寛容な思想であって、近寄りがたく閉じられた印象の強いイスラム世界にあって、その開放感をこの目で見て見たかったのである。つまり現代の桃源郷と言われるフンザのあの華やかさを育んだパキスタン北部の山岳地帯、暗殺されたアフガニスタンのマスード司令官が命がけで守ろうとしたパンシールに連なる山並み、近年まで中央政府の統治が及ばず藩王国として独立を保っていた地域、そして今なおインドとの国境が確定していない係争地でもあるこの地一帯に、心情的に惹きつけられる何かがあった。しかも前回2012年のウズベキスタンの旅において、ブハラの街で世話になった夫婦がタジク人であったこと、そのタジク人は中国語では「大食」と記され、もともとイラン系の民族であること、イランという国はイスラムでありながらアラブとは一線を画していて、もともとはゾロアスター教という、火を崇める独特の宗教を持っていたこと、その音楽は「ムカーム」といって広くトルコからアゼルバイジャン、東トルキスタンにかけての西アジアの広い地域に渡る音楽の一大潮流であること、そのイランは、歴代シーア派を奉じており、イスマイール派はその分派であることなど・・・まあ所詮、聞きかじりの雑学が支離滅裂に頭の中でつながりあっただけなのだが、とにかく旅情を掻き立てられる要素に溢れかえっているのである。そこへ中国の新疆ウイグル自治区から越境して入るという旅の実現が、私を有頂天にさせたのだ。そのトライバル・エリア的な治外法権性、彼らがこの地を愛する核となるものは一体何なのか、小麦をこねて、チャパティでなく、パンの原型のようなものを焼く食文化も、イスラム的というよりヨーロッパに通じるのは、太古のアレキサンダー大王の東方遠征の際に取り残されたギリシャ人の末裔のなせる業か、まさに世界の文化の混沌の坩堝の中核を行く旅が実現するとは、思ってもみなかったのである。いきなり飛び込んでどうなるものでもないということは、もう散々の旅行経験から事前に理解してはいたのだが・・・
そのイスマイール派の現代のイマームはAga Khanといい、スイスに本拠を置く。世界中に信者がいて、そのうちの大きなコミュニティが、パキスタンの北部辺境から中国・タジキスタン・アフガニスタンの北部一帯のパミール高原にあり、そのうちHunzaより北のUpper Hunzaと呼ばれるGojar地方のイマームはHazil Imamという。Aga Khanは、宗教家というより思想家・哲学者・実業家であって、その慈善事業は国境の枠を越えて、それぞれの中央政府とは別に影響力を及ぼしている。その点で、彼はトルコのFethullah Güllenと似ているところがある。そしてイスラム教徒であると同時に、宗教が世界平和に貢献しうる道を探るとして、ローマ法王や異教徒の指導者と会談したことが伝えられることもよく似ている。つまり私は、イスラムという宗教が国是として実践されている国で、イスラムにとって「異教」となるあらゆる宗教や、無神論をはじめ世俗的なものも含めた思想・哲学が、人々にどのように受け入れられているかを知りたいとかねてから思っていた。そういう意味では、パキスタンの北部辺境山岳地帯は別世界であった。
Aga Khan自身は、実際にはセレブリティの家系にある。実業家としてあげられた収入を、慈善事業としてコミュニティのインフラ整備に当てている。パキスタンの場合、北部辺境地帯もその例だが、もちろんこれが中央政府との間に微妙な見解の相違をもたらしていることは、トルコの例と似ている。またこの地は、莫大な資本を背景に「一帶一路」政策を掲げる中国とも利害を共有する。例のAttaabad Tunnelsが良い例である。ここはもはや現代の秘境ではなく、Aga Khan・パキスタン中央政府・中国が触手の伸ばすターゲットになりつつある。地元の住民がムスリムであることは間違い無いのだが、それは日本人が、あるいは世俗主義者が宗教的と考える信仰心とはかなり違うように思う。彼らがAga Khanの名を唱える時、それは我々に利益をもたらしてくれた、常に我々のことを考えてくれている、だから信仰するという、宗教的信仰と、世俗的支持が混同した姿勢を感じるのである。突き詰めれば、「日本列島改造論」を唱えて新潟への新幹線乗り入れを強く主張した田中角栄 (呼び捨てにしたりしてすみません、善悪について評価しているわけでは無いので、ご不快の点はお許しください) とどこが違うのかわからなくなる。田中角栄を支持することはあっても信仰することはほぼなかろうと思う。しかし、ここではそれが一体になっている。それは無分別なのだろうか、彼らが近代的思考から取り残されているからだろうか・・・
イスラム世界を旅していると、時々このような短絡ともみえる行動が見られる。ところが私は思う。これを短絡だと思うのは、世俗主義に立っている私のものの見方であって、彼らにはごく自然で普通のことなのだ。世俗主義の立場に立つと、宗教というものを自分の枠の外に置き、自分と宗教を切り離して日常を生きる。したがって宗教的な生き方をみようとすると、自分は一旦そこから出て信仰心というものを持ち、さまざまな戒律を守って世俗を脱し、宗教的な存在になるまで自分を高めて、そこから世俗を救済しなければならない、と考えがちである。だから宗教指導者たるイマームは遠い存在であり、それを信仰するという行為まではなかなか行き着けないと考える。ところが現実は違う。イスラム世界においては、例えば金融市場とは別に、ムスリム社会のコミュニティだけで通用する金銭の流れがあって、相互扶助の考え方のもとに、宗教的実践の一環として、極めて直接的に貧者を助け合う仕組みが出来上がっている。神の思し召しだと言って、実は裏で利ざやを稼ぐ組織があるのだが、それでも現実に救われている人たちがいる。これを短絡と見るのは、世俗と宗教を対立させて見ているからであって、子供の頃から政教分離と民主主義と資本主義を一体のものであり善であると刷り込まれてきた我々の、一つの視点であるに過ぎない。
そのような視点でいろいろなものを見ていくと、イスラム社会というものが、極めて合理的にできていることがわかる。とにかく神 (アッラー) の存在が近い。偶像化されていないので神が祭り上げられることがない。教会に階級制度がなく、信者は直接神に信仰告白する。モスクへ行って「私はムスリムではないのだが、あなたがたと共にいて良いだろうか」と言えば、たいてい喜んで通してくれる。私もよく断食をするが、それは飽食を戒める最も有効な手段である・・・数え上げればきりがない。クルアーンの解釈やファトゥワの法理論的要素の議論は別として、イスラム世界に何日神をおいて彼らと共にいると、逆にわざわざ聖と俗を分離して人から心を取り上げ、社会をシステムで増殖させて、その中に心を失った人間を放り込むことが果たして幸せか、社会の安定に個人の幸せを求めるあまり、社会の安定を維持するために個人から心を奪い取ることが、果たして善であろうか・・・つまり、民主主義は本当に善なのか、または我々にとってそれは可能なのか・・・そんなことを考え込んでしまった。
目が覚めたとき、バスは片側二車線の高架道路を高速で走っていた。まだあたりは真っ暗で、オレンジ色のナトリウム灯が延々と続いていた。砂けむりか、窓ガラスが汚れているのか、風景は茶色くよどんで見える。・・・・ バスは4時ごろRawal-Pindiに到着した。所要18時間少々だった。あたりはようやく明け初めたばかりだった。乗客は大抵寝ぼけながらもバスを降りて、命名の目的地に去って行った。私も周囲の乗客と別れを惜しみつつ、「どこへ行く ?? 」との問いに「鉄道駅だ」と答えると、さっきの経験な若者が、すぐ近くにいたオート・リクシャーを捕まえて行き先を伝えると、私をどんとそれに押し込んで手を振った。旅である。オート・リクシャー、これにも初めて乗るが、つまりもうここは広義にはインドなのだと実感した。地域や文化としてはインド、それが宗教の違いで、ヒンドゥー教であればインド、イスラムであればパキスタンとバングラデシュ・・・ヒンディー語とウルドゥー語も、表記する文字が異なるだけで殆ど同じ言葉なのだ。そうか、私はインドへ来たのか・・・計画しておいてよく認識していなかった。バイト先の休みで、インドまで来てしまったのか・・・
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