2018年12月22日

20181222 これで復活ピリピリナイト !!

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12/22 Saturday❣️

関西、日本でリンガラと言えばPILI PILIさん❣️

十回忌だそうで、そのパーティーがCorner Stone Barで開催されるんですが、光栄な事にそこにDJとしてお招き頂きました😊🎉💖
ありがとうございます🔥

PILI PILIさんが率いてた伝説のリンガラバンド "CURLY CHOCKERS (カーリー・ショッケール)" も最近再結成され、この日もスペシャルライブを繰り広げてくれます👍🎉🔥

つながらーとのアサヒトくんのマリンバライブや、Aloha FamiliaAkkoさん、お馴染み大先輩のHAVさんにNAMBA MANさん、そして今回オーガナイズされているHiro Equalizerさんと言う分厚い出演者陣です❣️

ほんでまたCorner Stone Barのお酒が美味しいんですわ👍❣️

私も十回忌、忘年会、クリスマス、年末、平成最後、アフリカンパーティー、バンザイ、大好き、全部ひっくるめて兼ねて兼ねてで禁酒解禁🎊しよかと思てますんで、是非ぜひ遊びに来て下さいです❣️🎉🎉😆

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 ちゅーわけで音づくりとリハやっとこか、とアンプに電源入れたら飛んだ。やるやんけおっさん、丸腰で来いちゅう意味やな、ほな丸腰で行ったるさかい早よ降りて来んかい何が起こっても知らんぞ !! (クソまたカネが出て行く;_;)

 ピリピリの10回目の命日に彼の曲を演奏できることは、このうえない光栄である。バンド名であるKarly Chockers (1987-95)「カーリー・ショッケール」とは、男性の陰茎のカリ首でショックを与える奴らという意味の捏造語である。我々の演奏した音楽の題材は、アフリカ中部の、旧ザイール共和国(現コンゴ民主共和国)の「リンガラ・ポップス」と呼ばれるアフリカのダンス・ミュージックから採られている。日本の巷にあふれるワールド・ミュージック系の物まねグループと根本的に違ったところは、その「リンガラ・ポップス」をやりたくてやっていたのではなく、「リンガラ・ポップス」がかっこいいと思ったから、そんな音楽を自分たちの手で作って演奏したいと思ってやっていたという点である。

 この一点は、ややもすると見過ごされてしまいがちであるが、非常に重要なことである。我々は自分たちのライブ本番で、「リンガラ・ポップス」の曲を演奏したことは一度もない。もっともパパ・ウェンバが来日したときに、彼を歓迎する意味合いで彼の持ち歌を演奏したことはある。しかしそれとて、パパ・ウェンバを歌手に迎えて彼が歌ったのであり、我々がリンガラ語を勉強して自分たちで歌うことなど、思いもよらぬことだった。なぜなら、それは我々の言葉ではないからである。

 この一点も、ややもすると見過ごされてしまいがちであるが、非常に重要なことである。我々が活動していた同じ時期、千葉県市川市を拠点とした「ヨカ・ショック」というバンドが存在した。それは、当時の日本でたったふたつしかなかったこのスタイルのバンドのもうひとつだった。彼らのほとんどはリンガラ語を習得しており、オリジナル曲もリンガラ語で作られている。なぜなら、「リンガラ・ポップス」はリンガラ語で歌うものであり、そうでなければ、音楽のリズムや抑揚その他、その音楽の根幹部分が変質してしまうと考えているからである。それはそれとして正しい。我々は彼らにその点で大きな敬意を表していたし、実際、両者の関係は非常に良かった。しかし我々の観点とは根本的に異なっていたのも事実だ。すなわち彼らは、自分たちが「リンガラ・ポップス」に依って立つことを良しとしたが、我々は、「リンガラ・ポップス」をあくまで自分たちの素材としてしか見ていなかった。つまり、わかりやすく言えば、彼らは本物の「リンガラ・ポップス」を演奏しようとしたのであり、我々は自分たちの音楽を「リンガラ・ポップス」の形を借りて演奏しようとしたのである。これは、全く似て非なるものである。

 この一点も、ややもすると見過ごされてしまいがちであるが、非常に重要なことである。既存の音楽形式と自分自身との関係を明確化しておくこと、それはどんな音楽を演奏する場合にあってもきわめて厳粛に受け取られなければならない。これをうやむやにしたままで音楽活動を続けた場合、必然的に既存の音楽形式と自分との間の矛盾を吸収しきれなくなって崩壊するか、低俗な物まねで終わる危険がある。何故矛盾を来たすのかというと、既存の音楽形式を極めれば極めるほど、自分の音楽的ルーツとの決定的な断絶を思い知らされるからである。問題は、その矛盾をどのようにして乗り越えるかであるが、彼岸に乗り切ってしまうか、此岸に留まって自己を見つめ直すかという二者択一でしかない。前者の生き残る道は、神業的な技術を習得して観客を圧倒するのみ。しかしそれでさえ、単なる自己満足か、よくてせいぜい業界やファンたちの連帯満足でしかないのが実際である。音楽留学などとやらを果たして、すっかり向こうの人になった気でいる愚か者はごまんといるが、我々はそんなことで満足するようなオナニストではなかった。音楽は、特定の技術者集団のメシの種ではないし、どんな音楽でも自分の表現として生かす事が出来なければ、何の意味もないと考えていたからである。音楽は、どんな人にも楽しめる開かれたものでなければならない。人を圧倒するものではない。わかりやすく、自分の言葉で、自分自身を表現したものでしか成し得ない筈である。我々はその一点を信じて、というか、特に疑いを容れず、ありていにいえば他の言葉を覚えたり演奏技術を向上させたりなどという、健気な性根と忍耐を持ち合わせていなかったため、極めてガキんちょロック・バンド的に、自分たちの解釈で演奏を押し通したのである。

 この一点も、ややもすると見過ごされてしまいがちであるが、非常に重要なことである。音楽の楽しみは、誰にでも解放されている筈である。しかし、楽器の操作や歌唱には、自ずから習熟するための技術が要求される。才能も技術も金もないただの音楽バカが採りうるただ一つの道は、集まってひたすら練習する事である。音楽への情熱と衝動・・・それは、自分たちにない物への強いあこがれである。なければないほど手に入れたくなるし、手に入れようとすればするほど、それは遠ざかってゆく。我々は偶然にも、同じ時期に同じ場所に居て、同じ音楽、すなわち「リンガラ・ポップス」に触れて、その強烈な魅力に度肝ときんたまを持って行かれた。そこには、一応バンドひとそろい出来るだけのメンツがあった。これは全く持って幸運な事だった。「よし、やろか」これしかなかったのである。それ以後、ひたすらレコードを聴き、押し入れで練習し、川原で音あわせし、スタジオで実験して試行錯誤する日々が続いた。お手本も教科書も参考書もない。あるのはただ、あるべき姿のイメージと、自分たちの現実だけだった。そのあるべき姿のイメージですら、往々にしてすり切れて行く。ひたすら繰り返すコード展開とフレーズ、それにランダムに付けて行くバリエーション、鼻歌をこね混ぜて歌にして往く作業、切りのない言葉遊び・・・繰り返し繰り返し演奏し、実験を重ねて行く気が遠くなるような作業だった。ひと続きの演奏が曲としてまとまる頃には、その演奏のひとつひとつの音が、まるで自分の肉体のパーツのように明確に意識された。曲は「カーリー・ショッケール」という、ひとつの生き物となって生命を吹き込まれ、我々が演奏する事によって、意志を持っているかのように動き出す。その喜びは何物にも代え難かった。そのような、ひとつの有機体としての音楽がひとつのステージを築き上げ、観客がそれを楽しむ・・・ミュージシャンとして、これほどの悦楽が他にあるだろうか。それこそが本物の音楽だと思う。我々は、専門の音楽教育を受けた訳でもなく、特定の師匠についた訳でもない。ただ、自分たちのやり方で、自分たちの納得がいくように、誰の指図も受けずにやって来たのである。そうして最盛期には、関西ではかなり知られたバンドになっていた。しかし、生き物には寿命があって、形式に頼らずに良い状態を維持する事はなかなか難しい。各自が音楽的研鑽を積めば積むほど、自己の美学を独自に打ち立てて行くから、当然グループとしてのまとまりが弱まる方向に働く。成長する個性と、それを纏める努力のせめぎ合いの中で、阪神淡路大震災という巨大災害が、物理的にバンド運営を不可能にしてしまった。

 アルバムを聴いていただければわかるように、曲はほとんど日本語で歌われている。それはまず、外国語では自分たちが物事をストレートに表現できないからであり、客の大多数は日本人だからである。しかし、リンガラ語の持つ特性が曲をよりよくする部分、すなわち「リンガラ・ポップス」の独特のノリを取り入れることができる部分には、簡単なリンガラ語も使われている。例えば、ダンス・パートに於けるアニマシオンと呼ばれるかけ声などである。演奏されている曲は全てオリジナルで、作曲者が大雑把な曲の構成と歌詞を作ってきたあと、バンド全体で、そのテーマについて自由なインプロヴィゼーションを何度も繰り返していった。その際に、気に入った曲で使われているニュアンスや学びとったアイディアを演奏の中で表現してゆき、ライブで実験的に演奏されながら細かいアレンジやダンスが決められていった。「カーリー・ショッケール」は、誰ひとりとして楽譜の読み書きができないので、インプロヴィゼーションという遊びの中で、自然に曲が完成されていったというのが特長である。これは、もちろん自分たちが楽しみでやっていたのだが、それが結果的に客を楽しませることになり、音を楽しむという、音楽の本来の姿を自然に実現することになったと思う。「リンガラ・ポップス」に影響を受けながら、あくまでも自分たちの作品づくりにこだわったこの姿勢は、「カーリー・ショッケール」の音楽を、日本製の「リンガラ・ポップス」ではなく、カーリー・ミュージックとしか言いようのない、摩訶不思議な混血音楽として性格づけていくことになった。こういうバンドのあり方や遊び心を、そしてこのバンドが何をやろうとしていたのかを、ここから感じ取っていただければ幸いです。「カーリー・ショッケール」は、私にとっては一生のうちに二度とあり得ない、かけがえのない経験をさせてくれたバンドだった。音楽の本質の、一面を見たように思った。これによって、私は音楽について、また演奏について、しっかりとした経験と考えを持つに至ったからである。




posted by jakiswede at 00:00| Comment(0) | 音楽活動 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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