Josquin Desprez: Missa Hercules dux Ferrariae/ A Sei Voci
(CD, Astrée Auvidis, E 8601, 1997, FR)
「引きこもりの美学」・・・Josquin Des Prez (1450?-1521) の生きた時代はルネサンスの絶頂期であった。Leonardo Da Vinci (1451-1519)とほぼ同世代であり、先に言及したGuillaume Dufay (1397?-1474)などの、いわゆる「フランドル学派」の作曲家たちと世代の重なる直接の後輩にあたる。その時代のフランスやイタリアがどのような世界であったか、社会や音楽は、教会や王侯貴族、また庶民生活との関わり方はどんなものであったか、これらについてはすでに学術的な調査研究が尽くされてきている。それは余生の楽しみに残しておくとして、現代に録音された演奏のことだけに集中すると、その先輩たちの世代のものより、もっとポピュラーというか、世俗的・処世的・実業家としての音楽家の性格をより強く感じるものがある。Dufayの音楽が、聖歌や伝統音楽、世俗化曲の定旋律をもとにしたパリエイションの方法を数学的に構築していった感があって、その実験性や複雑さが、一種難解な魅力となっているのに対して、Josquin Des Prezには、よりメロディ・メイカーとしての才能が強く感じられる。テーマが明確で、印象的なメロディが一貫して出てくるので親しみやすい。
歴史的には、15世紀に入ると、それまでの王侯貴族の権力の淘汰集中が進み、より強大な宮廷の政治力が勃興するようになって、しばしばそれが教会と対立するまでになる。歴史のほんの一部をかいつまんだだけでも、15世紀後半に北イタリアにあったフフフ・・・フェッラーラ公国のエルコレ1世 (Ercole I, 1431-1505) は、ヴェネツィアとの戦いに苦慮して和平に転じ、教会と和解して領地の破壊を免れた。以後長く続くイタリア全土と隣接する地域を巻き込んだ戦争に中立を決め込んで領内の文化芸術を保護した結果、フランドルや北フランスから文化人芸術家がここを頼って移り住んで来た。実はこの戦争は例によっての王侯貴族や教皇の覇権争いだったのだが、その要因の一つに塩があった。当時の塩はトルコ産が主で、オスマン・トルコ帝国がその権益を握っており、コンスタンディノープルが陥落した遠因もこれである。当時のスルタンはいうまでもなくMehmet 2世 (1432-1481) であって、その息子にCem (Djem, 1459-1495) がいて、兄のBeyazıt 2世との皇位継承に敗れて初めエジプトに亡命、その後、地中海の覇権争いをめぐる各国の駆け引きに利用されてイタリアやフランスに身柄を移された。しかしその間も、トルコ帝国からの地位と仕送り、受け入れた側の破格の待遇などもあって、裕福な生活であったとみられる。
同時代に多くの文化人芸術家が、あのLeonardo Da Vinciでさえもヨーロッパ全域を職を求めて転々としていた。Josquin Des Prezがエルコレ1世のもとに草鞋を脱いで、彼のためにこのミサ曲を書いたのは公爵の最晩年の頃とされている。一聴してわかるように、非常にわかりやすいテーマが全編を通じて繰り返される。それぞれの一小節に通奏される音が決まっていて、それらは8小節で一楽章になっており、その8つの音は、従来のように聖歌や伝統音楽、世俗化曲の定旋律を元に作り出されたのではなく、全く新しい発想で「導き出された(soggetto covato)」ものである。すなわち、「フェッラーラのエルコレ」は、ラテン語で「Hercules Dux Ferrariae」となるが、その母音だけを取り出して並べると、e-u-e-u-e-a-i-eとなる。これを当時の「ドレミ」にあてはめると、「レ・ド・レ・ド・レ・ファ・ミ・レ」となり、これが各小節に通奏され、その上に多声が載っている。今で言うコード展開のようなものである。美しく、印象的で、素晴らしい曲である。ミサ曲を聞いてこれほど親しみを感じたことはない。しかし想像してみれば、繰り返し繰り返し、何度も何度も自分の名前から出た定旋律が繰り返される曲を聞いて悦にいったかもしれない公爵、またそのようなゴマスリ曲を書いたJosquinの阿諛追従ぶりもなかなかのもんである。
Soggetto Covatoの手法で作られた曲に、"Missa lesse faire a mi"がある。これは、作曲したのに支払いをしない依頼者に催促しても、いつも返事は「わかった、まかせておけ (laissez-moi faire)」であったが、これをイタリア語にすると"lesse faire a mi"となり、ここに「ラ・ソ・ファ・レ・ミ」というメロディが導き出される。この曲では通奏音ではなく、冒頭のメロディに"lesse faire a mi"という歌詞までついて現れる。当て擦りもここまでくると痛快だが、このメロディはのちにまで伝わって、Eustache Du Caurroy (1549-1609) のシャンソンに使われたりもしている。で、その依頼主とは誰だったかというと諸説あって、そのうちの一人が、先に述べたオスマン・トルコのCemではないかというのである。名前が上がるということは、亡命者とはいえそれだけの財力があったということだ。
その真偽はともかく、キリスト教国家にとって当時の最大の敵はオスマン・トルコであったのだが、地中海の覇権や商取引の上では、様々な事情で取引したようである。キプロスやエーゲ海の島々に、古くからのフランスの民謡が残っていたり、バルカン半島からその西北地方にかけてトルコの古い歌が伝わっていたりして、調べていくと興味は尽きない。人的交流が広く盛んになるにつれて、文化も入り混じる。ヨーロッパ全体で見ると、研究対象になるクラシック音楽のメイン・ステージは、このあと教会と宮廷へ、両者を股にかけて活躍する大作曲家の変遷へと移ってゆく。Clément Janequin・Claudio Monteverdi・Jean-Baptiste Lully・Johann Sebastian Bach・・・しかし、もう私には臭くて堪らなくなる。私が付き合えるのは、このJosquinまで。いささか悪ノリミサ曲でっち上げのきらいはあるが、従来の定旋律にこだわらず、「音楽に支配された作曲家」ではなく「音楽を支配した作曲家」・・・すなわち神に最も近づき得た人間として尊敬された凄み、神が人々の心の中に畏怖の念を持って生きていたからこそなされたこの評価は、これらの音楽で一心に祈ったかもしれない人々のことが想像されて、心に迫る凄みがある。これ以降、私の興味は、教会音楽や宮廷音楽にはなくなり、より広く民衆や民族の暮らしを反映した記録の残る写本を調査研究して、演奏によって世に問うている人たちのものに向かう。
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