2021年01月03日

20210102 13年前に転落複雑骨折

 2021年は、これまで13年かけて上り詰めてきた山道を踏み外して谷底に転落し、両手両足が折れた状態でのスタートとなった。くそったれめ。この年末までに理解した私の現状をまとめると次のようになる。どうか、これから百姓を目指して農村に住もうと考えている皆様、どうか、私と同じ轍を踏まれることのないよう、十分な上にも十分に注意して、周囲の安全を確認の上にも確認を怠らず、一挙手一投足、細心の慎重さをもって望んでもらいたい。

 私はすでに農家ではない。農家資格は去年の11月にすでに喪失していた。従って、新しく借りる予定にしていた農地を借りる資格もない。そのために申請してあったすべての書類は返却された。農地を借りている実態がないので、農業者証明書を取得することができず、家族三人で住む予定にしていた空き家を買ったり借りたりする資格も無くなった。従ってそのために手配してあった全ての工事予定をキャンセルせざるを得なかったばかりか、売主にも突然の反故を申し入れることになった。現在借りている部屋も、立退要求があれば、農家資格のない私は法的に対抗できないので、村を去ることになる。これがもし、意図あって仕組まれた罠だったとしたら、全く見事なお手並みというほかはない。結論から言って、私はおとなしく百姓を諦めて村を出るしかない。

 直接的な原因は、地域の農業指導員が、手続きの説明を誤ったためだと私は理解している。つまり、昨年借りていた農地は9月に乗っ取られたので、解決策として地主に合意解約を申し出、11月にその合意ができたので申請し、12月に農地を明け渡す。同時に別の農地を借りる打診を9月から始め、これも11月には合意し、整地を含めた工事を12月から始める予定であった。そこで、農地を解約する書類と、別の農地を契約する書類と、聖地見積書や計画書を同時に提出して、私の農地契約に断絶が起きないように念を押した上で、手続きの実際について指導を仰いだのである。しかし、指導員は、おそらく話を聞いていなかった。解約手続きの書類を本庁に送り、その返事を待ってから、新たな農地契約の手続きに入ったのである。その結果、解約書類を本庁が受理した段階で私の農家資格は喪失し、その後に届いた新たな農地契約を、資格なしとして却下した。それを私が受け取ったのは12月の半ばであった。直ちに抗議したが全く聞く耳を持たなかった。「言った」「言わない」の水掛け論が続き、事態を解決に導こうとする空気が全くなかった。指導員は態度を硬化させ、自分は間違っていないと主張した。周りは萎縮して、誰も関わろうとはしなかった。この出先機関からでは、本庁の手続きを撤回させる方法はなかった。

 農地を乗っ取られた理由は、私の農作と地主の農作とが相いれぬものだったからである。私は地主に農地を借りている。正当な手続きを経て合法的に借りているのではあるが、地主にしてみれば勝手放題やって農地を荒らしているに過ぎない。きっかけは隣家が、農地をJAから村の篤農家に貸し変えしたことである。それによって水の流れが変わり、地主の畑が水浸しになり、そこを借りていた人が換地を願い出たので別の人が借りていた農地へ、その人をまた別の人が借りている農地へとたらい回しが行われ、気がついたら私の農地が潰されてしまっていたのである。本来、私は不服を申し立てるべきであったが、これまでの地主のやり方を見ていると、現状回復しても元の木阿弥、ここは争わずに身を退いた方が得策と思ったのがいけなかった。合意解約の手続きで危ない橋を渡ることになろうとは、しかも叩いて渡ったはずの橋を踏み外すことになるとは、全く予想だにしなかった。

 その当時、私は母と妹と三人で暮らすための家をようやく探し当て、その家主との交渉も上首尾に進み、あとは細かい条件について詰めるだけになっていた。農地契約の却下という、全く予期しない出来事の事実確認に数日を取られ、とりあえず手配済みになっていた農地の整地予定をキャンセルし、地主に事情を説明し、新しい家を借りたり買ったりできるかどうかの確認作業に入った。市街化調整区域の農業振興地域で、農家資格のない人間が中古住宅を購入できる可能性は、ほぼゼロに等しかった。問題が複雑すぎて、自治体の窓口も複数に及び、関係する法律も多岐にわたる。それぞれがどの部署で管轄しているのかを調べるだけでも時間がかかり、それぞれの結果の矛盾を解くのに、何度も本庁まで往復した。しかも、現在市役所は手替え工事中で、関係部署はバラバラに市中の雑居ビルに散らばっている。事実を確認するだけでも難航に難航を重ねた。同時に農家資格の確認についても交渉したが、結果は、打つ手なし。そのまま年末休暇に入って時間切れである。

 これら全てのことを準備し、理解し、諦めるまでに長い時間と多くの費用がかかったが、それらが全て水泡に帰したばかりか、私自身が13年前の木阿弥に突き落とされることになった。しかも13年前と今とでは新規就農政策が違うので、その研修すら難しい。つまり、現在では就農研修を受けられる機関は指定されていて、一般の農家では認められていない。しかし指定研修機関は、研修生を人件費のかからない労働力と看做しているから、私のような高齢者を受け入れたがらない。受け入れられたとしても、神戸市の東の端に住む私は、西の端の農場へ行くか、兵庫県北部まで毎日通わなければならなくなるので、夕方からのアルバイトで生計を立てることすら困難になる。もはや万策尽き、いくら望んでも農家になれない可能性が非常に高くなってしまった。これら全ては、私には全く知らされず、突如として連鎖的に起こった。自分が足を踏み外して谷底に転落していることにすら全く気が付かなかった。調べ尽くしてようやく分かったことだ。悪夢を見ているとしか思えない。

 と同時に、この家に関して、さらに新たな横槍が入って問題を複雑にした。家主を含め、近隣の人たちからは歓迎されていた。隣接する有休農地を借りて畑にすることによって近隣の人たちの憩いの場とする計画まで持ち上がっていたくらいだ。家も放置されていた割には傷みは少なく、簡単な補修で十分活かせる状態だった。しかし、家主と直接会って具体的なことを決めようという前々日になって、隣家の娘からクレームが入ったのである。この娘は、何という巡り合わせか、私の農家登録を最後まで妨害した農会長の親戚に嫁いでいた。この家は、昔は功なり名を遂げて、この村の成立に貢献し歴代村長を務め、さらにこの地方を走る鉄道の創業者まで出した家柄である。しかし、今の代になっては、その過去の栄光を笠に着て方々へ口出しし、新しい動きを潰して回る厄介者になり果てていた。よりによって、この家が私たちの計画をつぶしに来たのである。

 間接的な原因は、そもそも13年前にこの村へ移住してきた時まで遡る。村の人間でない家主は村の排他的なことに配慮して、私を空き家住み込みの管理人として雇ったことにした。従って、住民票は移したものの、自治会には家主の代理として顔を出し、独立した世帯としては加入しなかった。しかしこれがかえって逆効果となった。村人としても私をどう扱って良いか戸惑ったであろう。すぐに排斥されはしなかったが、存在を認められもしなかった。結局この中途半端さが長く尾を引くことになる。

 2007年に移住してすぐに家主の田圃を借りて百姓の真似事を始めたが、敢行農法から有機農法へ家主の関心が移り変わる時期で、私もそれに倣うことになった。しかし私はそれだけでは飽き足らず、結果的に自然農へ近づくことになり、三年後には、ほぼ自分なりのやり方を掴んでいた。2010年、ここに骨を埋める覚悟ができたので、最後の旅行にと思って4ヶ月かけて世界一周をした。春に帰国してから、昼は百姓仕事、夜は近所のスーパーでバイト、という生活パターンが確立し、今もそれは続いている。

 その頃までは、農家から田圃を借りて百姓仕事をするのに、公的な機関の許可が必要とは思ってもみなかった。地主との合意で十分だと思っていた。しかし、それはとんでもない間違いで、懲役三年、罰金300万円の科料のついた立派な違反行為である。村には、少しでも従来と異なるものを見つけると、ほじくり返して叩き潰したがる人間が必ずいる。私の農作は、周囲はおろか、地主のやり方とも全く違ったものになっていた。しかも、自治会に加入してもいない者が農地を使っているのだ。それを通報され、農業委員が来て行政指導されることになった。そのとき初めて、農作をするには市の許可がいることを知った。しかし、それにまつわる法律は、道路交通法のように、誰がどこからみても分かりやすくは体系化されていない。法律の条文は難解で、解説や指導なしに理解し手続きすることは難しい。しかし、行政機関としての農業委員会はともかく、各村の出先の委員は地元の農家であるので学識があるとは限らず、「和」の精神をもって物事に対処するのが常である。しかも許認可権は事実上彼らに委託されている。こういう態度に対して、私は本能的に「理」をもって対抗しようとする。今から思えば、これが全くいけなかった。

 農地にまつわる法律、というか、農家ではない者が農家になるための法律は複雑怪奇を極めている。生まれも育ちも農家であれば、それらは全て「家」に備わっているので、何も意識することがない。しかし、農家でない者が農家になろうとすると、タマゴとニワトリの堂々巡りを前に立ち往生する。農家でなければ農地の利用は許されない。農地を利用している者が農家資格を有する。農家でなければ農家住宅を借りたり買ったりできない。農家住宅を借りたり買ったりするには農地を利用している証拠が必要である。しかし農地を利用するには農家である必要がある・・・つまり農家でない者には入口がないのである。農家になりたければ、橋の下にでも三年野宿して研修機関に通い、それを終了して農地の斡旋を受けてこれを借り、営農計画書・農地を貸す書類・借りる書類・自治会がこれを認める書類・農会が認める書類、という5通の書類を揃えて農業委員会に提出し、これが受理されれば一年の経過観察を経て、問題なければ新規就農者の資格が得られる。この艱難辛苦に耐えて、ようやく農村に住む処を得る資格ができる。これで村の最底辺に引っ掛かることができる。

 しかし、そのような仕組みになっているということは、逐一尋ねなければ教えてくれない。5通の書類のうち、一つでも欠ければ全て無効である。このカラクリを知るのに三年、私の場合、2007年に移住してからの期間を研修として認めてもらえたので、書類の入手までは出来たものの、当時の農会長が、その任期中の押印を頑なに拒んだたために、さらに三年を空費し、正式に農家登録が成し遂げられたのは2017年、移住してきてから実に10年後のことであった。よりによって、隣家の娘がこの家に嫁いでいたのである。そして私たちを取引から排除したのである。

 要するに、この村は余所者を嫌うのである。挨拶もせずに勝手に住み着いた者、勝手に農地を使い始めた者、周囲の農作とは異なるやり方をする者、ある者をみんなでいじめようとするときに同調しない者、全会一致とするべきなのに異論を唱える者、持論を通して老人を怒らせ死に至らしめた者、過激派、共産主義者、チヨーセン人、人殺し・・・とにかく存在が許せない。それが今回、村の空き家を買って家族と住もうとしている。村の遊休地を借りて農作を広げ、いっぱしの百姓ヅラしようとしている。これはなんとしても阻止しなければならない。この年末に連鎖的に発生したことが、もし意図あって仕組まれたものだったとしたら、私はまんまとその罠に落ちてしまったことになる。全くお見事というしかなく、敵ながらあっぱれ至極。現状では、二重にも三重にも縛られて、身動きすらできない。公正であるべき行政機関が、かくも恣意的に動かされるとは、こんなことが通ってしまうとは、農村というものは、本当に恐ろしいところである。それでもあなたは、田舎暮らしを望みますか ??

posted by jakiswede at 00:43| Comment(0) | 農作業食品加工日誌2021 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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