2016年07月02日

20160608 紀勢・東紀州

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 ふと思い立ち、梅雨の晴れ間が4日も続く、しかも四連休が取れたので、あまり調べもせず、いつものように愛車カリーナちゃんに寝具と着替えとわずかな資料、それにカメラとポータブル・オーディオを積んで、紀勢・東紀州へと旅に出た。移住計画なんてもはや夢のまた夢、今回の旅は気楽に日本を見て回る観光の旅である。


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 出荷が重なっていたので実際の出発は午後になった。昔取った杵柄、ハンドルを握る私よりも愛車カリーナの方が道をよく知っている。紀伊半島の東半分を狙うには、吉野から南下するのが良いとタイヤが導いてくれた。ここは大和上市、吉野への玄関口だ。穏やかな飛鳥の風情を懐かしく目に焼き付けて、山岳ドライブに突入する。


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 山々の連なりの中に、水を収め、木を利用した人々の営みが蓄積されている。紀伊半島の魅力のひとつは、その有り様を具に見ることだ。


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 谷底を這うような旧道に並行して中腹にへばりつく新道、ところによっては更に高規格道路が宙を舞うように山野を貫く。難所一つを越えるのに三重のルートがあったりする。食品業界で営業をしていた頃、担当していた和歌山拠点の地方スーパーの店舗巡回で最大の難関を「新宮串本コース」と呼んでいたのだが、それは紀伊半島の最南端へ山越えで直達するルートだった。当時はまさに大型車との離合は困難、ヘアピンに続くリアスで沢に沿った細かいひだを丹念に縫うような細道を、延々と辿ったものだ。トンネルは大腸内視鏡状態で照明もなく、晴天から突入すると目くらまし、トンネル内部に何箇所か退避スペースがあったりと、時計を気にしながらの長時間ドライブで現場に到着するだけで消耗するような状態だった。今では道路の線形も改善され、まったく隔世の感がある。


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 南下する道路は国道169号すなわち東熊野街道吉野路である。大峯奥駈道にほぼ並行する。山上ヶ岳・伯母峰峠・大台ケ原・八経ヶ岳・釈迦ヶ岳・前鬼の里・・・と霊場ゆかりの地を通り過ぎて上北山村に至る。紀伊半島の主要幹線で雄大な景色が続くが、時として日本らしいコンパクトな曲がり角に心が癒される。


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 下北山村、熊野と尾鷲への分岐点の池原ダムに憩う。雲に隠れる紀伊の山並みを見晴るかす。行けども行けども山、また山・・・不信心な私でさえ、ここが霊験あらたかな日本の聖地であることを肌で感じる。


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 池原ダムは巨大なダム本体に立ち入ることのできる数少ないダムだ。見ているだけで指が汗ばみ、下腹が縮む。


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 身を乗り出して下を覗いてみると、奈落への階段に吸い込まれるようだ。


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 見あげると、なんと、ダムの脇の山を開いてログハウスが数軒みえる。どこかの保養施設かと思ったが、なんとかアクセス道路を見つけて近づいてみると、いやこれなんともおしゃれなコテージ村であった。敷地入り口に門もなく鍵もかけられておらず、まったくの無人であったので、ちょっと失礼して無断偵察、気に入ったので、まだ寝るには早いがここを今夜の寝ぐらと決めた。


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 正しくは「下北山スポーツ公園」である。ダムの下にかなり広大な施設があり、中にレストランや温泉もある。山の上のコテージ群は、様々な宿泊環境の中のひとつのヴァリエイションであったわけだ。レストランで食事をし、温泉に浸かって体をほぐし、何食わぬ顔でコテージ村に車を入れて、さも宿泊者であるかのように駐車してカリーナの懐に抱かれる。


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 疲れが出たためか開放感からか熟睡。早寝早起き幻想的な山間の朝霧を眺めつつ、静かな山の空気の中でコーヒーを沸かし朝食をとる。眼下のダム湖を包む雲海、山から寄せてくる霧雨、鳥の声しか聞こえぬ静寂、孤高の時間を過ごした後、トイレもあって体調万全。


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2015年10月16日

20151013 播州曽根秋祭

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 播州の祭見物その2: 姫路で一番好きな場所がここ「小赤壁 (しょうせきへき) 」である。的形と八家の間の海側の山の南斜面が断崖絶壁になっていて、ほとんど来る人もない穴場スポットである。この日も高砂から姫路にかけての漁村は、村を挙げてのお祭り騒ぎだというのに、のーんびり手作りグライダーを飛ばしてトンビと遊んでる見知らぬ風流なおっさんと男二人、昼下がりの静かなひとときを過ごす。松原神社の方から屋台を担ぐ人たちの掛け声がここまで響いてくる。

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 わざわざ祭の日の姫路へ来て、祭を見ずに帰るのもなかなかオツなもんだとは思ったが、やっぱり行ってみることにした。今年は脇から攻めてきたので、灘のけんか祭は風に乗ってくる掛け声だけで善しとし、姫路を失礼して高砂の大塩から曽根へ向かうことにした。

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 高砂の大塩天満宮は、たしか鳥居の直前を国道250号線が横切っていた筈なのだが、もう何十年も行っておらず村の様子はすっかり様変わりしていた。現在は海側の埋め立て地の区画整理された一角に社殿があり、鎮守の森など厳かな雰囲気は全くない。屋台は姫路と同じ様式のものだが、四隅の縄が非常に豪華であり、重量感がある。別所から高砂にかけては毛むくじゃらの獅子舞が有名だが、村の余りの変わり様に興が冷めて早々に退散、曽根へ向かう。

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 曽根天満宮。やはり神社の風情はこうでなくちゃいかん。日本の秋祭りらしい風景である。姫路と大塩の祭は10/14が宵宮、10/15が本宮だが、曽根は一日早い。今日が本宮である。

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 曽根天満宮では祭の神事が多く残されている。これは唐人行列、馬に乗った稚児 (ヒトツモノ) が地に足を付けずに拝殿に上がり、神の憑依によるお告げを受ける。

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 馬駆けの神事

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 境内や拝殿で神事が進められる間、屋台は据え置かれて宮出しを待つ。屋台の形式は姫路と大きく異なって反り屋根型布団屋台であり、別所の宮大工を呼び寄せて作らせたと伝えられる。この形は曽根から東播や北播地方へ広がった。別所は今では姫路市に入っているが、地勢的な流れとしては、むしろ曽根や高砂に繋がる。文化的な空気も共通するものがある。

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 ヒトツモノの宮入りの際に、長さ10メートルにもなる太い青竹がこれを先導し、村の幟とともに境内に立てて安置されるのだが、神事が全て終ると宮出しの前に境内の地面に激しく叩きつけて割るのである。これは、竹を立てたまま四方に張られたロープで釣り合いを取りながら、底を男達が激しく地面に叩きつけ、歌を歌い、あるいは竹によじ登り、何度もそれを繰り返して割るのである。上の写真ではわかりにくいが、竹が割れる瞬間である。割れるというより縦に裂ける。竹がどちらへ倒れるか解らないので、境内はこの神事のあいだは立ち入り禁止となる。そのあと竹は倒されて更に割られ、束ねられて村の男達によって走って宮出しされる。結構激しい神事である。

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 神事が進むうちに夜になる。屋台練りは竹割神事の終りを待たずに始められる。夜の屋台は派手な電飾が施される。

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 曽根天満宮の祭の特長は、様々な芸能と神事が良く残されているところと、屋台練りが「灘のけんか祭」ほど殺気立っていないところである。写真のように、屋台の上の前後で舵を取る人は一種の演者であり、担ぎ手の志気を高めるばかりでなく、観衆の笑いもさそう。太鼓の叩き手までがこのパフォーマンスに口出ししたりして、更に祭の楽しさを盛り上げる。観衆からもヤジが飛び、爆笑に包まれる一瞬もある。担ぎ手も、確かに屋台は重いので上げたり差したり練ったりしているあいだは苦渋の表情を浮かべてはいるが、一旦上げた屋台を故意に降ろしたり、その場にへたり込んだりして、気ままに祭を演じる。そんな緩さが曽根の祭の楽しさと見た。祭に命を懸けるのも価値観、しかしこのようにさらっとやるのも価値観。

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 祭を見ていてつくづく思うことがある。なぜ彼等はこれほどまでに祭りに夢中になるのか、その祭がなぜ楽しいか、どこが楽しいか、それと自分とがどんな関係にあるのかが、論理的な整合性を持って体系的に論証されなければ、安心して祭を楽しむことの出来ない私のような性格の人間にとっては、「ヨーイヤサァ」の掛け声を聞くだけで水を飲んでも一杯機嫌になれるという村のおっさんの心情を推し量ることは難しい。播州の祭は、東は神戸市北区淡河町から西は赤穂市まで、少しずつ日程をずらせながら10月いっぱいやっている。平日であっても学校や企業は臨時休業、村人でありながら地元の祭に参加しないなどということは、たとえ言論や思想信条の自由の保障された今の世の中であっても厳しく制限される。そればかりか、祭に命を懸けている地区などでは、自分たちの祭の日に他所の祭を見に行くなど言語道断、練習に打ち込むべき祭の前に他所の祭を見に行くことも、祭が終ってから遅い他所の祭を見に行くこともご法度で、発覚すれば半殺しの目に遇わされるという。実際、姫路の友人で他所の祭を事を知っている人は非常に少ない。祭を見物するのは好きだが、祭のある村に産まれなくて本当に良かったと思う。私のような人間はとても生きてはゆけまい。

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20151011 播州三木秋祭

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 秋祭りの季節である。播州の祭が好きなので、何度か姫路や網干の祭には行ったのだが、今年はちょっと変わったところのものも見てみたくなった。上の写真は、三木への行きしなに通り掛かった淡河の祭の屋台である。町内に屋台はひとつしかないので、その巡航に出くわすのは大変珍しい。幸運であった。上の写真ではわかりにくいが、形は下の写真と同じである。屋台に台車を履かせるために傾けてあるものと見え、白い平屋根が見えている。淡河は播州の祭屋台の最東端である。八多と道場にはなく、下がって西宮市下山口になると、西宮の甑岩神社由来の壇尻に変わる。言葉は播州弁だが、祭文化は阪神地区と同じになる。

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 これが三木など東播地方に特有の屋台の形で、屋根に重ねられてあるのは布団である。上部が平らなので平屋根型布団屋台とよんだりする。

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 これは北播地方に多い反り返り型布団屋台とでもいうべき形のものである。概して三木の祭は姫路に比べて荒々しさはなくのんびりしている。神社の境内に上がる階段を、これを担いで上がるところが最大の見物だが、バイトの時間との関係で見ずに帰った。
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2015年07月31日

20150725 Congo

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 昨日、コンゴ人の知人経由で嬉しい贈物が届いた。コンゴを紹介するカラーの写真集と、コンゴ独立55周年を記念する砂絵の瓶である。送り主は、2010年の旅行の際、コンゴでお世話になった女友達である。
 話は5年前に遡る。コンゴ内陸の旅を終えてキンシャサから帰途につこうとしていた私は、奥地で手に入れた楽器などをDHLで日本に発送しようとしていた。荷物はかなりの嵩と重さがあったので、全部入れられる大きくて頑丈な段ボール箱が必要だった。中央市場 (グラン・マルシェ) へ行けばあるだろうとタカをくくって大外れ、とりあえずDHLの事務所へ行って発送手続と見積もりについて詳しく訊いた後、さてどうしようと途方に暮れていたところで、大通りの脇の小さな書店が目に入った。涼みがてらガム・テープでも売ってればと思って訊ねて入ったところに、この美しい本が平積みされていた。おずおずとそこの店員に、実は今困っているのだ、と段ボールの事を話してみると、「ちょっと待って」といって裏へ消えた。しばらく待つと、実にぴったりの分厚い段ボールの箱を抱えて戻ってきた。あまりの厚意に感謝の気持を表現しようとしていると、「ええから早よ行け、全部解決したらビールでもおごれ」・・・こういうところがコンゴ人の愛すべきところである。お礼の言葉もそこそこに店を出て、苦労してホテルまで戻り、荷物を全部詰め終ったらぴったり入った。
 しかし一難去ってまた一難、なんとか荷物をDHLに持込んだところ、中身が楽器である事から、文化的な物品を国外へ持ちだす場合には政府の許可が・・・というややこしい話になり、お先まっくらになってとぼとぼとそこを出たのである。これが帰途につく数日前、彼女とは以前から連絡を取り合っていたが、私の奥地への旅と彼女の出張があって行き違いになり、その日にDHLの前で会う約束にしてあった。この件を彼女に相談してみた。「ちょっと待って」と彼女はケータイを取りだした。結局、彼女の彼氏が政府関係に勤めていて、その手の書類はすぐ手に入り、手続も即座に終って、私は無事に帰途につき、荷物は別便で無事日本に届いたのである。
 アフリカを旅行された方はご存知だろうが、とにかく様々なトラブルが起ってその解決に時間がかかるのである。銀行へ行って外貨を両替するだけでも半日は覚悟しなければならない。そんなこんなで何事も膠着して進まないのであるが、非常に稀に、極めて聡明でてきぱきと物事を解決出来る人物がいる。私は一度ならず二度までも、キンシャサからの帰途の旅立ちの間際に、そんな現地人に救われている。
 彼女も全くそういうタイプの人物である。その後も彼女とのコンタクトは続き、日本からコンゴへ遊びに行く人たちを迎えてもらったり、日本の浴衣を送ってあげたら、お礼にコンゴのシャツを縫って送ってくれたりもした。最近ではFacebookでやり取りする事が増えたが、あるとき私たちの出会いの頃の思い出話をしていたら、その書店の事を思い出した。「大通りの脇のDHLへ来る斜めの角に小さな書店があっただろ」てな話からキンシャサ・ローカルな話題になり、「あそこに奇麗な写真集が積んであったんだよな」「ああ、知ってる」てあたりから意気投合して、なんと、その本を通りの古本屋で見つけてくれたのである。おりしも、私の知人の兄弟がたまたまキンシャサへ行くという事だったので、もし可能なら、ということでその本を買ってその人経由で持って帰ってもらおうということで、いま私の手許にある。なんという、日本とコンゴで、金を立て替えて古本屋の本を買ってきてもらうなんて、なんと信じられないことが現実になったものよ。おりしも6月30日はコンゴの独立記念日、それを祝う為の様々なものが作られているらしく、これは瓶の中に色の異なる砂を入れていって絵や文字を浮かび上がらせるという、世界でただひとつのユニークなお土産、というか友情の証となりました。幸せな一日。

http://jakiswede.seesaa.net/article/182724964.html
http://jakiswede.com/1congo/11bakoko/116miranda/116miranda.html

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2015年04月16日

20150411 友あり遠方より来たる

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 トルコの友人が日本に遊びに来ることになり、関西での滞在中の宿泊と案内などのお世話をして差し上げた。しかし全く不運なことに、彼女の10日間の日本滞在期間中、晴れたのはほんの数時間限りで、あとはずっと雨が降り続き、最終日に東京へ向かわれたのだが、JR山手線がまさかの事故でほぼ全日不通、JRのクーポンで観光することをあてにしていた彼女は、困乱の羽田空港を脱出するだけで数時間を空費し、本当に残念な旅となってしまった。「雨の京都は日本のララバイね」と言っていたその言葉に少し救われた。私は、友人を訊ねて旅行するということをしたことがないのだが、お世話をしてみていろいろなことに気付かされた。会話は、お互い不慣れな英語によってしか成立しない。彼女の望むことを、こちらで解釈して、最も近いと思われる候補を選んで行動することになる。京都や奈良の観光は自力で終えられたので、この日は「海が見たい」という彼女の希望をかなえるべく、ざっと舞子から須磨までを流しつつ、会話によって彼女の好奇心の動く先を導き出す。どうやら、神戸の海浜リゾートではなく、日本の漁師町をイメージしておられるようなので、JR須磨駅前を目的地とした。まあここから東は市街地になるのでここらが限界なのだが・・・

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 外国人は日本のどんなところを見て興味をそそられるか、我々日本人にはなかなか予測がつけにくいのだが、会話をしていくにつれてお互いをよく理解しようと努力するようになり、拙い言葉によるコミュニケーションであるにも関わらず、いや拙いからこそ多くの言葉を並べて意味が広がり、互いの真意を推し量ることが出来る。私の方こそ、居ながらにして外国を旅する自分を、つまり外国人として日本を見ている人を、案内する日本人の視点を持つことが出来て、大変貴重な体験であった。彼女は現在Istanbulに住んでいて、大きな会社の役職ある地位で働いている。話すうちに、極めて自発的な活力があって、聡明で洗練された人物であることが伺い知れた。トルコ航空のトップ・アテンダントを含め、幸運なことに彼女にはトルコの大手企業の役職を務める友人が多いが、そんな交友関係を背負った空気が感じられる。彼女の故郷は、トルコ第6の都市Gazi-Antepである。ISILに後藤さんが拘束されていた時に、欧米の報道陣の拠点となっていたので記憶に留められている方もあろうかと思う。トルコ南東部、シリア国境にも近い。実際、彼女はよく友達と語らって、車でシリアのAleppoへ行楽に行ったものらしい。ここ数年は帰郷してもシリアへは行けず、静かな夜などは、ときおり南方から低い爆発音が聞こえてくるほどだが、脅威は感じつつも生活そのものは至って平穏だという。しかし、ここ数年の国情の変化で、自由にモノが言いにくくなってきたというのは、どこかの国と同じである。まだ日本の場合は、一般人が政権批判をしたところで命が狙われることはないが、トルコでは緊迫感がより増してきているようだ。事実、彼女も彼女の友人も、ここは日本だというのに、しかも外国語で会話しているというのに、ちょっと政治的な話題になると、辺りをうかがい声を潜める。クセになってしまっているようだ。滞在出来る時間が限られているので、こちらからの話題より、彼女からの話題を優先したために、あまりつっこんだ話は出来なかった。これは彼女自身の旅であるからだ。

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 須磨駅前を選んだ理由は、駅舎から海が見渡せ、その下に漁船を引き上げる舟屋などが並んでいて、素朴な漁村の風情を辛うじて残していたからであったが、今回訪れて驚愕した。駅の南側に立ち並んでいた舟屋は全て撤去され、下の写真左に見える埋め立て地の施設に集約移転した。跡地には、西は海岸線が山と接する須磨浦公園付近で国道2号線から分岐し、東は須磨海浜公園を経て若宮で国道に合流する、東西に海岸を貫く道路が通され、海岸全体を海浜公園として整備するというのである。もちろんこれは漁師でないがために自力での退去を迫られている食堂のおばちゃんから聞いた話なので、まだウラを取った訳ではないが、たしかに「粛々と」事業は進められているようである。舞子・垂水・平磯と海岸線を埋め立てて娯楽施設を次々にオープンしてきた「株式会社神戸市」、ポート・アイランドでしめた味を六甲アイランドでも忘れられずに失敗したというのに、性懲りもなく空港まで建設してその辛酸から学ぶところなく、ついに歴史的砂浜にまで手を出そうというのか・・・反対する者の家を「不審火」で焼き払い、震災で疎開した地主の不在を幸いに既成事実を積み上げる、生命と財産の危機を平気で封じ込めるそのやりくちは何十年も変わらない。まさに独裁国家へ突っ走っていくかに見える日本の縮図を、この須磨海岸にも見た想いがする。海水浴シーズンが来る前の、初夏の須磨海岸のそぞろ歩きが遠い過去のものになるのだろうか。

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 トルコも日本も状況は良く似ている。独裁を強める政権、締めつけられる国民、国を運営するためにとにかくカネになるものを誘致しようとする政権、そうじゃないんだと声にならない声を発する国民、異なるのは、トルコ国民の方が、よりストレートに意思を表現する。トルコという民族、歴代国家が辿ってきた複雑な歴史、多民族国家であるがゆえに抱え込んでしまった葛藤、その複雑さは島国日本の比ではない。まもなく100年を迎えるアルメニア人との悲劇的な出来事、このひとつの事件を取ってさえ、何が正しいのか、一体何人の人が死んだのかさえわからないほどの歴史を積み重ねてきた人々だからこそ、はっきりと意思表示をするのだろうか、しかし私の感じるところでは、トルコの人々は日本人に似て、意思表示をすると同時に気配りも細やかである。対立と批判を通じて弁証法的に物事を解決していく欧米人の思考的傾向とは、趣がずいぶん異なる。アルメニア人・ジョージア人・クルド人・イラク人・シリア人、そしてギリシア人・・・対立の潜在的要素は無数にある。コーカサスから東トルキスタンまで、トルコ系民族国家が連なっているが、それらも一様ではない。日本にいると想像しにくいし、こういうことを書くのも彼等に対して失礼に当たるのだが、当然、彼等一人一人に家庭もあり、親がいて子供がいて、子供たちは学校へ行って、お父さんは働いて、日本と全く同じ生活が繰り返されている。日本人の我々に想像しにくいのは、他民族が一緒に暮らしていて、彼等はお互いに個人と個人の間では非常に仲が良いこと、にも関わらず時として彼等の主権国家同士が戦争状態にあること、仲の良かった異民族の者どうしが突如殺し合いを始めることがあること、しかしそんななかでも日常生活は変わらず営まれていること、登校したり通勤したり買い物に行ったり娯楽があったり・・・こういうことが想像しにくいのだ。彼女も、我々が戦場を連想する風景の中で生きてきたのだが、持ち物や趣味、話題などは日本の女の子と全く変わらない。日本に来るくらいなので、日本のことを知らない私よりもずっと良く日本の「今」のことを良く知っている。そして、ひとりの人間として洗練されていて尊敬に値し、友情を抱く。彼女がトルコ人だからではない。私はアルメニアの音楽が大変好きなのだが、もしアルメニア人の友人が出来て、その人が日本に旅行に来たら、全く同じことをしただろうし、その人が同じように尊敬に値したら、やはり友情を抱いただろう。もしジョージア人・クルド人・イラク人・シリア人、そしてギリシア人であっても、まったく同じことになるはずだ。さて、日本がそんななかへ武器を携えて出ていった場合、どこの誰に銃を向けるのか・・・今の私には、この疑問を発するところまでしか、書くことが出来ない。

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2015年02月23日

20150212 Fethullah Güllen

 今日、久しぶりに来た中東の友人と会って話をすることが出来た。こういうご時世だから、彼の身の安全のために「中東の友人」とまでしか言えないのが残念なところなのだが。さて、ISISによる日本人ジャーナリスト殺害を巡る一連の事件について、以前から率直に違和感を感じていたことについて、少しずつ解ってきたので、説明を試みてみたい。なにしろ、今回の事件では私の知人が残忍な方法で殺されている。払っても払っても垂れ込める暗雲をなんとかしたい。
 違和感とは、まず、なぜ後藤さんはISISの支配地域へ行ったのか。生後間もない子供と妻を残して、あまりにも危険な賭けに、どうして出ざるを得なかったのか。素直に考えれば、彼自身の判断で行ったことになる。最終的にはそうだろう。しかし、その判断に至るまでのプロセスが全く理解出来ないのだ。まあ別にわからせる必要もなかったのかも知れないが、そこに様々な憶測が乱れ飛んでいる。ご本人が亡くなっているので、真相は闇の中だ。しかし善くも悪しくもネット社会、根拠のないデマが膨大に出回り、更に拡散とコピーを繰り返して、冷静な判断に繋がる情報が隠されてしまう。いくら言論が自由であっても、この現状は悪い。
 私は、様々な陰謀説にもかかわらず、彼の慎重な性格にもかかわらず、彼自身の判断で行ったと思っている。日本政府やNHKのお膳立てではなく、直接ISISとコンタクトをとって、その情報を元に行動したと思っている。つまり、ISISへ参加を希望する外国人は全く個人的に直接コンタクトをとって渡航しているし、事実、多くのジャーナリストが実際にISISとの間を往復している。これは友人が話してくれたことだ。別にISISが強硬な集団だからといって、そこに参加するのに特別のコネクションが必要なわけではない。インターネットが繋がれば、誰でも出来る。後藤さんも情報収集の結果、ISISの誰かとコンタクトをとることに成功した。そこでやりとりをし、拘束されている湯川さんを解放したいと目的を説明し、訪問の意図や、取材のことも話題に上ったであろう。日本という国に対する理解も求めたかも知れない。彼はそれを自分でやったと思う。コミュニケーションの結果、一定の合意が形成されて、全てのプランが組み上がり、段取りは完了した。行けるという感触を得たので、彼は出発したのではないか。ジャーナリストとしての使命感というか、血が沸いたというか、それまでのやりとりや積み重ねてきたものを、きちんと形にしたかったのではないか。つまり、ジャーナリズムではなく、実際に日本人を救うという行動である。しかし、これら一連のやり取りは、すべてISISが日本人をおびき寄せるためのワナだった。彼等には次なる標的を日本に定める明確な理由、つまり世界を動揺させるには、中東にとっての親近国である日本人を殺すことが、非常に効果的な宣伝になることを熟知していた。初めからそのつもりだったところに、後藤さんの方からコンタクトをとってきた。残念なことに、彼の中で、功を焦った部分があったのではないか、冷静であれば、それを嗅ぎ取れる人である。そうでなくても、愛する妻があって、しかも出産直後である。いくら仕事とはいえ・・・これ以上はやめておこう。
 たしかに政府の言うことやマスコミの言うことは、ここ数年とくに偏向してきている。安倍が総理大臣になってから特にきな臭い臭いがここまで漂ってくる。だから、彼等の言うことには一定の疑いの目を向ける必要がある。しかし、いくらなんでも自国民を直接騙して死に至らしめるような危険を、法治国家である日本の首相や、マスコミがするには危険が大き過ぎる。陰謀の行く先、つまり日本を米国と手を組んで戦争の出来る国にする、そのことによって内外の経済的な諸問題を外に捨てることが期待出来る。その目論見はあると思う。しかし、そのためにこんな危険な橋を渡ることはない。ISISがあのタイミングで湯川さんを殺し、要求を一変させてヨルダンを巻き込み、後藤さんを効果的に使って自己の存在を世界中にアピールさせ、揚句の果てには殺してしまったのは、日本の出方を冷静に分析した結果である。あの瞬間、日本人は自制心を失った筈だ。彼等は充分に効果を確認した。また、日本政府にとっても、そこにつけこんで日本の再軍備の必要性を国民に植え付ける流れをつくることが出来た。もちろん両者が結託しているわけではない。しかし、テロリストにしても、日本政府にしても、現状打開を戦争に求めていることは同じである。ISISの思う通りには、なかなか行かないだろう。彼等は苦戦を強いられる。安倍首相も、ここまで民主主義の育った国民を簡単に騙せるわけではない。いくらなんでもひど過ぎるやり方には、当然の報いがある筈だ。その流れを認識したうえで、問題は慎重に切り分けられるべきである。私は、後藤さんは自分の判断で行ったと思う。つまり日本人であれば、誰でもよかった筈だ。そういう意味では、その前に湯川さんの救出に向かった中田氏と常岡氏が犠牲になっていた可能性もあるし、他に拘束されている日本人がいるかも知れない。湯川さんに大きな使命がかかっていたから、三人もの日本人が救出を試みたのではない。全く同じ手でおびき寄せられただけのことだと思う。「通訳してくれ」・・・と。
 違和感の二つ目は、何故日本政府はヨルダンに相談を持ちかけたのかということだ。私は報道で聞いた時、実はびっくりした。ISISの支配地域へ入るにはトルコから南下するのが普通だ。さらにトルコはISISに拘束された外交官の解放に成功しているし、トルコはシリアのアサド政権と対立し、反政府勢力を支援している。ISISは、もとはシリアの反政府勢力のひとつが過激化したものだ。ならば当然、解放交渉をトルコと協議するのが普通だと思うのだが、日本政府はヨルダンに拠点を置いた。ヨルダンはシリアの南にあって、ISISの支配地域へ行くには、アサド政権の勢力範囲を越えて行く必要がある。しかもイスラエルの隣であって、またまんの悪いことに、安倍は決定的な声明をイスラエルの国旗をバックにして演説している。まったく日本政府のやることが解らなかった。
 友人は言う。実は、トルコとアメリカの関係が拗れていることが原因とのこと。トルコは政教分離を明記した憲法を持つ国であるが、現在エルドゥアン大統領の独裁的傾向が強まっていて、それは彼の言うイスラム化への道を進んでいる。それとは別に、アメリカに亡命中のフェトゥラー・ギュレンというイスラム宗教指導者がいて、彼はユダヤ人コミュニティと、ひいてはアメリカ政府と深いパイプがあり、その財閥と関係を持ってトルコの様々な教育施設などのインフラ整備に尽力し、ここ10年ほどのトルコの経済成長に貢献した。しかし、国の進むべき路線を巡って首相時代のエルドゥアンと対立し、追放されてしまったのである。その時期とISISが過激化する時期とが偶然一致していて、アメリカはトルコに対して有志連合の一員としてISISへの空爆に参加するよう圧力をかけたのだが、トルコは空爆による攻撃はシリア北部すなわちトルコ国境近辺を荒廃させ不安定化させることになるとして協力しなかった。ある意味、間接的にではあるが、トルコはISISを支援する結果になった。他にもイランとの関係やいろいろややこしいことが重なって、両国の関係は拗れた。日本はまずアメリカに相談したであろうから、その時点でトルコのルートは消え、有志連合の強硬派であるヨルダン経由になった。日本はトルコに相談したくても出来なかったのだ。しかし日本の外交が独自性を発揮してくれていたら、犠牲者を出さずに解決出来たかも知れない。日本政府は、二人の日本人を救出したかっただろうが、アメリカの意向を前にしては、結果的に彼等の命は見捨てざるを得なかった。直接手は下さないまでも、そのくらいのことならやるだろう。
 トルコは、ISISの動向に最も神経を尖らせている国である。しかし現在のところ軍事行動には出ていない。それは、ISISが拠点としている都市を破壊すると、更に難民が増えて国内に困難を抱え込むことになるから、また一千年以上に亘るトルコの歴史を振り返ってみると明らかであるが、彼等は軍事力で物事を解決することの空しさをよく知っているから、つまりトルコ軍にはその能力があるが、目の前の町を攻撃する気はさらさらないからである。一方、アメリカやヨルダンやアラブの国々から見れば、所詮国境を接していない他所の国のことである。言っちゃ悪いが世界が安全になるなら破壊もやむなしと判断する。それが戦争である。ISISはそれに対して、当然人間の盾を使い、町が空爆されれば民間人の死者が出たことについて有志連合を避難し続けるであろう。実際、ISISを攻撃するということは、そこで苦しんできたシリア人を攻撃することであり、問題を複雑にしてしまう。さらに、このエリアに居住する世界最大の国家なき民族であるクルド人の役割と処遇を巡る関係国の対立がこれに拍車をかける。トルコは、これらの問題の全てを引き受けなければならないのである。破壊してしまえば問題が解決すると思っている国とは訳が違う。
 さて日本は、アメリカの言いなりになったがために二人の日本人を見殺しにし、ISISに対して好戦的な態度を表明したがために、中東において最も大切な友人であるトルコを敵に回しかねないのである。問題は一筋縄では行かず、最も複雑に利害関係の入り乱れたところへ、人道支援とは言えアメリカとヨルダンの影をちらつかせて、シリア領内のトルコ国境近くで活動することになる。この事態の及ぼす複雑な影響について、70年も紛争をしてこなかった日本、つまり喧嘩慣れしてない日本にその役割が果たせるのか、しかも明らかにアメリカ依りの言動を持って入っておいて、それまでの平和国家として彼等に喜んでもらえるとは、到底思えない。もし安倍が言うように、本当に人道を考えているのなら、今すぐ態度を撤回すべきで、憲法により絶対に戦争が出来ない国として徹底的に彼等との信頼関係を淀みない心で優先しなければ、血で血を洗う泥沼に巻き込まれる。しかし、もちろん安倍は人道なんて考えていない。戦争に加担しないと、負の連鎖から解放されないから、アメリカとともに戦争の後方支援に回るのである。日本人の大多数も、中東の人たちに喜んでもらうために、自分たちの生活レベルを下げることなど、とんでもないことだと考えているので、日本は戦争をすることになる。私は以上のように考える。さあ、どうやって戦争を止めますか ??



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2014年12月04日

20141203 Hayal Edince

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2014年10月12日

20140926 西へ西へ・・・西へ西へ

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 たとえ4日間という短い旅であっても、旅の終りは必ずやって来る。2010年に世界一周旅行を終えて、イスタンブールから帰国の途についたとき、1989年に初めての海外旅行を終えて、ナイロビから帰国の途についたとき、全ての手続を終え、ボーディング・パスを持って待合室に向かうとき、その一歩一歩が、確実に旅を終らせる歩みである事を、否応なく実感させられた。今回の旅は、自ら車を駆って帰らなければならぬ旅である。自分で運転して自分で旅を終らせなければならない。いつまでも旅を続けていたい。しかしそうはいかない。現実に戻らなければならない。これは、非常に辛く哀しく切ない事だ。たとえ4日間といえども、予定を立てずに行うものは、「旅行」ではなく「旅」と呼びたい。日常生活では起り得ない事態の組み合わせ、その時々で対処し、その仕方によって、後の旅の在り方が様々に変わる。これが旅の醍醐味だ。


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 赤碕という漁村は、旅の最後を飾るにふさわしい強烈な印象を残した。はからずも旅の初日に予定していたものが狂って、旅路としては非効率なルートになってしまったのだが、もともと行き当たりばったりの旅でもあるし、結果的に良い締めくくりになったと思っている。台風の余韻であろうか、常に潮騒が耳につき、それは今もこびりついたように取れない。海は、何故か常にその中に吸い込まれて行く滅びの感覚とともにある。とくに漁村というものは、集落の在り方、家の建ちかた、その造作や普請に至るまで、滅び行く何かを常に予感させる儚さがある。波音は途切れない。一定の間隔を置いて反復される。そして永遠に続く。その音を聞いていると、漁村が滅びても、つまり人間が住まなくなっても、或いは人類が滅びても、未来永劫、延々と繰り返される音である事を痛感する。不毛でもあり、完全な安らぎでもあり、身を投げてしまいたいほどの誘惑に満ちている。特にここ、赤碕の漁村は、その崩壊感覚が色濃く息づいている。


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 塩谷定好という写真家は、いわば日本のピクトリアリズム写真の草分けといえるだろう。セレクティブ・フォーカス、ソフト・フォーカス、ベス単のフード外しなどの撮影技法と、ブロム・オイル、ゴム印画などのプリント技法を駆使した芸術写真を多く生み出した。その成果は、国内よりも海外において高く評価され、日本の写真界に大きな足跡を残した。絵画的表現を好む写真愛好家であれば、大抵その名を知っているはずだ。彼の作品展が開かれたことを聞いた事がないし、写真も印刷物でしか見た事がなかった。それが今春、彼の故郷である赤碕にその作品や資料を収集した記念館がオープンしたことを知ったので、旅の最後であっても是非訪れたかったわけである。


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 塩谷定好写真記念館は、赤碕の漁村の狭い通り沿いにある。車で行くには、国道9号の「道の駅ポート赤碕」から西へ漁村に入っていって、しばらく行った右手に広がる漁港の駐車場に車を止めると歩いてすぐである。廻船問屋であった実家は、贅の限りを尽した古民家で、そこを奇麗に改装して、ギャラリーとカフェが営まれている。おそらく地域のボランティアの人たちで運営それているのであろう、写真家自身とこの建物、そして赤碕の事についてガイドしてくれた・・・そうなのだ、彼の評価は日本国内よりも海外で高かったという事実は今も受け継がれていて、彼の作品を継承する記念館でありながら、彼の写真の表現技法の内容については、彼の記念館ですら継承されていない。ガイドしてくれた内容は、写真に写っているこの人は今も存命でどこそこに住んでいるとか、この漁港の岸壁の形がこうだからいつごろに撮影されたものだとか、建物の細部に施された装飾の事とか・・・そういう内容だった。私はそれを楽しく訊き流した。プリントが見られさえすれば、それで良かったのだから。


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 記念館を出たあと、暮れなずむ赤碕の町を少しだけ散策した。漁港の裏手は、すぐ高台になっている。急な階段を上がるとそこに小さな公園があって、そこから日本海を見渡せる。すとんと切り落とされたような芝生の台地の下に延びる漁村、その彼方に広がる日本海。空と海との境界が灰色の靄の中に溶け合っている。もはや、繰り返し打ち寄せる波の彼方がどこなのか、波がどこから来るのかもわからない。私の旅が、どこから来てどこで終るのかも、しばし靄の中に吸い込まれていきそうな感覚に陥る。塩谷定好が、山陰という日本の景観の宝庫を愛し続けたことに、少しだけ近づけたような気がした。


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2014年10月10日

20140926 西へ西へ西へ・・・西へ

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 カリーナちゃんとの旅も今日が最終日。30年近く乗り続けているこの車、外観は満身創痍の弩迫力、しかし中身はほとんど更新されて新品同様、まだまだ走り続けてくれそう。カリーナちゃんの中で過ごす夜は、不思議なほどに安らぐ。海辺に止めた車の中で聞く潮騒の音、夢の中に擬人化されたカリーナちゃんが現れて、私を遠い海の波間に連れていってくれる。それは、永遠に時を止めてくれそうなほど無機的で完璧な反復・・・大いなる安らぎ・・・そして目覚めたたびの最終日は、台風一過の抜けるような青空であった。


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 牛丼の特盛りかと思うたが、「こっとい」と読む。


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 断崖絶壁を競り合うように伸びたこの鉄路を、かつては大阪発福知山線山陰本線経由博多行き特急「まつかぜ1号」が毎日駆け抜けたと思うと、実に感慨無量。


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 帰途につかなければならぬ。本州最西端の道の駅で休憩したあと、下関まで南下。そして中国道に乗り、行きしなに寄り損なった赤碕へ向けてひた走る。ときおり現れる中国地方の山村風景を記憶に留め、休憩も取らずにひた走る。なぜなら、赤碕の塩谷定好写真記念館は16時に閉まるからである。


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 三次東から松江道を北上する。途中、疲れたので「雲南吉田」という道の駅で遅いランチを摂る。・・・セルフ・サービスのうどんのトレイにイラストマップを印刷した紙が敷いてある。・・・吉田 ?? ・・・実は「カーリー・ショッケール」のリーダーの福丸和久とその兄の故郷は吉田村といって、島根の山奥の、冬は雪に閉ざされ、夏は蝉ばかり五月蝿い、隣の村からは竹下もと総理大臣が出たくらいで、他にはなんにもないところだと聞いていた。ボロクソである。食器を返すとき、私はおばちゃんに訊ねた。「この地図にある吉田というのは、旧の吉田村の事ですか ?? 」「そうですが」「そこはここから車でどのくらいですか ?? 」「5分とかかりません」「地元の方ですか ?? 」「そうですが」「ではそこに福丸デンキという店はありますか ?? 」「ありますよ、もう閉めてはりますけど・・・」・・・Go !!


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 福丸兄弟がボロカスに言うてた吉田村は、こんなに静かで気品に満ちて落ち着いていて美しい村だった。旧の福丸デンキは中心部の川沿いにあって、今ではカフェに改装されていた。思いっきり宣伝しとこ・・・この村とっても良いですよ、お洒落に鄙びた旅館もあるし・・・こじんまりとした風情は越中八尾にも勝る智男と欄、空家も適度にあるし、ここに住もうかな・・・カフェのねーちゃん奇麗やし・・・いやホンマ、年に2回は確実にリンガラ・セッションも出来る事やし・・・

 https://www.facebook.com/chaya.hatsuhana


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 そしてなんと、福丸兄弟のお母様とご対面 !! 私は敢えて日本全国に発信する。「リンガラ・ポップス」と呼ばれたコンゴの音楽を世界に伝えた大いなる日本の発進地がこの家である。私は世界を旅して、コンゴの音楽はその在り方からしてが根本的に違うと書いた。何がどう違うかを言葉で説明するのは難しい。それは生きかたであるからだ。彼等福丸兄弟の生き方は、それそのものがリンガラであった。だからこそ「カーリー・ショッケール」はあり得た。彼等がいなかったら、あのバンドは実在しなかったし、もしかしたらPapa Wembaが日本に来る事もなかったかも、極言すればピリピリがキンシャサを訪れる事もなく、コンゴの音楽が世界に発信される事も、ひょっとしたらなかったかも知れない。それほど生きかたの根幹に関わるものであるからだ。だから説明しにくい。しかしこのお母様の鋭い眼差しを見よ。これが全てを物語っている。このお母様から彼等兄弟が生まれ、その精神はこの地で育まれた。ここは、日本に於けるコンゴ音楽研究の精神の源である。



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2014年10月09日

20140925 西へ西へ西へ・・西へ

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 津和野に後ろ髪を引かれる思いを振り切って山を下りる。


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 途中、今年の水害の爪痕をいくつも目にする。


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 海に出る。西へ西へ西へ・・・西へと旅を続ける。


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 萩から海岸沿いにこだわって県道に入り込むと、このような細道となり、断崖絶壁をJR山陰本線と取り合うように進む・・・が・・・やがて倒木に立ちふさがれ、やむなく萩に戻って国道へ迂回。


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 私の人生はどちらへ進むのだらうか・・・


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 そしてようやく到着。当初の最終目的地であった、その名もなんと、「ムカツク半島」・・・!!・・・おっといきなり出迎えてくれたのは、これは見紛う方なき不耕起栽培の田んぼ。


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 山と海と農地がこんなに近接して共存する景観は、すくなくとも北陸以西の日本海側では、なかった。


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 これですよ・・・もう言葉もありません。

 http://jikyuujisoku.net/


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 突然の訪問にも関わらず半島内をあちこちご案内頂きまして、皆様本当ありがとうございました。



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