2014年05月01日

20140415 アルムリーノ奥出雲へ1

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 パン工房「アルムリーノ」島根県奥出雲町へ移転 !!


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 私のパンの師匠・・・というより人生の師匠・・・その激烈な生き方、妥協のない品質、容赦のない批判・・・その全てが超一流で、唯一無二。


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 パンは旨かった。しかし残念なことに、日本の菓子パン文化のセンスのまま品質を向上させたものだったので、甘い具だくさんのものが多く、ハードなカンパーニュ系が好きな私の口には合わなかった。ヨーロッパや中東、中央アジアの、パンを主食とする味覚に馴染んでいただけたら、もっと買いに行けたのにと思う。


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 マスターとは30年のつき合いになる。妥協を知らぬ理論家で対象を潰すまで突き詰めるタイプである。この人とうまく付き合うには簡単なコツがある。両肩が同じ高さで、しかもこちらに対して正対しているときは、心は平静である。しかし話が進むうちに感情が高ぶってくると、このバランスが崩れてくる。特に、右肩がこちらに向かって突き出されるような態勢になると要注意である。これは戦闘態勢を意味するからだ。一旦火炎瓶に火がついてしまったら、たとえ安田講堂で最後の一人になっても機動隊に火炎瓶を投げ続ける信念の人である。


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 この建物で最も楽しかった思い出は2007年に行われたこのライブであろう。なにかのイベントの流れで、神戸に集結していたConjunto Roda de Choroをそのまま持ってきて、ついでに尼崎でバイトしていたおっさんを呼び出してPili-Pili Showをやったときのことである。このときの写真は彼の2枚目のCDの内スリーブの写真にもなっている。余りの歌のばかばかしさ加減に、呆れて失笑する観客と拍手するマスター・・・


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 凝りに凝った建物は3階建て。居住空間の台所は島型キッチンで、なんともおしゃれなものだった。


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 しかしもはやマスターも齢70にして足腰衰え、豪華な3階建てが裏目に出た。階段の上り下りにさえ難渋する二人を見かねて引っ越しを手伝った。あと20年もすれば、私自身も階段というものが障碍になることを痛感しながら、重いもの、大きいものを運び降ろし、仕分けし、片や処分、片や積み込み、別便を立てて荷造り、そして自分の車も出して出発。


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2013年05月01日

20130410 北はりま田園空間

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 半日ほど時間が出来たので、西北方面へ探索に出た。加東市、旧の東上町を抜けて社町に入り、中国道にほぼ沿うように走る県道が、国道372号線を越えた辺り、坂道を上ると旧に視界が開け、眼前に高原が広がった。兵庫県にもこんな景色があった。山間部に開けた平坦地で、農家が点在している。農道を探索していると、なんと「売土地」の看板があったので、早速連絡してみた・・・が、「市街化調整区域」で家は建てられない土地だという。資材置き場にしか使えないそうだ。隣接する土地には、質素な美しい家が建っているのに・・・ううむ・・・ダメなら仕方がない。他を当たろう。兵庫県の真ん中あたりには、このような牧歌的な風景が時折見られるのである。この風景を活用して、このような「企画」が行われている。まだまだ捨てたもんじゃない、地元兵庫・・・


 http://www.k-denku.com/


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2013年04月14日

20130403 京丹波町瑞穂

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 移住先の検討である。今日は、縁あって京丹波町を訪ねた。地元で役場とともに新規就農者の定着を図っている先生とともに、現在空き家になっている物件を見せてもらった。この家は非常にきれいな状態で大きさも手ごろで良いのだが、なんとこの真裏を京都縦貫道が通る。


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 この家は、高台にあって非常に魅力的なのだが、目の前を京都縦貫道が横切る。集落のど真ん中を京都縦貫道が貫通するのである。現在工事中で周辺の山をどんどん崩してる。つまり、高速道路が村人を追い出していくので、新規に定住する人ならどんな人でも問わないという状態。実は、私の実家は中国道の宝塚東トンネルの上にあり、この工事によって、幼なじみのほとんどと遊び場を立ち退きによって失い、「地区」は団地と統合されて、「団地っ子」達の執拗ないじめに遭うきっかけとなった。中国道が開通すると、大型トラックが継ぎ目を通過する重低音と振動が夜通し家を揺さぶり、眠れない夜が続いた。1995年には震災の恐怖と悪夢、疎開先がJR線路の真横で夜通しの貨物列車の振動に悩まされた。今の住まいの近くを、新名神高速が通る・・・そして京都縦貫道・・・これはなんぼなんでも厭や。もっと普通の場所に住みたい。担当者は高速道路の苦痛を知らんので理解出来ないようだったが・・・


 ただ、収穫もあった。実は、ここを訪れたのにはつてがあって、まだログハウス建設の夢を抱いていた頃、篠山から亀岡へ集落を見て歩いていた途中に、地元の木材を使ってログハウスを建設している会社の展示場があった。併設されたカフェで茶を飲んでいると社長が入ってきて話し込むうちに、いろいろと意気投合する部分があったというわけだ。その建設会社の社長は、割と手広くログハウス建設を手がけているようで、確かに周辺の街道や集落に物件が散見される。建築中や予定の物件も多く、人手が足りないのでバイトでも良いから手伝ってくれないかという。ここから一時間強なので、取りあえず関西スーパーのバイトが休みの日に週一回ペースで大工見習いに行こうかと思う。そうすれば、家の建て方もわかるだろうし、自分の家を建てるときでもコスト削減に繋がる。京丹波町役場の担当者は、なんと先月京都の新規就農説明会で、具体的な説明をしてくれたその人だったというおまけもついた。「京都」て、わりとうまくつながるんよね、神戸や芦屋と違って・・・


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2013年04月10日

20130324 和歌山県那智勝浦町色川

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 限界集落、ということは、価値観を逆転させてみれば最先端を集落として生きている事になる。いずれ現在の虚栄の生活は崩壊する。必要なものは自分で作り出しながら生きていかざるを得ない。その状況は、おそらく数十年後にはやって来る。それまでに、できる限りのノウハウを身に付け、持続可能な生活のあり方を試行錯誤しておかなければならない。私が今住んでいるところは、例えば大阪市内に住んでいる人から見れば田舎であろうが、駅やスーパーまで自転車で5分、駅から大阪まで45分・・・なんて、こんなもん田舎とちゃうやろ。現在の私が一人暮らし出来ているのは、あくまで都市生活的なインフラが身の回りに整っているからであって、私に百姓仕事が出来るからではない。私はそれをよく知っている。今は全てが整っている。買い物も簡単、バイトも出来るし、そこでの人間関係も実に良好、たまには都会へ出て気楽に遊ぶ事も出来る。もちろん百姓仕事も出来て、友達が時々訪ねてくる。しかも、基本的には大好きな一人暮らしが出来ている。誰にも邪魔されずも気兼ねも要らない。こんな理想的な環境を捨てて、何故不便な田舎暮らしを志しているのだろうか。本当に移住が必要なのか。家主と折り合える道はないのだろうか、時々自分がわからなくなる。


 私の住んでいるところは都市近郊の中途半端な田舎町で、ちょっと不便なだけで一時間程度で大阪に通えるから、周囲の農家は確かに後継者はいないものの、今後は子供たちが金を稼いで、農協や農業法人が農地を守るというパターンで延命を図るだろう。そういう点では存続に不安を感じている人は少ない。だからこそ危機感がない。しかし、それがいつまで通用するかは、全く不透明である。過疎の村へ行けば状況が深刻な分、新規就農者の誘致には積極的であり、国の支援策が拡充されて就農希望者が増えている今、この近辺よりも積極的な動きが見られる。「新農業人フェア」では、そんな就農希望者で会場は熱気に溢れていた。神戸市北区道場町は、この生存競争に敗北するだろう。そのなかに私は残るのか ?? 一人暮らしが続けられるのか ??


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 確実にいえる事は、都市近郊のインフラはいずれ崩壊する。これが崩壊したとき、私の一人暮らしは立ち行かなくなる。しかし私は更に何十年も生きるだろう。私が生き残るために、人と協力する。その人も生き残るために、私と協力する。協力し合わなければ、生きていけない時代が必ずやって来る。必要なものは自分で作り出す。限界集落は、集落として自給自足が成り立たなければやって行けないので、持続可能な生活様式を既に実践しつつある事になる。さういう意味で最先端といえる。


 たとえば色川は、ほぼ陸の孤島といって良い。和歌山市でさえ3時間、大阪へは5時間、私の今の暮らしに必要なもののそろう神戸まで6時間・・・こんなことを考えているから、都市生活を色川に持ち込もうとしていると思われてしまうのだ。もし色川に定住するのなら、村の人が言ったように、自分に何が出来るのかという考えではなく、そこに生まれ育った人間であるというくらいの、過去の自分の捨て、生まれ変わり、無我の境地が必要である。なぜなら日本人とは元来そういうものだから。


 農業を続けるために移住先を捜すという事は、多かれ少なかれ、日本の伝統的な集落の暮らしの中に身を置く事を意味するだろう。現在の日本の社会が、「プライヴァシー」という概念のもと個人個人に分断されて、競争社会として存在するのだとすれば、私のやっている事の方向性は、それに対するアンチ・テーゼになる。しかし、そのアンチ・テーゼの行き着く先は、つまるところ伝統的なムラ社会の中に「自分」を捨てて生まれ変わる事にほかならないのではないか ?? となると、より一層の自由を求めて移住するというあり方とは完全に矛盾する。


 色川で出会った人たちは優しく誠実であった。真っ正面から私の言うことを受け止めてくれ、色川が私を受け容れるとするならば、どのような状態である事が必要かを、的確に伝えてくれたと思う。ボールは投げ返された。私はどうすれば良い ?? 


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 那智滝という聖地のそばに住み、森にさまよい、極限状態に身を置くことに強い関心はあった。しかし私は怖じ気づいたのだ。大所高所から持続可能な生活のあり方を論ずる事は、実はたやすい。テスト・ケースとして自給的生活を試みる事もたやすかった。自給的生活と文化的生活との間には6倍もの格差があると打ち出しておいて、足りない部分はバイトで埋める生活が持続していけるかどうかでさえ、かなり危ういものである事を知っている。色川で暮らすという事は、その6倍の格差を自分で吸収するという事だ。バイトなど、ない。しかし色川がいかに限界集落であっても、ガス代電気代燃料代は文化的生活水準でかかってくる。それを一体どうやって埋めるのか ?? イベントに参加した地域の若者、色川に移住を希望する何人かの参加者とも話し合ったが、彼らに共通する純粋な熱意を目の当たりにして、私は自分の心がまだ汚れている事を思い知った。私は彼らよりもずっと年上であるけれども、心は彼らのように澄んではおらず、欲にまみれている。音楽・写真・さまざまな芸術活動・・・やりたいことは山ほどある。しかし色川が目指すものは、もっと過酷で現実的な、生存をかけた闘いである。村人の面構えが、それを如実に物語っている。それでも彼らのうちで「食えてる」人間は一部という現実・・・実際には、若い者は貯金を取り崩したり親に支援してもらっていたり、中高年者は年金の受給まであと何年と指折り数えている状態だ。私は本当にそのようになりたいのだろうか ?? 

 

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 音楽の話をしても反応がない。米や野菜の栽培の話は通じるが、それをさまざまな料理に生かす話には乗ってこない。食品加工についても同様、なんなのだろう、この硬さは ?? これらはすべて、人が生きるためのものを総合的に捉えたもののはずだ。私は、何か特定の作物を生産する農家という意味での百姓になりたいわけではない。集落の産物を生産する担い手になりたいわけではない。自分が食べたいと思ったものを自由に作って料理し、それを食しつつさまざまな刺激を受けて豊かな生活を実現したいと思っているだけだ。それが、なにかここでは違うのだ。村人の話には、生き延びるための方法論、苦しさを乗り越えるための鍛練、集ってきた若者の話には、限界に挑戦する事の意義に対する異常なまでの執着、極限状態に身を置く事による自虐的ともとれる快感・・・そのようなものを感じてしまうのである。もちろん、村人の全員がそうではないだろう。しかし新規定住受け容れの担当者がああ言った以上、また定住を念頭に仮住まいしている若者の表情が、あのように険しいものであるのをみると、それを受け容れてもなお余りある何か、それでも色川に住みたいという、自分の内から湧き上がるもの、かき立てられるもの、止むに止まれずどうしてもという衝動が不可欠だろう。


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 私は、今の生活を捨てて、そこまで自分を追いつめる事を望んでいるのだろうか ?? 私にとっての定住は、果たしてこういう事なのだろうか ?? 現実は厳しい。かなりあちこちを回ったり話を聞いたりして、自分が移住出来る先の事を検討してみたが、現実には、私の培ってきたもののかなりを捨て去らなければ、そして2年ほど魂を悪魔に譲り渡してでもカネを作らねば、とても移住なんて出来ない。その実情からみて、結局のところ色川が最もハードルが低かったのだが、そのかわり全く別の人間にならなければ、色川ではとてもやっていけそうにないのだった。実情からみて色川を最後の砦と位置づけていたが、確かに砦にレコードやCDは不要。楽器など邪魔である。それで良いのか私は・・・


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 帰路、そんなことばかりを考えていた。20119月の台風による豪雨災害は、那智滝周辺にも大きな被害を及ぼしていた。滝壺にあたる鬱蒼とした森は押し流されて、下流は完全に開けてしまっていた。「神秘」は、無残にも明るみに出されていた。山肌には至るところに土砂崩れの爪痕があり、川筋の集落には、とってつけたような舗装道路と新築住宅が建ち並んでいた。過酷な自然である。気候は、これからますますその牙を鋭く剥くだろう。崩れやすい斜面に貼り付くように建つ集落、鉄砲水が集中しそうな川筋に細々と連なる集落・・・一千年の集落というが、これからどうなる ?? 穏やかな自然条件の兵庫県から、なぜわざわざこんなに過酷な状況に身を置こうとするのか、余りにも極端ではないか。判断は間違っていないか。


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 串本町には、明治時代に日本を訪問したオスマン・トルコの軍艦Ertuğrul号が、その帰路に座礁した岬に記念館が建っている。1890年9月の事だ。船は沈没し、多くのトルコ人が殉職したが、地元の人たちが命がけで彼らを救助した。このことは現在のトルコ人の親日感情に繋がっていて、1985年の第一次湾岸戦争の際、テヘランに取り残されていた日本人のために、トルコ政府が自国民救出のための航空機を増便して脱出させたという出来事にも繋がったという。打ち沈む心を休めるために岬に立ち寄った。何故か、私はトルコ系の人々に血の底から親近感が湧き上がる。そうなんだ。湧き上がるもの・・・色川は素晴らしいところだと思うし、人々は優しく、私を正面から受け容れようとしてくれた。しかし、湧き上がるものが、実は感じられないのである。何を措いてもそこに住みたいという衝動が、色川に感じられなかったのは事実。ううむ・・・色川がダメならどこへ行く・・・


 「岬めぐりのバスは走る、僕はどうして生きていこう・・・」


 こんな歌詞を思い出してしまい、まったく意外な事に涙が出てしまった。決断を迫られ時間の余裕がないのに、自分の態度が決まらない。「岬めぐりのバスは走る、僕はどうして生きていこう・・・」「砕ける波のあの激しさで、貴女をもっと愛したかった」「僕はどうして生きていこう・・・」


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 海辺の断崖に、こんな小さな家を持てたらいいな・・・夢を見るのはタダだ。

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2013年04月07日

20130323 和歌山県那智勝浦町色川

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 和歌山県那智勝浦町色川地区というところへ行ってきた。なぜそんな遠いところまで行ってきたのかというと、カネも身分もない単なる馬の骨が百姓を続けようと思ったら、余程の物好きをくわえこむのでない限り、農家登録までのハードルの限りなく低い場所を・・・それはもう書いたっけ・・・新規就農者を呼び込んで地域の活性化を図ろうとする、全国の自治体の担当者や農業法人などが集まって、2月に大阪で行われた「新農業人フェア」というイベントで、カネも身分もない単なる馬の骨が百姓を続けられる可能性について質問をしていると、和歌山県の担当者が興味をもって紹介してくれたのが、この色川地区というところである。


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 ここは、このたび移住先として検討したなかで最も過酷で特殊な環境にある。とにかく遠い。大阪からでさえ片道5時間、ここからは6時間以上かかる。強烈な紀伊山地の山奥で、南から見ると「那智滝」の更に奥である。「下界」であり、買い物出来る街であるJR那智駅近辺まで車で小一時間、しっかりしたスーパー・マーケットのある新宮市まで一時間半、しかも、アクセスは行き違いも時として困難な細い林道。医者はいない、金融機関もない、車は必須だがガソリン・スタンドがない。どこかへ抜ける道の途中ではないので通過交通はない。水害の危険に晒されている。陸の孤島、最果てである。


 しかし、このとおりの美しい環境であって、それに憧れて移住を希望する若者が後を絶たない。電気とプロパン・ガスはある。水は川の水がそのまま飲める。集落が山に取り囲まれており、山の幸が豊かであるばかりか、那智滝にも近く熊野連山の中にあり、きわめて霊的な存在である。物質や経済的な便利さがないからこそ、全く違った生きる喜びが得られる。価値観の逆転は起こる。過疎に苦しみ、インフラを絶たれ、限界に追いつめられて、力を合わせなければ生きていけない、最も取り残されたかに見える状況というものは、逆の視点に立ってみれば、最も先進的な状況である。近い将来、現在の安楽な生活を維持するに欠かせないさまざまな要素が崩壊する。そのとき、希少化していく資源を奪い合っていては、必ず共倒れになる。その中を生きていけるのは、自ら生きるために必要なものを生み出していける想像力と行動力、ノウハウを持っている者だけだ。それは明白な事だ。ここには、それに近い生活がある。ここで自分を試す事が出来たら、それは今後の生き残りに必ず直結する。移住先候補の現実的なひとつとして、これから定期的にお邪魔する事になるだろう。


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 移住希望者は、個々別々に訪れるよりも、地区のイベントが行われるのに合わせて訪問する方が良いと勧められた。なぜなら、何人か希望者が集まった状態であれば、地区の窓口、町の窓口担当者もそれに合わせて動きやすいからだ。今日は、那智勝浦町の老舗の工務店が、地元の木材を使って色川地区に体験者滞在用の小さな家を一から建てるというワークショップであったので、それに合わせて訪れたというわけだ。

 http://www.furusato-irokawa.com/

 http://16kawa.com/

 本日のイベントの模様は、下記リンクに掲載されている。

 http://www.furusato-irokawa.com/modules/blog/index.php?content_id=312


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 イベント終了後、地区の担当者と町の担当者を交えて聞き取り調査があるというので、日のあるうちに地区を見ておこうと思って林道を走り回ってみた。下の写真は、2011年9月の台風12号の際の豪雨災害の爪痕である。地区の各所にこのような爪痕が残されており、現場に立つと、土石流が森を爪楊枝の束みたいに押し流した威力をまざまざと感じ取る事が出来る。自然の力の恐ろしさを体感したのは、阪神淡路大震災以来の事だ。実際、集落の中にも爪痕がいくつか見られる。一瞬にして、全てを破壊し尽くし、押し流したに違いない。災害の体験者には、それが直感的にわかるのである。ううむ・・・

 

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 さて宿舎に戻ると、担当者の皆さんが既に集まっておられた。私は自分の置かれた状況を包み隠さず話して相談した。ここでの対応は、すなわち受け容れ担当が農業委員であるから、兵庫県のような細かい審査基準が決められているわけではない。ただ、集落として私を受け容れられるかどうかは、あくまで集落が決める事なので、やる気があってみんなが良いと認めれば、それで良い事になる。で、実際どのようにして暮らしを立てていくかという話になったので、私はこれまでやってきた活動の事を紹介したのだが、「それは都会でやってきた事を、ここに充て嵌めようとする事だ。それでは全くここでは生きていけないと思う。先ずはここに来て、仮住居で地域の人たちに知ってもらって、我々とともにいろいろな仕事をしてみて、あなたがやっていけるか、村人達が受け容れるかを見極める他にない。」ううむ・・・


 残念ながら私には手持ちがない。担当者は、できる限り受け容れられるよう取り計らってくれるだろう。制度としては柔軟な運用がされるという事である。ここではそれは問題にならない。しかし、受け容れられ仮住まいを始めたところで、おそらくすぐに手持ちは消える。大所高所からえらそうな事を論じてはみたものの、明日のガス代電気代が払えなくなったのではどうしようもない。ガス欠では車も動かない。その後、イベントに参加した人たちや、移住者を交えた質素な交流会があって、そこでもいろいろな話を聞かせてもらった。印象としては、まずは集落の生き残りが最重要課題なのだ。この極めて条件の厳しい舞台で、自分が思う存分に活動した結果が、ロスなく集落のために貢献している事が重要かつ必要条件なのである。ううむ・・・「ちょっと考えさせてください・・・」「残念ながら、お手伝い出来る事は何もありませんな」


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2013年04月03日

20130316 困った困った

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 高知県に理想的な物件を見つけたので連絡してみた・・・が・・・タッチの差で売れていた (;_;)


 なぜ高知にまで触手を伸ばしているかというと、カネも身分もない単なる馬の骨が百姓を続けようと思ったら、余程の物好きをくわえこむのでない限り、農家登録までのハードルの限りなく低い場所を狙わざるを得ないからである。移住先を探す過程で、今の自分が置かれている状況がよくわかってきたので、ここにそれをまとめておこうと思う。これから百姓になりたいと思う人、百姓を始めてみたが再起をかけたいと思っている人の参考になれば幸いである。


 まず、私の立場は、百姓でもなんでもなく、百姓家の空き家を住み込みで管理させてもらっている居候である。空き家は人が住まないと荒れるので、それを防ぐ事が家主のメリットであり、私の方は、格安の家賃で広大な屋敷に悠然と住まうことが出来、そして百姓と同じ借り賃で田畑を借りることができる。しかし、これはあくまでも家主との口約束であって、農地法上は所謂「モグリ営農」であり、厳密には違法行為である。家主も私もそれを納得の上なので、いかなる書面も取り交わさず、私はいかなる権利も主張せず、家主はいつでも私に退去を要求でき、私は遅滞なく無条件にそれに応じなければならない。


 さて、このような条件で百姓を始めてしまった場合、両者の関係が良好である限りにおいては、特に心配もなく、お互いにとって大変有利な取引である。しかし、何らかの事情でその関係が崩れる事がある。それは、両者の人間関係であったり、一方にやんごとなき事態が発生したり、または家主が亡くなった後の遺族がこれを破棄した場合などである。たとえば限界集落に空き家を持つ家主との間でこのような約束が取り交わされた場合、ほとんどの場合は問題なく約束は履行されると思われる。「赤目自然農塾」も農地は地主から三年契約で借りていて、それは放棄された棚田であり、地主はこれを何とかしようという気がないので、今は安泰である。しかし「自然農法」の価値が全国規模で認識された場合、その実践地である農地を、地主がそれまで通り放任し続ける保障はない。価値が上がるからだ。つまり、「赤目自然農塾」は、自分たちの理解者が増えれば増えるほど、その存在基盤が危うくなるという葛藤に陥る。ま、「自然農法」というのは人間の生き方の現れですから、実際には危うくはならないのですが・・・ものの喩えとして。


 少し飛躍するが、現在の日本の農地のほとんどは、農薬と化学肥料に汚染され、地力が極端に落ちた状態であると考えて良い。これを回復させていくのには、おそらく数十年程度かかるであろう。しかし、打ち捨てられた耕作放棄地は、堆積する植物の亡骸で地力がかなり戻っていると思われる。つまり、現在耕作されている土地のほとんどには地力が少なく、地力の多い土地は耕作されていないという逆転現象が起こっている。農薬と化学肥料と大型機械というものは、化石燃料がないと存在あるいは機能し得ない。化石燃料は、もしかしたら数十年後には、今のように安易に手に入る状態でなくなる可能性が高い。現代社会のほとんどを構成しているといっても過言ではないこの原料がなくなってしまった場合、「逆転」は「正常」に戻らざるを得ない。しかし、それには長い年月が必要である。放射能の除染とどちらが早いのか、それもわからない。ただいえることは、その過程において、農地としての資産価値も「逆転」する。つまり、耕作放棄地として見向きもされなかった土地の利用価値が飛躍的に高まる。なぜなら、それまで化学物質漬けにされ重機で練り潰された土地には「雑草」も生えないからだ。農薬と化学肥料と大型機械がなければ取り扱う事も出来ない土になってしまっているからだ。それを私は身近に見ている。そうなったとき、それは数十年後には訪れるだろうが、「口約束」だけで自給的生活を送っている人たち、とくに耕作放棄地を開墾して稔りを得ている自然農法家は生活基盤を失いかねない。法律は既得権益を守るためにある。権原のない者にはなんの主張も出来ないのが法治国家である。だから、我々は権原を確保した上で農業を始めなければならない。そういう意味において、我々は「農家」にならなければならない。


 「農家」にならなければならないもう一つの大切な理由として、資金調達が可能になるという要素がある。今の私には全く借金が出来ない。「農家」でないので「安定した職業」に就いていないことになるからだ。ここへ移り住む前には、自営業としてきちんと納税していたし、一定の業務委託先に永年勤務していたので貯えもあり、カネを借りる事も出来た。しかし今ではカネもないし、そんな身分保障も何もない。この状態で上のような「口約束」を前提に生活するという事は、非常に危険な事だと今更のように気がついたわけだ。いくら事業計画など出しても、ダメなものは全くダメ。金融機関としては、情熱や企画など問題ではない。保障だけが問題なのだ。当たり前の事だが・・・


 さて、現行の農地法において、百姓を合法的に続けるには「農家登録」をする以外にない。明確な定義は却って話を複雑にするのでここでは措くとして、「農家」とは、「農地」を生産手段として利用する権利を有する家系の事と考えて良い。農地を所有していなくてもよく、賃借していなくても良い。「利用権」が設定されていれば良い。つまり、買わなくてもよく、借りなくてもよく、「利用権の設定」が書面として整っていれば良い。「利用権の設定」とは、文字通り農地を利用して収益を上げても良い権利、いわば営業権のようなものであって、農地法上、「農家」と地域の「農会」及び「農業委員会」の合意の上で行われる手続きである。ところが、農地の利用権を設定出来るのは「農家」だけであり、先にも述べた通り「農家」とは、農地の「利用権」を有する者の事である。わかりますか ?? 制度が閉じているのだ。「農家」でない者は「農地」の利用権を設定出来ないから、「農家」にはなれない。ましてや、「農家」でない者は、「農地」を買う事も借りる事も出来ない。「農地」は「農家」の私有財産であるはずだが、「農家」が自由に売ることは出来ない。ここらへんが、自由に職業を選び、自由に住宅を確保出来る都市生活とは根本的に異なる点である。2009年に「農地法」が改正される前までは、基本的にこのような構造であったので、いくら「田舎暮らし」だ「スロウライフ」だ「半農半X」だなどとほざいてみても、制度として農家でない家の者が百姓になる道は、事実上閉ざされていた。


 時代の要請によって、このガチガチの仕組みが緩められた。現在、農家でない者が農家になる道はふたつある。ひとつは、都道府県が指定する研修機関を終了するか農業法人に就職するなどして、一定の実務経験と能力を体得したと認められる事、もうひとつは、「農家」のもとで一定期間の実務経験があり、その「農家」と地域の「農会」及び「農業委員会」によって、一定の能力を体得したと認められる事である。その状態で、先に述べた「農地の利用権を設定出来る」資格が得られ、設定しようとする「農地」が確保されれば、その農地を一年間正しく管理出来るかどうかを農業委員会が観察し、彼らが認めれば、晴れて「農家登録」の手続きが為され、「農家」になりうる。


 私の場合、現在住んでいる場所の農地を借りておよそ10年、ここへ移住して7年になる。農薬・化学肥料・大型機械を使わずに、1反の農地から、通常収穫出来ると見込まれる量以上の稔りを得ている。つまり、実務経験は充分と自負したのである。だから、私は農業委員会へ出向いて必要書類を取りそろえ、家主に協力してもらおうと考えた。一方、家主の方は、私を空き家の管理人として居候を認めたまでで、空いている農地をどう使おうと関知しなかった・・・というか、トカイモンが百姓仕事などできるハズがない、と踏んでいたのである。家主は近くに住んでいるので、時々来ては田畑を作っている。「慣行農法」と「有機農法」の中間を行くようなやり方である。おそらく「慣行農法」の刷り込みが土台にあるので、そこから離れる事に躊躇するのであろう、田には牛糞、畑には肥料をかなり多く施し、畝立てと除草はきちんと、ここらの言葉で言う「きれいにしとってです」状態を以て良しとする感覚である。だから彼としては当然、私は彼を見習うべき存在だったはずだ。ところが食品の裏側を舐め尽くし、その舌が患った癌の恐怖から這い上がってきた私には、躊躇すべきものは何もない。加えて生来の天邪鬼である。「こういう風にしたらようできる」というせっかくのアドバイスも馬耳東風、ひたすら自分の思った通りにしかせず、「そういう風にせんほうがようできる」ことの証明に躍起になって田畑は草や虫だらけ、家主を手伝うどころか、ややもすればその手に噛みつく狂犬ぶり。あっさり断られてしまった。それもそうやな、自分が困ったときだけ協力してもらおうなんて、確かに私は虫が良過ぎました。反省してます。まあそんなわけで道のひとつは閉ざされた。


 そこで再び農業委員会を訊ねて事情を説明すると、もう一つの道、兵庫県内にあるいくつかの団体を紹介してくれた。そこで、そのうちのひとつと連絡を取り、「就職」という形を経て独立出来るかどうかを問うてみた。もちろん就職は可能である。研修機関ならば受け容れも問題ない。しかしそこでわかった事は、またしても年齢の問題であった。国の支援制度については別の記事で既に述べた。私は歳を取り過ぎていて支援は受けられない。ところが今度わかった事は、「農家登録」にも事実上の年齢制限があって、「概ね55歳未満」とされているという事だ。これは明文化されていない「慣例」で、私は今年2013/05/15で53歳になるから、仮に4月に就職しても、資格取得が見込まれる2年後には55歳になっており、これに抵触する。私は、みたび農業委員会を訪ね、このような「慣例」があるのは事実かと問うてみた。すると、「事実」とまではいえないが、要するにそういう事もありうるという。つまり、「農家登録」を認めるのは「農業委員会」であって、農業委員は「地区」から選出されている。「農家登録」をしようとする時点で「利用権」を設定する農地は確定されているはずだから、その農地が存在する「地区」がどのような人を「農家」として受け容れるかは個別判断である。実態として、空いている「農地」はたくさんあるが、「空き農家」は非常に少ない。空き家になっていても、親族が年に一度墓参りするためにだけ置いてある農家がほとんどだ。ということは、その「地区」において「空き農家」は、「地区」に有利な新規就農者を誘致するための貴重な資源だという事になる。若くて、ある程度の財えがあって、これから子供を作って「地域」を支えてくれる人と、55歳を過ぎてまもなく年金生活者に入るどこの馬の骨ともわからん独り者と、どちらに貴重な資源を譲り渡すのが有利か・・・これは明らかだ。つまりここで、既に「逆転」は「正常」に戻りつつある。しかし俺には不利なんよねメイワクなんよね、今すなっちゅうねん (`へ'っ・・さらに行政側としては、「農家登録」を認めるにあたって、それは生産手段を供与する事を意味するから、まもなく年金生活に入る年齢の人と、まだまだ自力で稼いで生きていかねばならない人を、同じ条件で遇しては公平性を欠くという事だった。そんなとこばっかりスジ通しやがって他にスジ通さんなんこといっぱいあるやろ (`へ'っ・・・「お気の毒です」わかったよ、もうたのまへん、年齢を告げて話を始めなかった私にも原因はあった。反省してます。まあそんなわけでもう一つの道も閉ざされた。


 しかし、流石に落胆する私を見かねたのか、奥から偉い人が出てきて、兵庫県以外の地方では、独自の施策によって「農家登録」の条件を緩和している例もあると聞くと話してくれた。なぜなら「農家登録」の条件は、農業委員会が決めるからだ。要するに彼らが「良い」といえば、それで「良い」のである。具体的にはわからなかったものの、そこで紹介されたのが、信越以北と和歌山・高知・九州の各県である。まだ情報収集の段階であるが、かなり極端な話、「農業やります」という意思表示だけで全て段取りしてくれるような夢の国もあるらしいが、まあそんなこと期待せんとこ・・・


 えらい話が長ごなりましたが、それが高知の物件に触手を伸ばしている、というその理由なのでした。おしまい。

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2013年03月29日

20130309 青年就農給付金

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 ここ数日、急に暖かくなったので、周りの農家ではそろそろ「田起し」にかかっている。これは昨秋に稲刈りの済んだままにしてあった田んぼの土を耕して空気を入れ、活性化させる目的で行われている。「啓蟄」の声を聞いたら田んぼを起せていわれている。でも今年は私は不耕起に取り組んでみる・・・というか、ちょっとマジでカネ稼がんとヤバい状態なもんで、半分手抜きを目論んで「自然農法」に転換 (^^;


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 やっぱし京都はええのう !! 「田起し」に忙しい近隣農家を尻目に、私は京都へ来た。なぜというに、京都府の新規就農者の定住促進事業の説明会があるからだ。この冬は、ゆっくり閉じこもって思索に耽るはずだったのが、全く予期せぬ立ち退きの打診という事態となって、あわてて田舎暮らし情報をあさってみたり、新規就農者の移住説明会に並んでみたりしているのであるが、回を重ねるごとにエロエロ・・・失礼、いろいろな事がわかってきた。


 新規就農希望者説明会は、集団就職の面接会のようでもあり、新商品発表展示商談会のようでもある。ブースの中にいるのが農業法人である場合、その前に座る私は就職面接を受ける「失業者」の立場となり、地方自治体の「Iターン」定住促進担当者の場合は、こちらは「お客様」の立場になる。農業法人の話はだいたいどれも同じである。その法人が主力とする作物の栽培から流通までを一貫して研修し、即戦力として働くかわりに、待遇としてはこれこれこういうことになっている・・・と。一方、地方自治体の場合は、そこが抱える集落の過疎化の度合いや限界度の深刻さに応じて対応が分かれてくる。つまり、「まだいける」と思っている自治体は、「体験農場」と「農家民泊」がセットになった「エコ・ツアー」に力を入れていて、定住促進の話はしない。要するに、カネは落として行って欲しいが、地域の中に入られては困るという思惑が見える。それが都市部から離れた地域になればなるほど、そんな悠長な事も言ってられなくなり、定住促進の話に熱意と具体性が加わってくる。辺境まで行くと、国が支援している「青年就農給付金」制度の年齢制限を独自予算で拡張しているところもある。


 この制度については、説明会で国の担当者から概要を聞いて大変驚いた。昨年の秋から始まったらしいのだが、なんと、農業をしたいという意思表示さえあって、種々の条件さえ整えば、就農して定着し軌道に乗るまでの足掛け7年間、毎年150万円ずつ、合計1,050万円も「くれる」のだ。なんと、私は、田舎暮らしを決意して方々で百姓に騙された揚句、ようやくこの地に定住して足掛け7年で、ほぼ1,000万円を使い尽くした。それを「くれる」のだ。「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ。なんということだ。「くれる」のだよ。しかし、もちろんこれには厳しい条件が付けられていて、特に決定的なのは「青年」の二文字ですな。すなわち原則45歳未満。ええか45歳未満の諸君、国の気が変わらんうちに「農業したいんです!! 」と大声で叫べ。ほな、い・・・いっせんまんえんも・・・ええか、い・・・いっせんまんえんやぞ、い・・・いっせんまんえんも、「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ「くれる」のだ。「くれる」のだよ君。こんなええ話がありますかいな「くれる」んでっせ。流石に52歳をサバ読んで45歳にするわけいかんけ、もうちょい辺鄙な方へ行って訊ねてみると、年齢制限を自治体の予算で緩和している。「概ね50歳」ほっほう・・・「概ね・・・てどんなけ幅あんの ?? 」「プラス 1 歳です」「52歳なんですけど」「残念ですが・・・」「どうしても ?? 」「申し訳ございません」・・・


 あのな、その、い・・・いっせんまんえんがあってみいや。わしに遣わしたらお前、先の記事の写真のような上品なログ・ハウス建ててやな、棚田で自然農法展開して思う存分に米や麦や野菜を作ってやな、それを加工してパンにしたり、漬物・味噌・醤油・バジルペーストやさまざまな乾物が生産出来るんや。それでもって家からは毎日上品なブラジル音楽とか、威勢のええアフリカ音楽とかが集落に鳴り響いてやな、さらにたくさんの楽器があるから人が集ってそこに文化の花が開いて、その、なんぼやて ?? い・・・いっせんまんか ?? い・・・いっせんまんがお前、ただのいっせんまん以上の効果となって地域を潤すことになるやろう。それがわからんかな、アンタらシトを見る目がないね。かわいそうに。


 まあそんなことで、とりあえず制度の支援を受けて移住出来る可能性というものは、ほとんどないものと思い知らされましたのでした。

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2013年03月18日

20130307 こんな家を建てたい

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 私はこんな家を建てたい。空き家物件を探し回って見ても、農地に隣接する空き農家の間取りや作りは、余りにも日本家屋過ぎていて、私には向かない。それでも結構な値段がするので、どうせ大枚はたくのならば、自分の思い通りの家を建てて、半農半音楽生活を満喫したいものだ。何も贅沢な家が欲しいわけではない。緩やかな傾斜地に立つ、この程度の小さな家で良い。ただし、この家とは違って、裏側にも広い窓、基礎は這って入れる程度の高基礎とし、サービス・ヤードと車庫があって、台所には外からもアクセス出来る、便所に溜まった糞便を汲み上げて肥やしに出来る仕組みのついたものにしたい。


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 全体のイメージとしてはこんな感じ、しかしこれほど屋根は深くはなく、2階のロフトは屋根裏部屋程度で良い。そこは寝室にする。


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 表から見るとこんな感じで、テラスでは収穫物を干したり、楽器を作ったり出来るのが良い。玄関など要らない。テラスすなわち縁側から出入り出来れば良い。


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 間取りはこのようなもので、基本的にワン・ルーム、左の寝室になっている部分は多少テラスを潰してでも2部屋を確保し、書庫兼レコードCD庫と書斎にしたい。台所の窓を大きくとって勝手口を設け、外からのアクセスを容易にする。図面の玄関は不要、風呂とトイレは一を逆転して、トイレは外からも入れるもの、糞便を回収出来る構造を持ったもの、しかも臭いの出ないもの・・・考える余地はたくさんある。農家の土間台所の実際も見てみたい。


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 左右逆だが、こんな感じで書斎部分の上に小さなロフトがある感じ・・・


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 テラスは簀子張りで、手すりは不要。また、無塗装で良いと思うが、その辺は、まだまだ研究の余地あり。


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 ログ・ハウスが高ければ、このような和洋折衷型でも良い。しかし和室は不要。

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2013年03月01日

20130213 移住計画

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 「近隣の田舎を散策」などと暢気な事を書いたが、実は終の住み処を探しているのである。去年の終盤も激動したが、年が明けてからも次々と出来事が起こる。最も重大な出来事は、私が借りている住居と農地が、地主の都合で処分される事になったことだ。いますぐというわけではないのだが、その可能性がある以上、農作業はこれまで通りに続けながら、退去と移転の準備を進めなくてはならない。今年こそ冬の農閑期はゆっくり読書などして、自己反省の時を過ごしたかったのだが、なかなか天は私を許してくれないようだ。文句を言ってても始まらん。できるだけ動いて、出来るだけ多くの土地や物件、情報に接しておきたい。さて情報収集を始めて痛感した事、「田舎暮らし」にあこがれて情報収集したのは10年以上も前の事で、その頃とは隔世の感がある。まずは「田舎暮らし」物件情報を片ッ端゜から検索すると、それに応じた物件情報がたくさん出てくる。10年前とは大違いだ。それらをリスト・アップして、業者に連絡する前に、自分の目で確かめに行く。何故か私は子供の頃から、終の住み処は京都で、と漠然とイメージしていた。移住するなら、これが最後となるだろうから、先ずは第一志望の京都から始める。


 亀岡である。亀岡というと、阪神間の住人からすると能勢町の更に山奥にあるから、とてつもない田舎のように聞こえるのだが、よく調べてみると、京都駅までJRで30分弱400円、ここ道場よりも遙かに便利だ。しかも京都在住の友人達の誰に聞いても「あそこは田舎」と断言して省みないから、おそらく京都の人にとっては、阪神間の人が三田をイメージするよりも「田舎」なのであろう。前の仕事で地理の概略は頭に入っているので、三田から再び「近隣の田舎を散策」がてら篠山・園部を経て亀岡に入る。桂川の右岸は立て込んでいるので、左岸に上がってみると、広大な農村風景が広がっている。ええぞええぞ、旧の八木町から保津峡に吸い込まれるまでの桂川の左岸段丘は、西に大きく開けた平野が上の写真のように美しい。よし決めた。先ずはここを攻略する。


 こわいもの知らず、身の程知らず、世間知らずは私の信条なので、リスト・アップしておいた不動産業者から手始めに、農協と農業委員会をまわって、善くも悪しくもだいたいの事はわかった。端的に言えば、ここへ移住するにはカネがなさ過ぎるという事だ。だいたいやねえ、俺に移住して欲しかったら、風光明媚な農地と、清潔にして質素な家屋と、若くて明るくてきれいな嫁はんと、受け容れ準備金として、まあせやなあ、いちおくえんとはいわんが、せめて5千万円くらいは用意しとくもんやが、これほどカネがないカネがないと言われると、ええかげん腹たってきた。なんとなれば、10年前に移住を検討しはじめたときには貯金が約一千万あったんや。それから道場町へ移住して農作業を一通り体得するまでろくな仕事してへんから、貯金は減りに減っていまや底の岩が時々川面から顔を出す。借金をせな家を買ったり建てたりは到底無理やから、それを誰かが賄ってくれるか、どっかからなんとかしてくるしかない。で、その後は農業収入だけでは到底飯は食えんやろし、まあ切り詰めて年間200万円で暮らそう。ほな単純に割って25年で奈落の底へおさらばや。まあそんなとこがお似合いや。加えて、農地を取得するには、いろいろとややこしい手続きが必要で、いまいる神戸では正式には農家にはなれんから、家主との口約束で、法的な枠組みの外で農作業してる状態なんやが、一から捜すとなると、よほどのコネでもない限り、その手続きをきちんと踏んでいかんならん。さて、これについては私が聞きかじりの危うい知識を振り回すより、このサイトが実に親切に面白おかしく、しかも親身になって解説してくれているので、これから百姓しよかと考えている人は、ご一読を強くお勧めします。


 http://inakadenougyou.blog.shinobi.jp


 さあ、ここに書いてあった通り、いろいろとめんどい事や、10年前から様子が変わった事などがあるので、それをこれから逐一調べていかんならん。ま、制度は制度、それよりもなににも増して、金策が最も深刻かつ重要な案件であって、これはちょっと2年ほど心を悪魔に売り渡して荒稼ぎせんとどもならんようやな。ゆはり京の夕暮れはいとをかし。

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posted by jakiswede at 12:05| Comment(0) | 移住計画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする