2013年04月06日

20120310 Шахслар ва Жамият

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 土井ちゃんを放置して神秘の世界に遊んだあと、裏口からバザールへ戻る。


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 囲われたバザール、それを取り巻く塀と無闇に広い空間、中の喧騒とは対極的なまでに静かだ。


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 バザールの屋台で飯にする。挽き肉団子のシチューとナンのセット。


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 Registonへ戻りしな、広大な庭園が垣間見えるBibi-Xonimのモスクを通りかかった。遠目にのぞき込んでいると、なかからおばちゃんが「入れ入れ」と手招きする。拝観料がえらい高かったので渋っていると、ただでさえどぎつい目をさらに見開きながら「すっぺっしゃるでぃすかうんと・ふぉるろゆぅぅぅっ」てお前な、拝観料にディスカウントがあるんかいや・・・笑い転げていると、日本語の出来るウズベキ人に声をかけられた。Bu-Nyok君といい、外国語大学で日本語を勉強してるらしい。話し込むうちに意気投合し、今日Buxoroへ出発予定だったのを一日延ばして、今日の後半と明日一日、彼にガイドを頼む事にする。これも旅のアクシデントとして一興だ。


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 サマルカンドの中心部レギスタン広場というのは、だいたいこんな感じである。ここで2年に1度「世界東洋音楽祭 (Sharq Taronalari) 」という大きな音楽祭が行われるが、かつて眺めていたその映像と、目の前の広場を比較してみるに、このお祭りは政府お抱えの御用イベントで市民のものではないなと直感した。上の写真で我々が立っているのは、広場に面した大通りの歩道である。ステージは、広場全体を使って展開されるので、おそらく祭り関係者や政府の役人、もしかしたら大統領とその家族、VIPなどの特別席がしつらえられ、物々しい警備の中、厳粛に執り行われるに違いない。そんなニオイがプンプンするのだこの町・・・いやこの国には・・・


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 Bu-Nyok君は、次々と名所を案内してくれる。ここは国の英雄Amir Temurの墓 (Guri Amir) の内部であるが、ウズベキ人のBu-Nyok君にとっては、母国の建設の英雄であるとの立場を崩さない。しかしウズベキスタンの直接の祖先であるシェイバニー朝は、ティムール帝国を倒してここに建国した歴史が有る・・・


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 が、まあそんなことはどーでも良い。私にはこんな下街を訳もなくそぞろ歩く方が似合ってる。


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 その後、ちょっと郊外にある製紙工場を見学し、サマルカンドの人たちに人気の結構贅沢なレストランで食事 (あきらかに彼はこれを狙っていたとみたが、まあかわいいもんやし奢ったろ) 、その後その店がダンスホールに早変わりして、まあまあそのなんやねえという感じやったんで、私は客の男達と水タバコを嗜んだのでした。

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20120310 Шахи Зинда

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 私が「西域」に興味を抱いたのは、まだ中学生のころだった。1970年代前半である。そのきっかけは、おそらく世界史で習った「ゲルマン民族の大移動」、特にその原因になったとされる中国北方騎馬民族「匈奴」の分裂と西進であっただろう。学問的に両者の関係については未だ解明されていないが、子供の幻想をかき立てるには十分だ。なぜなら、当時の中学生の、いやおそらく当時の日本の世界観というものは、圧倒的にアメリカ中心で、中国なんて「東側」のよくわからない国のひとつに過ぎず、ましてやその向こうの事なんて、全く思いもよらない事だった。なんだかよくわからない広大な砂漠の向こうに、忽然とヨーロッパが在る。今から考えればずいぶん滑稽なことだが、当時の日本人の多くは、おそらく世界の半分が空白のままの地球上に暮らし、それを不自然ともなんとも思わなかった。そんなことより日本の経済発展、目の前のカネ儲けが先だった。なんといっても「日本列島改造論」の時代だったのだから。そんな世界観だった。


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 「兼高かおる世界の旅」というすばらしい番組があった。あるとき、アフガニスタンか中央アジアの国が紹介された回があって、砂埃の中で男たちが憩っている。カメラはその顔を映し出す。目が青い。つまり彼らは、古代「アレクサンダー大王の東方遠征」のときのマケドニア人の末裔だという。そのときの台詞を良く覚えている。「なんと、ブルー・アイズでございますのよ」これは日本人が、「青い目」は白人の証であって、それが欧米ではなくアジアの人たちにみられたのを意外に感じていたこと、その「意外」は、白人への劣等感の現れであった事を如実に示すものである。しかし、当時のインド、アフガニスタンやイランに興味を持つことは、すなわちヒッピー文化に対する憧れと受け取られ、これに子供が興味を持つなど、全くもって困った事なのであった。しかし、ユーラシア大陸という広大な舞台に繰り広げられた民族の歴史に目が開いたのはこの頃だったと思う。


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 子供が興味を持ってはいけなかった国々の北には、もっと興味を持ってはいけない国があった。日本からみて中国の向こう側で、ヨーロッパよりもこっち側、世界地図を広げてみても、そこには「ソ連」という広大な「空白域」が広がっているだけで、それを含む「東側」のことなんて、話題にすること自体まだまだタブー視されていた。しかし小学校の頃、「大阪万博」で「ソ連館」に入ったとき、赤と白のコントラスト、前衛的な建物の形、入館が夜になった事によるきらびやかな光、そしてウソみたいに真っ白な美しいおねーちゃん・・・すべてが力に満ちあふれていて圧倒された事、そして学校ではソ連館など「東側」のパビリオンへ行ったかどうかの調査が行われていたことを思い出す。なぜオトナというものは、普通に興味を持つことについてとやかく口出しするのだろうか、それをダイレクトに表現すれば、激烈な暴力で報いられる事は、幼少の頃より骨身に沁みているので、あえて口にはしなかったけれども、そこにはなにかがある・・・こんなことも、「空白域」について漠然とした興味を持つ事に影響していたのかもしれない。


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 高校へ進学すると理科と社会は選択制となり、受験対策をかねて、興味のあった哲学と外国の歴史を学ぶべく、選択は「倫理・社会」と「世界史」に絞り込んだ。そこで、古代「アレクサンダー大王の東方遠征」に始まり、「匈奴」の分裂と西進・「突厥」に代表されるトルコ系遊牧騎馬民族の活躍・「セルチューク」に代表されるトルコ系イスラームの時代・「チンギス・ハーン」の侵略とモンゴル帝国の時代・ティムールとオスマンの相次ぐトルコ帝国の時代・ロシアによる征服と革命・「清」による侵略・「ソ連」のアフガン侵攻・・・と続く苦難と激動の歴史を食い入るように学んだ。この偏重のおかげで受験には見事に失敗したが・・・


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 その後、世の中もいくらかマシになって、私も少しはオトナになったころに「シルクロード」が脚光を浴びるブームがやってきた。1980年から始まった「NHK特集シルクロード」だ。NHK取材班は、西側世界で初めて中国とソ連にカメラを持ち込んだ。実にそれまでは、西側世界にとって本当の秘境だった。映し出される人々の様子、街や村の建物や景色、食べ物や音楽、そしてイスラーム・・・すべてが目新しく、惹きつけられて止まないものだった。大学の4年間は、単位が重複する事を承知で、毎年この地域の歴史の講義を受講した。


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 主に興味を持ったのは、イスラーム化される前後の中世の歴史であったが、時を同じくして韓国で発生した「光州事件」をきっかけに、我々と同時代の民族差別にも関心が向かい、チベットやウイグルの状態を知ったのもこの頃である。スリーマイル島で原発事故が発生し、成田空港は開港したが「三里塚闘争」は続いていた。その頃には当然、世界を二分するもう一つの勢力について、かなり客観的に、人によっては狂信的に知られるようにもなっていた。そんな時代だった。NHKが演出するロマンティックなイメージ戦略に嘘臭さを感じながらも、中世のユーラシアへの憧憬は止む事なく、「千夜一夜物語」や「ルバイヤート」を読みふけったりしていた。そうした一切のものが、私にとっては基本的に「謎」だった。まさしくヴァーミリオンの砂に覆い尽くされていた感がある。全てを取り巻いて覆い尽くしてしまうものは、ただ「砂」だけだ・・・それは理論や知識としてではなく、直感として、広大なタクラマカン砂漠の向こうに沈む夕陽を、ラクダの背にまたがっていつまでも眺めている自分を夢想する事によって、なおもいっそうかき立てられるのだった。


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 その中央アジアへ、あこがれのシルクロードへ、世界で初めて西側のテレビが入った秘境中の秘境へ、まさか旅が出来るとは思わなかった。旅立ち前の期待は、40年近くのあこがれの蓄積が沸き立ってとどまるところを知らず、旅行情報を調べ尽くした。Tashkentはまあしゃあないとして、段取り不足でアフガニスタンとの国境の町Termezへ行けなかった残念の気を取り直して訪れたBoysunそしてSamarkand二日目にして、ほぼ私の期待はかなえられない事を悟った。まずTashkentで最初に食べたナンに強烈なドライ・イーストの匂いがした事で、もはや現実の「ナン」は、ガイドブックに書かれてあるように、イーストを使わずに醗酵させたものでない事がわかった。つまり、「ナン」とは本来そういうものだという一般論を、読む側が勝手に希望的解釈をするわけである。ウズベキスタンの全てとはいわないが、かなりの部分は、おそらくロシアに征服されて以降、共産主義革命を経て社会主義的生産体制のパーツとしてモノカルチャーに陥れられて以降、二千年に亘る歴史の積み重ねによる文化の多様性は失われてしまったようだ。食文化しかり、音楽しかり、イスラームとて例外ではない。結局のところ、残された遺跡を観光資源として守る事、せいぜいあと数十年が寿命の化石燃料を、今のうちに高く売り捌いておく事で延命したい・・・独裁政権が考える事なんて、どの国もだいたい似たようなもんだ。


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2012年10月26日

20120310 Афрасиаб

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 ナン工房の若者たちに礼を述べてそこを辞し、再び表通りに出ると雪が降ってきた。足許は凍りつくように冷たくぬかるんでいる。靴もびしょぬれであった。とりあえず暖を取るためにバザールへ向かう。高級土産物店は、まだシーズンが来ていないからなのか、ほとんど開いていない。


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 でもその方が、庶民のいろいろな顔が見られて楽しい。Tashkentはロシア系の白人も多く、街は人種の坩堝のようであったが、ここSamarkandは、モンゴル・トルコ・イランなど、アジアの広大な大地と複雑な歴史を感じさせるさまざまな「顔」に出会う。ナン工房と店の間を行き来するモンゴル系の少年。


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 バザールの中のブティック街の一角である。もちろん野菜・肉・魚・香辛料などで活気のあふれる大きな区画もある。ここで土井ちゃんと別れて自由行動、私は食い気よりも楽器、道具、日用品に目が行くのである。


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 バザールを東へ外れるとバス・ターミナルがある。交通の要衝というものは、どこも一種独特の無政府状態であって、たいていの旅行者はこういうところでトラブルに巻き込まれる。葉っぱを売りに来る者、闇両替を持ちかける者、いかがわしい遊びへ勧誘する者、バザールの中に店舗を持てない行商人、乞食・・・一人旅なら、この9番のバスに飛び乗って終点まで行ってみたいところだが、連れのある旅ではそうも行かぬ。


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 バザールの北に、いにしえのSamarkandの街があったというAfroshabの丘という遺跡がある。広大な草原で、所々に墓碑が建つ。その中をいくつもの踏み跡が伸びていて、それを辿っていくと眩暈がするほどに地平線の向こうへとおびき寄せられ、糸の切れた凧のようにすべてをかなぐり捨てて飛び去ってしまいたい衝動に駆られる。いやいや、しかし今回は帰らなければならない旅、ここはじっと我慢我慢・・・寒々として見えるのは、実際寒い時期だったから。


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 気を取り直して丘の入り口にある寺院の塔からレギスタン広場方面を振り返る。ああ、Samarkand・・・


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2012年10月25日

20120310 Самарқанд Нон

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 さて、寒い寒いとばかりも言っておられず、泥雪にぬかるむ道を歩きはじめる。レギスタン広場の東の縁をバザール方面へ北上する立派な道Tashkent Roadを行くと、やがて両側に立派なショウ・ウィンドウを備えた高級土産物屋の並んだところへ出る。その東側の並びに、このような鉄の扉で仕切られた路地があったので入ってみた。


 


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 何の気なしに歩いていると、土井ちゃんも私もある香ばしいにおいに引きつけられ、吸い寄せられるように入っていくと、ナン工房があった。ここの連中はみんな親切で、ナンの製造工程をつぶさに見せてくれた。これは焼成のために成形する前の状態、我々が作るパンと全く変わらない。直径は20cmもないので、生地の小麦粉の重さは300gもないであろう。


 


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 ここからが見事な手技であった。その生地を無造作につかむと、ホイホイホイホイと薄く伸ばしてペタッと丸くて堅い座布団のような台に乗せる。


 


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 そして周囲をドーナッツ状に手早く整えて、


 


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 その縁を棒で引っかけて、大きな石窯の内側に貼り付けた。


 


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 熱源はガスで、縦長のコンロが入っていて、直火である。これがなぜ落ちないのか、これでなぜムラなく焼けるのか、なぜ真ん中が膨らまないのか、謎である。


 


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 焼き上がりの大きさは直径30cmほどもある。窯の番をしている若者は、程よく焼けたものから順に手際よく取り出し、別の若者がゴマを振りかけ、ヒマワリの種の油を刷毛で塗り付けて完成である。


 


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 焼きたての生地はこのような感じで、これは確かに美味かった。この膨らみ、気泡の勢いは直火ならではのものであろう。また、底面ではなく側面や天井に置かれることが、このような焼き上がりを決定づけるのか、帰ってから実験の余地がある。とにかく美味い。


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2012年09月17日

20120916 Шарк тароналари

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2012年09月15日

20120310 Фуркат отель

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 サマルカンドは、私にとって中央アジアの憧憬の地であった。何がどのように憧憬の地であったかということは、大変長くなるのでまたの機会に譲るとして、到着したのが夕刻であったのと、空気が大変冷たくて凍えそうなほどであったので、とりあえず最も有名な「レギスタン広場」だけを垣間みて寒さのあまりようやく見つけたレストランに暖を求めたのであった。なんせ通りがだだっ広くて建物が物々しくてなあーんもないんよね、ちっとも親しみやすくない。一日中窮屈なシェア・タクシーに揺られていたので疲れてもいたのだが、広場の前のメイン・ストリートに煌煌と明かりを灯してるレストランが、外国人観光客向けでない訳がないのは百も承知の上だったが、とにかく気が挫けそうになるほど寒かったので入ってしまった。これでもね、今回の旅行中でわりとまともな食事だったんよね。手前の丼に入ってるのが「ラグマン」といって、ウイグル由来の料理らしいのだが、要するに「ラーメン」である。これをメイン・ディッシュにしてヨーグルトや山菜のお浸しやナムルのようなものを選んで、ナンにチャイという「フル・コース」・・・これで2人前でUSD10くらいだった。てせもこれはここの庶民感覚からすると高いんよね。しかも、ウズベキスタンを代表する料理の一つとして名前の挙がる「ラグマン」・・・確かに具沢山でスープとしては美味い。ナンがもう少し美味ければある程度許せるのだが、中に入ってる麺があかん。私は常に箸を持参して旅行を致すので良かったのだが、これをスプーンでどやって食えちゅうねん。麺はくたくたで掴むとすぐ切れるし、ただの小麦粉のぼんやりした長いものでしかなくて「腰」という感覚がない。クノールのインスタント・スープに入ってるアルファベット・マカロニよりもあかんかったね。次に期待しょーか。


 


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 で、宿泊したFurkat Hotelの朝食がこれである。数種類の「ナン」というかパンと、スモモのシロップ付けのようなものとフルーツである。これにチャイが通常つくのだが、もう甘味攻めに嫌気がさしてきたのでコーヒーを頼んでおいた。むろんインスタントしかないので、ネスカフェと湯を持って来るのであるが、それとてこの国ではほとんど期待できない。コーヒーを飲むという習慣がなさそうだ。しかも、そういうイレギュラーなことを頼むと、それだけがとんでもなく遅くて、しかもぬるま湯だったりするので、ま、貧乏旅行やしあんまりごちゃごちゃ言わんようにしょーか。参考までにホテルの紹介記事のリンクを貼っておこう。


 


http://www.uzbek-travel.com/component/hotels/hotel/148.html


 


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 さてこのFurkat Hotelには、屋上に展望テラスというものがあって、それはこの長い閉鎖的な状況を耐え忍んできた国にあっては珍しいものなのだが、もともとラテン的な気性の激しい私としては、インターネットによる事前調査でめざとくこれを見つけ、宿泊希望候補に挙げていたのであった。しかし、この朝はどんよりと曇り、ご覧の通りの積雪とややもすると吹雪で、とても観光に出かけようという気がおこらない。テラスにも雪が積もっていて、腰掛け類すすらなく、全くリラックスできずに降りてきてしまった。


 


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 雪化粧のレギスタン広場を背後から遠望するのもまた、いと寒々し。


 


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2012年09月14日

2012年09月09日

20120309 Карщи-Самарканд

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 Boysun Crafts Centerでは、手作りのジャンダ織りなどを買い込んでSalim Akaの家へ戻り、早々に出発。タクシー乗り場では、さすがに地方都市とあってすぐには客が集まりそうにないので、元締めが、Karshiまで4人で14万Cymのところ、2人で10万Cymにするがどうかというので、多少エロ・・・失礼、イロをつけてもらって妥結。南ウズベキスタンの静かなたたずまいに後ろ髪を引かれる思いでBoysunをあとにする。

 

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 来た道を逆にとって北上する。中央アジアの南部からアフガニスタンにかけての山岳地帯の景観に思いを馳せる。

 

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 厳しい自然条件の中での、人々の質素な暮らしを垣間みる。しかし車をチャーターした訳でもなく、悪路続きということもあって、ゆっくりと風景を楽しんでいる心と肉体の余裕はない。さらに、南下してきたときは、検問所はすべてフリー・パスだったのに、今回はことごとく止められた。外国人であるので、当然のことながら別室ご案内となるが、応対は至って紳士的で今回の旅で官憲から不愉快な思いをさせられたことはない。

 

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 山岳地帯を抜けると、赤土と灌木の果てしない荒野が広がる。あちこちに油田があり、その間を鉄道が縫うように通じている。極めて質実剛健な電気機関車が、地平線の向こうまで続くかと思われるほど長大な貨物列車を牽いている。

 

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 Karshiの市域に入ったようだ。ウズベキスタンには、このように殺風景な景色を多く目にする。

 

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 無論どこをどう走ったかは全くわからないが、Karshiは結構大きな町で、往路に立ち寄ったバス・ターミナルではなく、Samarkand方面行きのバスやシェア・タクシーが発着するこのターミナルまで案内してくれた。旅人にとっては、こういうところがありがたいものである。ほどなく4人集まり、4人で16万CymでSamarkandへ出発。

 

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 Samarkandへの道は、ひたすらこのように平坦な舗装道路であった。時折なだらかな丘を越えたりカーブしたりはするものの、風景はほとんど変わらない。Samarkandの市域が近づくと雪になった。Registon広場までで良いというのに、この親切なドライバーは、慣れない外国人のために右の客と相談してわざわざ安B&Bまで横付けしてくれた。確かにホテル探しを楽しめるような状況ではなさそうだ。中央アジアの遺跡の都市、憧れのSamarkandとの出会いは、寒くてぬかるんで雪だった。

 

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2012年09月08日

20120309 Бойсун

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 Boysunの街は、だいたいこんな感じになっている。非常に静かな街だ。バザールとその周辺の商店街以外は、取り立ててなにもない街だが、ここへ来た目的は、Unescoの文化遺産にも登録されている「ジャンダ織」を見るためである。「Boysun Crafts Center」という施設でやっていることは解っていたのだが、その場所がなかなか分からない。英語がほとんど通じないので、慣れないキリル文字や身振り手振りを交えてなんとか意思疎通を図った結果、意外にわかりやすいところにあった。この街を訪れる外国人は、おそらくこのCenterが目的であろう。Centerは、バザールの脇の坂道を300mほど上がったところにある。

 

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 ミュージアムの中は、このようになっている。ジャンダの他にスザーニや絨毯、陶器などが並べられている。入場料は特に必要ないが、併設されたショップでは、手作り品としては非常に安い価格で工芸品が販売されているので、バザールでボラれる事を思えばずっと得だし、店のおっちゃんやおばちゃんも強欲でなく、いろいろ教えてくれるので結果的に良い買い物が出来る。英語がほぼ問題なく通じる。

 

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 シーズン・オフとあって冬枯れの風情、あちこち修繕中。右の大きな建物がミュージアム、左に並んだ扉は工房。中では若い女性がジャンダを織る工程を、糸を紡ぐところから実演してみせてくれる。

 

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 Centerの前の道は、山懐の住宅地に入って行く。ウズベキスタンの南部の地方の街は、だいたいこんな景観である。人が集うところは万人に対して開かれているが、このような住宅街へ入って行くと緊迫した警戒感がみなぎっていて楽しめるというものではない。風景を遠望するのが良い。

 

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 バザール前の通りに戻る。Boysunで最も賑やかな場所である。


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2012年05月03日

20120427 Пепсодент

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 旅の余韻から目覚めるべき目安として、私は旅先で手に入れた日用品を日用して使い切ったときをもって限りとすることにしている。左から順に、IstanbulKinshasa (Angolaと書いてあるけど今後各地で売られているが実はインド製)、そして右奥がTashkentで手に入れた歯磨き。

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