Boysunで予約してあったGuest HouseはSalim Akaという人の家である。その名前すら着いてみてからでないとわからず、知らされていたのは電話番号だけであった。Boysunのバザール近くで降ろされたところから電話して、別の車に乗り換えてわざわざ辿り着いたのである。外から見ても宿泊施設とは全くわからない。しかし「滞在登録」はきちんとできるし外国人が宿泊するのに何の問題もない。手配料込みでUSD30/1人は割高だが、この際致し方あるまい。部屋の窓からは、いま越えて来た峠であろうか、雪を頂いた山脈が遠望出来る。
街を散策する前に「滞在登録」の手続きを待つ間、おもてなしの茶を頂く。
・・・ 人が、いない・・・
ちょっと賑やかそうな方へと歩いて行ってみると、バザールがあった。夕刻に近づいていて終いはじめる店も多かったが、その分のんびりした空気を味わうことができた。
現地特産だろうか、バザールでよく見かける粗目をまえに通じぬ言葉で会話を楽しむ土井ちゃん。
このシルエットこそ、ウズベキスタンの風景といえないだろうか・・・
バザール前の通りはだいたい東西に伸びていて、バザールの西側から北に延びる道と、ずっと東のタクシー乗り場から北へ伸びる道がある。タクシー乗り場の南西側にホテルが1軒あり、前で肉を焼いていたのでたぶん営業しているのだろう。このモニュメントは、ウズベキスタンのいくつかの街で見かけたが、軍事独裁国家に多い、いわば国の威厳を国民に叩き込む象徴のようなものであろう。
その道を少し上がって行くと、学校のような建物の一群があった。夕刻に近づくにつれて急激に冷え込んで来たため、暖をとるために中心部へ戻った。
そこから別の道を辿って宿へ戻りつつ、途中で何か食べられるところでもあれば入ろうと思って行きあたったレストラン。
中央アジアでは、串焼肉の事を一般にロシア語でШашлык (シャシリーク) と呼ぶ。トルコ語のシシケバブと繋がる言葉である。これは挽肉のシャシリークで、肉を頼んでも、ナンとサラダとチャイは必ずついて来る。ナンとはいえ、こうなるとイギリスパンのようで、サラダはお盆に何種類か持って来て選ぶようになっている。選んだのは、緑のトマトのサラダと、たぶんキャベツのヨーグルト和え。ひとまずチャイで暖をとったものの、ぐんぐん冷え込んで来て、思わず震え上がる。ほどほどにして出発し、宿へ戻る途中、車のパーツやの店先で若者たちがバックギャモンをしていた。それに興味を持った土井ちゃんが、ルールを教えてもらいながら仲間入りした。驚いた事に、さいころを振った土井ちゃんが口の中で日本語で数字をそらんじるのを、対戦していた若者がすくなくとも1から12まで覚えてしまい、やがて日本語で土井ちゃんにコマの進め方を教えるほどだった。こういうときにこそ、多言語で育っている人の頭の良さを実感する。しかしその様子を、通りかかった兵士が見て我々を誰何した。我々はパスポートを取り上げられて車に乗せられた。そしてすぐ先のタバコ屋でパスポートと「滞在登録」のコピーを取られ、Salim Akaの家まで送り届けられた。私はてっきりたかられると思っていたが、彼らはそんな事はしなかった。コピー代も自分たちで支払ったし、領収書をとる事もなかった。ひとりは片言ながら英語も話し、雰囲気は友好的だった。彼らがSalim Akaの家まで送り届けたという事は、この小さな街では彼は外国人を宿泊させることができるものとして認知されているようである。ウズベキスタンは良い国だと思った。人が親切で、兵士までもが職務に忠実である。そんなことはあたりまえだと思われるかもしれないが、全然あたりまえでない国々を旅して来た私にとって、これは全く意外な出来事だった。私の常識では、こうしたケースでは、各種書類を取り揃え手続きするために牢屋にブチ込まれ、出してもらうのに何日かかかり、しかも大枚な賄賂を要求され、貴重品は没収され、安全な引き取り手に引き渡されるために護衛がつけられ、関係者全員で一件落着の宴会が開かれ、その支払いが全部私に回って来るものだからである。かえって、異常に身構えてしまう自分の態度を、他意のない彼らに対して恥じた。ウズベキスタンの兵士たちは、私の見た範囲では皆きちんとした身なりをしていた。制服は汚れていなかったし、シャツにもアイロンがかかっていた。物腰は非常に紳士的であり、私の見た範囲では、決して威圧的な印象は受けなかった。かれらはあっさりと手を振って我々を解放した。