Facebookというものは、なにがしかの記事をそのまま「シェア」することによって、多くのコミュニケーションが成り立っている現状があるが、その連鎖によって、一つの小さな意思表明が、多大な勢力を形成することもある。その善悪や功罪の議論は別として、そのままシェアされることによって、シェアした人はその内容を正しく理解しているか、どのような考えを持っているかにかかわらず、元の記事を是認した形で、シェアした人の名前をも纏って拡散されていく。これは、「社会的」なネットワーク・サービスのあり方にとって良いことだろうか。
いまや個人の「ホームページ」というものは鳴りを潜め、作成ソフトすら適当なものが見当たらないので、私のホームページは長年更新できないままである。かわって短文投稿「つぶやき」や、写真のみで言葉すらない「インスタ」へと、情報発信手段は多様化しているのに、ますます考えない風潮が助長され、考えて作り上げるものは疎まれる傾向にあると感じざるを得ない。
私は、それがどれだけ稚拙なものであっても、自分で考えたことを書くべきだと思っている。考えずに行動する風潮は、危うい。物の弾みに対処できなくなるからである。無批判に拡散することは、やがて考えずに大勢に流される風潮を生み、より早い情報処理能力を個人に迫る社会を作っていく。裏返せば、考える時間を与えない仕組みを助長する。だから、私は「たとえ文章が長くなっても」自分の考えたことを書くようにしている。
もちろん、長いことを持って良しとしているわけではない。俳句のように、考え抜かれ、研ぎ澄まされた17音の中に、全てを言い当てて説得力のある言葉を選ぶ能力があれば、私もそのようにするだろう。しかし稚拙な頭脳しか持ち合わせない私には、なかなか努力してもそのような結果は得られない。
この記事は9月末ごろに私が自分のタイムラインにシェアしたものである。季節的に多忙を極めていて、ノー・コメントで記事だけ載せた。しかし、どうもこれがひっかかっていて、いつかきちんと自分の考えを添えたいと思っていた。
これは17歳の高校生が書いたものとされている。その真偽はともかく、要点は二つあって、ひとつは、日本は民主主義を国是とする法治国家であって、その手続きが守られて現政権が行政を行なっている以上、巷に流れる「現政権は独裁的」という批評は不当とする評価、もうひとつは、この仕組みさえわからないような国民が大多数を占めるのであれば、自分は日本が独裁国家になっても構わないという評価である。そしてこれをシェアした元の投稿者のページには、400件近いコメントが寄せられ、ほとんどがこの高校生の意見に拍手喝采を送っている。
仮に彼が高校生だとすれば、学校で習う世界史が、現実の世界でどのように動いているかをつぶさに見聞する機会はほとんどなかったであろうから、このように広辞苑から解いた言葉を受け売りするのもやむを得ないことである。しかし願わくば、民主主義がどのように発生し、それを実行するためにどのような事実が起こって、それを排除しようとする勢力との間にどのような歴史が展開されてきたか、それが現在の我々の世界にどのように影響を及ぼしているか、これをつぶさに学んでいってほしいものである。そうすれば、独裁というものが、どのように発生して成長し、国家体制を樹立して、やがて崩壊していくかを知ることになるだろう。それを知れば、最後の文言すなわち、「私は独裁政治でも一向にかまわない」という言葉は出て来ず、かわりに「そのように流される国民に、今一度立ち戻って、民主主義を守るためにはどうすれば良いかということを、あらためて考え直す良い機会にしたいものである」とでもいうような結論が導き出されたのではないか。
そして、彼のこの投稿に対して、無批判に拍手喝采を送るいい歳を重ねたおとなたちの馬鹿さ加減に唖然とする気を取り直し、いまからでも遅くないから歴史をもう一度素直に見つめ直さなければ、自分たちの子供の世代に、また悪しき歴史の繰り返しの尻拭いをさせてしまうのではないかと危惧するのである。
経験と判断は人それぞれである。しかし、自分の目で見てものを聞き、頭で考えて出した結論と、古今東西の多くの膨大な知見とを総合的に比較検討する努力があれば、そこに豊かな創造性が育まれ、必ず正しい方向に導かれるものである。ただしこの道は険しく、即答できることが少ないため、理解されるのに時間がかかる。なにより自分自身が自分に負けてしまうことも多い。それでも気を取り直して進むしかないのではないか。
さらに立ち入っていうならば、彼は前段において、自分の言論の自由は民主主義によって保証されているとしておきながら、結論では独裁政治でも構わないという矛盾した答えを導き出している。それに対して多くの読者が拍手喝采を送っていて、誰もがこの矛盾に気がついていないように見える。
論理的思考というものがきちんと徹底されていて、社会的なネットワークに対して自分の意思を表明することが、出版にも等しい公的なものであるという自覚と節度があれば、このような行動には至らないと思う。しかし、現実のネット社会では、このような言論とも言えぬレベルの言葉の嵐が吹き荒れている。これそのものが、民主主義によって保証された言論の自由のなせる事なのであるが、では彼らは一体何を望んでいるのだろう。
民主主義を望んでいるのであれば、独裁政治は否定されるべきである。しかし、内心では独裁政治を望んでいるらしい風が感じられるということは、つまり民主主義によって論じられる「なにか」が彼らを苛立たせるのではないかと思う。
独裁者が好むものは、往往にして武力に代表される実力であるから、要するに彼らは、日本が、その実力にふさわしい国際的な影響力を行使できていないので、それを強化するべきだ考えているように想像できる。そして民主主義というものは往往にして、こうした実力の行使に何らかのコントロールを加えようとする。それが鬱陶しいのではないか。
クラスの一人をみんなでいじめようとしているときに、「そんなことはやめろ」などと言う奴が出てくれば、まずそいつから抹殺するのが子供社会、いや未成熟なムラ社会でもよくあることで、そのような感情の集中と発散のはけ口が、民主主義によって閉ざされている閉塞感を打破したいという熱い想いが、この投稿やコメントを読むと伝わってくるのである。
つまるところ、彼らが望んでいるのは、上のような自分たちの閉塞感を共有できる人間だけで日本という国家を自分たちの思う姿に改革して行きたい、それに異を唱える者は排除すべきである、というイデオロギーで国家ビジョンを描いているというしか、落ち着くべき結論が見当たらない。すなわちそれは、そのまま全体主義国家であり、かれらがゴキブリのように嫌う共産主義国家の現実の姿と変わらないのである。それにすら気がつかないほど、彼らの思考は鈍化していると言わざるを得ず、物事を感情でしか判断できなくなることの危うさを如実に示していると思う。
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