2017年05月27日

20170527 Uyghur-Pamir

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 旅を振り返る。中国へは、以前からとても行きたいと思っていた。なぜなら、隣国でありながら社会体制が異なり、理解しがたい情報ばかりが目につくからである。私は1960年生まれなので、リアルタイムに毛沢東が生きていた。物心ついた頃に聞き知る中国・・・当時は「中共」といった・・・は、破壊と暴力と殺戮と、けたたましい論争に明け暮れている印象だった。世界中が西と東に分かれて罵り合っていた。西でもちょっと東のことを口にすると咎められるので、東に関しては清廉潔白であると演じなければならなかった。なにがどうだからそうなのか、子供には全く分からなかった。万博でソ連館へ行ったと言っただけで職員室に呼び出され、長時間の詰問を受けた。光り輝くソ連のパゴリオンと、光り輝く白人のねーちゃんの美しさが強く印象に残っている。

 それは、いい大人になった今も、実は変わらない。事実上社会体制が変わった今でも、やはり中国という国はわからない。わからないけれども隣国なのだ。いや、それ以上にわからないのは、なぜ多くの日本人が中国を嫌うのか、個人的に恨みを持ったことのない人までが、なぜ中国を悪し様に言うのか、中国製品は粗製濫造の産物だというが本当か、中国人は平気で往来で用を足すというが本当か、そんな国民・・・中国風に人民といおうか・・・が支えている国は、社会は、街は、農村は、一体どうなっているのか、それを是非見てみたかった。

 中国人民の名誉のために、先にこの部分だけに答えておく。決して彼らのほとんどはそんな人たちではない。短い旅ではあったが、公の場所で用をたす人を私は一人も見なかった。中国製の子供のズボンの股は排便のためにあらかじめ開けてあるというのは嘘だ。それより、そんなものを目ざとく見つけてネットに載せる日本人、それを格好の攻撃材料にする日本のネット難民の性根の方が情けないと思う。むしろ中国人民の個人個人はとても親切で、右も左も言葉もわからないこの旅人の手を取ってわざわざ目的地へ向かうバスを探して運転手に伝言してくれ、周りの人たちもそれを聞いていて降りるべき場所が来たら、まるでお輿にでも乗せるかのように降ろしてくれ、行くべき方向を念入りに指し示して教えてくれるほどの人たちだった。物を落としたら拾って手渡してくれるのも日本人と変わらない。危険があれば注意を促してくれるのも普通だ。つまりどこの国とも変わらない。

 しかしそれは例えばバスや建物の中という、閉鎖的な空間の場合である。往来のように、誰が見ているかわからないような場所では、確かに彼らは極端に無表情になり、できるだけ人と関わらないようにする。そのギャップに当初は戸惑うのだ。何事においても几帳面な傾向のある日本人とは違って、まあいろいろと大雑把ではあるが、街も社会も秩序立っていて整然としているし、平時においては特に混乱はなく治安は良く保たれている印象だ。もっとも、これは、もういやというほど書いたが、極めて強力に管理され、監視されている社会だからそうなのであって、公共の場所では声を潜めてそそくさと通り過ぎるのが彼らの法であるようだ。それはある意味、致し方のないことなのかもしれない。そう、そのへんが中国のわからないところだ。

 初めての中国旅行にしてはディープな旅程であることは承知している。私の初めての海外旅行がザイールであったのだから、これはどうしようもない。新疆ウイグル自治区・・・要するにシルクロードへの憧れである。もちろん私がこれに興味を持つ直接のきっかけとなった「NHKシルクロード」の時代から40年近くが経とうとしているので、そこに映し出されたバザールや人々が、そのままの姿でそこにあるとは思っていない。しかし、やはりそこが古のシルクロードであり、その残滓でも伺えるのではないかと期待したことが、この旅の重要な動機となったことは事実である。この部分の結論も一言で片付く。それはまさに残滓であった。詳しくは、これも、もういやというほど書いた。

 日本人にとっての憧れのシルクロードは、中国にとっては民族問題を抱えるナイーブな地区である。同じひとつの新疆ウイグル自治区が、両者にとって全く正反対の意味を持つ。それが、この旅を極めて困難にする要因になった。ここも結論だけを先に書いておこう。私の訪問したカシュガル以外の西域南道に関しては、ここを安全に旅するには、現地の旅行代理店のツアーに参加するか、少なくとも現地人、できれば漢人のガイドをつけた方が良い。しかし、そうすれば莫大な費用がかかり、おまけにこちらの意図とは無関係に、現地地方政府お抱えの観光施設を巡って散財させられる。それが嫌だといって単独で行動すると、絶え間ない検問と身柄拘束の面倒を被り、短距離の移動すらままならず、旅そのものが困難になる。おそらく自治区の他の地区でも同じようなものだろう。

 中国政府や地方政府は、自治区の民族問題が外国人に知られることを嫌う。外国人が政府のコントロールのない状態で、一般のウイグル人と接触することを嫌う。一般のウイグル人も、そのような状態で見知らぬ外国人と接触することを恐れる。どこで誰が監視しているかわからないからである。同様のことは、当然チベットにも当てはまる。チベットは、現在単独での入境すらできない。全てツアーという管理旅行でなければ不可能だ。そこでは宿泊するホテルから食事、アトラクションに至るまで、すべて管理されている。しかも高額だ。歴史的にモンゴルを失ってしまった痛手があってか、中国は国内の民族問題に極めて神経質だ。そのことは、情報として聞き知ってはいたが、実際どのように管理されるのかまではわからなかった。それを痛いほど経験できたことは、今回の旅の収穫であったと言えるだろう。

 つまり、それが中国の実態であり現状であり、要するに中国はロシアと同じく、多数の被支配民族を抱え込んだ、事実上の帝国主義国家だからだ。イデオロギーが共産主義であろうが、被支配者にとっては帝国主義のなかで生きており、支配者はそう振る舞わざるを得ない。それは、まったくイデオロギーとしての共産主義の価値観と相容れないものだが、そうしないと国家体制が立ち行かないのだ。だからかつては鉄のカーテンで遮断して自分たちの裏庭を作り、既成事実作りに汲々とした。その結果、今があるわけだ。奇しくもそれを目の当たりにできたのは貴重な体験だったと言えるだろう。しかし普通の観光旅行としては、決して楽しいものではない。

 新疆ウイグル自治区に関していえば、そこはすでに憧れの対象たるシルクロードではなく、中国の将来の食い扶持を賭けたあらゆる資源、すなわち観光・物流・工業生産の拠点としての実に広大で不毛な開発現場である。それは、未だ市場開拓が十分に進んでいない、西に隣接する広大な中央アジアやロシアを向いている。極めて大規模に、急ピッチで開発されており、そのための労働力は中国内陸部の開発途上のエリアから次々と送り込まれている。私の搭乗した国内航空便は、そんな労働者たちで満席だった。新疆ウイグル自治区は辺境にあるため、出稼ぎ労働者の賃金が最も高いのである。中国は、開発主体に対しては気前よく資本主義を適用するが、開発される側すなわち現地の農民など土地所有者 (??) に対しては共産主義を適用して・・・いやいや、もともと中国政府としては私有財産を認めていないのだから、これを没収して開発に供与するのは当然である。実際に農地をブルドーザーで潰すのは、遠方から送り込まれて来た漢人労働者であって、当然のことながら現地のウイグル人との間で衝突が起こる。それを防止するために膨大な数の警官・・・というか、これも遠方からリクルートして来た貧困な人民に制服を着せ武装させて、町の辻ごとに配置してこれにあたらせる。その光景の異常さについては、これももういやというほど書いたが、騒然・緊迫・異様・異常・恐怖・威圧・・・要するに厳戒態勢であった。

 そんななかでなぜウイグル人が結果的に黙っているかというと、これは私も全く考えが及ばなかったことだが、ウイグル人は中国国籍を持っていながら、漢字の読み書きがほとんどできないからである。漢人との間で簡単な会話はできるが、書かれた文書は、ほとんどこれを理解できない。従って極めて単純な労働にしか就くことができず、いかに誇り高い羊飼いであっても、いかに有能な農夫であっても、経験豊かな職人であっても、牧地を奪われ農地を壊され、家を潰されて財産も没収されて、極めて単純な労働という生活手段だけを与えられ、粗末な集合住宅に押し込められたり、縁もゆかりもない遠方へ送られたりして、社会から浮浪してしまう。私が見たものは、開発の手が伸びてこないエリアで牧畜と農業にしがみつくウイグル人の怯えた目、それらが奪われ、その日の仕事にもあぶれて路上にたむろするウイグル人の死んだ目、運良くありついた警官の仕事で同胞を取り締まらなければならない、あるいは取り締まられなければならないウイグル人たちの麻痺した目、であった。

 西に向かっては以上のようにして、中国は己が生き延びる可能性を探っている。そして南や東に向かっては海洋進出、すなわち南沙諸島や尖閣諸島の問題も、これと全く同根にある。中国人民自身が言っている。尖閣諸島の領有権なんて、後になって言い出したことだと。彼らは百も承知だ。だが撤回はしない。できないのだ。なぜなら国の存立、人民の存立がかかっているのだから。いまや世界の人口の5人に一人は中国人である。つまりこれは地球全体の問題であって、二国間の領有権の問題では済まされない。中国をどう「解決」するのか。世界全体で真剣に取り組まないと、本当に地球が壊滅してしまうだろう。彼らはフェアな取引などしない。すでにケツに火がついているので死に物狂いだ。それほどの勢いで、もう回りはじめている。いや、とっくにそうなっていたのだろう。目の当たりにするのが遅すぎたのかもしれない。

 日本とは、日本人とは全く異なるのだ。同じような顔をしていながら・・・言い方は悪いが、極端に言って、彼らはほんの30年ほど前までは、普通に人民同士、些細なことで殺し合いをしていた。そこへ改革開放政策が持ち上がって、イデオロギー論争よりも経済発展に集中するようになった。歴史的に、集中するとやりまくるのが中国人の特質であって、一方へ振れはじめたら、レッド・ゾーンを振り切るまで止まらない。しかも、今は資源が豊富にあって、人力をはるかに超えた規模で破壊が進んでいる。戦後70年の長きにわたって、安定して成熟した社会を営々と築き上げることのできた、ほぼ単一民族国家の日本とは全く異なるのだ。ある程度共通の常識を持ち、社会が手に届くほどの適当な規模である日本とは違って、中国では、国家は遥か雲の上の存在だ。もはや概念でしかなく、現実のものではない。「有 (ヨウ = あるぜ) !! 」と言って商品を出してくるときの誇らしげな顔、「没有 (メイヨウ = ないよ) 」・・・だってしょうがないだろ、という、きまってやるせない感じと、開き直った、ちょっと怒りのこもった目でそう言う彼らの表情が、なんとなく全てを物語っているような気がするのだ。そうだ、しょうがないんだ、本当に、だって、国家はずっと雲の上にあるんだから、俺にどうしろっていうんだ・・・だから、すくなくとも、私には中国人民を悪し様に言うことはできない。

 そして中国製品を、経済効率を優先して安く買い叩こうとするから、彼らは粗製乱造に走るのであって、ちゃんとしたところへ行けばちゃんとしたものがある。なぜなら、彼らと共に食事をしてみるとわかるのだが、安飯屋でさえ極めて豊かで民族色が濃く、実にバラエティに飛んだ美味しい料理が出てくる。日本のように加工食品の組み合わせでお茶を濁したようなものはない。それに、なにより彼らは我々が常用する漢字だけで会話をしているのである。文字数は二千文字強で、日本語で使う常用漢字とあまり変わらないらしいが、とにかく純度100%、仮名文字のようなツナギが一切入ってない十割そばを常食しているようなものである。膨大な漢字に囲まれた街で過ごしてみると良い。思考回路の層の厚さを実感する。これだけの文字を一つの論理体系の中に落とし込んで文法化されている言語は他になく、それを日々操って生活している民族も、おそらく中国人を於いて他にあるまい。ことだけを見ても、中国人民の頭脳の洗練さを示す証左であると私は思う。

 それにひきかえ日本人は、この中国の漢字を借りて来て、一部は漢語として、それに収まりきらないものは音写して、さらにつなぎにひらがなやカタカナを交え、なんとか「日本語」を形成している。まるで補助輪をつけなければ自転車にも乗れない子供みたいなもんだ。これほど混乱した文法体系を持つ言語も世界にまたとなく、それを理解して日々会話している民族もまた特異な存在であろう。そんな借り物文化で自己のアイデンティティを如何の斯うの言う民族の末裔が、この大陸の超大国で数千年を生き存えてきた民族の末裔に対して、何を物言えるだろうか・・・

 彼らの一人とでも友達になってみればわかる。日本人同士の中で醸し出される平和で平板な単純思考と、彼らとの間で交わされる、さまざまに重層化された思慮深さと慎重さの決定的な違い。複雑な思考の同時進行。彼らは数千年の歴史の中で、支配したりされたりする立場の変遷が血に刷り込まれている。単一民族でそのような歴史の激変の経験に乏しい島国の日本人とはワケが違う。彼らが日本人 (リーベンレン) を「小さい」と感じるのは当たり前のことである。国土といい人口といい、日本は中国よりもはるかに小さいではないか。それを「小さい」と言われて腹を立てているようでは、まだまだ子供だ。補助輪をつけなければ自転車にも乗れない子供だ。その子供が、乏しい自分の経験をもとにちょっとひらめいたアイディアを、不器用に中国人に押し付けて物を作らせ、買い叩いたら粗悪品しか出てこないのは当たり前のことである。彼らは日本人のように一本気に努力すれば必ず報われるなどとおめでたいことは考えない。叩かれれば叩かれてもやっていけるように手を替え品を替えて生き延びるだけである。その手心を積み重ねてノウハウを蓄積し、その宝を集めて今、大きな勢力になっている。それを盗まれたなどとほざくのは寝言である。破れても破れても動かぬ勝者、それが中国であるとすれば、勝っても勝っても走り続けねばならない敗者が日本の姿のように思われてならない。

 さて、とはいっても中国は複雑怪奇で、体良くウイグル人を支配下に置いているのは紛れもない事実である。新疆ウイグル自治区は、果たして「中国」なのか・・・私は表通りから外れて、まだ取り壊されていない、「老城区」と呼ばれるウイグル人の旧市街居住区をさまよい歩いた。それらの多くは、すでに取り壊し予定のために柵で囲われていたが、その中に入ると別世界であった。光も音も、街外れにある麦畑から渡ってくる風の匂いも、羊やロバの糞の匂い、ポプラ並木が延々と続く情景、三輪バイクトラックやロバ車を扱うウイグル人たちの様子・・・それは全く中央アジアの風景であって、そこは明らかに中国の風景ではない。ここは中国ではない。しかし、では歴史的にこの辺り、そして今ウイグル人と呼ばれている人々、さらに彼らの居住するエリア、要するに東西トルキスタンは、歴史的にどういう民族分布をなしてきていたのか・・・私は学者ではないので、俗説に基づいた結論しか出せない。要するに混沌である。

 中国歴代王朝は、周囲の遊牧民の勢力を利用して、敵対する遊牧民や異民族の征服王朝と戦った。シルクロードを往来する商業利権を争った歴史である。中国は漢の時代の昔から、すでにこの地区を支配しては破られ、また支配してきた。そういう意味で、ウイグル人が歴史的に居住してきた東西トルキスタンは時々中国領であった。「誇り高きウイグル人」、「国なき民」などというが、現在のウイグル人と、古代遊牧帝国であった東突厥を滅ぼしたウイグル帝国とは直接的な民族的連続性はなく、「ウイグル」を冠する民族国家は、ごく小規模短命ないくつかの勢力は別として、その後歴史に登場しなかった。現在「ウイグル人」と呼ばれている人たちは、第二次世界大戦末期に共産主義的再編がこの地でも行われたときに、中ソの民族別支配の枠組みを作るために復活した名称であって、実際、同じ「ウイグル人」でも、明らかにモンゴル系の顔をした人から、縮毛のコーカソイド、碧眼の白人までおり、彼らに生物学的な基準における統一性はないといえる。あるとすれば、漠然と「トルコ系」というくくりになるが、それとても、彼らの風習や伝承つまり民俗学的分類からすると、むしろイラン系のソグド人の血を受け継いだと考えられるグループも存在する。

 つまり、「ウイグルの復興」という言葉があるが、実体として何を復興しようとしているのかが、素朴にわからないのである。まあ、部外者である日本人が「ウイグル人」の民族性に関してモノを言うことは差し控えるべきと考えるが、ありもしない民族的アイデンティティを、さもあるかのように仮定して、そこへ特別な感情を注ぎ込むのもどうかと思う。「ここは中国ではない」などと言って中国の支配する現状を批判するのはお門違いだ。「漢人」と「ウイグル人」という二極の対立があると考えると事実を見誤る。ここにあるのは、数千年にわたる民族興亡がもたらした混沌の結果であって、表現は適当でないかもしれないが、現状「ウイグル人」が「漢人」に事実上支配されているのは、歴史的な帰結と考えるべきである。もちろん私は「ウイグル人」を卑下しているのではない。支配されていろと思っているわけでもない。彼らに古くから伝わる多くの音楽をこよなく愛するからこそ旅に出たのである。しかしそれを現状の「ウイグル人」の音楽という枠の中で捉えると、それぞれの伝承のルーツを見誤る。今回の旅でも多くの旋律に触れることができたが、尚一層「ウイグル人」という概念の曖昧さを実感したので、このようなことを書いたまでである。

 「ウイグル人」が、その名のもとに独立するのではなく、もっと普遍的なレベルでの中国からの分離独立が実現しないと、結局のところ新たに細分化された民族紛争をこの地に持ち込むだけのことになるのではないかと危惧するからである。だからといって中国が支配し続ければ良いというわけでもなく、全くわからないというのが本音であって、実に大陸的で巨大な混沌を前にして、それに恐れおののいたというのが正直なところである。中国は混沌。

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2017年05月26日

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Uyghur-Pamir 2017.05.26 Lahore-KIX

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 LahoreBangkok行タイ国際航空TG346便、機材はAirbus A330-300型、23:45 (5.25) 定刻に出発し翌日 (5.26) 早朝6:00定刻に到着した。時差が+2時間あるので、4時間のフライトである。上がってすぐに機内食が出され、すぐにおやすみモードになった。到着時刻が近づくとシートのモニタに地球儀を模したイメージが映し出されて、ご来光を受けて機影が空港に到着する趣向はなかなか凝った作りだった。到着後、乗り継ぎ客はクリアであるにも関わらず再び保安検査があり、これがウルムチ並みの手際の悪い厳しさ、しかも態度の横柄な係員のために、せっかくの旅気分がぶち壊しになった。「ほほえみの国・タイ」・・・。気を取り直して、いよいよ最後の行程、関空行きを待つ。乗り継ぎ時間が1:40で保安検査にだいぶかかったのでそんなに待たなかった。ゲート付近には何もなく、米ドル処分のために免税店でタバコのカートン売りを買ったらバーツの小銭が残った。良い記念だ。これで手持ちの現金は、予備の日本円を除いてほぼ使い切った。

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 バンコク発関空行タイ国際航空TG672便、機材はAirbus A380-800型、帰途は、旅のうちで最もつらい時間だ。目の前のモニタには、全く無慈悲にも、刻一刻と日本に近づく機体が映し出されている。四国上空、もうええて・・・明石海峡大橋、いらんちゅうに・・・あああ、帰ってきてしもた。15:55定刻到着。

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 相変わらずルーズな入国審査をすっぱ抜いて急ぐ。なぜならこれからバイトだからである。そうなのだ。私はバイトの当日に帰国する無茶な計画を立てて飛び出したのだ。関空快速乗って丹波路快速乗って普通電車に乗り換えて、自転車乗って帰宅してそのままバイト先へGo !! 待っていたのは、改装研修で疲れ切ったアルバイト・スタッフとケツに火ィのついた本社社員の罵声のみだれとぶ、壮絶なまでの日本のブラック企業の修羅場なのでした。現実とは、かくも・・・

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2017年05月25日

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 旅の最終日である。泣いても笑っても今日で終わりである。しかしLahoreからの帰国便のフライトは23時である。楽しもう。というわけで、ホテルの朝食バイキングをゆっくり楽しんで排便をし、帰国に備えて髭を剃った後、歩きなれた目抜き通りを北上して城壁の中に入り、もう何度か通りかかって声までかかるようになった店先で手を振りながら宮廷を目指す。この風景はまさしくインドである。

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 Lahore Fort・・・素晴らしい、美しい、広大な宮廷である。下界の喧騒とは打って変わって、イスラムの信仰の空気に満ちた、荘厳な静けさがある。早朝なので余計そう感じるのかもしれないが、感じるままに、園内に設えられたあらゆる空間を楽しむ。柱・床・壁の細部に施された繊細な装飾、イスラム風のアーチのついた窓、その形に切り取られた風景、そぞろ歩く信者たち・・・どれをどうとっても美しい。私がイスラムを愛するのは、このように世界が美しいからだと思う。このような美しさは、おそらく昔の日本にもあったのだろうと思うが、今では日本人の多くが忘れ、手の届かないところへ行ってしまった。この美、この安息、神をこれほど近くに感じられることは、モスクの中を置いて他にない。トルコでも、エジプトでも、ウズベキスタンでも感じられたことだが、イスラムの世界は寛容、そこに真髄があると思う。見ず知らずの信者たちに混じって、モスクの中のさまざまな床でくつろぎ、寝そべり、彼らと共に神を感じる時を共有する。

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 やがて観光バスが何台か到着し、団体様のご到着となってあたりが騒々しくなる。学生の修学旅行か、たちまちのうちに珍しい日本人は取り囲まれて「セルフィー」攻撃に見舞われる。早々に退散して宮廷の外に広がる庭園を散策する。こちらも建築美、様式美に満ちていて、それらは外界を様々な角度から、様々な切り取り方で見せてくれる。幾何学的な遊び心に満ちていて、歩き回るだけで全く飽きがこない。しかし陽が昇るにつれて暑さは厳しくなり、手持ちの水も尽きたので一旦ホテルに戻った。

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 チェック・アウトの時刻が近づいていたので手続きをお願いし、帰国便が深夜であることを伝えると、快く荷物を預かってくれ、おまけに空港への車まで出してくれると言う。なんと、そこまでしていただかなくてもと恐縮していたのだが、私が終始このホテルを快適だと褒めたものだから嬉しいらしい。パキスタン人、気持ちで動きますね。その気持ちにお答えして、外で食べるより随分割高になるのは承知の上で、ホテルのレストランでランチにしたのでした。

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 さて、Lahoreから東へ30km、隣国インドとのWagah国境で、毎日行われているセレモニーがある。ランチの後は昨日道に迷った時に見つけた古本屋街を散策してからそのセレモニーに向かうことにした。古本屋街は、目抜き通りの一本西にあって、文房具や紙問屋、新聞関係などの印刷物を売る商店街の先にある。そこから道路を隔てるとパンジャブ大学や博物館があって、いわば文教エリアである。その周辺に露店を含めてたくさんの古本屋がある。特に目的があるわけでないのだが、アラビア文字で埋め尽くされた書物を何冊かほしかったので行ってみたら、これが骨董市などもやっていて大変面白く、ちょっとした大道芸なども見られて、つい時間を使ってしまった。

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 おまけに百姓の性で、種屋を見つけてしまって野菜の種などを数種類買い、そこの親父にバスマティの種籾か、せめて玄米だけでも手に入らぬかと交渉して見たのだが、結果的にダメ。政府の食料政策がきちんと徹底されていて、稲の種籾は許可がないと購入できず、しかもパキスタンでは、年中何処かで米が穫れるため、これを一年間貯蔵するという考え方がなく、籾から直接白米に精米するため、玄米というものがほぼ存在しない。まことに親切なことに、種屋の親父はわざわざ知り合いの米屋や農家にまで電話して尋ねてくれたのだが、結局外国人旅行者がこれを手に入れることはほぼ不可能なようであった。

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 セレモニーへ行くには駅前からバスに乗る。そこから駅へ行く交通機関を探す手間がないので歩いて行くうちに、急に暑さにやられた。間際に色々と盛り込む悪い癖が出たのだ。駅までたどり着いたはいいが、どうも頭痛がする。数ヶ月前には近所で自爆テロもあり、この界隈は危険だ。駅前のバス・ターミナルも常に混沌としていて、この雑踏の中でAgah行きのバスを探すと考えただけで、いつもならな立ち向かってゆく気力が、この時は全く出なかった。暑い、ものすごく暑いのだ。どうやら体力の限界がきたようだ。かといって休めるような場所はない。弱音は命取りだ。すぐさまタクシーを見つけて乗り込んだ。幸い、運転手はホテルの場所を知っていたので、すぐに車を出してくれた。汗びっしょりでホテルに着くと、レセブショニストは様子を察して、ロビーのソファに私を導き、冷たい飲み物を持ってきてくれた。いやもう、なにからなにまで・・・

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 結局そのソファで小一時間ほど休んでいると回復したので、無理をせずその周辺の散策で旅を締めくくることにした。後は帰るだけなので屋台料理を解禁、チャパティに羊の挽肉などの具材をたっぷりのせたピザ風のスナックやポテトフライ、サトウキビの押しつぶした甘い飲み物とアイスクリームなど、目抜き通りの屋台で最後の夜を楽しんだ。しかし、衛生状態は目に余るものだった。サトウキビ・ジュースの売り子はコップをろくに洗いもせず、ハエがどんどん機械の中に入り込むのも平気で、暑いからみんなそれをどんどん買うので、私もそれをわかっていながら買って飲んだら・・・あとで当然の報いを受けました。

 その帰り道、いつも閉まっているシャッターの脇に固まる人影があって、さっと身を引いたのだが、そいつが腕に注射器を射し込んだまま崩折れていった。あの様子では、おそらくそのまま・・・そんなパキスタンの一面も最後に見て、ホテルのロビーに戻ると、ちょっと早いが運転手が到着していたので、深々とお礼を述べてホテルを後にした。車は一路空港を目指し、郊外の住宅街などの風景を見ながら快調に飛ばした。途中、大きなショッピング・モールをの前を通った。しまった・・・こういうところも見ておきたかったのだが、もうさすがに遅かった。車は空港連絡道路の手前で保安検査を受け、21時に空港に到着した。Lahoreの空港ターミナルは、こじんまりとしたロビーとカウンター、検査場と免税店がいくつかあるだけの、国際空港の割には小規模なものだった。結局Soustで人民元から両替した現金だけでここまで来れてしまったが、手持ちも1,000PKRを切っていた。際両替するのもなんだし、地元に落としていこうと思って、有り金叩いてパコールを買った。外で買うより3倍高くついたが、それでもお釣りが来たので、待合室にあった募金箱に残りを入れて、旅を終了した。

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2017年05月24日

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Uyghur-Pamir 2017.05.24.2 Lahore

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 旅の友もLahoreで降りた。姉の家に行くついでに友達にも会うと言う。約束の時間までに間があるので、一緒に宿探しを手伝ってくれた。Lahore駅の周辺には安宿がいくつかあるので探すには困らない。いくつか回ってみたが気に入ったものがなかったので、事前に調べておいた「Hotel Tourist Inn Lahore」へ行く。

http://www.hoteltouristinn.pk

 このホテルは駅からも旧市街からも遠く、交通の便は良くない。しかも中途半端な下町にあって、環境も眺望も良くない。しかも私の部屋はビルの谷間で窓の外はすぐ隣の壁だったので、これも全く良くない。しかし、玄関を出て右手に一本通りをまたぐと旧市街の真ん中へ突き抜ける目抜き通りの一本道に出られるし、その通りはほぼ夜通し賑わっている。食べることは言うに及ばず、日中ならば衣料品、雑貨、書籍その他あらゆるものが手に入る。部屋もなぜか非常にゆったりしていて熟睡できたので、結局ここはおすすめである。しかしパキスタンにしては3,800KPRと高額で、Tourist Innといいながら、宿泊客のほとんどは商人であった。フロントの対応や設備などは全く申し分ない。旅の最後に安心できるホテルであった。

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 シャワーを浴びて一休みした後、風のまま匂いの来るままに散策に出た。暑い !! 猛烈に暑いのである。実は、私はまだこの時点では、自分がもうインド亜大陸にいるということを自覚していなかった。出て右の角を曲がったところにうまそうなチャパティを焼いている店があったので、久しぶりにチキン・カレーが食いたいと思って尋ねると、店員が済まなさそうな顔をして首を横に振る。じゃあチャイとチャパティでいいと言うと、手を止めて私を引っ張って次の路地の奥に連れて行った。看板も何もない店だったが、中では大鍋にチキン・カレーが煮込まれていて、どんと背中を押して笑って去って行った。いやあこのチキン・カレーはうまかった。

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 そのまま商店街を冷やかしながら北上し、旧市街の城壁の中へ入った。いやまたこれがすごかった。人がすれ違えるかどうかと言う細い道にもバイクが突っ込んで来るし、そこらに売り子が声をあげてるし、生活排水の匂いやそこらで繰り広げられる喧嘩・・・設えられた現代のバザールなどではなく、中世の迷宮に迷い込んだ感じで、とにかくめまいがするほど迫力があった。ざあっとぬけてLahore Fortまでを確認した後、あまりにも暑いので土産物を買い込みながらホテルに戻った。

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 冷房を入れてしばらく横になると、二時間ほど熟睡したとみえて、陽が傾いている。そこで二周目として別ルートでLahore Fortを目指す。宮廷内の散策は明日にして、その北にある公園でくつろぎたかったのだが、この公園、地図や衛星写真で見たのと随分違ってて、森も林もなく、あるのは芝生とベンチに囲まれた、整備された広場だった。日陰を期待して裏切られたので、再び旧市街の雑踏に身をまかせる。楽器屋街があってたくさんの楽器を見かけたが、やはりここは音楽文化的にはインドである。全ての楽器はインド音楽のもので、実は私はこれがあまり好きではない。そこをぬけて雑踏の中の小綺麗な飯屋で夕食にした後、入り組んだ迷路をさまよって現地の人の中に没し続けていた。これがなかなか心地よく、果物屋の店先でスイカを食べたり、哲学者のような堀の深い老人と相席してチャイを飲んだりした。そろそろ疲れたので宿へ戻ろうとして、城壁を頼りに南を目指したのだが、これがどうしても同じエリアを堂々巡りするばかりで、ちっとも外へ出られない。道は入り組んで曲がっており、南を目指したはずがすぐに方角を見失ってしまう。仕方なく現地の人に地図を見せて案内を請うものの、訊く人によって指差す方角がバラバラで、言われた通りに歩いても歩いても、一向に入って来た門に行き当たらず、仕方なくオート・リクシャーを頼んで帰って来た。

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 一休みしたが宵の口なので、また懲りもせずに外出して、目抜き通りでフレッシュ・ジュースやデザートなどを食べながら、喧騒に満ちた下町の更け行く夜を楽しんだ。

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20170524 Pindi-Lahore

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 オート・リクシャーは、まだ暗いRawal-Pindiの街を、裏道伝いに走り出した。全く煤けた、酸えた匂いのする、明らかに下町の、どぶ板を踏んで出てくるような裏道ばかり走るので、どこをどう走っているのか全く知り得なかったが、やがて大きな公園のような広場に着いた。運転手が目で合図するので、そこで降りた。広場はまだ暗く、先の方に屋台と思しき明かりが見えたので、そっちへ歩いて行った。そこで飲み物とクッキーを買うと、先客の若者が「どこまで行くんだ ?? 」と声をかけてきた。「Lahoreだ」と言うと「じゃあ一緒に行こう」と言うので新しい旅の友となった。駅の切符売り場が開いたので訊くと、Lahore行きは7時の発車である。まだ2時間以上あるので、駅の入り口や、改札が始まってからはホームなどで時間を潰したので、Rawal-Pindiは、オート・リクシャーの通った裏道しか見ていない。

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 オート・リクシャーがインドなら、ホームに並んでる列車や機関車もまたインド風情たっぷりだ。色がグリーン系かブルー系か違うだけだ。この車両を見ると、どうしてもバングラデシュで乗客が窓に捕まり屋根にもひしめき合って走る強烈な映像をイメージしてしまうが、運良くそのような目には合わなかった。鉄道少年として全く不覚なことに、行き当たりばったりで切符を買ったので、自分の乗った列車の種別や名称を知らない。おそらく急行列車以上のものだったと思われる。入って来た機関車は、ウズベキスタンでも見たことのあるタイプだ。日本でもよくある三段式寝台客車と同じ形式で、中段を下ろして下段に三人座り、上段に荷物が置いてあったり人が寝ていたりする。座席指定なので、混雑するということはない。乗ってしまえば気楽な列車の旅だ。しかも中国のようにうるさく行動を監視する車掌もいない。車窓を眺めていれば良い。昨日までとは全く違う世界に、また足を踏み入れてしまった。外の風景はパンジャーブの平原だ。何もかもが違う。そして今回の旅の最終目的地Lahoreへ11時に到着した。4時間の鉄道の旅、今回の旅は本当に多彩だ。

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2017年05月23日

20170523 Gilgit-Pindi

Uyghur-Pamir 2017.05.23 Gilgit-Pindi

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 早朝、万一キャンセルが出た場合に備えて、6時半に空港へ行ってみた。空港はホテルからほど近く、鉄柵で囲われただけの簡易なものだった。「キャンセル待ちだ」と伝えると、警備員が通してくれたので中に入り、玄関の前のベンチに座って待った。まだ職員は出勤しておらず、客も来ていなかった。7時頃になってようやく、客がちらほら集まりはじめ、やがて乗務員が到着した。警備員が私を紹介してくれたので、キャンセル待ちを伝えたが、今日の便は全て団体客で一杯なのでキャンセルはないと告げられた。せっかく待ってもらったのに申し訳ないね、とパイロットや警備員に言われたのには驚いた。心が暖かいのだこの国の人は・・・

 というわけで、のんびり朝食を済ませ、屋上で日向ぼっこなどをし、飛び立って行く飛行機を眺めたりして時間を潰した。HunzaからRawal-Pindiへ早く到達したい人は、Ariabadを8時ごろタクシーで出られれば10時のRawal-Pindi行きのバスに乗るのは十分可能である。もし9時の飛行機の予約が取れているのであれば、6時半くらいに出てぶっ飛ばせばこれもできるかもしれない。タクシーにしろといったのは、Gilgitへ至るK.K.H.がHunza川の右岸を走ってくるのに対して、Gilgitの街は左岸にあり、スズキやバンが街に入る橋はぐっと遠回りな位置にあって、空港やバス・ターミナルとは逆向きになるからである。タクシーであれば脇道に入って手前の橋を渡って直接乗り入れることができ、これは市内渋滞を避けて大いに時間の節約になる。旅を計画されている方はどうぞご参考までに・・・

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 いよいよPunjabに向けて出発である。バス・ターミナルというものは、どこも興奮と活気にあふれていて無国籍な治外法権的な匂いがする。荷物を屋根に放りあげると、係員が受け取って整理してくれる。チケットを運転手に見せると「お前は俺の後ろに座れ」とぐいっと掴まれて座席に押し込まれた。運転手のすぐ後ろの通路側だ。どこにでも見られる喧騒とヤジと怒号が飛び交って、座席の争奪も落ち着いて、控えの運転手と武装した兵士を乗せて、バスは発車した。これで山岳地帯ともお別れだ。

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 バスは、陽のあるうちは渓谷の川沿いを走った。急峻で樹木の少ない、見るからに脆い岩の谷間を縫うように道は続く。川は泥水。いたるところに崩れがある。時折、その崩れと崩れの間の、ちょっとマシな斜面に張り付くように、小さな集落が現れる。周囲にほんのわずかな畑があったりするが、すぐ上は崩れ、すぐ下は濁流、どこへ逃げる ?? どのようにして暮らす ?? 全く想像のつかない環境で、ここの人は暮らしている。K.K.H.の交通量はかなり多い。途中で何度か羊飼いの群れを見た。決して美しい風景ではない。殺風景の連続だ。殺風景すぎて、荒涼とし過ぎていて、自然環境の厳しさ、非常に脆くて儚い微妙なバランスの上に翻弄される人の生活を見た。それすらできないほど厳しく切り立った回廊も延々と続く。延々と無人の、茶色く染まった、埃っぽい渓谷が続く。

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 発車して7時間後、小規模な土砂崩れに行く手を阻まれた。待機車両がずらりと列をなす。その向こうに小さな土煙が上がっているのを見ると、まだ発生から時間が経っていないという感じだ。車が止まって、乗客は腰を伸ばすために降りた。様子を見に行く奴らもいる。中には川に降りて用を足す奴らもいる。別に焦る様子はない。車中で隣席になった顔見知りの何人かと話していても、よくあることだと落ち着いている。周りの状況から、別に心配もなさそうなので、私も様子を見に行くグループとともにあたりをうろついてみた。気のいい運転手が笑ってポーズを取るデコトラは日本からきたもので、しかも大阪府の排ガス規制をパスしている。つまり私のカリーナちゃんより新しくて環境に優しい車というわけだ。これが良い気分転換になり、乗客とも仲良くなって、小一時間後に出発した頃には、かなり打ち解けていた。

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 途中、昼食と夕食に、地元の食堂に立ち寄ってたが、豆のカレーしかなかった。結構食べ飽きた。日のある間に数回、夜中に数回程度検問があったが、これは外国人の通過をチェックするためのもので、そのうち2回は直接降りて接見しなければならなかったものの、ほかはパスポートのコピーを出しただけで済んだ。運転手が私を自分の後ろに座らせたのは、「コピーを用意しろ」とすぐに声をかけられるようにするためだった。私一人のために検問で止められるのは心苦しかったが、まあその度にみんな休憩していたのでよしとしよう。座席は通路側でもたれるものもなく、シートはリクライニングしないものだったので、流石に日が暮れる頃になると疲れてきた。乗客の大部分は埋没していたが、私は熟睡できなかった。うつらうつらしては「コピー !!」と言って叩き起こされ、その度に乗客から失笑やうめき声が聞こえた。一度だけ、真夜中に検問で私だけ降ろされたことがある。運転手が「大丈夫だ。行け。」というので兵士と共に詰所に通されてパスポートの写しを取られた。彼らの対応は威圧的なところは微塵もなく、終始紳士的で穏やかだった。その詰所は、地域でもかなり大きな部署らしく、前庭のついた立派なコテージで、別荘風の外構が設えられていた。近くで川の音がしていたが、真っ暗で兵士の一人が懐中電灯で足元を照らしてくれるほどだったので、あたりはほとんど見えなかった。そこでバスはしばらく休憩時間をとった。運転手によると、「もうこの先から平野に入る」とのことだった。

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 乗客で私の隣の窓側にいたのは、だいぶちゃらけた感じの若者だった。パキスタン訛りというか、ほとんど日本語のカタカナをインド人が棒読みしたような英語で大変わかりやすかったが、まあつまらん話を延々とするものである。通路の反対側には年配の商人二人がいて、その後ろに二人組で見るからに敬虔なムスリムがいた。白いシャルワール・カミースに身を包み、パコールではなくツバの無い白いイスラム帽に、柄のない白いシュマグをまとっていた。二人とも動作が控えめで物静かだったが、眼光が鋭く、外国人である私を見るからに警戒していた。のみならず、日中は小休止のたびに時計を確認しながら地面にひれ伏して礼拝を捧げていた。そこまで敬虔なムスリムは、数十人いた乗客の中でも彼ら二人だけだった。あとは、どこにでもいるごく普通の人たちだ。

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 何度かの休憩で行動を共にすることがあって、やがて彼らから話しかけてきた。こういう人たちが、見たところ異教徒である外国人に対して切り出す第一声は「あなたはムスリムですか」という質問に共通する。ムスリムであるか、イスラムを信じるか・・・無神論者である私には当初きつい質問だったのだが、これは文字通りを意味しないことが多い。あなたは神を信じるか、という問いをかけられて、YesかNoで答えなければならないと考えるのは律儀すぎる日本人の癖である。別に二者択一を迫っているのではない。イスラム世界はそのような風土なので、そのような表現になるだけだ。ここでNoと答えれば、次に来るのは「なぜだ ?? 」という質問になり、雰囲気が険悪にな方向へ向かう。かといってYesと答えれば嘘をつくことになる。このように、日本は世俗国家であり、一応仏教国ということにはなっているらしいが、国民のほとんどは不信心者の集まりなので、この問いを極めて重く受け止めがちである。しかし多くのムスリムと話をすると、この質問にはそんなに重い宗教的な疑念を含んでいない、ということがわかる。ムスリムは同朋意識が非常に強く、見知らぬ人がどんな出自を持っているかがはっきりしないと安心できない、そこまでいかなくても、何か共通の地平を持つことができれば安心するようなのだ。私が日本人であることはすでに知られている。まあここんとこいろいろあったので、日本がアメリカの手先であることも、よく知られるようになった。ではお前は何をするためにここにいるんだ ?? という、誰もが抱く半分の疑問と、半分の好奇心がないまぜになって、しかし一般論として仏教の話を持ち出されても困るので、手短に、わりと気楽に「あなたはムスリムですか」という質問を発するのである。これに当たり障りなく答えるには、「ムスリムではないが、大変興味があってやってきた。ここは素晴らしいところだ。」などと言って、YesかNoかには答えずに友好関係を築こうとする。すると先方も、その二者択一は置いといて、互いの友好の方に興味が移って、会話の地平が開かれるのである。彼らにとって、この慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御心を知らぬ異教徒を正しく導くのはムスリムの務めだという意識では共通する。しかもこのバスは、北部辺境のイスマイール派のエリアから、南部平原のPunjabへ向かっている。自ずと、両者の信者がそこに混在し、それが議論の的になっていくことはやむを得ない。要するに長距離バスで夜の帳も降りて、することがなくなった退屈しのぎにすぎないので、私を含めて途中で眠りこける奴もいたり、目が覚めて議論に加わる奴もいたり、はじめは私にも聞かせようと英語で頑張ってた奴らも、いつしかウルドゥ語に変わってしまったりして、話は夢か現か、とりとめもなく時間は過ぎて行った。

 パキスタンの北部辺境から中国・タジキスタン・アフガニスタンの北部一帯のパミール高原には、イスラム教の中でもシーア派の分派であるイスマイール派の信者が多い。古くは「暗殺教団」などと呼ばれ、それを意味する英語assassin、アラビア語でHashishi、転じて「大麻」の語源となり、若者を扇動するに楽園に拉致して大麻に溺れさせ、そこを追放しておいて「いうことを聞けばまた楽園に戻してやる」と甘言を弄して若者を操る老人の話が出て来るが、その説話の元となったのがイスマイール派だといわれている。イスラム教の中でも戒律に対して懐疑的、生き様が宗教的というよりむしろ哲学的、外の世界に対して開放的で合理的な考えを有するとして知られている。私がこれに興味を持ったのは、その寛容な思想であって、近寄りがたく閉じられた印象の強いイスラム世界にあって、その開放感をこの目で見て見たかったのである。つまり現代の桃源郷と言われるフンザのあの華やかさを育んだパキスタン北部の山岳地帯、暗殺されたアフガニスタンのマスード司令官が命がけで守ろうとしたパンシールに連なる山並み、近年まで中央政府の統治が及ばず藩王国として独立を保っていた地域、そして今なおインドとの国境が確定していない係争地でもあるこの地一帯に、心情的に惹きつけられる何かがあった。しかも前回2012年のウズベキスタンの旅において、ブハラの街で世話になった夫婦がタジク人であったこと、そのタジク人は中国語では「大食」と記され、もともとイラン系の民族であること、イランという国はイスラムでありながらアラブとは一線を画していて、もともとはゾロアスター教という、火を崇める独特の宗教を持っていたこと、その音楽は「ムカーム」といって広くトルコからアゼルバイジャン、東トルキスタンにかけての西アジアの広い地域に渡る音楽の一大潮流であること、そのイランは、歴代シーア派を奉じており、イスマイール派はその分派であることなど・・・まあ所詮、聞きかじりの雑学が支離滅裂に頭の中でつながりあっただけなのだが、とにかく旅情を掻き立てられる要素に溢れかえっているのである。そこへ中国の新疆ウイグル自治区から越境して入るという旅の実現が、私を有頂天にさせたのだ。そのトライバル・エリア的な治外法権性、彼らがこの地を愛する核となるものは一体何なのか、小麦をこねて、チャパティでなく、パンの原型のようなものを焼く食文化も、イスラム的というよりヨーロッパに通じるのは、太古のアレキサンダー大王の東方遠征の際に取り残されたギリシャ人の末裔のなせる業か、まさに世界の文化の混沌の坩堝の中核を行く旅が実現するとは、思ってもみなかったのである。いきなり飛び込んでどうなるものでもないということは、もう散々の旅行経験から事前に理解してはいたのだが・・・

 そのイスマイール派の現代のイマームはAga Khanといい、スイスに本拠を置く。世界中に信者がいて、そのうちの大きなコミュニティが、パキスタンの北部辺境から中国・タジキスタン・アフガニスタンの北部一帯のパミール高原にあり、そのうちHunzaより北のUpper Hunzaと呼ばれるGojar地方のイマームはHazil Imamという。Aga Khanは、宗教家というより思想家・哲学者・実業家であって、その慈善事業は国境の枠を越えて、それぞれの中央政府とは別に影響力を及ぼしている。その点で、彼はトルコのFethullah Güllenと似ているところがある。そしてイスラム教徒であると同時に、宗教が世界平和に貢献しうる道を探るとして、ローマ法王や異教徒の指導者と会談したことが伝えられることもよく似ている。つまり私は、イスラムという宗教が国是として実践されている国で、イスラムにとって「異教」となるあらゆる宗教や、無神論をはじめ世俗的なものも含めた思想・哲学が、人々にどのように受け入れられているかを知りたいとかねてから思っていた。そういう意味では、パキスタンの北部辺境山岳地帯は別世界であった。

Aga Khan自身は、実際にはセレブリティの家系にある。実業家としてあげられた収入を、慈善事業としてコミュニティのインフラ整備に当てている。パキスタンの場合、北部辺境地帯もその例だが、もちろんこれが中央政府との間に微妙な見解の相違をもたらしていることは、トルコの例と似ている。またこの地は、莫大な資本を背景に「一帶一路」政策を掲げる中国とも利害を共有する。例のAttaabad Tunnelsが良い例である。ここはもはや現代の秘境ではなく、Aga Khan・パキスタン中央政府・中国が触手の伸ばすターゲットになりつつある。地元の住民がムスリムであることは間違い無いのだが、それは日本人が、あるいは世俗主義者が宗教的と考える信仰心とはかなり違うように思う。彼らがAga Khanの名を唱える時、それは我々に利益をもたらしてくれた、常に我々のことを考えてくれている、だから信仰するという、宗教的信仰と、世俗的支持が混同した姿勢を感じるのである。突き詰めれば、「日本列島改造論」を唱えて新潟への新幹線乗り入れを強く主張した田中角栄 (呼び捨てにしたりしてすみません、善悪について評価しているわけでは無いので、ご不快の点はお許しください) とどこが違うのかわからなくなる。田中角栄を支持することはあっても信仰することはほぼなかろうと思う。しかし、ここではそれが一体になっている。それは無分別なのだろうか、彼らが近代的思考から取り残されているからだろうか・・・

 イスラム世界を旅していると、時々このような短絡ともみえる行動が見られる。ところが私は思う。これを短絡だと思うのは、世俗主義に立っている私のものの見方であって、彼らにはごく自然で普通のことなのだ。世俗主義の立場に立つと、宗教というものを自分の枠の外に置き、自分と宗教を切り離して日常を生きる。したがって宗教的な生き方をみようとすると、自分は一旦そこから出て信仰心というものを持ち、さまざまな戒律を守って世俗を脱し、宗教的な存在になるまで自分を高めて、そこから世俗を救済しなければならない、と考えがちである。だから宗教指導者たるイマームは遠い存在であり、それを信仰するという行為まではなかなか行き着けないと考える。ところが現実は違う。イスラム世界においては、例えば金融市場とは別に、ムスリム社会のコミュニティだけで通用する金銭の流れがあって、相互扶助の考え方のもとに、宗教的実践の一環として、極めて直接的に貧者を助け合う仕組みが出来上がっている。神の思し召しだと言って、実は裏で利ざやを稼ぐ組織があるのだが、それでも現実に救われている人たちがいる。これを短絡と見るのは、世俗と宗教を対立させて見ているからであって、子供の頃から政教分離と民主主義と資本主義を一体のものであり善であると刷り込まれてきた我々の、一つの視点であるに過ぎない。

 そのような視点でいろいろなものを見ていくと、イスラム社会というものが、極めて合理的にできていることがわかる。とにかく神 (アッラー) の存在が近い。偶像化されていないので神が祭り上げられることがない。教会に階級制度がなく、信者は直接神に信仰告白する。モスクへ行って「私はムスリムではないのだが、あなたがたと共にいて良いだろうか」と言えば、たいてい喜んで通してくれる。私もよく断食をするが、それは飽食を戒める最も有効な手段である・・・数え上げればきりがない。クルアーンの解釈やファトゥワの法理論的要素の議論は別として、イスラム世界に何日神をおいて彼らと共にいると、逆にわざわざ聖と俗を分離して人から心を取り上げ、社会をシステムで増殖させて、その中に心を失った人間を放り込むことが果たして幸せか、社会の安定に個人の幸せを求めるあまり、社会の安定を維持するために個人から心を奪い取ることが、果たして善であろうか・・・つまり、民主主義は本当に善なのか、または我々にとってそれは可能なのか・・・そんなことを考え込んでしまった。

 目が覚めたとき、バスは片側二車線の高架道路を高速で走っていた。まだあたりは真っ暗で、オレンジ色のナトリウム灯が延々と続いていた。砂けむりか、窓ガラスが汚れているのか、風景は茶色くよどんで見える。・・・・ バスは4時ごろRawal-Pindiに到着した。所要18時間少々だった。あたりはようやく明け初めたばかりだった。乗客は大抵寝ぼけながらもバスを降りて、命名の目的地に去って行った。私も周囲の乗客と別れを惜しみつつ、「どこへ行く ?? 」との問いに「鉄道駅だ」と答えると、さっきの経験な若者が、すぐ近くにいたオート・リクシャーを捕まえて行き先を伝えると、私をどんとそれに押し込んで手を振った。旅である。オート・リクシャー、これにも初めて乗るが、つまりもうここは広義にはインドなのだと実感した。地域や文化としてはインド、それが宗教の違いで、ヒンドゥー教であればインド、イスラムであればパキスタンとバングラデシュ・・・ヒンディー語とウルドゥー語も、表記する文字が異なるだけで殆ど同じ言葉なのだ。そうか、私はインドへ来たのか・・・計画しておいてよく認識していなかった。バイト先の休みで、インドまで来てしまったのか・・・

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2017年05月22日

20170522 Gilgit

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 バンの運転手の言った通り、14時にはGilgitへ到着した。NATCOのバスに乗ると言うと、これまた親切に追加料金なしで送ってくれて、もうほんまに、交通関係の人たちには世界中どこへいってもお世話になります。

 NATCOの事務所では、全くなんの問題もなく切符が買えて、運行状況に問題のないことも教えられた。だいたい20時間足らずでRawal-Pindiには到着するであろうとのこと。バスは7時と10時の2便あったが、心配しすぎることはなさそうなので、10時の方を予約。1,500PKR。「ただし外国人はパスポートのコピーを10枚用意しといてくれ」と言われたので辺りを見回すと、近所にいた奴らが口々に通りの向こう側を指差して、あっちにある、行けばわかると教えてくれた。フレンドリーだな・・・道中に都合10箇所程度チェック・ポイントがあるということだ。夢の国から出て、再び緊張感あふれる現実の旅に戻るわけだ。

 で、そこから市内中心部に戻って、今日の宿Gilgit Hunza Innを探してチェック・イン。まあ事前の調査よりも汚いが、1,000PKRなのでよしとしよう。屋上にも上がれて、そこからは今過ぎ去ってきたカラコルムの山々が遠望できたし、あたりは下町で、ちょっとした買い物ならすぐに済ませられるし、いざとなれば空港にも近いから良い宿だと思います。とはいえ、まだまだここはパキスタン山岳地帯、Gilgit-Baltistanの中心部なのだ。中央平原まで降りるには、さらに一日の陸路行程を要する。

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 https://www.facebook.com/HunzaInn/

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 一服した後、夕刻までの数時間、Gilgitの街を散策することにした。Passuからヒッチした車の同乗者が言っていたように、ここは確かに世界が違う。まず女性の姿を見ない。男性はほとんどがあごひげを濃く蓄え、民族服であるシャルワール・カミースを着て、フンザ・スタイルとは異なる大きくていかついパコール (アフガン帽) に、チェックのシュマグ (スカーフ) を纏っている。銃を持たせたら、そのままテレビに現れるイスラム戦士だ。街の喧騒も凄まじい。車もバイクも常にクラクションを鳴らし続け、互いに鼻先を突っ込みあって譲ることを知らない。歩行者は敏捷でなければ道を渡ることもできない。重苦しくも活気ある、イスラム世界の空気だ。風景は、山に挟まれた狭い土地にへばりつくように街が広がる姿で、より下流へ来たという実感以外、本質的には変わりない。夕暮れまで散策した後、安飯屋でチキン・カレーを食って宿に戻って寝た。

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20170522 Karimabad (Hunza)

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・・・で、その最果てから例の美しい小道を、Zero Pointまで戻る。やはりこの道が最も良い。

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20170522 Karimabad (Hunza)

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 Zero Pointから土産物など買い集めながらホテルに向かう。印象に残った買い物は、この街で手作業で実用的なシャツを作っている仕立て屋の男に出会ったことだ。たまたま土産物のスカーフを選んでいるところへ店の用事で現れて、私が彼の来ているシャツを褒めた。カミースほど丈が長くなく、貫頭衣のように質素でありながら適度にオシャレだった。すると彼は「これは自分の作品だ。もしよかったら店に来てくれ、すぐそこだ。」土産物屋の主人も、それはいいとうなずくのでついて行ってみた。そこは通りからちょっと奥まった手狭な作業場で、彼はそこらを手早く片付けると、目で私のサイズを見極めると、棚から何枚か同じ柄のシャツを出して来た。適当に肩を合わせて、「これを着てみろ」というので着てみたら、見事に寸法が合っていて、腕の太さといい肩の収まりといい、実に快適なのだ。二つ返事の言い値で買ったが1,000PKRだった。いやあ彼の人柄といい、良い買い物をしました。

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 そんなこんなで楽しく時は過ぎて、部屋に戻るとバルコニーからの眺めに一服して、そこらで適当に買い集めたもので軽くランチにして、荷造りとチェック・アウトを済ませる。Passuを発った時ほどの感慨はないが、これでもうすぐ旅の終わりだということをしみじみと実感する。

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 さて出発である。荷物を背負って、足掛け三日色々と楽しませてくれた店の人たちの写真など取らせてもらってお別れをしつつ、ちょうどスズキが一台降りてきたので捕まえてAriabadまで降りる。Gilgitまで行くというと、バス・ターミナルまで送ってくれた。バスといってもワンボックスのバンを改装したもので、190PKR、2時間ほどのドライブである。

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20170522 Karimabad (Hunza)

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 今日はKarimabad最終日である。宿泊したホテルは観光客の多いメイン・ストリートからBaltit Fortへ少し入ったところにあり、いわば「聖域」に属しているためか、とても静かな佇まいである。街の夜は結構早いが、ここは静かに向かいのピザ屋がナイト営業するので、それも珍しい光景ではある。ホテルは斜面に凭れるように建ち、背面には村が広がっていて、裏道伝いにBaltit Fortの前庭に出ることができるのも良い。また、Zero Pointから遠く離れているので、観光地の喧騒を経ずに高みに到達できる。そこで早朝散歩に、Baltit Fortからさらに南側の斜面へ行ってみることにした。これは、昨日散策した美しい小道と緩やかに並行する。観光区域を外れると、急に生活感が現れるのは世界中どこも同じで、ごくごく普通の雑貨屋や食料品店、肉屋、八百屋がまばらにあって、山の最果て感が抜群の景観を楽しむことができた。

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