2021年01月21日

20210121 雨の前に

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物事は、計画している時が一番楽しい。中学生の頃やったように、3:4:5で直角を出す。
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紙の上でコンパスを回すのではなく、荒地の上で巻尺を回す。見慣れてくると、目測で平行や直角を出せるようになる。明日からは、しばらく雨。
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2021年01月14日

20210114 見切り発車

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 年が明けて、昨年末の問題を冷静に解決する方法を模索しはじめたところ、解決の光明が見えてきた。最も深刻な問題は、私が農家資格を失ったことである。しかも、それが役所内での連絡のタイミングによって起こったこと、それを出先機関が認めないことである。私に非はない。資格を剥奪されるようなことはしていない。出先機関の「指導員」を名乗る職員は、地元の農家からの嘱託であって、試験に合格した公務員ではない。関係法規を熟知しているわけではなく、ほぼ慣例に沿って仕事をしているので、特殊な事例の場合は指導内容が正確でない可能性がある。その指導を鵜呑みにすると今回のように資格を失うという事態にもなりうるが、かといって指導を無視すると法律を厳密に適用して抑制的な対応を取られることになる。

 抑制的な対応とは何か。例えば農地法には農地利用についてほぼ具体的に規制内容が書かれているが、曖昧な点も残されている。最も多く問題になるのは「肥培管理」と「周辺環境」に関するもので、これは本来、耕作放棄したり放任したりして田畑を荒らしたり、畦や土手などの境界部分を手入れせずに周囲に悪影響を及ぼすことを防止するためにある。しかし、これを厳密に適用すれば、肥料や農薬を使って作物に管理が集中できているか、隣接する作物と交配して異常な品種が生まれないかを厳密に問うことになる。つまり、自然農や在来品種の栽培を合法的に規制できる仕組みになっている。文言を厳密に解釈すればするほど、農作の自由度は失なわれる。その匙加減は担当者が決めるのである。もちろん私は13年間撃たれ続けたので、それを回避する方法も熟知しているし書面として持っている。私のやり方で実際に外部に影響を与えたことがないのは、JAの地元技術チームも農業委員会事務局も把握しているところである。しかし出先機関の指導員が一定の判断を下した場合、本庁からそれを覆すことは難しい。このようなことがあるので、農家は農業指導員に頭が上がらない状態になっている。できるなら触らずに済ませたほうが良い。

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 今回の光明は、思わぬところからもたらされた。農業委員会とは全く異なる部局、建築住宅局建築指導部安全対策課であった。昨年末、私は建築確認書を閲覧するために、その隣の建築安全課を訪れていたのだが、購入しようとしていた中古住宅の敷地の前面道路が、「建築基準法上の道路」に該当するかどうかを調べていた。その結果、書面の間違いを偶然発見してしまったのである。建築計画概要書に記載されていた道路規格では、その道路は建築基準法を満たしているとされていたが、神戸市のデータ・ベースによると満たされていなかったのである。この食い違いがどのような結果になるか、つまり私が購入して代金を支払っても、開発許可その他の関係で私が住居として使えないのではないか (その時点では、別の部署で開発許可が必要と言われていたので) 、それを危惧したのである。結果的には、農家が農家住宅を買う場合は開発許可が必要なく、道路の規格は関係ないことが分かったのだが、書面の記載が実際と異なるという問題は持ち越された。私は購入予定の土地について正確に知っておきたかったので、その調査を依頼した。その返事が、年を越えて先日、安全対策課からもたらされたのである。

 その返事は、開発許可の是非については、書面ではなく実態を基準に判断するので、この物件を開発する場合、土地に接する道路を拡幅舗装して、市が建築基準法上の道路として認めなければならない。それをやろうとすると、かなりの距離、しかも隣接する農家の庭と田んぼを削っでまで道路を作らなければならなくなり、ほとんど現実的ではないということだった。つまり、家を持っていない農家が住宅として購入する以外に取引の現実味はないという。

 「それはそうとして、この空き家をお買いになるのですか」と担当者が訊くので、私は事情を説明し、現在農家資格が切れた状態になっていて買うことができないと答えると、「つまり農業委員会の連絡の行き違いで、農地を借りることも、空き家を買うこともできなくなっているというわけですね」・・・部局が違うのに妙なことを訊くなと思っていると、要するに安全対策課では空き家対策も業務としていて、ほとんど農村が対象であることから、農村全体の問題について部局を越えて連携する動きがあるというのである。

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 その結果、驚くべきことが起こった。建築住宅局建築指導部安全対策課のこの若い担当者は、部局を越えて農業委員会事務局の同僚に事情を説明し、同僚は出先機関の同僚を通じて私が嘘を言っているわけではないことを確認し、単なる事務手続きの行き違いを訂正して私の農地利用権設定書類を受け付けるべく、当局が待機するように取り計らってくれたのである。そんなことができるのか、半信半疑ながら私は返送されていた書類を、出先機関ではなく、本庁のその同僚宛に郵送した。書類に不備はなかったので、正式に受理して手続きに入ったことが、さきほど電話で知らされた。「空き家を一つでも減らし、遊休農地を再生させ、獣害対策に寄与する人の意思を阻むなんて、行政のやることじゃありません・・・」神戸市もまだまだ捨てたもんじゃない。これで「三つの事情」の二つが解決され、残すは「村の厄介者」が家を持たないこの哀れな百姓に交渉権を戻してくれることだけになった。とりあえずこれで13年の空白を作らずに済んだ。

 ・・・しかし・・・もし仮に、例の「村の厄介者」があの空き家を買うことに固執し、家主がトラブルを恐れて彼に家を売ってしまったら、そして今の家主が私に立退を要求したら、私はあの農地を耕作するために遠方から通わなければならなくなるかもしれない。その場合、「適切な距離」を継続の条件としている利用権設定が更新されなくなり、結局元の木阿弥になる。集落の1/3近くが空き家で、耕作放棄地は増える一方なのに、売らない、貸さない、使わせないという村民の意識が変わらない限り、志を折られて去っていく移住者はあとを絶たないだろう。その一方で移住促進事業は進められている。しかもその主要メンバーに、その「厄介者」の甥すなわち空き家の直接の購入者が含まれているのである。彼ないし彼の家は、あの家を買ったところで放置するしかない。関係法規を熟知していないため、自らが移住促進事業の妨げになっていることにすら気付いていないのである。まずは客観的事実を正しく理解すること、その謙虚な気持ちがなければ、どのような事業も成立すまい。・・・考えていても仕方がないので、とにかく畑の草を撤去しはじめる。

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 広い畑に鍬を入れるとき、あまりに広いと気持ちが負けてしまうので、小さく区切って目に見えるようにロープでも張ってやるのが良い。この圃場の上面の平らな部分全体の広さは約1,400平米、怒手際と山際にある程度干渉帯を設けるとして精々一反の広さであるから、朝夕2時間ずつ作業したとして、全体を耕し終えるのに一週間、真ん中は猪がだいぶやってくれてるんでちょっと楽、際は太゛いススキの根がいっぱいあるんでこれを撤去するのが苦、疲れその他を考慮に入れて今月中には形にできるかな・・・


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2021年01月04日

20210104 新年明けまして・・・

 2021年は、これまで13年かけて上り詰めてきた山道を踏み外して谷底に転落し、両手両足が折れたも同然でのスタートとなった。クソったれめ。昨年末に連鎖的に起こった事実を整理すると概ね次のようになる。どうか、これから百姓を目指して農村に住もうと考えている皆様、どうか、私と同じ轍を踏まれることのないよう、十分な上にも十分に注意して、周囲の安全を確認の上にも確認を怠らず、一挙手一投足、細心の慎重さをもって望んでもらいたい。私はすでに農家ではない。従って新たな農地を借りることもできず、母と妹を呼び寄せて三人で暮らすという計画も絶望的となった。私が農業者に戻るには新規就農研修から始めなければならず、それにはおよそ三年の年月がかかり、所定の複雑な手続きと、恣意的に運用される審査に合格しなければならない。そもそも研修機関が私のような老人を受け入れる可能性は低い。なぜなら研修機関といっても指定された農場であって、都合の良い労働力としてタダ働きさせられることになるからだ。研修機関は遠く、夕方からのバイトなんてとても無理だ。生活が成り立たない。こんなことになったのは大体次の三つの事情が複雑に絡み合った結果である。


 ひとつめの事情。昨年の9月に、借りていた農地が乗っ取られたあと、本来は賃借権の確認を求めて地主と争うべきところを、それを取り戻してもまたトラブルが続くことに嫌気が差し、農業委員会の出先機関に相談した結果、身を退いて合意解約の手続きを取ることにした。同時に、前から付き合いのあった別の農家の農地を借りる合意を取り付け、そちらに借り換える手続きを取ることで、農家資格を継続させようと考えた。11月に、従来の農地を解約する書類と、新たな農地を契約する書類を持って、地元の農業委員会の出先機関を尋ねた。応対した指導員に事情を説明し、農地契約が連続するようにと念を押した上で、二つの手続きを同時に依頼した。なぜなら農地契約に空白期間が生じると、私は農家資格を失うからである。しかし指導員は、おそらく話を聞いていなかった。解約手続きの書類を本庁に送り、その返事を待ってから、新たな農地契約の手続きに入ったからである。その結果、解約書類を本庁が受理した段階で私の農家資格は喪失し、本庁はその後に届いた新たな農地契約を、資格なしとして却下した。農地解約の確認書は一週間ほどで私の元に送られてきたが、その時点で私は農家資格が失われているとは思わなかった。合意文には12月末で明け渡すと明記してあったからである。農地契約に関する書類が来たのは12月の中頃のことであった。迂闊なことに、私は三人で暮らす家を買う手続きを知るのに忙殺されていて、その中身をよく確かめなかった。しかしそれは、この農地契約は無効であるとして返送されてきたものだったのである。それに気がついたのは、家の件で市役所を回ることにした12/25だった。農家物件を購入するために農業者資格証明書を得ようとして、その申請をしたときに係員から告げられたのである。私は直ちに不服を申し立てたが、本庁でも出先機関でも決定を覆すことはできなかった。出先機関では「言った」「言わない」の応酬となって、指導員は頑として自分の非を認めなかった。周囲の職員も事情を知っているはずだが、誰も呼びかけに応じなかった。


 ふたつめの事情、母と妹を呼び寄せて三人で暮らす計画実現のため、市街化調整区域にある中古住宅を私が賃借したり買い取ったりできるかどうか、できるのであれば具体的な手続きの詳細について、11月後半から調べにかかった。その複雑なことはプロの不動産業者でさえ手を出さないほどのもので、これを一般人が正しく理解することは非常に難しい。いくつもの法律が絡み合っており、それぞれに優先順位がある。それらを管轄する役所の部署も多岐に渡り、机上やインターネット上の調査では限界がある。自分で出来ることを調べ尽くした上で、建築確認書や不動産登記簿の原本を閲覧するために役所回りをしたのが12/25であった。現在市役所は建て替え工事中で、関係部署はバラバラに市中の雑居ビルに散らばっている。事実を確認するだけでも難航に難航を重ねた。各部署の相矛盾する見解を糺し、市街化調整区域内に立つ未登記の農家住宅であっても、登記された土地の接道している道路が建築基準法上の「道路」要件を満たしていなくても、農業者が営農するために居住することが証明できれば、開発許可も必要なく、賃借や購入することになんの問題もないことが分かったので、希望に満ちた気分で、最後に農業委員会の事務局を訪れた。先に述べた、農業者資格証明書の申請をするためである。その場で、私は11月に農家資格を喪失していることを知らされて愕然となった。持参してきた新たな農地契約書を開いてみせた。そこに「不受理返却」という旨のメモが添えられていたのを発見して呆然となった。直ちに不服を申し立てたが相手にされなかった。全ては自分で手続きしたこと、確かに書面ではそのようになっている。反論の余地なし。そのまま年末休暇に入って時間切れである。


 三つめの事情、件の中古住宅の家主との交渉はとんとん拍子に進んだ。11月末にそれまで荷物を置いていた人が全ての荷物を片付けたので、私は建物に入ることを許された。屋根裏から床下まで調査し、プロの業者にも見積もりを頼んだ。建物は、少しシロアリの被害があるだけで、大きな補修工事の必要もなく十分使用に耐えるしっかりしたものだった。費用の概算が出たので、12/23に直接家主と会って具体的な詳細を話し合うことにした。近隣の住人達も歓迎してくれていた。空家対策になるし、遊休農地は解消されるし、独居老人ばかりなので安心にもつながるし、地域の活性化にもなる。これまで村に存在しなかったタイプの家族が生まれるのだ。ところがその直前になって、隣家の娘から「待った」がかかった。この娘の嫁ぎ先は、あろうことか、私が13年前にここへ移住してきた後、三年の研修を経て新規就農の手続きをしようとしたときに、それを徹底的に妨害した元農会長の親戚である。もちろんそんなことを私が知る由もない。その家は、昔は功なり名を遂げた家柄であるが、今では過去の栄光を笠に着る厄介者になり果てていた。様相は一変した。一人として近所に住んでいる者がないにも関わらず、少なくとも5つの「親類」が現れて私の移住に反対しはじめた。そもそも、なぜ隣家の娘が我々の取引を止めるのか、さっぱりわけがわからなかったが、家主はその意向を無視できなくなった。交渉は彼らに優先権が与えられた。12/26のことである。私は理解に苦しんだ。あの住宅を使う予定のない者が購入したところでどうなるものでもない。農家は農家住宅を複数持つことができないので、あそこを購入できるのは、家を持っていない農業者だけである。厳しい立地条件から、壊して更地にしたところで開発許可も降りない。つまり、放置するしかないのだ。その後、噂を聞いた村人達の話から、その元農会長が、自分に断りもなく村の土地を買うとはけしからんと言っていることがわかった。家のない者に家を世話してやったというのであれば、さすが立派な人だ立派な家柄だと称えられるであろう。しかし、纏まりつつあった商談を横取りしてしまうとは、全くいただけない話だ。しかし村の有力者の決定である。誰も手が出せない。家主も動けない。交渉は先送りされたまま年を越した。やっぱりこの村はクソなのか・・・


 この三つの出来事が、もし仮に巧妙に仕組まれた罠だったとしたら、実に見事なお手並みという他はない。私には、もはや打つ手がない。今の家主と対立している以上、立退を要求されれば農家資格のない私は退去するしかない。ここは市街化調整区域の農用地内である。法的に対抗できないのだ。なんということだ。私は百姓でありたい。たったそれだけのことが、なぜこうなるのであろうか。13年もゴタゴタばかり続くのはなぜか。私が悪いのか。この村はやっぱりクソまみれなのか。他の新規就農者は、なぜあんなに幸せそうにしているのだろうか。どうすれば、次の一歩を踏み出すことができるだろうか。突然のことで気持ちの整理がつかず、まだ解決の糸口が見出だせない。

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2021年01月03日

20210102 13年前に転落複雑骨折

 2021年は、これまで13年かけて上り詰めてきた山道を踏み外して谷底に転落し、両手両足が折れた状態でのスタートとなった。くそったれめ。この年末までに理解した私の現状をまとめると次のようになる。どうか、これから百姓を目指して農村に住もうと考えている皆様、どうか、私と同じ轍を踏まれることのないよう、十分な上にも十分に注意して、周囲の安全を確認の上にも確認を怠らず、一挙手一投足、細心の慎重さをもって望んでもらいたい。

 私はすでに農家ではない。農家資格は去年の11月にすでに喪失していた。従って、新しく借りる予定にしていた農地を借りる資格もない。そのために申請してあったすべての書類は返却された。農地を借りている実態がないので、農業者証明書を取得することができず、家族三人で住む予定にしていた空き家を買ったり借りたりする資格も無くなった。従ってそのために手配してあった全ての工事予定をキャンセルせざるを得なかったばかりか、売主にも突然の反故を申し入れることになった。現在借りている部屋も、立退要求があれば、農家資格のない私は法的に対抗できないので、村を去ることになる。これがもし、意図あって仕組まれた罠だったとしたら、全く見事なお手並みというほかはない。結論から言って、私はおとなしく百姓を諦めて村を出るしかない。

 直接的な原因は、地域の農業指導員が、手続きの説明を誤ったためだと私は理解している。つまり、昨年借りていた農地は9月に乗っ取られたので、解決策として地主に合意解約を申し出、11月にその合意ができたので申請し、12月に農地を明け渡す。同時に別の農地を借りる打診を9月から始め、これも11月には合意し、整地を含めた工事を12月から始める予定であった。そこで、農地を解約する書類と、別の農地を契約する書類と、聖地見積書や計画書を同時に提出して、私の農地契約に断絶が起きないように念を押した上で、手続きの実際について指導を仰いだのである。しかし、指導員は、おそらく話を聞いていなかった。解約手続きの書類を本庁に送り、その返事を待ってから、新たな農地契約の手続きに入ったのである。その結果、解約書類を本庁が受理した段階で私の農家資格は喪失し、その後に届いた新たな農地契約を、資格なしとして却下した。それを私が受け取ったのは12月の半ばであった。直ちに抗議したが全く聞く耳を持たなかった。「言った」「言わない」の水掛け論が続き、事態を解決に導こうとする空気が全くなかった。指導員は態度を硬化させ、自分は間違っていないと主張した。周りは萎縮して、誰も関わろうとはしなかった。この出先機関からでは、本庁の手続きを撤回させる方法はなかった。

 農地を乗っ取られた理由は、私の農作と地主の農作とが相いれぬものだったからである。私は地主に農地を借りている。正当な手続きを経て合法的に借りているのではあるが、地主にしてみれば勝手放題やって農地を荒らしているに過ぎない。きっかけは隣家が、農地をJAから村の篤農家に貸し変えしたことである。それによって水の流れが変わり、地主の畑が水浸しになり、そこを借りていた人が換地を願い出たので別の人が借りていた農地へ、その人をまた別の人が借りている農地へとたらい回しが行われ、気がついたら私の農地が潰されてしまっていたのである。本来、私は不服を申し立てるべきであったが、これまでの地主のやり方を見ていると、現状回復しても元の木阿弥、ここは争わずに身を退いた方が得策と思ったのがいけなかった。合意解約の手続きで危ない橋を渡ることになろうとは、しかも叩いて渡ったはずの橋を踏み外すことになるとは、全く予想だにしなかった。

 その当時、私は母と妹と三人で暮らすための家をようやく探し当て、その家主との交渉も上首尾に進み、あとは細かい条件について詰めるだけになっていた。農地契約の却下という、全く予期しない出来事の事実確認に数日を取られ、とりあえず手配済みになっていた農地の整地予定をキャンセルし、地主に事情を説明し、新しい家を借りたり買ったりできるかどうかの確認作業に入った。市街化調整区域の農業振興地域で、農家資格のない人間が中古住宅を購入できる可能性は、ほぼゼロに等しかった。問題が複雑すぎて、自治体の窓口も複数に及び、関係する法律も多岐にわたる。それぞれがどの部署で管轄しているのかを調べるだけでも時間がかかり、それぞれの結果の矛盾を解くのに、何度も本庁まで往復した。しかも、現在市役所は手替え工事中で、関係部署はバラバラに市中の雑居ビルに散らばっている。事実を確認するだけでも難航に難航を重ねた。同時に農家資格の確認についても交渉したが、結果は、打つ手なし。そのまま年末休暇に入って時間切れである。

 これら全てのことを準備し、理解し、諦めるまでに長い時間と多くの費用がかかったが、それらが全て水泡に帰したばかりか、私自身が13年前の木阿弥に突き落とされることになった。しかも13年前と今とでは新規就農政策が違うので、その研修すら難しい。つまり、現在では就農研修を受けられる機関は指定されていて、一般の農家では認められていない。しかし指定研修機関は、研修生を人件費のかからない労働力と看做しているから、私のような高齢者を受け入れたがらない。受け入れられたとしても、神戸市の東の端に住む私は、西の端の農場へ行くか、兵庫県北部まで毎日通わなければならなくなるので、夕方からのアルバイトで生計を立てることすら困難になる。もはや万策尽き、いくら望んでも農家になれない可能性が非常に高くなってしまった。これら全ては、私には全く知らされず、突如として連鎖的に起こった。自分が足を踏み外して谷底に転落していることにすら全く気が付かなかった。調べ尽くしてようやく分かったことだ。悪夢を見ているとしか思えない。

 と同時に、この家に関して、さらに新たな横槍が入って問題を複雑にした。家主を含め、近隣の人たちからは歓迎されていた。隣接する有休農地を借りて畑にすることによって近隣の人たちの憩いの場とする計画まで持ち上がっていたくらいだ。家も放置されていた割には傷みは少なく、簡単な補修で十分活かせる状態だった。しかし、家主と直接会って具体的なことを決めようという前々日になって、隣家の娘からクレームが入ったのである。この娘は、何という巡り合わせか、私の農家登録を最後まで妨害した農会長の親戚に嫁いでいた。この家は、昔は功なり名を遂げて、この村の成立に貢献し歴代村長を務め、さらにこの地方を走る鉄道の創業者まで出した家柄である。しかし、今の代になっては、その過去の栄光を笠に着て方々へ口出しし、新しい動きを潰して回る厄介者になり果てていた。よりによって、この家が私たちの計画をつぶしに来たのである。

 間接的な原因は、そもそも13年前にこの村へ移住してきた時まで遡る。村の人間でない家主は村の排他的なことに配慮して、私を空き家住み込みの管理人として雇ったことにした。従って、住民票は移したものの、自治会には家主の代理として顔を出し、独立した世帯としては加入しなかった。しかしこれがかえって逆効果となった。村人としても私をどう扱って良いか戸惑ったであろう。すぐに排斥されはしなかったが、存在を認められもしなかった。結局この中途半端さが長く尾を引くことになる。

 2007年に移住してすぐに家主の田圃を借りて百姓の真似事を始めたが、敢行農法から有機農法へ家主の関心が移り変わる時期で、私もそれに倣うことになった。しかし私はそれだけでは飽き足らず、結果的に自然農へ近づくことになり、三年後には、ほぼ自分なりのやり方を掴んでいた。2010年、ここに骨を埋める覚悟ができたので、最後の旅行にと思って4ヶ月かけて世界一周をした。春に帰国してから、昼は百姓仕事、夜は近所のスーパーでバイト、という生活パターンが確立し、今もそれは続いている。

 その頃までは、農家から田圃を借りて百姓仕事をするのに、公的な機関の許可が必要とは思ってもみなかった。地主との合意で十分だと思っていた。しかし、それはとんでもない間違いで、懲役三年、罰金300万円の科料のついた立派な違反行為である。村には、少しでも従来と異なるものを見つけると、ほじくり返して叩き潰したがる人間が必ずいる。私の農作は、周囲はおろか、地主のやり方とも全く違ったものになっていた。しかも、自治会に加入してもいない者が農地を使っているのだ。それを通報され、農業委員が来て行政指導されることになった。そのとき初めて、農作をするには市の許可がいることを知った。しかし、それにまつわる法律は、道路交通法のように、誰がどこからみても分かりやすくは体系化されていない。法律の条文は難解で、解説や指導なしに理解し手続きすることは難しい。しかし、行政機関としての農業委員会はともかく、各村の出先の委員は地元の農家であるので学識があるとは限らず、「和」の精神をもって物事に対処するのが常である。しかも許認可権は事実上彼らに委託されている。こういう態度に対して、私は本能的に「理」をもって対抗しようとする。今から思えば、これが全くいけなかった。

 農地にまつわる法律、というか、農家ではない者が農家になるための法律は複雑怪奇を極めている。生まれも育ちも農家であれば、それらは全て「家」に備わっているので、何も意識することがない。しかし、農家でない者が農家になろうとすると、タマゴとニワトリの堂々巡りを前に立ち往生する。農家でなければ農地の利用は許されない。農地を利用している者が農家資格を有する。農家でなければ農家住宅を借りたり買ったりできない。農家住宅を借りたり買ったりするには農地を利用している証拠が必要である。しかし農地を利用するには農家である必要がある・・・つまり農家でない者には入口がないのである。農家になりたければ、橋の下にでも三年野宿して研修機関に通い、それを終了して農地の斡旋を受けてこれを借り、営農計画書・農地を貸す書類・借りる書類・自治会がこれを認める書類・農会が認める書類、という5通の書類を揃えて農業委員会に提出し、これが受理されれば一年の経過観察を経て、問題なければ新規就農者の資格が得られる。この艱難辛苦に耐えて、ようやく農村に住む処を得る資格ができる。これで村の最底辺に引っ掛かることができる。

 しかし、そのような仕組みになっているということは、逐一尋ねなければ教えてくれない。5通の書類のうち、一つでも欠ければ全て無効である。このカラクリを知るのに三年、私の場合、2007年に移住してからの期間を研修として認めてもらえたので、書類の入手までは出来たものの、当時の農会長が、その任期中の押印を頑なに拒んだたために、さらに三年を空費し、正式に農家登録が成し遂げられたのは2017年、移住してきてから実に10年後のことであった。よりによって、隣家の娘がこの家に嫁いでいたのである。そして私たちを取引から排除したのである。

 要するに、この村は余所者を嫌うのである。挨拶もせずに勝手に住み着いた者、勝手に農地を使い始めた者、周囲の農作とは異なるやり方をする者、ある者をみんなでいじめようとするときに同調しない者、全会一致とするべきなのに異論を唱える者、持論を通して老人を怒らせ死に至らしめた者、過激派、共産主義者、チヨーセン人、人殺し・・・とにかく存在が許せない。それが今回、村の空き家を買って家族と住もうとしている。村の遊休地を借りて農作を広げ、いっぱしの百姓ヅラしようとしている。これはなんとしても阻止しなければならない。この年末に連鎖的に発生したことが、もし意図あって仕組まれたものだったとしたら、私はまんまとその罠に落ちてしまったことになる。全くお見事というしかなく、敵ながらあっぱれ至極。現状では、二重にも三重にも縛られて、身動きすらできない。公正であるべき行政機関が、かくも恣意的に動かされるとは、こんなことが通ってしまうとは、農村というものは、本当に恐ろしいところである。それでもあなたは、田舎暮らしを望みますか ??

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