2020年02月22日

20200222 岩田健太郎の怒り

https://note.com/sheemer/n/n0e89fc0bd0d5?fbclid=IwAR2BT5QNubwQvXcgv5DNPfhBan6LJANLqPGRVr75VJZ-dlZ5PE-CReGrR64

 私はこのように思う。岩田先生がおっしゃっていることの眼目は、「そもそも、感染症に罹患していないことが確実な人あるいは場所と、そうでない人あるいは場所を厳密に区別すること、これは最初にやらなければならないことだ」という一点であって、議論の中心はそこに置かれるべきである。彼自身が感染の恐怖を感じたとか、自分自身を隔離したとか、彼がリーダーシップを取ろうとして周りを混乱させたとか、正義を振りかざしたとか、しゃしゃり出たとか、ましてや、この感染症が中国から来たとか、船会社がどこだとか、責任の所在の議論など、心の底から怒りを覚えるほどつまらん、馬鹿馬鹿しい話だと思う。

 今はそれを言ってる場合ではないから、彼は過激な言葉を使わざるを得ず、専門家としての怒りがあったからこそ、あらゆる手段を講じたのだ。多くの人の命がかかっているし、これから危機が拡大することは明らかだからだ。クリアである要素とそうでない要素を分ける。それを積み重ねていく以外に方法はない。そこができていなかったことは、あらゆる情報が示している通り、事実であった。だから、それを認めて改善する方向に向かうのが合理的であり、科学的であり、民主的な判断であるはずだ。しかし今もって検査をすり抜けて行った人が報告されていて、しかも政府関係者や医療関係者に多く、彼らには検査をしないという政府の方針は、その気がないことを示している。もっとはっきりいうと政治家、政治権力者を検査できないということは、つまり、科学的判断が政治的に曲げられているということである。

 人は社会を作って社会的存在として生きざるを得ず、しかも自分の属する社会を選べないことが多いので、その中にいくつもの価値観が共存する。このことは社会の多様性を担保し寛容を促すもので、これによって人は生きられるのだ思う。日本人の場合、「和の精神」によって共存をはかることが「慣例」となっている。私もこれを日本人の美徳の一つだとは思うが、それはあくまで平時のことで、美徳であるはずのこの精神が非常時にひどい悪徳になることは、おそらく多くの日本人が体験したり見聞していると思う。既存の仕組みを踏襲し前例を重んじる。その結果、状況をよく理解できないまま、混沌の中で大きな声のする方へ流される。多くの人が、自分たちが合理的な判断から遠ざかりつつあることを感じるが、律儀な日本人は自分の職務を優先し、流れの中で声を上げることができない。時間はすぐに経つ。合理的な判断はどんどんなし崩しにされる。もはや流れを変えることはできず、そこに新たな権力構造が生まれる。そこへ合理的な判断を持った人が声をあげても、排除されるだけである。岩田先生に対して李文亮先生と同じ扱いをしてほしくない。

 日本政府は教訓から学んでいない。中国は確かに民主的な国ではないし、政府を批判する言動をとると消される恐れがある。多くの日本人、いや世界中の人は、そんな中国を上から目線で見ている。しかし病院を10日の突貫工事で築いた。工事環境は劣悪だっただろうし、土地の接収その他、民主主義国家では実現できなかったことに違いない。しかしそれでもやったのは、何より「隔離」を優先したからである。初動に躓いたことは事実だが、軌道修正は早かった。中国の偉大なところは、非常時に既存の仕組みや前例にとらわれず、思い切った改革をやってのけることだ。もちろん極端に善悪に大きく振れるが、そのダイナミクスがすごい。そして中国人民も偉大だ。非常時に社会を安定させようとする互いの意識の持ち方がすごい。この力は、中国の社会を次の段階に進めることになるだろう。理不尽や問題、矛盾の規模は日本に比べて二桁くらい違うと思うが、それでも全体として世界を変えていく力が、この苦難の中からも迸るのを感じる。そんな彼らが日本の現状を見て「一ヶ月前の武漢のようだ」という言葉は重い。彼らは心から日本の現状を案じている。この一ヶ月、我々は彼らから学ぶ機会があったはずだ。まこと日本が中国より優れているというなら、初動から隔離に専念できたはずだ。多分、世界の目が横浜に注がれているという事態にさえ、あまり緊迫感を持って捉えられていないように見える。

 社会は、多かれ少なかれ理不尽なものである。その理不尽は、どのくらいまでなら許容されるべきなのであろうか ?? クリアであるものとそうでないものを明確に分けることなど、感染症の専門家の助言を待つまでもなく、社会人としての仕事の初歩の初歩であるはずだ。しかし保安検査で刃物はすり抜ける、ゴーンもすり抜ける、当然明白な合理的判断は、常に別方向から来る謂れなき圧力に曲げられるのである。誰しも毎日のようにそれを経験しているだろう。そして屈服を積み重ねているうちに企業はブラック化し、環境破壊は進み、地球は温暖化する。感染症の多発も含め、これらは全て連動しているとしか思われない。人類はあまりにも無力で、今まで考えられていたほど聡明ではないのかもしれない。自分たちの巣も守れないのであれば・・・


20200219 新型コロナウィルス クルーズ船からの下船開始、

20200220 クルーズ船乗客の男女死亡

20200222 クルーズ船から陰性で下船後の乗客陽性確認

(2020.04.20追記)


だいたいこの頃までは、COVID19を自分たちの問題とは思っていなかった。どれだけ心配しようとも、それは中国での問題という認識だった。しかし、だいたいこの頃を境に、この問題が自分たちの問題として国内に入り、感染症の実態よりも、不安や恐怖の現象として諸説紛々となり、日本人は互いに互いを非難し合う泥沼に飲み込まれていった。(20200504追記)

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2020年01月30日

20200130 武汉挺住

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武漢 (武汉, Wuhan) といえば、ドラマーであればシンバルを思い浮かべる。銅鑼などの、真鍮を原材料とした体鳴楽器は中国が発祥の地であって、武漢は現在でもその中心的生産地である。銅鑼は古代より戦争で兵を集め、進軍する隊列を鼓舞するのに使われ、ユーラシア大陸を西に伝播した。音楽的には、中国でも古くから二枚合わせの铜钹 (シンバル) が使われ、ほぼ形を変えずにヨーロッパまで伝わった。その直接の生産元となった場所がトルコのイスタンブールであって、ここは現在でもシンバルの主要な生産地になっている。一方、武漢でも銅鑼やシンバルの生産は続いていて、原料の銅と錫の品質が良いことから、多くのドラマーや楽器メーカー、職人が、西洋風の「シンバル」の製造技術を伝授して製品化させたものが多くある。エッジが反り返った、いわゆる「チャイナ・シンバル」(ZildjianではSwishやPang) は従来から生産されていて、むしろPaisteなどはその形状を模倣したほどだが、中国からヨーロッパへ何世紀もかけて伝播する過程で変わっていった「音の好み」を中国で再現することと、一定の品質枠に収めることに最近になって成功し、トルコ製やカナダ製、スイス製やアメリカ製では到底考えられなかったほど安価で品質の良いシンバルが手に入るようになった。しかし日本人はブランド志向が強いので、こられのシンバルはほとんど売れない。写真の一番下になっているのは、その伝統的なチャイナ・シンバルで、まだK.M.K.が日本に輸入する前に苦労して入手したものである。その右に乗っているのは、たしかアメリカの有志が武漢の現地の職人に依頼してデザインしたジャズ志向の良質なシンバルである。日本にも輸入されたがほとんど売れず、先日処分するという連絡を受けたので格安で手に入れたものである。私は心の弱い人間である。良い道具を手に入れたからといって腕が上達するわけではないことは、もう数え切れないくらい経験して身に沁みているにもかかわらず、欲望に負けたのである。それにしてもこのシンバルは、粒立ち良く鋭いピング音と抜けるようなカップ音、低く荒くてオリエンタルなクラッシュ音のバランスが絶妙な一枚である。ハンド・ハンマーでしか出し得ない音の深みが素晴らしく、どうしてこれが売れなかったのか全く不思議なほどだ。これ以上を望むなら、おそらくはイタリアのMatt Bettisか、究極的にはSpizzinoか、どちらにしてもケタの違う世界になる。その左上に乗っかってるのは手持ち銅鑼で、中央をマレットで叩くと音の上がる「回音班鑼」である。厳かな曲のエンディングに打ち鳴らすと曲の情感を台無しにするので好んで使ったものである。ちなみに音の下がるものは「虎音鑼」という。右上に乗っかってるのは、10インチほどの合わせシンバルの铜钹である。これは合わせシンバルとして使うと、春節の獅子舞の時に打ち鳴らされるような、典型的な中国風のめでたい音がするのだが、一枚ずつ吊るしてマレットで叩くと、耳を疑うような深くて柔らかい音がする。まったく素晴らしい。このほかに22インチほどのウィンド・ゴングを持っているのだが、これなどは銅鑼としては勿論、ドラム・セットの右端に吊るしてライド専用として使うと絶品の鳴りである。いずれも、ハンド・ハンマーの仕上げが丁寧に施された、材質の柔らかい、鳴り音に広がりと幅のある、素晴らしい楽器である。その音質は、中国大陸的に雄大なばらつきがあって、中国伝統音楽は、それらを生かし続けたからこそ、その多様性が保たれたとみるべきである。これをこのままジャズに用いると大変な暴れ方をするので、そのばらつきを一定の範囲に収めようとする技術的努力が武漢の職人の間でも行われ、その多様なバック・ボーンから見事に現代風のシンバルを叩き出すことに成功している。このような雄大さ、多様性、歴史を持つ中国という土地を、私はこよなく愛する。武漢は、世界史の上においてもドラマーにとって重要な場所である。武漢を大切に思っている。どうか、武漢の伝統が失われることのないよう、職人の皆様も市民の皆様も含め、持ちこたえていただけるよう心からお祈り申し上げます。
武汉挺住
2020.01.29 新型コロナウィルス 武漢から日本へチャーター第一便帰国、この往路に支援物資積み込み、中国人民から感謝される一方、国内からは非難の声もあった。また、この便で帰国したうちの2人が検査を拒否し独自に帰途につくも、後日検査を願い出た。これについても大きな非難があった。中国全土で主要都市封鎖。
2020.01.31 新型コロナウィルスWHO緊急事態宣言、当時からWHOが中国寄りだとする意見があり、この宣言も遅すぎたという批判があった。
世界的に防疫体制が敷かれ、武漢市に対して各国民を帰還させるチャーター便が送られると共に中国以外の国では中国を経由しているクルーズ客船から下船できない乗客も現れた。SARS-CoVが流行した2003年時点よりもグローバル化が進み、SARS-CoV-2 (20200211命名)感染者に無症状の場合も多いという特徴もあって、防疫が難しく、SARS-CoV-2は急速に世界中に広まって行った。また、ネットとマスメディア双方が「コロナ」の話題で埋め尽くされ、不正確な情報が大量に飛び交う「インフォデミック」状態に陥った。困窮状態にある消費者心理に付け込んだ、生活必需品の高額転売なども起きた。(Wikipediaより)
(2020.04.20追記)
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2020年01月28日

20200128 宝塚マタギの道

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 正月によく散策するルートがある。これは私の実家 (すでに人手に渡った) の前の坂を見下ろしたものである。私の家は高台にあって、最寄りの駅から歩いて15分ほど急坂を登る。毎日この上がり下りをしなければ生活できないので、おかげで私の足腰は丈夫である。

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左を見上げれば、かつてはここに「うさぎ山」という小さな山があった。宝塚の平野部と西谷地区を隔てる「長尾連山」の最後の砦のようなものだ。昔は東の中山につながっていたはずだが、切り崩されて宅地造成された分譲住宅地に我が家はあった。1960年代前半、私が未だ子供の頃は、その斜面を伝って西へ行くと清荒神の参道に出られたもので、獣道に紛れ込んでは谷川に降りて沢蟹を捕まえたりして遊んだ。しかし「中国縦貫自動車道」が通るということになって、地元に説明会があった。その場所が知り合いの家で、そことは仲が良かったので、親に連れられた私も参加したことを覚えている。高速道路は、その丘陵の斜面の下をトンネルで貫通する。その取り付けのため、造成されたばかりの住宅地は、まるで胃がんの手術のように、不自然に斜め半分もぎ取られる形となり、地区の住民の半数近くが立ち退き対象になっていた。しかも、説明会の会場を提供した当の本人の家も立ち退き対象だったため、仲の良かった地区の住民たちはこぞって反対した。しかし、計画はすでに決定されており、巨大な力でそれはすぐそこまで押し寄せていた。場には投げやりな空気が漂った。説明しにきた役人たちは住民をなだめるしかなかった。ある人が排気ガスによる大気汚染を心配した。それに対する役人の答えを今でも覚えている。「なに車はすぐに走り去っていきますから・・・」私は幼友達の大半を失うことショックを受けていたが、そのときとっさに「でもまた走ってくるやん」と言ってしまった。役人がじろっとこっちを見た。親が私の太ももを叩いてたしなめた。「でも・・・走ってくるやん・・・」このやり取りは、私が大人に反抗した初めての経験として、よく覚えている。もちろんこの巨大公共事業が、一つの地区の反対で変更されることなどあり得ない。静かだった住宅地は連日のようにダンプ・カーが走り回る地獄と化した。そのなだらかな美しい丘陵は無残に切り崩された。しかし私にとって最も辛かったのは、仲の良かった友達のほとんどが立ち退いて、いなくなったことである。高速道路の開通と、山の住宅開発と、人口増加に対応した小学校の新設はセットになっていた。私はそれまで少し遠くて古い小学校に通っていたが、新しい学校ができたことで校区の分け方が変わった。

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私の家から右上を見上げると、そこに三棟続きの社宅がある。私の家は立ち退きを免れた代わりに、地区の分け方が変わって、その社宅と同じグループに編入されることになった。そのときから、私の幼少期の地獄が始まった。その地区には、当時まだ社宅以外に同じ小学校に通う子供のある家が少なく、私はその社宅の子供達と遊ぶようになった。しかし、きわめて残念なことに、一つの会社の社員の子供という、私にはどうすることもできない連帯感が、たった一人「遊んでもらいにくる」私を疎外する方向に働くのに時間はかからなかった。それまでの、誰彼となく山に集まって走り回っていた、刺激的な楽しい毎日は、ダンプ・カーに怯えながら、柵で囲まれた小さな公園での軟禁生活に取って代わられた。しかも、相手は多勢の「組」をなしていた。そのボスにあいさつし、ボスの言うことを聞き、ボスのために働くのが、そのグループの「掟」であり「遊び」だった。いじめはすぐにエスカレートした。私はもともと鼻っ柱゜の強い人間である。壮絶な喧嘩が始まったが、所詮多勢に無勢、群れに従うか、立ち去るかの選択を強いられた。無論私は立ち去ることを選んだ。しかし当時、教育熱の盛んな新設小学校は、異常なまでに管理が厳しかった。具体的には、子供達は放課後、自分の属する地区内で遊ばなければならなかったのである。地区を出ることは許されず、地区の境界線上の要所要所には、保護者のボランティアが「交通安全」の旗を持って監視に立っていた。私の放課後の毎日は、その監視の目をかいくぐって地区をいかに脱出するかのサバイバル・ゲームとなった。

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幸いにして、私の地区は校区の西北端にあったから、西北側へ脱出できれば自由の身になる。東と南は封鎖されている。しかも私の家は「うさぎ山」に隣接しているので、社宅の西の端に立つ大人の目さえ盗んで山に入ってしまえば、あとは獣道伝いに清荒神の参道へ脱出できる。そのルートは通い慣れた灌木の迷路だった。音も立てず見つかりもせず、石ころ一つ落とさずに、潅木や茂みに潜んで谷を渡ることができた。「うさぎ山」には私のサバイバル精神の源がある。しかし、しかし、この山が何十年か前に完全に潰されて宅地に造成されてしまったのだ。

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山のランド・マークである大きな鉄塔は、すでに住宅地の中に埋没している。

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山頂から見下ろした高速道路も、家と家の間から垣間見なければならない。

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急峻な崖になっているために、何度も転落した北側の斜面は、造成されて遊歩道のついた公園になっている。

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もはや辿る道も砂防ダムのコンクリートで埋められて見分けることもできないというのに、なぜか正月にはここにきて、楽しかった子供の頃を思い出し、辛かったその後のことを思い出し、理不尽な世に対する復讐の牙を研ぎながら山に潜んだ頃を思い出すのである。

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清荒神の参道に入ってしまえば、往来する人が多いので紛れ込むのはたやすい。しかも有馬街道を越えれば校区が変わるので監視がない。その境界は人混みの邪魔になるから監視はいないのである。ただ、駅前はその校区の先生や警察がよく見張っているので、これを避けるために川へ降りてその際を歩く。

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今では護岸が固められてしまっているが、そのころ車の通る道をくぐる水路を利用した細い路地がたくさんあったのである。今でも様子は変わっているものの、それらはほぼ残っている。その道を伝って当時の私はあちこちへ足を伸ばした。

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有馬街道を西へとって、本当に有馬温泉まで行ってしまって帰れなくなったこともある。

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最もよく遊んだのが川面 (かわも) 神社であった。なぜここだったのかはよく覚えていない。ただ、そこへ行けば仲良く遊んでくれる友達が集まっていた。彼らは私の校区や地区などを尋ねなかった。隣の学校の奴だなということはわかっていたようだ。しかし、よく遊んでくれた。

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彼らに連れられて神社の参道を武庫川まで突っ切って、葦の原でかくれんぼしたりした。その道には、もう大きな国道や駐車場に変わり、タワー・マンションが建っている。そこから先のことをつぶさに書くことは憚られる。なぜならその付近一帯は、学校から「行ってはいけない場所」と教えられていた場所だからだ。しかしそこの子供たちと私は遊んでいた。そのことは学校には絶対に秘密だった。何人かの子供の家にも行ったことがある。昼から酒を飲んでる父親がいた。しかし優しい人たちだった。

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暗くなると、思いっきり走って帰らなければ、しかるべき刻限に家に辿り着けない。しかも辿る道の後半は獣道だ。いまから考えると、よくあんな野生児のような毎日を暮らしていたものだと感心する。だから、正月にはその頃の記憶を新たにし、強く生きようと心に誓うのである。


2020.01.28 新型コロナウィルス武漢での死者100人超え中国全土で106人 (2020.04.20追記)

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2020年01月12日

20200112 いましばし冬眠・・・

 私が初めて海外旅行したのが1989年、以来、私は自分の内なる動機に従って行動してきたのだが、30年経った今思い返してみると、その時代の流れにきっちりと組み込まれてきたことがわかる。思えば、最も世界がグローバリゼイションを望んだ時期に社会に出て、海外旅行を何度となく経験し、自由を謳歌して、しかるべき帰着をした。これは自分のオリジナルな半生でありながら、振り返ってみると時代の流れにきっちり収まっている。考えてみれば当然のことで、この頃から「ワールド・ミュージック」という言葉が生まれて情報が飛び交った。それ以前は「民族音楽」であり学者の研究対象だった。音楽に限らず、ありとあらゆる文化で、世界が互いに手を差し伸べ愛、それは明るい未来を予感させた。折しも日本は、ちょうどバブル景気な真っ只中、有り余るカネに物言わせて世界中から物や文化を買い漁っていた時代だ。従って情報量も増え、それに触れる機会も増える。今から考えると、それは時代の流れであった。もちろんその流れは広大で、それに対して私の軌跡は蜘蛛の糸のように細い。しかし、その大きな流れは一つの方向、つまり川下に向かって突き進んでおり、おそらくそれを押しとどめることはできない。そこから離脱する力も私にはない。さらなる広大な海に流れ込むのか、あるいは灼熱の砂漠に消え果てるのか、流れの中のプランクトンのような存在には知る由もない。しかし、1989年の私がその後の自分の運命を知り得なかったのと同じように、自分たちの世界がどこへ向かっているのかを知り得ない2019年の人類を30年後の人類が見れば、あまりにも明らかな道筋を歩んでいたと見えるに違いない。もうすぐ1月17日、1995年から25年が経つ。光陰、矢の如し。いましばし冬眠・・・

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2020年01月01日

20200101 正月というものは

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正月というものは正月にしか出来ないことをやるのである。つまり平日では出来ない、やってはいけない、行ってはいけないことをやる。その一環として何年か前に旧国鉄福知山線の廃線跡のうち、入ってはいけないところへ入って散策したのだが・・・

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http://jakiswede.seesaa.net/article/463538835.html

やはりそんなところに入り込む輩が後を絶たぬと見え、そこへアプローチできる禁断の獣道が厳重に封鎖されてしまったので、来年装備を整えて再挑戦するやむなきに至った。正月早々の挫折である。しかし私の人生は、挫折から這い上がり、裏道どころか藪にまみれた獣の踏み跡を辿るようなもので、地面を這いずり回り山野を眺めること半日、イヌも歩けば棒にあたって、普段なら入れない某工場敷地内にてなかなかインダストリアルな絶景に触れた。

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2019年11月14日

20191114 にゃあ・・・

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2019年11月03日

20191103 Home Coming Day ii

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 どちらかというと、同窓会なんかこっぱずかしくて参加しなかったのだが、仲の良い友に誘われた。中学と高校の六年間も一緒にすごした友との40年ぶりの再会であった。

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まあねえ、あのころ美少年であったあいつもこいつも還暦前となっては見る影もないのは、私も同様でお互い様なのだが、そうか、あのかおつきがこうなるのか・・・と、なかなか面白く興味深く、面影を見出すとともに懐かしく、次第に40年の時を遡る。

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当時、ブイブイ鳴らしてたやつもいじめられてたやつも、現在、功成り名を遂げたりそうならなかったりしたことが紹介されたものの、やがて40年前の力関係に戻り、それぞれが当時の役柄をつい演じてしまう。そうか、俺はこうやって人間形成をしてきたのだ。あいつとあいつとこうつきあって、いじめられたりいじめられたりしたかもしれないが、そこからこう向き合って、または相手を変えたり、別な流れに巻き込まれたり、自分に勝ったり破れたり、まあいろいろあったなあと・・・

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おそらく参加した全ての友が、それぞれの紆余曲折の人生、詳しくは訊かずとも、その顔に刻まれた複雑な表情が、お互いに察し会われて、心和やかに許し合うひととき。そのなかに40年前と全く変わらぬ声や口調や仕草を見出して、現在の立場や身分を越えて笑い合うこの幸せ。友よ、ありがとう。このような会を用意してくれた皆様に感謝します。ご苦労様。

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20191103 Home Coming Day

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 母校 (中高一貫) の同窓会、「ホーム・カミング・デイ」といって、母校をOBが訪問するイベントに行ってきた。この写真を見ると、私はええトコのボンボンかと思われるでしょう。しかし実際は違う。

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40年前にはこんなものはなかった。雨漏りのしそうな木造校舎に、隣で建築中の(当時の) 新館の工事現場を渡る仮説の歩道橋を渡りつつ通ったことを思い出す。プールさえなかったのだ。その新館も今は旧館で、さらなる新館が建設中である。そんなキャンパス化された我が母校を巡るツアーや関連イベントを (いつものように) 脱出して、昔の面影を探してブラブラしたった。

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あったあった。監獄のような「軽音楽部」の部室、我々が暴れて箒の柄が突き刺された跡の残る天井、砂にまみれた洗い場、思い出の演台、授業を脱出して憩うた非常階段・・・涙。

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2019年10月24日

20191024 しゃのあ

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お前を「しゃのあ」と名づける。ときどき現れて俺の心を癒せ。褒美にたまにはだしじゃこを遣わす。
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2019年10月22日

20191022 人生は短い。

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人生は短い。

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