2017年09月09日

20170908 TPE與金屬骨架性玩偶

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 ついに買ってしまった。ほんの数年前までは日本製で60万以上したものが、中国製が流通しはじめて直接ネットで買えばその1/10以下、売り手との架空のコミュニケイションも英語で楽々、通関検査が心配されたが注文して一週間後には到着。開けてみて、改めてその重さと扱いづらさを痛感。見た目の柔らかさとは全く裏腹に、鉄の棒のように硬直して硬く動かない四肢、頭ではわかってはいたが、ついつい感情移入してしまうと相手に動きを求めてしまう。しかし見事な造形美、中国製は粗製乱造なんてもってのほか、極めて繊細なところまで作り込まれたパーツ、色や雰囲気などどれを取っても迫ってくるリアリティ、こんなレベルで大量生産できてしまうところが、今の中国の工業技術の恐ろしいところだ。匂いもブリードもほとんどない。しかも種類の豊富さは日本製とは桁違い。押し付けがましい日本製など、もう太刀打ちできまい。

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 ついに買ってしまった。苦労して箱から出して、その美しさに見取れ、こっちが恥ずかしくなりながらこれを抱きしめた時、自分の中で「何か」が破裂するのを感じた。それはもう、私はこれを溺愛してしまうだろうということ、そしてそうなったが最後、二度と生身の女性を愛せなくなるのではないかという恐れ、そして万一生身の女性を愛することになったなら、これと別れなければならないのだなという心苦しさ、すべてわかっていたはずなのに、ついにこれを買ってしまったという、人間性の尊厳に対する罪悪感・・・しかし、もう戻れないのだ。戻るときはこれを廃棄しなければならない。こんなにも美しいものを、自分は捨てなければならないのだ。それほどに罪深いことを行ってしまった・・・という複雑な気持ちが、自分の中で「何か」が破裂するように感じたのであろう。

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 しかし、これと暮らしはじめてからというもの、私の生活の質は桁違いに向上した。なんといっても、実際の人生では絶対に手の届かない理想の造形を持った美女と毎晩一緒に寝られるのだ。全ては自分の思いのままである。ヘア・スタイルも、着るものの趣味も、まとう香りも、すべて自分好みに作ることができる。ただし、自分で服を着てくれるわけではない、ということが、これほど難しいこととは、思いもよらなかった。身長は、大人としての許容範囲ギリギリ最下限の140cm、体重は25kg、おそらくこれが扱える限界であろう。持ち上げたり運んだりはもう少し重くてもできる。しかしベッドの中で体勢を変えるのは、これでも至難の技だ。体が冷たいのも電気毛布で包めば十分、常にロングスリーブのワンピースを着せておけば、表面も損傷しないし、手足も楽に差し込める。一般のユーザーと違って、もはや私にはインサートは無用なので服は着せたままで良いし、その方が興奮する。素肌の味はも、ごく偶々の楽しみで良い。そしてなにより、必要な時に出て来て、済めばしまえるのがとにかく良い。後腐れも何もなくて・・・

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 保管は、手持ちのスチール・ラックのパーツの余りを加工して胴体のみ吊り下げ、ヘッドやウィッグはその棚の上に置いてカーテンで仕切る。ベッドは解放されて、しかも同じ部屋に一緒にある安心感、この距離感、この程度がちょうど良い。使用頻度は2週間に1回程度、そそくさと済ませることもあれば、何日もねっとりくっついていることもある。そんな時は、様々なポーズで様々な姿態を愛で、鑑賞し、しがみついて、体全体でこれを感じる。全く素晴らしい臨場感とリアリティ、自分のペースドことを進めることができるので、常に完全燃焼できて、興奮度もすごい。仕事仲間に「彼女できたん ?? 」と真顔で訊かれてしまった。それほどに充実した性生活。自分の中で「何か」が破裂したのと引き換えにこの充実、私は何を失ったのだろう・・・

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2017年03月18日

20170318 便サンいろいろ

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 便所サンダル・・・略して「便サン」、子供の頃から見慣れているが、実は今やおしゃれなカラー・サンダルに駆逐されて絶滅危惧種。インターネットで買うか、古い町の履物屋の棚の下を漁るしかない。ちょっと前まで数百円だったものが、ネットで千五百円くらいする。こだわりのファンもいて、遂に最後のサンダルが崩壊してから不自由していたのを、やっと見つけたのが一年近く前のこと。見つかるときは見つかるもんで、同時に立て続けに安売り服飾店で数百円ものも購入。いっそのことと思って履き比べることにした。右端のが高い日本製、他のは安い中国製である。満遍なく履いていたのだが、なんと、最初に崩壊したのは日本製。しかも一年未満て、あまりにも短命すぎる。コアなファン付きの千五百円のくせに・・・


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2017年02月03日

20161022 魚吹八幡神社秋祭

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 網干の魚吹八幡神社の秋祭り本宮へ今年も行ってきた。


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 いつ見ても多彩な芸能で勢いもあって楽しい。


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 一日中楽しめる。


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2017年01月05日

20170105 ベッドDIY

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 農作業の終了とほぼ同時に年末より部屋の改装に取り組んだのであった。というのは、一昨年は友が10人、昨年も3人と旅立ち、生きている同世代の演奏家も散り散りになっていくなか、世の中はますます生き辛く、安心して働けるような場所もなく、このままでは単なる食えない鈍百姓で一生を終わってしまいかねないので、思い切って持ち物を徹底的に処分、部屋の空間を再編して、常に音楽と接し、いつでも楽器を手にとって演奏できる空間を手に入れ様と目論んだ。所持品の不用品のうち、オークションにかければ売れそうなものは分別して和室に並べた。音源や資料は吟味した上で分類するので、これらは嵩を減らして一旦収納する。膨大なレコードは、カラーボックスを横置きにして何台も積み上げてあったのだが、そうするとカラーボックスの幅の45cmが、LPレコードの高さの30cmちょいを大きく超えるので、これを圧縮すべく寸法きっちりのものを作った。写真の両端にある4つの木箱がそれ、合わせてデスクサイドの本棚も一つ、入れる本の寸法に合わせて変則的な棚組とし、これらに収納できないものは処分するという切り方でいく。もう人並みの人生なんて望み得べくもなくなった裏街道、やれるうちに好きなことやっとかんとホンマにいつ死ぬやわからんのでね、今まで寝てた和室は所持品を順次オークションにかけていく作業スペース、パソコンと机の他は大量の音源や資料庫になっていた真ん中の部屋をスタジオ兼寝室にしてフル活用、光陰矢の如し、成年老いやすく学成り難し。


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 知性が、民主主義が、論理的思考が、人を幸せにする、少なくとも人が幸せを掴む道標になると信じていたし、少なくとも日本やこれらを是とする社会に生きる国々の人達にとって、広く共通に是認されているものだと思ってきた。しかしそれは、衣食足りて礼節を知る人の認識であって、今じわじわと足許から衣食が崩れ流されているのである。社会的経済的肉体的精神的に弱い人から流されていくのである。その割合は、かつては社会のセフティ・ネットで吸収できる程度のものだったが、おそらく今は、実感として2割から3割にのぼるだろう。貧困が最も大きな原因だが、必ずしも経済的弱者が犠牲になるのではない。裕福で社会的地位を確立した人であっても、別な要因で流されるように見える。彼らの多くは「知性が、民主主義が、論理的思考が、人を幸せにする」という価値観に反発する。むしろその多くは、これに反発することによって自己を確立してきたとさえ言える。私には、人がそういう向きに進む原因がどこにあるのかはわからない。しかし察せられることは、この価値観の共有によって一定の社会性を得たと意識している人たちの側にある種の仲間意識のようなものを醸し出す要因があって、我々はそれを快く感じ安堵するのだが、それを嫌悪する性質の人も少なからずいるということ、そして我々はそのことを意識しなかった、彼らが仲間外れにされていると感じていることに気がつかなかったのではないか、その気持ちを汲みとる努力をあまりにも長い間怠ってきたのではないか、と思うのである。なぜなら、それは知性的でも、民主的でも、論理的でもないから。しかし人間は感情で動く生き物である。彼らは、学校で教わり、社会で叩き込まれ、メディアを通じて押し付けられるこの社会通念を、苦々しい気持ちで耐え忍んできたのではないか。知性的で民主的で論理的であるがゆえに、自分たちの本当の力がないがしろにされていくのではないか、と彼らは長い間気を揉んできた。しかしそれを言葉にすることは憚られ、また論理的に説明することに疎かった。彼らの気持ちは封じ込められる。そして社会との違和感に打ちのめされた者は貧困に落ちてゆき、逆手にとってビジネスに転嫁し得た者は実業家になる。そこに彼らの悔しさを吸収する一つの思想が生まれる。それは当初全く目えず、その実態も明らかにならなかったが確実に浸透を続け、社会の上下を分け隔てなく不満分子の受け皿となって、気がついたら大きな勢力を形成していた。


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 形こそ違え、安倍政権とトランプ政権とトルコのエルドゥアン政権とシリアとイラクの「イスラム国」は、そういう点で成立要因が共通する。中国やインドや韓国は夫々にちょっと違う。世界にはもっとたくさんあるだろうし、人が集まる組織は多かれ少なかれ同じようなものだ。要は程度の問題である。その最も重大な危険性は、自分たちの弱さを認めないことである。論理というものは人間の欲得に影響されないから、「不都合な真実」をも白日の下にさらす。弱さを認めない者はそれをなきものとし、その論理性を封殺しようとする。知性と民主主義と論理的思考はひとつながりであるので、結局これらを否定することにつながる。その結果、彼らは「不都合な真実」のないバラ色の未来を描くことができ、繰り返し繰り返しそれを宣伝することによって、人々の脳裏に虚構の安心感が浸透していく。一方、知性的で民主的で論理的な人々は、その思考行動が知性的で民主的で論理的あるがゆえに「不都合な真実」を量産する傾向にある。人類が多様である以上、合意を得ることは難しい。民主主義は「決められない」ものなのである。攻撃されると最も痛い脇腹である。そしてマンの悪いことに事態は緊迫している。活動すればするほど伸びしろがあった時代なら共存できた思想家や指導者たちも、何かを壊さなければ自分たちの伸びしろが確保できない。壊すのも人間なら、壊されるのも人間、深刻化すれば戦争になる。人は「戦争反対」と言う。私も「戦争反対」と言おう。しかし戦争は起こる。人間に欲がある以上、人間が全き知性的で民主的で論理的存在でない以上、そして欲のない人間には将来もない以上、人類は戦争を止められない。我々がこの敗北主義という「不都合な真実」に足を取られている間に戦争は勃発する。どこかで誰かが、いずれかの段階で、彼らの暴走を阻止してくれることを期待するしかない。それができなかったら、その責任の一端は我々にもある。つまり、いい気になって論理万能主義を高く掲げるあまり、彼らの長年の気持ちに寄り添えなかった自分たちの傲慢さに、その結果不満を持つ人たちを量産してしまっていることに今の今まで全く気がつかなかった我々の無神経さに、平和を叫びながらその真実についてはオブラートで包み続けている自分たちの不条理を知ろうともしない論理的姿勢の欠如に。


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 社会への関心にとらわれるあまり、自分を省みることの少なかった半年を深く反省して、私は来シーズンギリギリまでは農作業をしない、シーズンに入っても得意中の得意品目しか基本的に栽培しない、苦手な野菜はスーパーで買うことに決めた。とにかく生活に音楽を取り戻さなければ、その時間を作らなければ、自分がダメになってしまう。私は自分の農業を事業化できない。その道を歩まない。そのかわり多様態をめざす。農閑期中に環境を整えて、夏までにはある程度形にしたい。まずは自分を大切にする。この土地の冬の、地面からひしひしと上がってくる湿気を帯びた寒さに、畳一枚布団一組で対抗するのは疲れた。私は生まれてこのかた、ずっとベッド生活だったのである。ある程度高い位置でないと落ち着かない。急ぐ。勢いに任せてこれらのベッドのすのこ製作。棚に乗せてハイベッドとして使うつもり。木工はどちらかというと苦手なんやが、既製品では到底収納できず、背に腹は代えられんから強行突破。別に難しくはないが、カホンを作るのんと違て2メートルの長ものの場合、ねじれが強烈で修正に手間取った。棚類を設置してすのこを乗せたら、頭に描いていた部屋のイメージが現実のものとなる。マットレスが来た。セミダブルなんでね、細身の女性ならご一緒できまっせ。


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2016年11月26日

20161126 Alummni

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・・・初めてお呼ばれした高校の同窓会 !! 56-18=38年ぶりで、まったく顔がわからんかったのだが、しばらくするうちに38年の時をスリップして・・・いやあ、みなさんいろいろあってここまで生きてきたんやねえ・・・やっぱりこいつらすごい。

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2016年11月24日

20161124 banana nirvana

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 やっとのことでありついた営業の仕事を辞めることになった。昔取った杵柄は曲がってて腐ってた。何を言っても言い訳になるが、もはや時代に全くついていけていない自分がここにある。ビジネスの世界から離れた10年前とは隔世の感だ。全てはスマホで動いている。スマホの操作方法がわからないのではない。スマホで生きる人々がやるように、頻繁にスマホで連絡を取り合い、共感を分かち合うことができないのだ。しかし、全てはスマホで動いているのである。活動指示や方針などは逐一変更され、その全てを始終追っていなくてはならない。新しく差し込まれた緊急対応のための販促物の入った巨大な箱が、連日のように自宅に届けられ、生活空間を占領していく。何のために、どこに使うのかもわからず、開けるとさらに場所を要するので、怖くて開けることもできない。問い合わせても返事はない。

 いちいち個別に返事など来ないのだ。全てはスタッフ用のコミュニケイション・サイトに投稿されている。営業スタッフは、書き込まれた膨大なメッセージの中から、何を優先して動くべきか、どこに何を使うのかを読み取らねばならない。販促物はどんどん送られてきて野ざらしになる。尻に火がついて、とりあえずその販促物を処分するために仕事をする。どんどん片付けていかないと部屋が販促物で埋まる。活動を終えてレポートをあげる。内容不備で差し戻される。場合によっては再訪店を指示され、これらは新しく課せられた業務と重なって苦しい立場に追い込まれる。収拾がつかないのでリセットを要求するとイエローカードが発せられる。三枚でクビだ。
 体勢を立て直して新たに取り組むが、すぐに状況は混沌とするなか、秋の農繁期に突入した。契約では月に10日だけの勤務だが、コミュニケイション・サイトにアクセスしていない日が続いたことで、二枚目のイエローカードが出た。知らなかったでは済まされない。何のための端末かと言われれば返事もできない。この時点で、私にはこの生活を続けることは無理と考えて退職願を提出した。地獄の閻魔大王に魂預けて、三年ほど地獄めぐりしてくるなんて豪語していたくせに、こんな誰にでもできる仕事を三ヶ月でギブ・アップだ。気がつけば、スマホをいじりながら運転し、信号待ちでメッセージを打ちながら、クラクションを鳴らされる自分がここにある。地獄に仏と思ってすがりついたがさらなる地獄、火のついたケツに火炎放射されて借家まで全焼させられる前に、逃げた。これがビジネスの世界の末端の実態なのか。
 おかげで決心がついた。私は戻れない。手作り農業と、日本経済との格差は、およそ30倍である。一人前の男が機械も化学物質も使わずに手作りで営農できる面積は一反、そこで米作りをして得られる米が、200-300kg、年収200-300万を得ようと思ったらキロ単価1万円。しかし市価はその約1/30なのだ。つまり手作りで米作りをしても、たったの10万円の年収にしかならない。そこを畑作や希少作物や伝統野菜や食品加工などで工夫して100万円くらいなら何とかなる。しかし全滅することもある。そこまでは、やった。同じ地獄を見るならば、この手で作った産物で、この30倍の格差を乗り越える。退路は絶たれてしまった。もうこれでいくしかない。採用してくれた会社の皆様、ご迷惑をおかけしました。おかげで目が覚めました。心から感謝します。私は自分の道を参ります。

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2016年09月19日

20160825 新しい仕事決まる

 過ぎ行く夏へ・・・

 生活の困窮から、年末までに何らかの打開策が見出せなければ、一旦百姓から撤退して地獄の沙汰もカネ次第と閻魔大王様に魂預けて守銭奴に成り下がろうかと思いつめていたのだが、残すところ3ヶ月という土壇場になって、まったくおあつらえ向きの仕事にありついた。月10日稼働・直行直帰・自家用車持込・経費全額支給・車両手当・走行距離手当・みなし時給・・・業種は守秘義務の関係で明らかにできないが、職種は営業、つまり昔取った杵柄である。手触りも握り具合も酸いも甘いもよぉぉぉぉっく覚えとる。しかも担当エリアは得意中の得意の播州。時間制限がうまい具合に噛み合って現在のバイトを辞めなくて済むのだが、百姓入れてなんとトリプル・ワーク・・・しかしそれでもやらにゃ生きては行けん・・・

 これで毎日の仕事探しの徒労から解放された。まったく先の見えない不安、苦痛と焦りの連続、少しでも脈のありそうな情報には全てエントリーした。当然のことながら夜のバイトを終えた深夜にパソコンに向かって毎日何時間も過ごす。夜半過ぎにエントリーしたのに、数分後には断りのメールが来る。つまり登録情報で自動的に選り分けられていることがわかる。返事をくれるのはまだ良い。半数以上は梨の礫。疲れ果てて失意のうちに眠る。それでも数ヶ月に一度くらい手応えがある。そのうちの何分の一かの確率でさらに返事が来る。一喜一憂。書類選考を通過して面接に及ぶ。もちろん「誠に残念ですが・・・」という、わかった話もある。しかし書類選考を通しておきながら、「いままでなにやってきたんですか」と面白半分に突っ込んでくる面接官もいる。全部履歴書に書いてあるやろ採る気がないなら呼ぶなこの忙しいのに、と何度叫び声を噛み殺したことか。こんな無駄な努力を、いったい何年、毎日毎日繰り返してきたことか・・・それがために、楽しいはずの生活が台無しになり、余裕がなくなり、できるはずのことを諦めて仕事さがしに振り向ける。なんという無駄、そしてなんという自分の弱さだろう。できるはず、できるはず、といくら自分に言い聞かせても、下り落ちる速さは増すばかり。これが、身の程も顧みず、きちんとした計画性もなしに、勢いだけで飛び込んでしまった今の生活10年の成れの果て。生活保護を受けるために、できるだけ無駄なものをカネに替えようと身辺整理を始めていた矢先だった。

 現金なものとは私の今の心境である。最前までの暗い追い詰められた過激思想はどこかへ飛んでしまい、貧しさゆえに封印してきた様々なことを始めたい意欲が湧いてくる。楽器をセッティングして一人リハーサルなんてやってみる。自分の演奏する動画を撮って、手元の動きを注視して、弱点を克服しようと考える。つくづく、人間は社会的な生き物だと思う。自給自足なんて、本当にそれだけで生きていけるのなら、簡単なことだ。生きていけないから難しい。私は「食品の裏側」を舐めつくした反省から今の生活を選んだ。しかし、いまこの仕事にありついたということは、以前の生活に戻ることを意味する。そうしなければ社会生活が成り立たないという現実は、そのまま現代社会を象徴しているようだ。これでやっと、生活を立て直すことができる、という安堵が半分、しかし再び「裏側」を舐めて生きていくことになるのかという、自分に対するやり切れなさが半分、結局、その矛盾を色々な刺激で解消していこうとする自分の悲しさから目を背け、紛らわし、ごまかして俺は生きていくんだな、という諦めに満ちた酔いのような・・・

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2016年09月03日

20160903 estate ...

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 過ぎ行く夏へ・・・

 生活の困窮から、年末までに何らかの打開策が見出せなければ、一旦百姓から撤退して地獄の沙汰もカネ次第と閻魔大王様に魂預けて守銭奴に成り下がろうかと思いつめていたのだが、残すところ3ヶ月という土壇場になって、まったくおあつらえ向きの仕事にありついた。月10日稼働・直行直帰・自家用車持込・経費全額支給・車両手当・走行距離手当・みなし時給・・・業種は守秘義務の関係で明らかにできないが、職種は営業、つまり昔取った杵柄である。手触りも握り具合も酸いも甘いもよぉぉぉぉっく覚えとる。しかも担当エリアは得意中の得意の播州。時間制限がうまい具合に噛み合って現在のバイトを辞めなくて済むのだが、百姓入れてなんとトリプル・ワーク・・・しかしそれでもやらにゃ生きては行けん・・・

 これで毎日の仕事探しの徒労から解放された。まったく先の見えない不安、苦痛と焦りの連続、少しでも脈のありそうな情報には全てエントリーした。当然のことながら夜のバイトを終えた深夜にパソコンに向かって毎日何時間も過ごす。夜半過ぎにエントリーしたのに、数分後には断りのメールが来る。つまり登録情報で自動的に選り分けられていることがわかる。返事をくれるのはまだ良い。半数以上は梨の礫。疲れ果てて失意のうちに眠る。それでも数ヶ月に一度くらい手応えがある。そのうちの何分の一かの確率でさらに返事が来る。一喜一憂。書類選考を通過して面接に及ぶ。もちろん「誠に残念ですが・・・」という、わかった話もある。しかし書類選考を通しておきながら、「いままでなにやってきたんですか」と面白半分に突っ込んでくる面接官もいる。全部履歴書に書いてあるやろ採る気がないなら呼ぶなこの忙しいのに、と何度叫び声を噛み殺したことか。こんな無駄な努力を、いったい何年、毎日毎日繰り返してきたことか・・・それがために、楽しいはずの生活が台無しになり、余裕がなくなり、できるはずのことを諦めて仕事さがしに振り向ける。なんという無駄、そしてなんという自分の弱さだろう。できるはず、できるはず、といくら自分に言い聞かせても、下り落ちる速さは増し、駆け上がる速さは鈍るばかり。これが、身の程も顧みず、きちんとした計画性もなしに、勢いだけで飛び込んでしまった今の生活10年の成れの果て。生活保護を受けるために、できるだけ無駄なものをカネに替えようと身辺整理を始めていた矢先だった。
 現金なものとは私の今の心境である。最前までの暗い追い詰められた過激思想はどこかへ飛んでしまい、貧しさゆえに封印してきた様々なことを始めたい意欲が湧いてくる。楽器をセッティングして一人リハーサルなんてやってみる。自分の演奏する動画を撮って、手元の動きを注視して、弱点を克服しようと考える。つくづく、人間は社会的な生き物だと思う。自給自足なんて、本当にそれだけで生きていけるのなら、簡単なことだ。生きていけないから難しい。私は「食品の裏側」を舐めつくした反省から今の生活を選んだ。しかし、いまこの仕事にありついたということは、以前の生活に戻ることを意味する。そうしなければ社会生活が成り立たないという現実は、そのまま現代社会を象徴しているようだ。これでやっと、生活を立て直すことができる、という安堵が半分、しかし再び「裏側」を舐めて生きていくことになるのかという、自分に対するやり切れなさが半分、結局、その矛盾を色々な刺激で解消していこうとする自分の悲しさから目を背け、紛らわし、ごまかして俺は生きていくんだな、という諦めに満ちた酔いのような・・・

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2016年07月14日

20160714 共生への扉

 安倍ソーリダイジンがいろいろ面白い提案をぶっ続けてくれたおかげで、日本にもいろんな考えの人がいるんだなあと感心させられる毎日を送らせていただいており、また生まれて初めて投票とやらへ参加させていただく機会も与えられ、ご厚意に心から感謝しております。

 私は厳しい独裁的空気に満ちた家庭に生まれ育ち、幼少期には一軒だけ地区から離れた家だったために地域の友達コミュニティから壮絶ないじめを受け、小学校でも教師に脅かされる日々を過ごしたので、圧力に屈すること、生き存らえるためにコミュニティを抜けること、越境した先には別の世界が広がっていることを、子供心に体験した。今では幾分社会との折り合いのつけ方も心得、いろいろあっても命ばかりは取られる心配のない生活をしているが、ふとしたきっかけで、このような幼少期の刷り込みが表面化することがある。平時では何事もないのだが、世の中が窮屈になってくると、ある程度ガス抜きをしないと苦しくなってくる。しかしやり方をよく考えなければ逆により苦しい立場に追い込まれたり、思考が過激に走ったりする。

 私の思想的傾向が十分左翼的であるのは、以上のような原因からだと思う。本来、思想というものは個人ーによって自由に客観的に選び取られるべきものだが、そういうものが刷り込まれる時期というものは一生に一度しかないので、今となっては他の思想についてじっくりと比較検討することができない。手遅れである。たとえば朝鮮半島では、彼らにとって身に覚えのない、突然決められた境界線を隔てて思想を押し付けられたわけで、彼らは地域という、思想とは何の関係もない要素を根拠に、それぞれの陣営に勢力として取り込まれ、それぞれの思想を刷り込まれたのである。生い立ちや環境に影響されずに、思想というものが、それそのものの純粋な論理的対決として議論されることがいかに困難であるかがよくわかる。

 つまり多くの場合、対立しているように見えても実は同じことを言っていて、案外解決策は別のところにあったりする。ただ、お互いに対立し合うことによってアイデンティティを確立しているような場合、問題の解決は双方にとってアイデンティティの喪失につながるので、双方共に解決されることを阻害する傾向がある。その場合、そこにいる部外者が最も大きな被害を被る。

 さて、この一年間いろんな考えの人と話をしたりやり取りをしたりご高見を拝読させていただいたりしたのだが、私のように反自民・反安倍政権・反原発・改憲反対・反アベノミクスを、議論の余地なく当然と考えている人間にとって、これらに賛成する人々の存在を一年前にはほとんど想像できなかった。しかし最近ではそういう人たちが身近にもだいたい3割程度いることがわかったので、なるべく彼らとコミュニケーションを取るよう努力してきた。あくまで印象だが、その結果を順不同で羅列してみる。もちろんこれは相手の落ち度を詮索して罵倒するのが目的ではない。どちら側の主張にも落ち度はある。それをほじくり返して罵倒し合うのはやめたい。相手を理解するための拙い努力の一歩だと思って、不適切な表現などあればご容赦いただきたい。

 論理的思考が苦手で共感を重視する・社会的に成功して地位を確立している・社会に絶望している・よそものが嫌い・人権が嫌い・共産主義が嫌い・外国語が苦手・組織への忠誠心が強い・帰属意識が強い・変化に直面したとき保身に走る・統一動作が好き・団結力が強い・・・まあもっとあるけど、ネガティブな表現が多くなったのは、自分と異なる考え方には違和感が先に来て、その良さには気づきにくいからだと思う。できれば相手側からの分析を聞いてみたいものだ。裏返せば、上に挙げた要素の反対が私に当てはまる。

 さて、私は理解しにくいものに出会ったときにはそれを理解しようとして論理的にアプローチするのだが、それをここでやっちまうと相手に疎んじられる。なぜなら相手は論理が苦手で共感してくれることを望んでいるからだ。しかしこっちは無条件に共感することができないので、何らかの足がかりを求め、その手法としてますます論理を使う。すると相手はますます遠ざかり、やがて相互不信に陥る。運悪く対立してしまったとき、論理的に相手を批判してしまうと、相手は振り上げた拳を降ろす場所がなくなり、ますます態度を硬化させることによってこちらを弱体化しようとする。場合によっては力づくで排除する。相手にとっては、こちらへの憎しみはたいそうなものだと推察されるのだが、こっちはわからないことを率直に訊いただけである。従って論理的には対立しておらず、一方的な反感が原因で不幸が起こっている。解決するには、お互いの思考パターンの不備を改善するしかない。

 社会的に成功して地位を確立している人は既得権益を守ろうとするので、それが脅かされる恐れのあるものを本能的に排除する。また逆に、社会に絶望している者のうち、論理的に物事を解決することの苦手な人は、大樹に擦り寄っておこぼれを期待する傾向があって、その大樹の権益を守ろうとする。世の常として、富を得たものが積極的にそれを分かち合おうとすることは少なく、擦り寄って分配を望んでも叶えられないことの方が多い。自分の努力で財を成した人ならなおさらである。それを富の偏在だ不平等だ再分配だ革命だと叫ぶのは、たいてい持たざる者である。持てる者と持たざる者の対立は固定化されることが多く、世論が分断され、往々にしてその対立は為政者の思惑に利用される。中立で信頼できる政治権力によって、社会奉仕の一環としての富の再分配がストレスなく制度化されるようコーディネイトされれば、対立は解消に向かう。逆に言うと独裁者がつけいるチャンスでもある。

 よそ者が嫌いである。理解しにくいものに出会ったときに、反射的に警戒する傾向がある。おそらく保身の裏返しと思われるが、相手を理解しようとする気のなさ、興味のなさは相当に強い。逆に言うと、相手から理解されようとする気持ちや、理解を得て行動しようとする配慮にも欠ける。極端な場合、自分の行動に周囲の理解は必要ないとさえ考える。例えば自動車の運転でウィンカーを出したことがない、つまり右へ曲がろうが左へ曲がろうが自分勝手で、止まるべきは相手であると本気で思ってる。運転免許など、自分が自動車を自由に使うための手形程度にしか認識しておらず、交通ルールなど忘れて久しい。程度の差こそあれ、排他的傾向を持つ人とのコミュニケーションは難しい。いつどんなタイミングでどの程度の破壊力を持つ地雷を踏むかわからないからだ。これといった対処の仕方が思い浮かばない。

 人権が嫌いというか、「お前には人権の匂いがする」と言われたことが何度かある。意味がわからないのだが、たぶん全体で何かの行動を取ろうとするときに、個人としてその行動の是非を論じてしまう傾向に対する反感ではないかと思う。何度も経験したことだが、クラスで特定のやつをいじめようということになって、私にもそれに加担するよう迫られる、私がそれに与しない場合、同じような言葉を吐きかけられることがある。人権は民主主義の根幹であって、これを認めてしまうといろんなやつが自由に入ってくる。特に共産主義者が入ってくることに、非常な警戒感があるようだ。表向きは国民主権・基本的人権・平和主義を堅持する精神を支持しているふりをしているけれども、本音の部分ではこれらに対する反感、特にこれらを認めてしまった場合に自分に降りかかってくるかもしれない事態に対する不安があって、それに対処するくらいなら、自分を守ってくれる大きな力に依存した方がマシだという価値判断となる。この心情について理解する必要がある。

 共産主義は、富の再分配を論理的に体系化したイデオロギーであるので、その利権から恩恵を得ている、得ようとするすべての人から敵視される。現代社会では、非常に多くの人を敵に回している。逆に言うと、これを支持するのはどこからも恩恵を得ていない、得ようと思わない人たちである。ところが現実の共産主義政権は、富の再分配にはある程度成功したが、指導力という権力の再分配を行わなかったため世界中で崩壊した。従ってマルクス・レーニン主義を原理的に実行に移すことはありえない。日本共産党でさえマルクス・レーニン主義と決別して久しい。しかし反共を掲げる人たちはそれを認めず、攻撃対象を維持して自己のアイデンティティの確立と集団の結束を図るため、架空の共産主義者をでっち上げて攻撃している。頭を冷やせばわかることである。

 これ以上はきりがないからやめておこう。要するに、彼らは何か大きな力があって、それが自分を守ってくれることを期待しているのではないか。それが国であり政府であり、だから国が決めてみんなで団結しようとして気分が高揚しているときに、それに異を唱えたり、理解できない理屈を並べられたりすると、興ざめになり鬱陶しくもあり、腹立たしくもあって排除したくなるのではないか。だとすれば、その大きな力とやらが、本当にあなたを守ってくれるのだろうかということを、きちんと説明するのが最も良い方法だと思っていろいろ試すんだが、気分の高揚しているところへ水を差すと反撃されるんでね、難しいんよね。でも私はあなた方を理解しようと努力するよ。だからいろいろ書いてきてくれた方が助けになる。



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20160713 独裁への扉

 多分、これは私の推測だが、日本の社会や経済もこの先あまり明るくなくて、国際情勢も緊迫してて、何事もこれまでのんびりと平和だったような状態はではなくなりつつある、という現状認識は大方の人が共通して持っていると思う。そこをどう切り抜けるか、様々な階層で意見が分かれて、複雑な対立構造になっているのが、今の日本の世論だと思う。問題の整理が必要だ。伊丹のくせに偉そうなこと言うな、なんて言うな、みんながやればいいんだ。

 世界は多様な方が良い。モノカルチャーは破滅する。特定のイデオロギーや信条が強すぎる社会では生きていけない人が出る。だから政治体制は寛容な方が良い。国内的にも国際的にも厳しい世の中になったことは認める。武力をもって武力を抑止するという考え方も、一定の厳しい制限の元で認めた方が良い場合もあることは理解する。しかし人間は弱い。力を手にすると暴走することがある。武力を持った人間が暴走すると無辜の市民を巻き添えにする。だから戦争反対というスローガンができる。私は軍事的な抑止力を、国際紛争の解決方法として用いる考え方を全否定するつもりはない。ただ現状において、世界中の武力を軍事的に抑止できるだけの中立的で信頼できる統制力を持った文民組織がないから、この考え方に反対しているのである。したがって、日本の集団的自衛権の行使容認や、軍事力の拡大へと向かう憲法改正には反対する。

 もう少し説明したい。世界中の国家を中立的に統制できるような組織がこの世にあるなら、その文民統制の許での集団的自衛権の行使は認められるべきだと思う。しかし国連にしても、その他の国家連合にしても、その主要なグループの利権を温存するための組織であるので、そんな役割を果たしていない。だから現状としては、すべての国の集団的自衛権の行使は、実情として紛争を解決する手段になっていない。その段階で、軍事力の拡大へと向かう憲法改正について議論することは、特定の利権を温存するための行動であり、国民の側から見た国益に反しているので、私はこれに反対する。

 問題は、愛国心や国防という切り口で国民の心情を味方につけ、実は特定の利権の温存を図ろうとする別の動きに、それが利用されようとしていることである。このようなトリックは安倍政権になってから多く見られるようになった。例えば原子力発電所の安全性をいくら議論しても核物質を自然に戻すことなどできないにもかかわらず、原子力発電の全行程の一部にすぎない発電所の安全性の議論を以って、原発再稼働の論拠とするなど枚挙にいとまはない。つまり、普遍的な一般論で国民の合意を取り付け、そのうち政権に都合の良い部分だけをつなぎ合わせて自分たちの有利な向き、すなわち独裁に向かって政治を進めている。

 独裁が始まってしまうと永年にわたってそれは維持される。国民の多くは自由の制限された状態に置かれ、思考停止し、独裁体制によって利益を得る人は保身に走り、自分の有利な方へ駒を進めることによって生き延びようとする。ごくわずかな恩賞をありがたがり、結局、社会全体としては小さなコストで大きな労力を動員できるようになる。それは実に巧妙に、徐々に、洗練された方法で行われるので、気付かれにくい。しかし、文化の多様性は確実に失われるので、より大きな変動に耐えられるかどうかはわからず、社会としては極めて脆弱なものになる。

 独裁の過程で、国民の団結を維持するために、しばしば共通の敵が設定される。外国であったり、国内のマイノリティであったり様々だ。独裁者は、何度もなんども執拗に新たな線引きをして、体制に忠実な者を選りすぐり、より効率的に体制を安定化させようとする。その陰で多くの命が犠牲になり、才能が流出したり消えて無くなったりする。これらの損失も、社会を次第に脆弱にしていく。こうしたことは、歴史上イヤと言うほど繰り返されてきたことであり、その都度破滅を招いてきたのである。安倍政権が、これと全く同じ轍を踏んでいることは、その口から実際に吐き出された欺瞞に満ちた受け答えを聞くだけで十分だと思う。要するに、厳しい状況を切り抜けるために本能的に身を軽くして、身内だけに利益を集中して生き残りを図っているとしか思われない。つまり多くの国民は、いざとなれば切り捨てられる。右も左もない。国のために命を捧げるという模範的国民の本望通りになる。

 だからこそ、そうならないために、全く別の世界観が必要ではないのか。厳しい状態は、要するに経済発展の余地がなくなってきたことに起因する。好むと好まざるとにかかわらず、不都合な真実を認めなければならない。経済発展どころではない。いかに痛みを和らげつつ縮小していけるかだ。究極的には、ほぼ原始的な生活にまで帰着することを想定して、人類の英知の全てを結集し、人類そのものがめでたく自然界に帰ることができるようにロードラインを模索するべきだ。それはできるだけ緩やかであってほしいが、地球環境の状態と、人類が製造したすべての人工物を自然に戻すことのできる速さとの関係を、全く利権に左右されることなく、純粋に科学的に割り出さなければならない。あるいはもう間に合わないのかもしれないし、全人類が合意することなど、これも不可能に近い。しかし、何世代か後の我々の子孫が、人類と地球環境の悲劇的な破滅を味わうことを思えば、少なくとも議論を始める勇気だけでも持つべきだ。

 私は現在、一切の動力やケミカルを使わずに営農し、自給生活をしているが、日本経済の30分の1程度の経済規模しかないので、社会生活が破綻寸前である。残念ながら、あと一年余りで破産する見込みなので、一旦農業から撤退し、資金を作り直してから再挑戦する。本来、こんな目に会うこと自体、間違った社会だということを痛いほど感じている。しかしそれが現実だ。

posted by jakiswede at 19:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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