2010年04月29日

20100429 コンゴの旅行の実際について

 大事な事を書くのを忘れた。これからコンゴを旅行しようと思っている向こう見ずなひとは、是非読んでおいてもらいたい。コンゴという国がいかに旅行しにくいかという事は、前の記事でさらっと書いたので、だいたいのイメージはそこで得てもらうとして、まずは入国である。 コンゴの首都キンシャサのN'djili国際空港は、非常に古風で通常とはちょっと異なる。普通、外国の国際空港に到着すれば、到着ロビーに導かれて、先ずはパスポート・コントロールすなわち入国審査がある。その際に多くの場合、予め配布されているかブースの前においてある入国カードに必要事項を記入して審査官にパスポートや必要書類とともに渡す。そして事務的に処理が進められるはずである。

 しかしN'djili国際空港ではそうはいかない。入国審査の際に外国人はひとまとめにして留め置かれ、コンゴ人を全て通しておいたあとで、ゆっくり「料理」される。この国を訪れる外国人は多くないので、まさに「飛んで火に入る夏の虫」である。だから、飛行機の中でコンゴ人の友達を作って、その人と一緒に行動する、というシナリオは通用しない。外国人は、独りずつバラバラにして別室へ案内され、数人がかりでつるし上げられる。私の場合は、例のビザの有効期限問題だ。彼等は、外国人から金を搾り取る事だけを考えている。逆に言えば、カネで解決出来る問題である。だから正攻法では全く物事が進まない。非の打ちどころのない旅行者であっても、奇想天外な理屈をつけて所持している書類を無効だと判定し、有効な書類を特別に作成してやるからカネを出せという。仮にそれを論破しても、私の経験上、今度は所持している正しい書類などを没収して破棄し、力づくで無効化するのである。重要な書類をカタに取られてしまっては高くつく。彼等はパスポートさえ、没収して破棄する事になんの躊躇もしない。これに対処するのはかなり困難である。決して金品をちらつかせたり、金を持っていそうなそぶりを見せない事はいうまでもない。なるべく情に訴える事、リンガラ語を習得しておく事は、かなり有効である。音楽やスポーツなど、彼等の大好きな話題に通じておく事も非常に有利である。

 最も有効な手だては、前もって「お迎え」を手配しておく事だ。都合の良い事に、この国では伝統的に、「主」と「お伴」は切っても切れない相互扶助の関係にあって、「主」はどこへ行くにも「お伴」を連れており、「お伴」はたとえ火の中水の底「主」の赴くところ全てお伴するのである。この風習が、なんと国際空港にまで持ち込まれる。もちろん飛行機の中にまでは入り込まないが、「お伴」は平気で入国審査の境界をくぐって来る。つまり、到着ロビーは「未審査」の客と「審査済み」のお伴が混在する状態になっている。これを逆手に利用するのである。権威のある機関によって手配された「お迎え」は、境界線を越えて外国人を連れ出す事に異議を差し挟まれないのである。キリスト教関係者が最も良い事例だ。この国ではキリスト教関係者は、ほぼどんなところへもフリー・パスである。しかし日本人の一般旅行者が、これを利用出来る可能性はそう高くない。しかしもし知り合いが居るのであれば根回しする価値はある。次善の策としては、実業家や政治家や、土地の名士など、要するにair of importantなやつなら誰でもいいから「お迎え」に来るように手配しておくことだ。入国審査館や警察やDGMとはいえ、所詮タダのニンゲンであって、時には凡クラなガキンチョもいる。潰しの利く強引なやつが「お迎えでごんす」と現れて諸般の障害を取り払えば、なんの問題もなく入国出来る。入国スタンプでさえ刀にかけて押させることができるのだ。もちろん予め手配して雇っておくためにはカネがかかる。しかしこの方が、別室でつるし上げられて揺すられるよりも、遥かに安上がりである。

 さて入国審査を通過したら次はBaggage Claimであるが、別室で手間取った場合には既に荷物はコンベヤにないと思った方が良い。この国では、飛行機で旅行するひとは全て「主」であって、その全てに「お伴」がつくのは当然の事である。つまり機内預けにした荷物は、頼みもしないのにポーターがタクシーのトランクに積んでしまっていて、識別番号の書かれたタグを持って出口に並んでいるのである。先述した通り外国人は多くない。従って、名前から客を特定する事はそう難しくない。そのポーターとタクシーの運転手、ポリ公と警備担当の兵士はグルになっていて、全てに割り当てられた賄賂の合計を徴収する役人まで待ち構えている。旅行者が自分の荷物をタクシーのトランクに見る頃には、到着から数時間が経過し、もうどうにでもしてくれという心境にまで追いつめられていて、彼等のお膳立てに従ってその大枚な料金を支払う羽目になる。もちろんUSDで、だいたい100くらいが相場である。

 運良くつるし上げを短時間でクリアし、荷物の積み降ろし作業が手間取って、コンベヤ上に自分の荷物を発見した場合、その荷物は絶対手放してはならない。「彼等」は、客の荷物を奪い取っておいて、返してほしければ金を出せという論法で来るので、とにかく身を挺してでも死守すべきである。彼らは屈強で、数人がかりで荷物を強奪に来るが、とにかく荷物を抱きかかえて出口の方へ進む。しかし「出口」などという表示はないので、とにかく明るい方へ進むのである。空港内は暗い。途中でいくつもの関門がある。荷物のタグとチケットの番号が一致するか・・・まあこれは見せてやっても良い。しかしその先に必ず待ち構えている荷物検査は、出来ればうやむやの内に素通り、出来なければ多少の賄賂を使ってでも開けさせずに進む。逆に言うと、ちょっとカネを渡せば、なんでも持ち込めるという事なのである。セキュリティもなにも、あったものではない。荷物検査で荷物を開けられるとどうなるか、電化製品など、金目のものは先ず奪われると思って良い。理由はどうにでもつけられる。奪い去るか、奪っておいて返してほしければ・・・の論法で来るかは問題ではない。開けさせない事が肝心だ。

 無事外に出る事が出来たら、次は両替である。空港内に銀行は存在しない。そのかわりそこら中に札束を抱えた両替屋がいて、外国人を見ると走りよって来てもみくちゃにされる。2010年3月現在、USD1=FC910であった。コンゴの最高額紙幣はFC500である。つまりUSD100を両替すると、FC500の5センチくらいの札束を渡される。彼等はFC500を25枚でひとくくりにし、それを7束と7枚でFC91,000と計算する。しかし往々にしてFC500紙幣は不足しているので、そのなかにFC200やFC100が混じると、非常に計算がややこしく、しかも札束も分厚くなる。しかし彼等は実に暗算が速く、たいていの場合正しい。しかし空港の両替屋は、その25枚の中に混ぜ物をしてあったり、抜いてあったりするので、かならずVerificationといって、一枚ずつ数えさせる必要がある。


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 両替が済んだら、市内へ出る交通手段の確保である。余程荷物が小さくて軽い場合、群がって来るタクシーの客引きや、ポリ公や兵士を振り切って、空港敷地の塀の外へ走る。しかしそこには遮断機があって、屈強な兵士が待ち構えている。たぶんこれを越える事は、外国人には困難だと思う。しかしその外側にはBoulevard Lumumbaという広い道路があって、真っ直ぐキンシャサの中心部へ続いている。コンゴでは、車は右側通行であり、空港を出て右手側が都心であるので、遮断機の脇で待っていると、青と黄色に塗り分けられたワンボックスのバンにひとが鮨詰めになったやつがやってくるであろう。行き先の地名がわかっていれば、ドアにしがみついている切符売りの兄ちゃんにその地名を告げれば、その車がそこへ行くのかどうかはわかる。そのワンボックスの事をタクシー・ビスと呼ぶ。その走るルートにもよるが、都心までだいたいFC500である。

 しかし、たぶん外国人旅行者がおおきなにもつをもってこれに乗ることは不可能か、あるいは断られる。その前に遮断機を越えられないか、タクシーのどれかに捕まってしまうであろう。協定によって、空港の外で客待ちしているタクシーも、空港内で客引きをしているタクシーも、都心までは同じ料金すなわちUSD50ということになっている。これは法外な値段であるが、一般的な旅行者にとっては、これ以外に都心へ出る手だては、ほぼない。

 予め「お迎え」を車ごと手配してあった場合には、これらの一切は、面倒なくクリア出来る。もし万一渡航される民間の方がおられれば、よろこんで情報を提供しよう。

 次は、コンゴ国内の旅行、さらには出国の仕方について書こうと思う。今夜は蒸し暑く、大変な強風である。明日の労働に備えて、そろそろ寝るとしよう。


posted by jakiswede at 01:51| Comment(1) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月28日

第三の旅を終えて

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 生きながらえてしもた。生還率50%くらいと思うてたから、帰ってからの事あんまり考えてへんかった。ようやく時差ぼけも解消して来た今日この頃、厳しい現実が目の前に立ちはだかっている。時差ぼけの解消に時間がかかってるのは、たぶん歳のせいや。いずれ旅行記をまとめんならんとは思うてるが、主観的な事はもうちょっと気持の整理と裏付け調査に時間がかかるから措いといて、旅の実際から書いて行こうと思う。
 おしなべて、危険な目には一度も遭わなかったし、危険を感じた事もない。怪我どころか、下痢ひとつせず、ものひとつ失わずに、のうのうと生きて帰って来た。ネット環境は悪かった。特に、私のメール・サーバはmac.comであるので、Windowsのちょい前のOSにIEの古いのしか載ってないPCでは、「SafariかFireFoxの最新バージョンをダウンロードせよ」とのダイアローグが出て、キャンセルするしかない状態が続いた。mac.comあるいはme.comと契約しているひとは、もう少し汎用性の高いメール・サーバに切り替えてから旅立たれる事をお奨めする。アフリカでは、回線容量を遥かに超えて端末が増設されたインターネット・カフェが多く、しかも端末も古いので、web pageの表示にすら長い時間がかかり、ブログの更新機能を働かせるなんて夢のマタ夢、仕方なく自分のブログにコメントする形で更新せざるを得なかった。ブラジルからエジプトまで更新が飛んでいるように見えるのはそのためである。「ブラジル滞在もあと2日」という書き込みのコメントとして、コンゴ流浪の顛末が隠されている。
 さて、旅の手続きの実際について。アメリカ・ブラジル・南アフリカ・コンゴ民主共和国・エジプト・ポルトガル・トルコと回った世界一週旅行やったわけやが、南アフリカ・コンゴ民主共和国以外は、まあ渡航する人も多いし、わざわざ私が何かを申し上げる事もあるまい。サッカーのワールド・カップ南アフリカ大会も近い事やし、南アフリカ・コンゴ民主共和国について書いておこうと思う。
 まず、海外旅行一般について言える事と思うが、法的に正しい事が、必ずしも世界中で周知されているとは限らないので、その根拠を示す資料を持って行く事が大切である。私の経験上、もっともトラブルが多く、解決に時間のかかるのが、入国と滞在に関する問題である。
 南アフリカは入国の際、日本人にビザは必要ないのであるが、Johannesburg O.R. Tambo国際空港の入国審査で、審査官に「ビザ!!」と強い調子で言われた。これは、私がブラジルから南アフリカに入国し、さらにコンゴ民主共和国へ出国するため、「黄熱病予防接種証明書 (いわゆるイエロー・カード) 」を持っており、それを審査官に提出したための混乱とも考えられる。すなわち、日本人にはビザは不要という原則は知っていたかも知れないが、ビザを持っていない外国人がイエロー・カードを持っているという事は、通常は不自然だからだ。しかし私も旅慣れて度胸が据わって来たのか、落ち着いて南アフリカ大使館のウェブページ、http://www.sajapan.org/immigration.htmlをプリント・アウトしたものを見せると、しばらく怪訝そうに眺めていたが、渋々入国シールをパスポートに貼ってスタンプを押しよった。
 入国審査という場面は緊張するものであるけれども、相手の身になって考えると理解しやすい。入国審査官もニンゲンであって、彼が入国者のパスポートにスタンプを押してサインする以上、何かあれば責任を追及される。毎日毎日不特定多数の国からの入国者を捌いているのだ。慎重にやれば「遅い」と客に罵られるし、かといってむやみに通してなんかあったら、それこそタダじゃ済まない。彼にしてみれば、見慣れないケースについては慎重になるのは当然であって、その結果、多少語気が強まるのもやむを得ない。あまり日本人の行かないような国では、こちらから不審を解くための助け舟を出してあげる事が、お互いの心を通じ、硬くなりがちな物事を円滑に進める秘訣となる。何事も落ち着いて行動する事である。特にアフリカでは、ビザの必要ない国は少ないので、ビザが必要ないならその旨の記載された資料をコピーして所持しておくと、トラブルの回避に繋がる可能性が高く、特にワールド・カップ開催中の南アフリカでは、観戦用の特別措置がとられると聞いたので上のリンクを参照されると良いと思う。
 このように、用意周到に準備しておいてもうまくいかない国がある。コンゴ民主共和国もそのひとつ。この国を理解する事は容易ではない。しかし、非常に魅惑に満ち満ちた国であるので、やはり相互ににこやかに物事を進めたいと思うのだ。入国にはビザが必要である。これを取得するのもかなり厄介ではあるが、まあそれは調べればわかる。ここでは、調べてもわからない事だけを書く事にする。ビザは大きなスタンプをパスポートに押してくれるのであるが、その内容は、是非良く読んでしっかりと理解しておく必要がある。ビザのスタンプに書かれている文字は小さくて所々潰れており、判読が難しいが、「発行されてから三ヶ月以内に入国し、入国してから所定の期間有効である」と書いてある。判読不能であれば、別途大使館に要求して文面を入手しておくと良い。それは大使館の仕事である。さてこの国では、外国人を把握しておく部署を「Direction Generale de Migration」といい、通常「DGM」と略称されている。DGMの職員は国のちょっとした街には必ずいて、しかもかなりたくさんいて、外国人を見ると必ず詰問する事になっている。それは彼等の仕事だからだ。ところが、彼等は観光ビザというものをほとんど見た事がないため、その小さな文字を斜め読みして、「発行されてから三ヶ月以内に入国」という部分を飛ばしてしまう。ビザというものは、「発行されてから三ヶ月以内に入国」すればよいというのは、国際的には常識であるはずなのだが、これはほとんど周知されていない。私の場合、ブラジルのビザ取得に時間がかかる事が予想されたため、先にコンゴのビザを申請した。コンゴの大使とはお友達だからである。念のため2ヶ月のダブル・エントリーにしたが、それは2009年の11月末の事だった。だから、本来2010年2月末までに入国すれば、4月末までに出国すれば良いはずである。ところが「発行されてから三ヶ月以内に入国」という部分を飛ばして読むと、2010年1月末に期限が切れる事になる。私が入国したのは2月22日の事だった。つまり期限が切れているという事になる。コンゴ人というものは大変プライドが高く、一反拳を振り上げてしまうと、なかなか降ろせない傾向がある。さらにこの国の人々は、上下関係の厳しいタテ社会に生きていて、目上のものは常に目下のもののお手本にならなければならない。部下の前で「このビザはもう期限切れだ」と言ってしまうと、これを訂正する事は大変難しい。そこで、別途用意した文書を示して、「この文字はお読みになりにくいでしょうから、どうぞこちらをご覧くださいませ。在日本コンゴ民主共和国大使のサインの入った正式な文書でございます。」というと「ほほう・・・」となって、厄介な事態を避ける事が出来る・・・こともある。
 すなわち、そういかないことも多いのだ。この国はそんなに簡単ではない。アフリカの経済発展は凄まじく、20年前に訪れた頃だいたい日本の20分の一だった物価は、都市ではおしなべて日本とほぼ同じになっている。ところが、一般的な国家公務員の月給は20年前とあまり変わっておらず、だいたい25ドルくらいである。なんということでしょう。つまりこの国では、ビジネスで大成功した実業家が国の経済を引っ張っていて、その下に厖大な低所得者層がある。その生活は悲惨極まりなく、貧富の格差は想像を絶する。とにかくなんとしてでもカネを得る必要があるのだ。そこへ外国人やカネモチがやって来て街を歩く。これを公然と誰何出来る立場にあるのは、警官や兵士、それにDGMである。この三者の役割分担についてはよくわからない点が多いけれども、我々外国人旅行者にとっては、出来るだけ触らずに過ごしたい相手である。しかし彼等はそこら中にうようよいて、必ず声をかけて来る。そしてパスポートを見せろという。そして、ほぼ100%の確率で「このビザはもう期限切れだ」と言うのだ。私は例の文書を取り出して、「この文字はお読みになりにくいでしょうから・・・」とやるのだが、そんなことで納得するような甘ちゃんは少ない。
 その文書は没収されたら終わりなので、常にコピーを見せるのだが、それが彼等の気に入らぬのである。しかしだからといって、オリジナルを見せてしまえば、それを取り上げて破り捨てた上で、「俺が上司に頼んでビザを延長する書類を作ってやるから・・・」と言ってカネを要求するのがオチであり、仮にそれを払ったとしても上司には上司が居るから、当然アフリカ的相互扶助のタテ社会の中に放り込まれてしまって延々と金を払い続け、その額もねずみ算式に増えて、ついには身ぐるみ剥がされ、彼等の言うビザの期限通りに退散せざるを得なくなる。そういう国だ。もちろん私はそんな事に巻き込まれるような甘ちゃんではない。慣れない頃は、なんとか泣きついてちょっとした賄賂で見逃してもらっていたのだが・・・いや、逮捕投獄された事もあるけど (http://homepage.mac.com/jakiswede/1congo/11bakoko/610mboka/101610mboka.htmlのなかほどを参照) ・・・あんまりうようよいて100メートル歩くたびに賄賂を払わさたのでは、さすがに身が持ちませんので、ボディ・ガードを雇うことにした。しかしボディ・ガードを雇えば雇ったで、アフリカの相互扶助の精神に基づいて、彼等の面倒は全てコッチ持ちになるから、しかも物価は日本並みであるので、非常に出費がかさむのである。したがって、外出そのものが困難になる。2010年のキンシャサはそんな状態である。
 さてもうひとつ大変厄介な事がある。それは、在日コンゴ民主共和国大使館では認めていないが、現地では厳然として存在する制度、すなわち外国人の通行手形である。これを「Fiche d'identification」といって、町を通過するたびにこの書類を作成して提出し、通行許可を得る必要がある。それを司る役所がDGMである。コンゴでは、国中のちょっとした街には必ずDGMの事務所があって、外国人はその街へ到着したら遅滞なくそこへ出頭する義務がある・・・らしい。しかし事務所がどこにあるか、果たしてその街にあるのかどうかさえ、現地のひとによく聞かないとわからないし、夜に着いた場合は明日にすれば良かろうと思ってホテルで寝ていると、夜中にいきなり踏み込まれ・・・という事も過去にはあった (上の同じリンク参照) 。これはもう、現地のひととのコミュニケーションを密にする以外他に手はないのであって実に厄介、しかもDGMの係官は非常に高圧的で、これと打ち解けるのはなかなか容易でない。しかし基本的には職務に忠実で、物事を厳密に捉える真面目なひとであり、その忠誠心を褒めたたえ、話を「在日本コンゴ民主共和国大使のサインの入った正式な文書でございます」あたりへ上手く落とし込む事さえ出来れば、ビール代くらいで片付ける事が出来る。そうすれば、その書類を作ってくれて、それはどこへ行っても国中で通用する・・・と彼等は言うのだが、まあ取り上げられて破り捨てられた上で、「俺が上司に頼んで書類を・・・」となるので、また・・・
 つまりこういうことなのだ。例えば日本では、複雑な制度というものは、出来るだけ明らかにして皆が理解出来るようにしといた方が効率的だし手間が省ける・・・と考える。しかしこの国では、それをできるだけわかりにくくする。わかりにくくしておけば、わかるひとに訊かざるを得なくなって、訊けば恩恵を被るから、そこに謝礼が必要になって、それはアフリカ的な相互扶助のシステムによって上へ上へと吸い上げられる仕組みになっており、これが社会構造の根幹をなしている。だから、そこへ先進国ニッポンから旅行者が乗り込んで行くと、たちまち上流階級に位置づけられて、彼等のシステムに従って部下が配置され、全ては彼らに頼まないと出来ない事になる。郵便物に送り先の住所を書く事も、自分の下着を洗う事すら、その部下を通じてやってもらわなければならない。ましてや、どこかへ旅行するための手続きをするなんて、何人の手を経由するのか分かったもんではない。当然そこに手間賃が乗っかって法外な請求書が回って来る。ただでさえ日本と変わらぬ物価のところへ、「カネモチ」と思われて祭り上げられては貧乏旅行社の身が持つはずがない。なんとかそれをすりぬけすりぬけ旅を続けたのであるが、まあそら大変でした。20年前はもっとのんびりしてたのに・・・
 ここまで読んでこの国に行きたいと思うひとはあまりいない・・・まあはじめからいないだろうが、もし万一行く事があれば、このくらいは覚悟して行った方が良い。それを上回るほど、この国に惹き付けられる動機があるのだろうから・・・私はキミを応援する。協力を惜しまない。
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2010年04月11日

The last night of my trip

記事の投稿が完了しました。

My heavenly days are over. She has gone to Narita on her job and I have been left alone in Istanbul. But by her courtesıes I could have so many hard to get experiences here. Istanbul is a fantastic cıty and full of music. I got here 7/ April late at night so I could nothing but to find my place to sleep. The next day, she brought me many place to visit and told me how to walk ın this fascinatıng city. She is so handsome that she can know what I want. Before she works as a cabın attendant, she worked as a good Japanese tour guıde ın Turkey. So she could tell me what to see, where to go and how to get there. It is very correct advices so I could go anywhere I wanted wıthout losıng my routs. From the evening of the 8/ April to the 10, I spent ın Gallipolli where ıs the very beautıful hılltop resort near the Aegean Sea. Why Gallipoli ? I have been concerned wıth the first President, as the founder  of Turkey as the Republic, who changed everythıng of the Ancient Othmann Turkey to the democratic republic, ceased usıng Arabic characters and began usıng Roman Alphabets, when the whole world were melting in the colonialismes, he struggled and lead hıs country to freedom, hıs name is Mustapha Kemal Attaturk. Gallipolli is the very important turning point of that civil war against United Kingdoms . İ have been to come here longtıme. And I wanted to see the Aegean Sea, too. It was very good experience for me. I will write in detail later. After I came back to Istanbul, she brought me to her frıend's birthday party and we have a peaceful time sorrounded wıth a very nice traditional music groupe. In Turkish wayş they often call musicians to the celebrations. On the next day, she brought me the rest of this city in daytıme, and at nıght, we have a good concert of the Medıteranean Musıc. It is very familiar for them but I did'nt know. On the 9th she had to go out to her job but she brought me neıghbourıng market and told me how to get the city. At nıght, I had a peaceful time of the concert of  Jordi Savall. It was not Hıs Hesperion XXI but the special groupe organızed for his recent album "Istanbul" and its world tour. The musicians came from Itlıa, Greek, Espanıa and Indıa... They played very quıetly and slowly, so exhotıc and erotique. And today, on the daytime, I could get some very good tradıtional Turkish cymbals and almost all sourvenırs for you. And in spite of her absence, she arranged for me to go to the Mevlevı Sufi Dance Performance and now I am waıting Paco de Lucia's prıvate party after his concert in Istanbul. Can you believe what I wrote ? God gave me a very good sourvenırs at the last time of this trip. I am really happy now without her absence. Tomorrow I will go to the Asean side of Istanbul, Uskudar, where ıs very familiar for me by another meaning. And late at night, I will fly back to Japan by Turkish Airlines. I ceased to write and go out to the party right now. Viva la musica!
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2010年04月05日

Istanbul


I arrived the last destination Istangul.
I am staying Sultanahmet here is very safe place full of tourisme unbelievable.
Don't surprise I have a very beautiful Turksh lady who s a cabin attendant of the Turkish Airlnes. Tommorrow she wll bring me around the city and we will go to a resort village near the Turkish Aegaean Sea "Gallipoli" and the next Wednesday I wll go to the concert of Jordi Savall and His Hesperio XXI wll perform from the tracks his most recent album "Istanbul" in hs concert at the Lufti Kirder International Conference and Exhibton Centre. This consort is very famous early music consort of the classical music but he has interrested in the medieval music of the middle east. It s very big surprse for me. And the next day I will go to the recital of Paco de Lucia who is a very famous Flamenco guitarist. He is now in the world tour. He will try to play contribution Turkish essence in hs roots of Gitano. My sejour in Turkey will be worth to stay. Go ahead!
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2010年04月04日

LISBOA

Now I am in the Lisboa International Airoport. Here is veryy good and fast and available to access mac.com PC. After leaving Obidos, I went to Marvao, a small hilltop castle village of the east border to Spain, it was twice entirely heaven I stayed there over the crouds like a real saint. I was praying alltime. After leaving there, I cameback to Lisboa and looked forward to some chance to meet Angolan musicians and instruments. But I could not get them. Yesterday, I found a small lovely restaurante, they have very good mind to service, and I felt very confortable. I can get there some important informations about good African music and Fados in Lisboa but it is too late, maybe next time. I will flying to the last destination of this trip, Istanbul.
posted by jakiswede at 21:10| Comment(0) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月29日

Obidos

 Now I am staying on the heaven. Obidos, a verry beautiful countryside village that has some churches in the castle in the west Portugal. Everything is beautiful and photogenic. Brilliant sunshine and white walls, darkgreen windows and flowers, deep shadows and small pathways.... some islamic influences are found in many places. I had some good fado-instrumental lives in bars and talked each other about owners of my arbergia do Fontanario about Congo-Angolan studies. He has very good collections of the Angolan heritage. I will go out another castle village "Marvao" tommorow.
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2010年03月26日

Lisboa

 Now, I am in Lisboa. It is very cold climature, snow slightly falls. I went to "Casa da Morna" the PALOP music house, but I can get nothing. I am staying surrounded by so many Fado House but I cannot enjoy it. I will go out to Sintra, Obidos and Marvao the day after tommorrow. I was looking for "Dikanza" Angolan long bamboo Guirro but cannot get it. I have got very good Reburb in Cairo and can send tommorrow. It is very fantastic sightseeing in Lisboa so I try to enjoy it.
posted by jakiswede at 22:46| Comment(0) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月23日

Cairo

 At last I had escaped from Kinshasa, now I arrived to Cairo. It is very cool and foggy morning but i tokk no mistake to get the cheapest room. Now I am very thirsty to flowing water and to wash my clothes.
 Kinshasa... it is hardly to explain... Kinshasa is Kinshasa the same as 20 years ago, but the development of the RD Congo brought them such the western modernized lifestyle as cybercafes and mobilephones, and it means even if poor people, they must have a internet account and mobilephone. If not, they will fall more difficult life. So, someone are enjoying very rich life more than Japanese. The prices of hotels in Matonge is even USD 15-75. But rooms of USD15-30 are incredibly poor conditions. If you can pay USD35, you can get a littleconfortable room. There are very good alimentations like supermarche in the ville for foreighners but because of frequent power cut beer is little warm. Everything are complicant and everything exist to one place. The street are really filled with people and taxi-buses, they cannot move anywhere in 6-9 in the morning and 18-21 in the evening. So i ccould not go any where concerts were held in the night except of Papa Wemba.
 Yesterday, the last day in Kinshasa, I could hardly miss to send my most important percel of this journey by DHL so I did not know it is required official permission that if you want to export anything about cultural usae such like musical instruments. I informed my intentions to DHL but they did not tell me that permission. I hqd to very very difficult process throghout the government beauro. But I got it 10H00 AM and paid USD160 and shipping cost USD1189!! I had noway else to do so. I have done all process at 11H30 and run and run to the airport, I arrived 12H30 and got fliht to Johannesburg 13H00. So many police and soldiers stand before me but I kicked all of them off and go ahead !!
 Now I am listening their azaan in the morning sunshine, very different feeling...

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2010年02月16日

ブラジル滞在もあと2日

 Carnavalである。同時に複数箇所で面白いライブがあるのでネットカフェなんかで道草食ってる時間はないのだが、さすがに飛ばしttぱなしで疲れたので、思い出したことを書いといたるわ。Recifeの街は、Antigoとよばれる旧市街、その北のSantoAntonioを中心にした商業地、BoaVistaを入り口にした交通の要という3つの島のような地形に便宜上分けることが出来、それぞれは3本ずつの橋で繋がっていて、そのなかの10箇所程度でさまざまなconcertsやparadeが行われる。それぞれの広さは歩いて回れる程度だが、carnaval中は寿司詰めで身動きが取りにくい。さらに中心部は厳しい交通規制がかかるので猛烈に渋滞する。空いていれば30分程度のところにOlindaという美しい街があって、ひなびたcarnavalをやっているのだが、日没後に双方の町を往復するのは得策ではない。分身の術を使うべし。バスはかなり頻繁に走っていて使いやすく、期間ちゅうはほぼ終夜運転している。憂さを晴らしすぎてラりとるガキ以外はやさしい人たちである。internet通信速度は激烈に遅い。Informationの事務所で配られているprogrammeはほぼ信用できない。新聞にその日の予定が掲載される。今までに見たBig Artistsは、Lenine、Carlinhos Brown、JorgeBenJor、Elba Ramalho、Ze Ramalhoなど。太鼓の過剰な音楽の嫌いな太鼓奏者の私としては、毎日がとてもつらいのだが、FrevoとMarchaが一日うt聞けるのはいい。ほかにCarblinhosやIndigenaの祭りも郊外で催されるので、今k来って来る>時間が来たではまた
posted by jakiswede at 03:50| Comment(13) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月12日

Recife, the last destination in Brasil

Now I am in Recife, the last destination in Brasil. I will spend the carnival week here. The programm had already been published and it is very clear to be understood. I had already got the programme booklet, map and index of the programme of the carnaval. I had already determined what, wen and where to see. Yesterday, as soon as I arrived here early in the morning, I went to the centr of the city and another aera of Boa Viagem and had got almost all of the informations and grasped the heart of this city. The town is decorated beautifuuly for the carnaval, no, may be already begun, because many people were drunken and the streets were scattered with so many paperflowers. Peoples in Recife are extremely kind and gentle. This town is like a suburbern city, deferent from Rio de Janeiro and Salvador. I am staying north of the outskirt of the city. Here is surround by the Favelas but I feel no danger, very kind peoiple always watching me so safe. I will go to the centro to see the Cabochinhos parades and Roda de Choro in Olinda in this evening. Some neighborhoods will bring me there. I played Bahyon and Shotti? with them and appered to the event held at the Nishinomiya Yamagutchi Hall early in this morning of Brasilian tme. I saw, I ate, I heard and I am enjoying... ad I go ahead.
posted by jakiswede at 03:49| Comment(0) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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