2013年01月03日

20130103 旅先の新年どんなんかな


こんなんやったかも・・・
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2011年09月21日

20110921 写真展@岡山

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 岡山市で「第三の旅」写真展が行われています。お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。

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 http://blog.omolabo.com/

 http://www.kutsutatsu.com/

 http://shimonocho.omotecho.or.jp/shop/tatuoka/

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2011年05月20日

20100416 Epilogo

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 20100416 畑に戻って農作業を開始。上が帰国当初の状態、下が今年の同時期20110414の状態である。雑草は生えているものの、これを見れば冬じゅう田畑を放置しても深刻な事態にはならない事がよくわかる。豆類は、むしろ見放されていた方が良く育っていたほどだ。田んぼの作業は遅れていて、この日から田起こしを始めているが、結果的にコシヒカリの栽培には成功している。帰国してからこの日までの日記がないので、どこで何をしていたかは不明であるが、帰国したのが4/12の夕方で、実家に帰ってそのまま寝たのであろう。13日くらいはゆっくりして、14日にこちらに戻ってO氏ほかに挨拶に回り、友達や店にも顔を出して、15日あたりは時差ぼけで寝込んでいたものか、ようやく気を取り直して土に立ち向かったのが4/16と思われる。すぐに田植えまでの日程を逆算して、farminhosのメンバーにメールをまわして段取りしている。

 

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 http://jakiswede.seesaa.net/article/146709682.html

 

 デジタルカメラのカウンターによると、旅の間にコンパクト・カメラの方だけで2,500カットもの写真を撮っている。一眼レフはそれほどでないとしても、裕に3千枚を超える写真を撮影した事になり、それだけでもフィルム84本、録音に至っては数十時間分になるから、フィルムとカセットの嵩を考えただけでも、デジタルの恩恵は素晴らしい。そのあと、農作業に追われつつ、旅の記録や持ち帰った資料を整理し、日記のカタチに落とし込んでまとめはじめた。

 さてこの「第三の旅・ブログ版」はこれにて終了。これから全てをもう一度洗い直して、時系列にとらわれずに「なにをしてきたか」を中心に旅行記の完成を目指したい。その暁には、正式に「ザイール・ヤ・バココ」の一章として書き加えられるであろう。

 

 http://homepage.mac.com/jakiswede/1congo/11bakoko/110bakoko_fr.html

 

 そしてこのSeesaaブログは、容量に限りがあるので古い記事から削除されて行く事になる。ブログというものは新しいものが最初に表示されるから、旅日記のように完結したものを時系列順に読むには不便であるので、初めから読んでみたい方は、下記リンクを開いてもらって、一番下からナビゲーションで読み進めていただくと良い。ではとりあえず、旅の話はこれにて失礼。

 

 http://jakiswede.seesaa.net/category/7437000-12.html

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2011年05月17日

20100412 旅の終わり

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 荷造りを終えて旅の地最後の晩飯を食いに出た後、4/11 () 23:40 Istanbul発関西空港行きのTurkish Airlines TK46に乗るべく、Taksimからほど近いHavataşという空港連絡バス乗り場へ21時前に急いだ。写真集や土産物の分だけ重くなったとはいうものの、ザックひとつの軽装のままである。Terminal 1に着き、最後のチェック・インを済ませ、ザックを預けたら19.4kgわりと重かったんやな。手荷物の小さいショルダーだけを斜に引っ掛け、免税品店でトルコ産のタバコを1カートンだけ買って出発ゲートへ難なく進む。あーらら、そこにはすでに関西空港行きの日本人団体旅行者の固まりが・・・ああいやだいやだ。関西弁なんか聞きたくもない。

 

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 TK46便は定刻に離陸。機体はAirbus A330-200。運の良い事に、ラスト・フライトは窓側で隣は空席。独り終わって行く旅の寂しさに浸る事が出来た。名も知れぬユーラシアの雪の中を通る道・・・

 

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 背後の日本人団体客が八釜しい。パック・ツアーであろう、機内販売の土産物のカタログが座席にないから日本語の出来るCabin Attendantを出せとわめいとる。全日空の飛行機に乗る筈だったのに、外国の飛行機に乗せられたとクレームを言うとる。添乗員らしき女が「コード・シェア」について説明しとるけど火に油や。ご苦労はんなこっちゃ。ちょっとだけ日本語の解るC.A.が、ヒステリー発作中の更年期おばはんに捕まっとるので、可哀想やし助けたった。聞けば彼女もIstanbulで会った彼女の友達という。朝の機内食が済んでからは、幾分静かになった。いやだいやだ。

 

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 東へ東へと、突き進む。旅は、着実に終わりに向かっている。

 

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 やれやれ、ついに帰って来てしまった。

 

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 関西空港到着は2010/04/12定刻の16:55、どんよりとした雨であった。

 

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 もたもたする団体客をごぼう抜きにしてとっとと降りて入国審査へ回る。気の弱そうな若い審査官にあたったんで、パスポートを渡すと「どちらヘ行かれました ?? 」なぞとほざきよんので、ぶっきらぼうに「あっちこっちですわ」ちゅうたったら黙りこくって通しよった。おいおい、関空のセキュリティ大丈夫か ??

 

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 電車の乗り換えが鬱陶しいんで、伊丹空港経由阪急蛍池行きのバスに乗る。出発した空港に帰国の挨拶も出来てちょうどええやろ。雨の関空橋を渡る。ああもう陸地や。いやだいやだ・・・

 

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 阪急宝塚線に乗って実家へ向かう。やれやれ、長旅を終えて帰国したときに感じるこの違和感は、一体なんなんや ??

 

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 売布神社の駅前に実家近くを通る巡回バスが運良く止まっていたので、それに乗って帰って来た。帰って来たとはいっても、ウチの家族は淡白なものなので、特段騒ぐわけでもない。母には悪いが、無性に日本のカップ・ラーメンが食いたかったので、台所を漁って湯を注ぐ。うむ・・・旨い !! これぞ日本の味や !!

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2011年05月14日

20100411 Üsküdar

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 泣いても笑っても今日が旅の最終日。旅に死のうと覚悟して出たにもかかわらず生き延びてしまった事を悔やむと同時に、無事に生きながらえている事への感謝、終わって行く寂しさとむなしさ、もっと突っ込めたのではないかという後悔の念が、灰色のBosphorus海峡に渦巻く波のように駆け巡る。歌にも歌われたÜsküdarを一目見ておこうと思い、連絡船に乗る。

 

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 対岸の船着き場の広場で渋いおっさんがチャイ売ってたので、その場で買って飲む。肌寒い風の中、どんよりとした曇り空の下で飲む甘ったるいチャイの味が最高。チャイは鶏の血の色のように赤いのが良いとされ、それを濁らさずに常に良い状態で保温するのがチャイ売りの極意なのだそうだ。近くを流して来たパン売りの少年からトルコ風ベーグルを買ってほおばりながら、チャイをお替わりする。鳩に混じって、暇そうなおっさんが集まっては消えて行く。やはりこちらはアジア側、どことなく対岸とは空気が違う。フロントガラスの行き先表示を見て、どうやら周遊バスと見たこのdolmuşに乗り、道端で仕事仲間とチャイを飲んでいる運転手に、身振り手振りで「ぐるっとまわるのか ??」と訊いてみたら、にんまり笑って「ええとこ連れてったるぞ」とか言ったような気がした。

 

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 久しぶりに雑然とした下住宅街の緊張感を鋭い視線に感じながらのdolmuş周遊の小旅行は実に楽しいものだった。運転手は誠に快活で、そこのタバコ屋の娘は多分イケるとか、あの丘の上のクソババアの飼い犬は八釜しいとか、今にも崩れそうな斜面に張り付くように建っている、恐ろしく庶民的なたくさんの住宅の間を、まさに縫うように走る狭い路地の全てを知り尽くしていて、その辻つじの全てを私に伝え切らなければ気が済まないという剣幕でまくしたてて来る。その調子はだんだん熱を帯び、やがて言うべき事が増えすぎて走るスピードに追いつかなくなり、しばし車を止めては客に文句を言われ、渋々車を出しては運転がおろそかになる、という事を繰り返しつつ、行きの客と帰りの客がすっかり入れ替わる頃には、みんな面白がって運転手の説明に茶々を入れたり異論を唱えたり、客同士で見解の相違がぶつかったりと、なかなかの盛り上がりであった。しかも機関銃のような早口のトルコ語である。私も行きしなの前半くらいまでは、なんとかひとつひとつの身振り手振りで話の内容を追いかけていたが、やがてそれにも疲れてしまい、次第に聞き手の主体は私よりも地元の乗客に移り変わって、もとの乗り場へ戻って金を払おうとすると、「なんや、おまえまだおったんか」・・・いやいやどうして、たぶん30年前もこんな感じだったであろうと思われるひとこま、ええもん見さしてもらいました。

 

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 ちょっと静けさ欲しさに丘の中ほど、海峡を見おろすモスクへ向かい、礼拝に集まる信者たちに混じって中に入り、ともに礼拝し、彼ら全てが出て行った後も堂内にとどまって、時と光の移り行く有様を心に沈め、平安な気持ちで帰りの舟に乗った。

 

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 Eminönüにもどって遅い昼飯を食いながら旅の締めくくりをどこで過ごすかを考えた。船着き場に置いてあった、黒海まで行けるBosphorus海峡クルーズ船の出発にはちょうど良い時間だったが、思い直してEyüpへ向かうことにした。先のモスクでの瞑想の時間でイスラムに啓発されたのか、メッカ、エルサレムに次ぐイスラム第3の聖地であり、近くにはフランス人の詩人Pierre Lotiがこよなく愛したという絶景のカフェがあるというSultan Camiiに向かう事にしたのである。目の前のターミナルから99番のパスを捜し出して乗り込む。

 

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 今日は日曜日とあってEyüpのSultan Camii周辺は大混雑で、私は早々にバスを降りて道を歩いた。道々土産物屋や参道沿いの庶民的な建物を見物したりしてなかなか楽しかったが、観光地というものはとかく人に金を使わせるように出来ているので、Üsküdarでの体験のように地元の人との心のふれあいは少ない。イスラムでも大本山というか聖地というか、大掛かりな宗教施設の周辺というものは独特のバブルな空気に満ちあふれていて、それに染まらなければ楽しめないように出来ている。こちらにはその気はないから適当にあしらって次ヘ行く。

 

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 Camiiの参道の脇から墓地へ上がる道があり、それに添って広大な墓地公園を散策すると、やがて反対斜面に通じる路地があって金閣湾を望む。断崖になっている道を川に遡るように進むと、やがてPierre Lotiのチャイハネに出る・・・のだが、とにかくものすごい人で、異国を旅して作品を遺した詩人の想いを辿ってみたいという私の目論みは完全に外れた。「Pierre Lotiのチャイハネ」は、別館のほかに新館やアネックスもあって、路地の通路にまでテーブルを出し、その全てが満席であって順番を予約しなければならないほどである。もはや情緒もなにもない、そこらじゅう土産物屋だらけの喧噪状態。辛くも逃れて脇道を捜したが見つからず、仕方なく群衆に押し出されるようにメインの参道に戻った。渋滞で時間を取られるのはイヤだったので、地図を頼りにメトロの駅を捜し出して戻って来た。えらい目に遭うた。帰りに、昨日予約しておいたシンバルを買いに「Drum Club Shop」へ寄ってみたが、なんと日曜定休という。やれやれ、それもこれからの為にカネを温存しておくようにとのアッラーの神の思し召しと諦めて、Ara Güllerの分厚いモノクロ写真集だけを買ってホテルに戻る。荷造りするうちにやがて辺りが暗くなりはじめたので、見納めにGarata橋で屯する釣り客をモスクを遠景に写真に収めようかと思ったが、表通りが余りに気ぜわしいのでやめた。ちょっと休んでいるとすぐ暗くなり、慌ただしく旅の最後の日は暮れてしまった。

 

 http://web.mac.com/jakiswede/iWeb/3e_mobembo/Istanbul.html

 

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2011年04月21日

20100410 Panorama 1453

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 先日Gallipoliから戻ったときに見かけた楽器屋街ヘ行ってみた。場所はGalata橋の隣のUnkapani橋を西南へ渡って、Attatürk大通り水道橋の手前に広がる問屋街「I.M.Ç」である。6つばかりのセクションに別れたビルに楽器屋が散在している。大量販売で値段は安く、ものを見る目のある人ならお買い得商品がずらり並んでるといった印象だ。しかしシンバルにかけては、ほとんど得るものがなく、店員も知識なく、置いてあるものも通り一遍で扱いも雑であった。

 

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 さて私はシンバルを捜しに来たのであるが、Istanbulの街をあちこち歩いてみて思い知った事がある。私のこの街に対する印象というのは、実は藤原新也氏の写真集『全東洋街道』に収録されていたものによって形作られていたと言って良い。この作品は1980年頃に出版されたものだから、今から30年も前の事になる。私はIstanbulでシンバルを捜すという事を、なにか下街にたくさんのシンバル工房が並んでいて、そこには名も知れぬ様々なシンバルが作られ売られていて、あるいは客の注文に応じて特注シンバルを作ってくれたり、バザールのような雑然とした金物街や楽器屋街があって、そこには膨大なシンバルが黄金色に光り輝いているのではないかと、30年も前の写真から勝手に想像して、胸を弾ませていたのである。そんなエキゾチックな街を、エキゾチックな未だ見ぬ美女と・・・なんて想像しながら胸を弾ませ、股間を熱くして熱帯の旅路に耐えたのであったが、実際は日本の楽器屋と何ら変わるところのない、そういう点では、ブラジルでもカイロでも変わるところはなかったのだが、管理された企画商品が高い値段で売られていて、想像していたような風景にはお目にかからなかったのである。これは失望であったが、しかし今回の旅を通じて、私がいかに世界というものを、それに対して初めて憧れを持って夢想した時代、すなわち1980年代のままのイメージでとらえていたかを悟った。今は、まごう事なく、この地球上の全ての土地が、2010年なのであった。あたりまえのことだが・・・

 

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 さて気を取り直して、もうシンバルの探索は諦め、水道橋の裏手から問屋街の雑踏へ分け入り、数々の有名なモスクの壁を伝いつつ自分の心の迷いや思い込みを断ち切るように、ただひたすらに街を眺めつつ歩きまくった。そして腹が減ったら、町中のじいさんたちが出入りしている安メシ屋へ潜り込んで、ひたすら食いまくった。

 

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 雑貨屋で土産物になりそうなものを買いあさり、古本屋の脇で開いていた蚤の市で猫の昼寝を邪魔し、とある狭い路地で見かけた風景に、束の間の80年代を感じたような気がしたが、それも携帯電話の電子音でかき消されてしまった。しかしそんなことにひるんでいる時間はない。あと一日半で私の旅は終わるのである。自由奔放な管理されない時間は、これで最後なのである。これからの私の人生では、このような旅を敢行するほどの経済的な余裕など、生まれる筈もないのである。私の人生で最後の旅らしい旅なのである。今日は行きたいところがある。

 

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 Eminönüのバス・ターミナルからTheodosius 2世 (在位408-450) 時代の城跡が残るTopkapi方面へ向かう。Theodosius 2世の祖父さんは、分裂していた西ローマ帝国と東ローマ帝国を統一した最後の皇帝であり、キリスト教を国教とした最初の皇帝であった。その孫のTheodosius 2世は、首都の防衛の為に強固な城跡を建造するなど東ローマ帝国の基礎を築いた皇帝である。さてどんな国でも、バス・ターミナルというところは、どことなく管理されない土地の自由と無秩序が感じられるものだ。パン売りがやって来る。チャイ売りのじいさんがしわがれた声を張り上げている。多文化融合の国らしく、アメリカナイズされたトルコ人もいれば、真っ黒なブルカを纏った女性もいる。ひげ面の私は、微笑みを持って彼らの仲間に入れられた。

 

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 1453年、Mehmet 2世率いるオスマン帝国軍は、当時のConstantinopleを包囲し、これを陥落させた。これによって古代から連綿と存続して来た「ローマ帝国」の名は歴史から消えた。最後の「ローマ帝国」であった東ローマ帝国 (ビザンティン帝国) の首都はIstanbulと改められ、西のローマン・カトリック教会と分立した「(東方)正教会」の象徴であった聖ソフィア大聖堂の周囲にはイスラムの象徴たる4本もの尖塔が建てられ、名前もAyasfya寺院と改められた。主に東方に勢力を保っていた「正教会」の中心はロシアに移り、その流れは日本にも及んで、函館に美しいハリストス正教会を遺した。ロシアでは永らくモンゴルやトルコに悩まされて来たが、この頃ようやく「タタールのくびき」から解放された。ここには、こうした東ヨーロッパ辺境部の複雑な歴史が刻み込まれている。「1453」は、そんな中でも最も衝撃的な出来事だった筈だ。大学生の頃、ビザンティン帝国の歴史の専門家が、正教会の側からトルコの歴史をひもとくユニークな講義を開いておられた。単位も加算されないのに、私は4年間も彼の講義を連続して受けた。だからメトロの車内でポスターを見たとき、そのままバス乗り場へ急いだのである。城跡の周囲は公園化され、一部は産業道路やメトロの側道になっている。

 

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 http://www.panoramikmuze.com

 http://www.yerebatan.com/

 

 会場は巨大なプラネタリウムのようなものだった。中央の暗い螺旋階段を上がると、様々な展示物をへて、最後には巨大なドームの下に出る。それは戦場のまっただ中であった。迫り来るMehmet 2世率いるトルコ軍が、かのTheodosius 2世が一千年前に建造した強固な城跡を乗り越えて攻め込んで来る。迎え撃つConstantinus 11世率いるローマ軍との戦いが、きわめて精密で立体的な絵によって、ドーム一杯に描かれていた。「なんだ、絵か」と言ってしまえばそれまでだ。大半の客はそんな反応だった。しかし私にとっては、4年間も講義を受け、アナトリアからコーカサスを経てウクライナへ、そして東へ広くトルキスタンへ至るこの地域の歴史について学んだ内容が、明確なイメージを持って繰り広げられていた。展示会のタイトルは「Panorama 1453」・・・たかが絵である。しかしこの絵は、私が4年間かけて学んで来た事を、一発で射止めるほどの説得力を持っていた。トルキスタンこそは、死ぬまでに一度は訪れて、この目で見てみたい憧憬の地である。

 

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 さて、その夜は正統なMevlevi教団の旋回舞踏を見に行き、その脚でPaco de Luciaのコンサートに滑り込んだ。さらに宿泊しているAs Hotelのコネクションで、近所のバールで行われた彼のプライベートなアフター・パーティーにも呼ばれ、フラメンコに合わせて下手なカホンを叩いて喜ばれた。しかし一日中走り回った結果、カメラのバッテリーは切れ、私の精神力や記憶力も切れてしまって、実のところ何をどうしたんだか、よく覚えていない。気がつけば翌日の昼前だった。

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2011年04月09日

20100409 Savall Istanbul

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 上の写真は、彼女の住むマンション近くの風景。庶民的な街で親しみやすい。もうすぐお別れ。名残を惜しんで街のカフェで朝食にする。トルコはパンが非常においしいのである。生地はフランス・パンに良く似ているが、それよりも遥かにもちもちしていて、表はカリッと香ばしい。通りでおっさんがワゴンで売っているものも、そこらのスタンドで労働者がそそくさと食べているものも、今回の旅行中で最もおいしいパンであった。間違いなくフランスやイタリアの普通のパンよりは旨い。彼女が行きつけにしている、ちょっと上品なカフェの朝のパンがこれまた旨かった。その店手作りのもので、未だ中はほんのり温かい。パンに、果物の砂糖漬け・サラダ・ハムと濃いトルコ紅茶の組み合わせが絶品。その後、馴染みの自然食品店で、紅茶やドライ・フルーツなど、重荷にならないトルコ土産選びにまでつきあってくれて、メトロ・バスの駅まで出た。

 

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 Istanbulは夜遊び天国である。中心部の繁華街からは、都心を囲む半環状道路の主要な交差点に向けてシェア・タクシーまたはdolmuşと呼ばれるミニ・バスが走る。半環状道路には、中央に「メトロ・バス」専用レーンがあって、30分間隔で終夜運転している。上の写真はその駅、「D100/ E-5 Karayolu」と呼ばれ自動車専用道路の中央部のメトロ・バス・レーン、まさに日本のニュータウンにある鉄道駅のような構造である。走ってくるのは、二両連結のバスだったりする。その外側に自動車専用の幹線道路、左の側道にdolmuşが客待ちしているのが見える。この駅で、彼女は西に私は東に別れた。バカンスは終わった。彼女は空港へ勤務に発って行き、私は都心へ向かう。最後のフライトは4/12の関西空港行きである。あと4日・・・旅の締めくくりだ。

 

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 一人旅に戻ろう。荷物を担いでメトロバスに乗り込み、メトロに乗り換えてTaksimへ赴く。景色の良いホテルで旅を締めくくりたいと思い、Taksimから西斜面にあたる繁華街の高い建物に的を絞った。結果、海は見えなかったが、まあまあ見晴らしの良い安い部屋を見つけた。ちょうど前の客が出た直後で、清掃に入るところだったのが良く、角部屋のツインだったが、ベッドのひとつが傷んでいるということで、シングル料金にしてくれた。

 

 http://www.asotelbeyoglu.com/

 

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 音楽散策の再開である。観光ルートのIstiklal通りを歩きはじめて出会った若者グループ。ギター・カーヌーンにカホンで、トルコ風「T-Pops」て感じの、伝統的な空気感を残した軽めの演奏であった。左手で低音、右足で高音を出す組み合わせは、ドラマーである私にとっては生理的に無理なところだが、ペダルを使ってカホンと組み合わせるところまでは良く気がついた。誉めてつかわす。もちろんこのあと彼とペダル・カホン談義に花が咲き、良いシンバルを捜していると言うと、Galata塔の脇の坂道を散策するが良いと奨められた。

 

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 Istanbulへ楽器を捜しに行くミュージシャン諸氏に告ぐ。Galata塔の西をGalata橋まで降りてくるGalip Dede通りという急な坂道の両側とちょい裏通りには楽器屋がひしめいている。相場はCairoよりかなり高いが、アラブ系の音楽に使われる楽器は、ほとんど手に入るであろう。質も良いものがきちんと置いてあるし、店員は親切だ。さて、なかでもシンバルを捜しに行かれるドラマー諸氏に告ぐ。この坂の中腹にあるIstanbul MehmetのDrumClubShopを訊ねて行かれるが良い。Istanbul市内の楽器屋はくまなく回ったが、シンバルについて正しい知見を持ち、誠意を持って対応してくれたのはここのスタッフだけであった。

 

 http://www.drumclubshop.com

 http://www.cymbalsfromistanbul.com/

 

 その店で散々に試奏させてもらったあげく、Nostalgiaシリーズの新しいモデルのハイハットを予約した。この新しいモデルは未だ日本には入っておらず、前のモデルの音色とはかなり印象が異なる。デザインもシンプルになり、あのゴテゴテしたロゴやサインはほとんどない。もともとのIstanbulシンバルの良さ、柔らかさ、倍音の豊かさが際立っている。1970年代の頃の暖かみと言おうか。しかし私の欲しかった14インチのハイハットは既に売約済みで、店には15インチの在庫しかなく、15インチでは大きすぎるのである。生産量が限られているので、かなり入手が難しいようだ。

 

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 その夜、Jordi SavallのコンサートがIstanbulの大きなコンベンション・ホールであるLütfi Kırdar Uluslararası Kongreで行われた。TaksimからHotel IntercontinentalのあるCumhyurieti通り沿いにあるきわめてハイソサエティな空気これでもかのエリアである。盛装した客層の中で私が浮きまくったことは言うまでもない。さて、演奏は、前年の2009年に発表された最新アルバム「Istanbul」にクレジットされたHesperion XXIではなく、客演メンバーをも含めた特別オーケストラで、なんといいますかね・・・クラシックの生演奏を聴くことは稀であるので、必ずしも適切に表現できないと思いますが、戸惑いましたですね。もちろん電気的には増幅されてない生音の響きで、真ん中のちょっと前という、結構よい席を確保してくれていたので、音が手に取るように解るし、古楽の世界では大御所であり、日本ではまず見られないものだっただけに、非常にゾクゾクするほど好きな音が真っ正面から突き刺さってくるような感じ。弦の響きがビンビン来た。余韻を壊さないように終演後そのまま帰って寝た。

 

 http://www.jordisavall.es/

 http://www.icec.org/

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2011年04月08日

20100408 Istanbul Mambo

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 美女と夜更かしして遅くに目覚めた翌朝は、体中がだるくて外の天気なんかどーでもよくて、ただひたすらに過ぎ行く時を惜しんでいたいものである。しかし彼女のバカンスは今日で終わり。明日は、成田便の乗務なので、残された一日、せめてIstanbulの観光スポットだけでも案内したいという彼女は、昼遅い朝食を作ってくれた。

 

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 混雑する観光地はお互いに敬遠して、ちょっと離れているが、小さくて中身の濃いモスクをいくつか案内してくれた。続いて最近再開発されておしゃれな若者のスポットになっているBesiktasを散策、カフェでお茶したりしてデート気分も満喫し、夕刻から始まった地中海音楽のパーカッション・グループのコンサートを見に行った。内容は、まあファミリー向けですな。そんなことでちょっと物足りなかった我々は、Taksimで偶々出くわした彼女の旧友とともに、とあるバーへキューバ音楽を聴きに行った。こっちの方はまあまあ良かったのだが、結局またしても午前様で明日から勤務の彼女に負担をかける結果になってしまった。

 

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2011年04月05日

20100407 Gallipoli Houses

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 昨夜のディナーには三組の家族が集った。我々以外はオーストラリアとイギリスの二家族であった。ディナーは、完全なヨーロピアン・スタイルで供され、二時間半に及ぶフル・コースはまさに「社交」という類い稀なる貴重な経験を私に与えてくれた。二家族とも「ANZAC DAY」に合わせての訪問であり、図らずも「Gallipoli上陸作戦 」に関わった国の末裔がここに集ってディナーを楽しむ図となった。もちろん話はその戦いの歴史的な意味や評価などに始まり、男たちの議論は少し熱を帯び、女たちのおしゃべりは風光明媚な土地でよくも戦争なんかしたものだという笑い話に流れて行った。メイン料理はトルコ風の焼き魚であったので、またぞろ私は懐から箸を取り出し・・・これが非常にウケて、固まりつつあった男たちの表情を和らげ、場の雰囲気を開放し、さながら「日本のお箸の使い方教室」の様相を呈し、やがて話題はこの奇妙な日本人の旅の遍歴へと移って来た。手短に今回の旅を要約し、最も困難であった「川の道」と「太陽の道」のエピソードにさしかかると、社交界風に大げさな仕草で「おおっ、ふあんたぁすてぃいいっく !! 」なんてやられるもんやからちょっと難儀やったな。でもイギリス人の白人の娘は強烈に美しかった。デザートからトルコ・コーヒーへ移行する頃には、やがて話題も尽きて、それぞれの部屋へ戻り、夜の村をそぞろ歩きするアフター・ディナーの集まりに若い者同士が呼び合って、イギリス人美女の視線をちらちらほっほぺに感じながら、なかなかまったりとしたトルコの田舎の夜更けでした。

 

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 今朝も雨である。緑の濃い風景が目を洗う。しと降る雨に濡れながら朝の散策を楽しむ。別ルートでエーゲ海を望める尾根に出た。道路沿いの展望台から海を望む。売店でパンを買って来て、持参のワインでブランチとする。美女とワインとエーゲ海・・・男にとって、これ以上の幸せが他にあるだろうか ?? このまま身を投げてしまえば、幸せのうちに死ねるのだ。もう良いではないか。もう十分すぎるほど人生は楽しんだ。世の中に、どうしても手に入れなければならないほど価値のあるものや、どうしても守らなければならないほど大切なものもない。私がここでいなくなったからといって、別に誰が悲しむというわけでなし、思い出は十分貰ったから、それが腐らない今のうちに始末してしまうのが良かろう。

 

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 旅の最後を飾るにふさわしい宿は「The Gallipoli House」といって、家族経営で広い敷地の中に個建てのコテージの並ぶ、なかなか洒落た異空間である。Kocadereの村のモスクのすぐ脇にあって、村自体もさほど大きくなく、何本かの道が交差しているだけで、特にいうべきものはない。しかし、その時間の止まったような空気は他では得難く、牧歌的な風景、戦争の歴史、静かで穏やかな村人と、休日を過ごすにはもってこいの環境である。

 

 http://www.gallipoli.com.tr

 

 

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 さてチェック・アウトは11時であるが、EceabatからIstanbul行きの次のバスが14:30の予定であるので、別に次の客があるわけでなし、しばらくゆっくりするが良いと言われて、ありがたく寛がせてもらった。バスに合わせて村からシェア・タクシーが出るのである。運転手はホテルの友達であるので、出発前に声をかけてくれるのである。超リラクシン旅人。

 

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 昼の買い物に出るおばちゃんと乗り合わせて、少しバスには早く下界へ下りた。こちらも昼食が未だであり、Çanakkaleからの船が遅れているというので、船着き場の脇のカフェで少し遅い昼食とした。一人旅はてきぱきと運ぶに限るが、連れのある時は気怠いほどにスロウが良い。

 

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 今夜は彼女の友達の誕生日のパーティーで、私もご相伴にあずかった。さすが国を代表する航空会社の看板C.A.だけあって、交友関係もめっちゃセレブ・・・ひとりはH.I.S.唯一の外国人支社長、ひとりはJTBの現地法人社長、もうひとりは丸紅現地法人社長の秘書で、日本に縁の人たちの集まりであった。場は、ほとんどストレスなく日本語状態。やがてウード・カーヌーン・歌と打楽器のマカームが始まり、やがて酣となってプレゼントの交換会、ローソク消しなど、まあ賑やかなこっちゃった。看板までその店で騒いでから、二次会はTaksim近くのフラメンコ・バーへ移り、近々予定されているPaco de Luciaのコンサートの前祝いもかねて、多くのファンが詰めかけて盛り上がっているところだった。ままよと、そんな真ん中に放り込まれて客のフラメンコ・ギターにカホンを合わせ、音楽的誕生日パーティーは夜更け過ぎまで続いたのでした。

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2011年04月04日

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 http://web.mac.com/jakiswede/iWeb/3e_mobembo/Gallipoli.html

 

 Gallipoliは英語名で、トルコ語ではGeliboluという。Istanbulよりトルコの領土のヨーロッパ側をエーゲ海まで伸びるGelibolu岬の先の方にEceabatという港町があり、それを渡ると対岸のÇanakkaleを経て、観光地として有名なTroiaに至る。そのEceabatから少し内陸に入ったところにKocadereという村があって、私はかねてよりここを訪れたいと思っていた。村から望むと西に穏やかな丘陵地が広がっていて、ここは、1299年に興り第一次世界大戦に敗れて1922年に滅亡するOttman's Empire (Osmanlı İmparatorluğu = 私の高校時代は「オスマン・トルコ」といった) にとってその滅亡の端緒となり、代って興ったトルコ共和国 (Türkiye Cumhuriyeti) の独立のきっかけを作った、歴史的に大変重要な場所だからである。

 

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 オスマン・トルコ、オスマン帝国、トルコ帝国・・・これはモンゴル帝国とともに、東洋史の中でも最も興味深い国家あるいは民族勢力のひとつである。もともと周 (B.C.1046 - B.C.256) の時代に中国の北方に勢力を持っていた「狄 (てき) 」という民族が起源であって、これがTürkiyeの音写の最初とされている。もともと遊牧民族であり、他の遊牧民族にも見られるように、狼から祖先が生まれた伝説や、若きを尊び老を卑しむ価値観、夫に先立たれた妻は夫の兄弟の妻になるなどの風習を持つ。「狄」はたびたび中国の北方辺境を脅かした為に、中国人によってこの字が「蛮族」を意味するところとなり、中国語に倣った日本語にも「夷狄」などといってその意味が転化したことは、トルコ民族の起源に対してきわめて失礼な事態と言わざるを得ない。

 

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 さてそのTürk民族が歴史上重要な役割を果たす最初は、古代トルコ帝国「突厥」であって、6世紀から8世紀に渡って中央ユーラシアを中心とした広大な地域の覇者となったのだが、この地は古くアレクサンドロス大王の東方遠征によって建設された大帝国、次いで紀元前4世紀頃から勃興し370年頃ヨーロッパを深く蹂躙して「民族大移動」を招く切っ掛けとなった (ともされる) 匈奴 (Hu-Na?) が本拠を置いて以来、突厥・セルチューク・ルムセルチューク・モンゴル・オスマン・・・と、この地に大帝国の勃興する歴史をパターン化した。また、イスラーム勢力の拡大とその受容などによる、ウイグル・キルギス・マムルーク・パシュミールなどの数多くのTürk系諸民族が分布して、やがてここは「トルキスタン」と呼ばれるようになった。また、往々にして彼らの勢力範囲はヨーロッパに及び、「小アジア」とも呼ばれるアナトリア半島はその最前線であったことから、歴史的に何度も何度も波状的に繰り返された西への民族大移動によって、現在のトルコ共和国の大部分を占めるアナトリアは、重層的に様々なTürk系諸民族が凝縮されることになる。

 

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 互いにそれぞれが独自の文化や言語や民族的アイデンティティーを持っていると思われるので、全てを合わせればおそらくは世界有数の人口を誇るであろうTürk系諸民族といえども、一括りに考えることは無意味と思われる。しかしアジアの東の端に勃興した彼らが、現在西の端に国民国家を持っていることは誠に興味深い。この場所が歴史上東西文化の重要な交差点となり、有史以来様々な勢力による争奪の舞台となって、ギリシア・ローマ・アルメニアの時代を基礎にして、モンゴル・セルチューク・オスマン・・・と、重層的に重なり行くオリエント・ヘレニズム・ビザンティン・イスラームの様々な文化が凝縮したのは、まさに彼らの活動の結果であって、また翻って彼ら自身の多様性を培うことにもなったように思われる。俗に「世界三大料理」のひとつはトルコ料理とされていて、それはアジアもヨーロッパも飲み込んだ複雑な歴史の産物であって、これこそが彼らの文化的多様性を良く表しているであろう。音楽に於いてもしかり、楽器に於いても然りである。私はそういう混沌とした多様性故に彼らに深く魅かれるのであって、傍らの美女と深く情を通じることは、私にとっては誠に自然な姿であった。もっと早くに気づくべきであった・・・(`へ'っ

 

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 さて、その彼らの歴史は常に近隣勢力に翻弄され、あるいは翻弄し、移動し、同化し、数多くの大帝国を建設したものの、晩年には「瀕死の病人」と蔑まれつつアナトリアに踏みとどまってTürkの名を守り抜いた歴史である。純然たるイスラーム国家というよりも、ヨーロッパに近いその地理的条件か、または民族の存続を最優先した英断なのか、「タンジマート」などの改革をもって西欧化を試みるなど、生き残りの為にはイスラームをも手段とするその打たれ強くなりふり構わぬ満身創痍の三千年の歴史に私はいい知れぬ親近感と尊敬の念を覚える。

 現在のトルコ共和国の基礎を築いたのは、Istanbul国際空港の名前にもなっているMustafa Kemal Atatürk (1881 - 1938) であり、私は高校生の頃から個人的にこの人物に非常に親近感を覚えていた。私が今回の旅行の訪問先のひとつにここGallipoliを選んだのも、Istanbulから近いという条件もあったし、せめてエーゲ海を見てから死にたいという望みもあったし、それがトルコ人美女と一緒ならなおさら悔いはないという色気ゆえであったとはいうものの、Mustafa Kemalがその名声を勝ち得てその後革命を起こし、現在のトルコ共和国の初代大統領にまで登り詰める端緒となった「Gallipoliの戦い (1915) 」の場をこの目で見る為であった・・・ほんまほんま。

 

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 それは、エーゲ海を望む緩やかな斜面だった。ここがかつての激戦地とは思われぬ程、のどかで美しい風景である。「瀕死の病人」とまでいわれた当時のオスマン帝国は、20世紀に入っても古代からの大帝国の名残を残した広大な版図を持つ多民族国家という性質が災いして、多正面外交に敗れた結果、第一次世界大戦の頃までにはバルカン半島と北アフリカを失い、アナトリアに踏みとどまって、辛うじてペルシァ湾へのアクセス (メソポタミアすなわちイラク) とアラビア半島の紅海沿岸 (パレスティナからイェメン) を死守するのみとなっていた。バルカン半島からはじりじりとヨーロッパ側の領土を圧迫され、北からはロシアが圧力を強めていた。そこで帝国はこれを打開する為にドイツと手を組んで第一次世界大戦に「中央同盟国」側に立って参戦したが、結果的に強国のイギリス・フランス・ロシアを敵に回して惨敗することになる。

 

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 しかしイギリスがIstanbul陥落を狙って企図した「Gallipoli上陸作戦 (イギリス名Dardanelles作戦 )」では、それを迎え撃ったMustafa Kemalの指揮するトルコ帝国軍がこれを阻んでIstanbulを防衛した事で、敗戦国にはなったものの結果的にトルコは植民地化や分割統治を免れた。しかし帝国が死に瀕していた事は変わりなく、それを憂いた「青年トルコ党」の抵抗運動によりAnkalaを首都とする臨時政府が宣言され、帝国側であったMustafa Kemalがクーデターにより初代大統領に就任する。大戦の英雄は、ギリシャを駆逐し、連合国側の干渉を退け、古来からのスルタン・カリフ制を廃止して共和制に移行し、政教分離・憲法の制定・太陽暦の採用・法制度の近代化・婦人参政権・アラビア文字の廃止・ローマ字を採用などの改革を断行して、オスマン一族を追放してトルコの独立を守った。Mustafa Kemal大統領は「Atatürk (トルコの父 )」と呼ばれるようになる。

 

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 この「Gallipoli上陸作戦」には、イギリス王への忠誠という訳の分からん理由のために、オーストラリア・ニュージーランドから多数の兵士が送り込まれていた。ちなみに、その輸送に日本海軍が関与している。この兵士たちは「ANZAC (Australian and New Zealand Army Corps) 」と呼ばれ、激戦の末大多数が病死または戦死した。彼らの上陸地点近くにあるKabatepe Museumには、両軍が発射した銃弾どうしが空中で互いに互いを貫いた状態のものが多数展示されている。オーストラリアとニュージーランドは戦勝国の植民地であったが、この戦いでの多大な犠牲を被ったことと、その後敗戦国であるオスマン帝国に革命が起こってトルコ共和国という独立国家が誕生したことに触発されて、忠誠などという訳の分からん理由のために殺されることのないよう、イギリスからの完全独立の気運が高まった。戦争敵国ではあったが、革命後のトルコ共和国とは友好的な関係となり、戦いのあった毎年4月25日「ANZAC DAY」は両国では祝日、トルコでも記念行事が行われている。歴史の不思議である。戦場となった斜面に散在するいくつもの墓地や広場に花が飾られ、式典の準備が進められているのを目にした。しかし歴史は美談ばかりを語らない。その前日4月24日は、アナトリアの東方辺境に居住するアルメニア人にとっては歴史上最悪の日だった。「アルメニア大虐殺」として伝えられる事件は、200万人が犠牲になったともいわれ、その蛮行にオスマン帝国下の青年トルコ党が関わったとされているが、現在のトルコ共和国政府はこれを歴史的事実としては認めていない。

 

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 私は、朝食を済ませると昨夜からの小雨が露となって残る草原を歩きはじめた。まったくのどかである。道はトラックの轍を残して遠く続いている。道端の畑では、タマネギやソラマメが育っている。ときおり農夫を見かける。胸に右手を当てて挨拶すると、にこやかに厳かに、同じ仕草で挨拶を返してくれる。しかし、穏やかに見える表情を浮かべる顔の彫りは深い。羊飼いにも出会う。草原はやがて山腹に取り付き、轍から外れて尾根を目指してショート・カットする。尾根とはいえなだらかな丘陵で、遥か彼方に憧れのエーゲ海が光っている。この戦場は国立公園に指定されていて、観光バスが時折通う自動車道が整備されている。その所々に展望台や歴史的モニュメントや公園が散在している。そんな公園のひとつで軽い昼食をとり、地図を手に入れたので、それを見ながら戦いの経過に想いを馳せつつ、草原をエーゲ海に向かっ降りていった。Kabatepeの博物館を見学したあと、ANZACの兵士たちが上陸したという港ヘ行ってみた。そこは公園に整備され、戦争を想起させるものはなにもなかった。記念式典もここでは行われないのか、準備がされているような雰囲気もなかった。静かな浜辺でしばらく寛いだあと、地図を頼りにKocadereへ戻った。

posted by jakiswede at 22:30| Comment(0) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする