2011年02月21日

20100326 Dikanza

 考えてみたら旅も大詰め、どうやら本格的に生き延びてしまったようである。ほっぺたつねったら痛い。この旅の最後をどう飾るか、本気で考えなあかんようなった。ここまでは予定通り進んで来たが、せっかく苦境を脱したのだから、ちょっとくらいハメ外しても良かろう。「世界一周チケット」の残りのフライトは、明後日の3/28 Lisboa→Istanbul、3/31 Istanbul→Osakaのふたつのみでこの旅は終了である。いやや・・・そんなん絶対いやや。未だ終わらせたくない、ほかのオンナにはなんも感じひん・・・いやいや、これこそ机上の空論というものだが計画段階では、LisboaでAngola音楽に触れて伝統楽器の「dikanza」を手に入れ、Istanbulでトルコのシンバルを手に入れたら、とっとと帰ってジャガイモの植え付けと田植えの準備せな、今シーズンの作付け間に合わへんという考えだったのだ。それは昨年の11月の時点であったのだが、そない上手いこと行くかいな。メールで日本の友達が知らせてくれたところによると、今年の日本の春はたいそう寒く、先日も大雪が降って氷点下の冷え込みであったという。いまは時期的にはジャガイモ植え時の真っ最中なのだが、この調子では遅霜が八十八夜にずれ込むかもしれず、そうなると・・・とにかく未だ帰って来んでもエエっちゅうんで、旅を延長することに決定 !! ・・・やったあ !! 

 ともかく、手に入れるべきものは全て手に入れてさっさと日本へ発送し、身軽になってのんびり観光旅行 !! これである。その、手に入れるべきものの筆頭は「dikanza」という楽器、これは中部アフリカには広く分布している一種の「ギロ」であって、等身大程度の竹か中空になった木質の材料に、縦にスリット横に多数のギザギザが刻まれたものである。本体で地面を打って拍子を取りながら細いスティックでこする。スティックを当てる部分を変えたり、スリットを手で塞いだりして音色を変える。日本の竹でいくつか自作してみたが、節の間が狭いので、音色の変化に十分な効果が出なかったことが、本物を手に入れたいと思った最も大きな理由。

 

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 Kikwit, Bandundu, Former Zaïre, 1991

 

 http://www.youtube.com/watch?v=3x5-f8ZreZ4

 http://www.youtube.com/watch?v=5TCM-31nBO8

 

 しかしこれがどこにも見当たらない。というか、そもそもAngolaの人にお目にかからないのである。Lisboaへ来れば、Angolaからの移民はたんといると思てたのに、Cabo Verdeのミュージシャンに訊いても解らない。街で多数見かける黒人は、ほとんどがGuiné-Bissau・・・確かにポルトガル語だ・・・とSénégal (こっちはフランス語) で、彼らは地域が全然違うからこの楽器のことを知らない。あるひとは、楽器ならばLuzの「Colombo Shopping Center」にあるぞよと言う、またあるひとは、そういう楽器ならば土曜日にGraçaの方で「Feira da Ladra (女盗賊市 ??) 」というのがあるからそこで捜したらどうかと言うので、今日これからそのColomboとやらヘ行って、ついでに土曜日に、その市でお土産になりそうな美しい女盗賊を買い込んだら、ルバーブと一緒にその日のうちにまとめて発送してしまおう。Praça dos Restauradoresの郵便局が土日もやってることは確認済み。今日明日は楽器探しに集中、あとは観光・・・よし決めた。さてそのColomboとやらをネットカフェで捜すと、正しくは「Centro Comercial Colombo」といい、メトロの「Colégio Millitar/ Luz」という駅に直結しているようだ。ならば楽勝、2日分フリーパスの「7 Colinas」を買って行動開始 !!・・・しかし私はアホです。そんなこた解っとる・・・3/28すなわち明後日、しかも日曜日のフライト予約を変更できるかどうかも解らんのに、何故楽器捜しを優先したかね ?? ・・・まあこの旅がそもそもアホの旅やから、ええか・・・ミュージシャンの「性」よのう (^^)

 

 http://www.colombo.pt/

 

 「Centro Comercial Colombo」は、とてつもなく巨大なショッピング・センターであった。このような商業施設はSalvadorの「Iguatemi Shopping Center」以来である。たしかにここならありそうだと意気揚々と楽器屋を捜すと2件ある。しかし、店の前まで行って「こらあかん」と思た。ごくごく普通の日本にもよくある量販の楽器屋であって、民族楽器などというものはジェンベもディジュなんとかも、ない。ダメモトで訊いてみたが、白人の店員は案の定「はあぁ ?? 」て反応だった。あかん。可能性は消えた。消えたら消えたで腹が減って来た。荷造り用ガムテープとか梱包用のシール用品など便利なものを買い込んで、長旅ですり切れてそろそろあかんズボンの替えと防寒用にパーカーと、日本にないシャレTを「ワケあり処分」のワゴンに目敏く見つけて買ってからフード・コートヘ行った。これが全くカルフールのデリカそのままのレイアウトで、関西のカルフールほとんど手がけた私は勝手知ったる台所でちゃっちゃと詰めて自分でレジして、裏手のbuffetでゆっくり賞味。やっぱりメニューが違うのと、肉の量が多いのとでもう堪能堪能。内容は、ピラフ・羊肉のシチュー・キノコのショートパスタ・ジャガイモのガレット・サラダ・ヨーグルト、これですよ私が日本に広めたかった味は・・・でもウケんかったよなあ。これでたったの€4.50・・・安い (;_;)

 Colomboのネットカフェで、帰りの便の変更を試みる。つまりこの時点まで、私はそんなことは簡単にできると思っていたのである。3/28 Lisboa→Istanbulと3/31 Istanbul→Osakaの、ともにTurkish Airlinesのフライト予定を検索し、それぞれ4/04 Lisboa→Istanbul、4/11 Istanbul→Osakaに便があることを知る。ただネットカフェからでは予約の変更が出来なかったので、まずはTurkish Airlinesのオフィスを捜す・・・ところが、検索しても検索しても、Lisboa市内にTurkish Airlinesのオフィスが見当たらないのだ。Colomboの観光案内所ヘ行って訊いても解らない。調べてもらって解ったことだが、なんと、Lisboa市内にTurkish Airlinesのオフィスは、ない、のである。繰り返す。LisboaからIstanbulへ直行便を運行しているにもかかわらず、Lisboa市内にTurkish Airlinesのオフィスは、ない。さて大変だ。急いで都心へ、最も信用できるPraça do Comércioの観光案内所へ駆け込んで事情を説明する。エロエロ・・・失礼、いろいろ調べてくれたねーちゃんが言うには、確かにLisbona市内にTurkish Airlinesのオフィスはない。しかも、空港にもないのである。ネット環境が良くないのでインターネット経由での予約変更は困難、となると、Istanbulへ国際電話・・・これは高くつきそうだ。とりあえず荷物を置いて空港ヘ行ってみる。

 Lisboaの空港は都心に近いので助かる。まずは案内所で事情を説明する。するといろいろ調べてくれたが、あいにくお手上げらしい。とりあえずTurkish Airlineをはじめ、いくつかのチケットの販売を代行している代理店の窓口を紹介されたがそこもダメ、空港内のトラブルに対処する係へ案内されたがそこでもダメ、別の旅行代理店で訊いたらTAP (Transportes Aéreos Portugueses = ポルトガル航空 ) でやってくれると言われたがそちらもダメ、Star Allianceの総合事務所で訊いたがこれもダメ、ただ、そこでこのチケットの発行元がLufthanzaであることが解ったので、Lufthanzaのブースへ行ってほとんど泣きつかんばかりに事情を説明したら、黙って聞いてた大柄な白人女性が「ちょっと貸してみなさい」と言って、私のチケットを見ながら端末を叩きはじめた。

 Turkish AirlinesでLisboaを訪れる旅行者の皆さん・・・あんまりこういうパターンはないかもしれんけど・・・LisboaでのTurkish Airlinesの予約変更は、なんとLufthanzaがやってくれるのです。これは全く思いつかなかった。

 この変更のために午後からの半日を見事に使い果たしてしまった。自由の代償は高い。しかしこれで確定。4/04 Lisboa→Istanbul、4/11 Istanbul→Osakaと決めて、あとは観光旅行 !! 実はIstanbulでは、私の友達の友達でTurkish Airlinesの客室乗務員をしているねーちゃんが、首を長くして待っているのである。未だ見ぬ人であるが、客室乗務員というからには美女であるに違いない。とにかく彼女のためにIstanbul到着便を知らせ、あわせて日本で私の帰りを首を長くして待っている何人おるかわからん女たちにも、すまんが帰国が遅れるよメールを送る。夜になってしまったので、ついでに今後の旅行の細かいこと決めてしまう。まずはポルトガル滞在はあと8日もある (^^) ので、田舎巡りで行きたい候補にしてあったObidosとMarvãoの宿泊先を決める。続いて、旅の最後のご褒美にとかねてから調べておいた、トルコのエーゲ海側リゾートにある村のホテルにも正式に予約を入れた。ついでに自分のブログも更新して、Fadoを聴きにAlfama散策に出た。長旅で使いすぎたためか、緊張感が薄れたためか、左膝が痛い。

 

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20100325 Lisboa

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 5時起床6時出発。Tahrirのホテル前でタクシーを拾って空港 (Terminal 3) へ走らせる。Cairo国際空港の出国の手順は、いささか通常と異なる。最初に全ての荷物を含めた透視検査とボディ・チェックがあり、その後チェック・インする。このためパスポート・コントロール時の手荷物検査はない。お土産のルバーブは、チェック・イン時に係の人が気を利かせてくれて、ラップしてくれた上で壊れ物カートに入れて別室ご案内の扱いにしてくれた。また、パスポート・コントロールの内側には銀行がないため、前もって再両替しておくことが望ましいが、知らずに進んでしまった場合、パスポート・コントロールまで戻って専用ゲートでパスポートを預ける必要があるので要注意。空港内のショップは、免税店とマクドナルドとカフェがあった程度で、アラブのカネモチ国にしては質素だ。更に進むと長いmoving walkほ経てボーディング待合になるが、ここで手荷物検査がある。Egyptair MS755 Lisboa行きは、9:00定刻にCairoを出発した。機体はBoeing 737-800、右主翼の上の非常口席だったので、足許が楽であった。離陸してから曇りはじめ、地中海もイタリア半島も見えず、がっかりだった。機内食は、チキングリル・マカロニのズッキーにんにくインゲン添えに、例によって激甘ケーキ。

 

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 Lisboa国際空港には、定刻12:50に到着した。シンプルで解りやすく、何の苦もなく外に出た。見ると目の前に黄色い「Aerobus 91」が止まっていて、これで中心地であるRosioまで行けるのである。迷う気のしない解りやすさであった。ちなみにこのAerobusには割引プリペイド・カードの「7 Colinas」は使えない。ちなみに「7 Colinas」とはポルトガル語で「7つの丘」を意味するが、Rio de Janeiroも「7つの丘」の街を自称しているし、Olindaには「7 Colinas」というホテルがある。ちなみに「Lisboa」は、現地の発音では「リスボン」ではなく「リィシュブォォォォォワッ」て感じやね。ワタシオオゲサネ。バスは広い4車線道路を快適に下って行く。繰り返しになるが、今回の旅の生還率はおよそ50%と踏んでいたので、コンゴから先のことはほとんど考えていなかった・・・けど、この風景見たら、もう観光に徹するしかないでしょ、涙が出るほど奇麗、というか、これでもかこれでもかと奇麗に造ったある。空港で貰った簡潔にして解りやすい地図から即座に判断して、鉄道駅と観光案内所と郵便局が間近にあるPraça dos Restauradoresで下車し、宿探しを始める・・・雨や・・・Inongoで嵐に遭遇してるけど部屋にこもってたから、ひょっとしたらニューヨーク最後の日以来2ヶ月ぶりの雨とちゃうか。ルバーブをラップしてあげましょうってCairo国際空港のおっさんが声かけてくれたのに感謝や。綱渡りしてますねえ。雨宿りしつつBairro Altoを彷徨う。向かいのSão Jorge城を見晴るかすような絶景の部屋に居を構えたいもんや。

 

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 「地球の迷い方」の地図のコピーにあるホテル・マークをしらみつぶしに当たって行ったが遂にお気に入りの部屋は見つからず、疲れ果ててRosioに戻る。

 

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 結局、この路地下右側のresidencial 「Pensão Estação Central」に残っていた最後の部屋に決めた。あんまり旅先で宿探しに苦労したことがないので、結構シビアであった。

 

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 しかも・・・なんと・・・眺望ゼロ !! せまい !! なんぢゃこのベッド脇に鎮座するビデ !! ・・・でも疲れてたから決めた。€20・・・高いか安いか ?? ひとやすみして早速行動開始 !! まずは、ざっくりとBairro AltoとChiadoを歩き回る。途中、何度か雨に見舞われる。かと思うとすぐ晴れる。まさに宝石を散りばめたような街だ。日本から持参して二度目に開かれたぼろ折りたたみがあえなく壊れた。夕刻、Praça da Figueiraから北に伸びる路地でアジア料理のbuffetを見つけたので入ってみる。Recifeで1本約420円の手巻寿司を食って以降、ブラジル・アフリカ・アラブ料理ばかりだったので、にぎり寿司を見たときにはさすがによだれが出た。もちろん旨くはないが、久々に寿司と中華風の料理を含め、アジア料理に舌鼓を打って食べ放題をいいことにようけ食べました。いや食べました。その食べっぷりを笑って見ていたウェイターが、最後にデザートとエスプレッソをサービスしてくれた。いやこのエスプレッソ・・・いや、ポルトガルでは「カフェ」と言えばエスプレッソを指すのだが、これは、多分世界一旨い !! イタリアよりも旨い !! それは確実や。これで€10ほどやった。安い !! 腹ごなしに近くのInternet Cafeに入ってメール・チェックをしようとしたら、Windows MEにIEしか載ってなくて使い物にならず、女性スタッフに説明したら、なんとカネ返してくれた。いやこういうこともあるんや。このご恩はきっとカラダで返させていただきます・・・ 

 

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 満腹感に打ちひしがれて部屋で少し休んでから行動再開 !! 「7 colinas」を買おうと思ててタイミングを逃した。夜になって窓口が閉まっとる。気を取り直して夜の街に繰り出す。毎週木曜日はAlcântaraのLargo do Calvàrioにある「Casa da Morna」という店にTito Parisが出演する筈なので最優先。メトロとバスを乗り継いで、繁華街から離れた暗い石畳の路地へどんどん分け入る。そうやあんまり風景が美しいから忘れとった。私はここへ観光に来たのではない。音楽を捜しに来たんやった。ポルトガル語圏アフリカ諸国、略して「PALOP」(Países Africanos de Língua Oficial Portugues) 、特にAngolaとCabo Verdeの音楽が大好きな私としては、Angolaへは行けなかったので、すくなくとも旧宗主国のPortugalで彼らの音楽に触れたかったのだ。かつて彼らの主な拠点は「B.Leza」という店だったが、2007年6月に閉店、その後有志によってこの「Casa da Morna」が起こされたという経緯がある。その後「B.Leza」は企画団体となり、主に「Cabaret Maxime」でイベントを催している。さて「Casa da Morna」は広場の南の路地裏にあり、かなりハイソな雰囲気。20時頃だったが客は未だおらず、とりあえずカウンターでimperialを1杯注文して出を待つ。店は、バーとレストランに別れていて、レストラン側の左手に簡易なスピーカー・システムとキーボードだけの、小さなステージがある。小一時間ほど待って客が半分ほど入った頃、ようやくリズム・ボックスとキーボードの黒人の伴奏に合わせて、白人の歌手がギターで弾き歌いしはじめた。内容はオーソドックスなMornaで、ひとやまなんぼのセンチメンタルなメロディを弄くってディナーのBGMに一花添えようという感じ。2セット見たが何の変哲もなく、今日はTito Parisの出演はないとのことで長居は無用、Angolaのミュージシャンの出演や伝統楽器「dikanza」についての情報も得られなかったので、会計を頼んで出ることにした。チャージがついて数杯飲んだからちょっとイクやろなと思たらなんと€5でエエと言う、いやもっと飲んだでて言うたのにそれでエエと言うんでご好意に甘えて来月のスケジュールを貰て出た。ちなみに路地を出て斜め南向の倉庫のような建物に「Discoteca Luanda」というのがある。もちろんLuandaはAngolaの首都の名前で、それにちなんだものではあるが、内容はSoukousとHouseのミックスされた今風の若者アフリカ移民向けのドンシャリ音楽なのでパスした。この界隈、Angola人が多く住むかと思って、後日散策したり訊いてみたりしたが、そうでもない。

 

 http://www.casadamorna.com.pt/

 http://www.blogdibleza.blogspot.com/

 http://www.cabaret-maxime.com

 

 http://homepage.mac.com/jakiswede/2music/22discs/221afriq/2219capvert/22190capvert.html

 

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 帰りは市電の15番でRosioまで戻れることが解ったが、途中のComérsioで降りてAugusta通りをそぞろ歩きした。この通りは、いわばLisboaの観光の中心地、最もにぎやかな繁華街といえるだろう。RosioからTejo川岸のPraça do Comércioへ突き当たる歩行者天国である。通りの真ん中に陣取ったレストランのカフェテリアも終いはじめていて、帰り道を急ぐまばらな人並みの向こうから、トライアングルに乗せた女性の歌声が聞こえて来た。盲目の路上歌手Dona Rosaだ。彼女のアルバムは1枚持っている。Lisboaを訪れたら一度はお目にかかりたいと思っていたが、まさか初日に会えるとは思わなかった。歩み寄って聴き続けようとしたら、なんと片付けはじめた。どうやら終わりのようである。CDも出し、ワールド・ミュージック界ではちょっと知られた存在にも関わらず、路上での彼女は誰の注目も浴びてはいなかった。盲目ながらてきぱきと、まるで目が見えているかのように片付けて行く。その様子を見守り、さあ帰ろうと立ち上がったときに声をかけた。私はもちろんポルトガル語が不自由なので英語で話しかけたが余り通じず、なんとか覚えたポルトガル語でやろうとするのだが、相手の目が見えないので身振り手振りでは埒が開かない。とりあえず誠意だけは伝わったようで、その印にCDはいかが、と最新盤を売りつけられてしまった・・・いやいや、日本では到底手に入らぬので喜んで買ったのだが、しかしミュージシャンというものは、ちょっと売れたくらいで生活は改善されないものと見え、あれほど尊敬に値する美声を持っていながら、服装や所持品からしてその生活の様子が察せられた。N'djiliで会ったPapa Mingiediや不遇の中で死んだPili-Piliのことが想い起こされる。彼女は、だいたい木曜日と土曜日の夜、気が向けばAugusta通りで歌っていると言う。

 そのまま北上すれば帰れるのだが、せっかく初めてのLisboaの夜だからもう少しそぞろ歩きがしたくなって上がって行くと、Praça da Figueiraの北の端で黒人が多くたむろしている。その脇を通りすがりに言葉を聞いてみると、Angolaの公用語Kimbunduではなく、少なくともBantu語ではなさそうだ。セネガルかギニアと思われる。しかし彼らはフランス語圏なのにどうしてLisboaに? とは思ったが、Chiadoのライブハウス街冷やかすん先や思てそっちへ上がる。深夜なので売人がたくさん出てるが、目をまっすぐ見据えたら退散しよる。わりとあっさりしたもんや。坂道にある縦横の路地は人で溢れてにぎやかであるが、要するに観光客相手や。どんな音楽やってるかは店の前で聞いとったら解る。何軒かは良さそうだったが、中の混雑と騒がしいのとで入る気がしなくなった。木曜日でこれだったら週末は絶望的だ。しかもレストランと兼業になっていて、明らかに一人では入りにくい。ううむ・・・音楽的でない・・・というか、ここはそういう文化なのだ。日を改めるか、オンナをナンパしてからイク・・・失礼、行くか、河岸をAlfamaに移して明日以降探索することにしよう。24時頃帰って寝た。

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2011年02月12日

20100324 جامعة الأزهر

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 早起きをして、裏の洗濯屋に洗濯物を出してから、Gizaのピラミッドヘ行ってみる。ツアーに参加するなんてガラじゃあないんでターミナルから路線バスで行くのである。たちまちアラビア文字の壁にぶち当たるのだが、要するに自分の乗るバスの数字さえ覚えてしまえば良い。ターミナルからピラミッドのクフ王側入り口ヘ行くバスは「997」番である。これをアラビア文字のインド数字 (歴史的にややこしい) では「٩٩٧」と書く。

 

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 バスは汚いが、空いていて快適である。朝の通勤の人たち、特に病院へ出勤すると思しき看護士たちが多く乗って来る。こういう庶民的な場面でも、ごく普通に英語は通じる。「ピラミッドのクフ王側入り口へ行きたい」と運転手に伝えておいたら、そのやり取りを聞いていた乗客が全員口を揃えて「ここで降りろ」と教えてくれる。その余りの異口同音さが彼ら自身にも面白かったらしく、一斉に笑い転げた。大阪なノリである。運賃は50pt ( = 0.5£E = 約9円) 。

 

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 ピラミッド地区は全体が公園になっていて、そこへ入るのに入場料がいる。ピラミッドの中に入らなければ安い。どうせ人で混雑するに決まっているから安い方にした。入口のアプローチには、これから一仕事する観光用のラクダや馬車が準備をしている。しょーもない演出ですな・・・Cairoでの写真集はこちら。

 

 http://web.mac.com/jakiswede/iWeb/3e_mobembo/Cairo.html

 

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 ピラミッドはでかかった !! しかも、Cairoの都市部が近かった。

 

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 観光用のラクダのにいちゃんが、周りの観光客には頻りに声をかけるのに、私には声をかけて来ないと思ったら、たしかにこのナリでは声かけにくいわな・・・カメラのセルフ・タイマーで一人遊び。

 

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 砂漠というものを直に見るのはこれが初めてだった。幼少の頃より砂漠というものに強い憧れがあって、その果てしない世界、蜃気楼、点在するオアシス、隊商の一員になって諸国を巡ることが漠然とした夢だった。なぜかはわからない。しかし、茫漠たる世界、不毛の大地、砂の地平線というイメージに憧憬を重ねていたことだけは確かである。ピラミッドの敷地の北半分を半周して、発掘中と思しき小さなピラミッドの廃墟の岩陰で一休み。陽射しは強いが岩影に入ると涼しい風を感じる。さらに西側の砂漠へ出てみた。遠くをブルドーザーが走っている。どこヘ行くのか、そのわずか手前を数頭のラクダがとぼとぼと歩いていく。地平線以外になにも見えない。振り返ればCairoの大都市である。その中間というものがない。その向こうヘ行ってみたい・・・が、歩いても歩いても靴が砂に埋もれるばかりで、いっこうに景色は動かない。しかも、ここから先は、全く岩陰などは存在しないのである。灼熱の太陽と砂からの照り返しが顔に焼き付く。既に11時である。振り返ると、少し遠くなったピラミッドの影に、大駐車場に集結しはじめた大型観光バスから団体客が吐き出されているところだった。南へ、弧を描きながらスフィンクスのもとへと戻り、その出口から場外へ出た。ほんの2時間ほどの砂漠の旅であった。

 

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 スフィンクス側の入口は、クフ王側と違って土産物屋の集結したにぎやかなエリアであった。観光バスが発着し、タクシーの勧誘や物売りがしつこい。ちょっと高級な土産物屋へ避難した。値段を聞いてみると、感覚的に5倍程度のふっかけ方で、昨日行ったスーク「خان الخليلي (Khan El-Khalili) 」と同じものがほぼ同じ値段で売られており、価格カルテルを結んでいるものと思われる。売りつけ方もほぼ同じで、初対面であるにもかかわらず、何故かスペイン語で私を「amigo」などと呼び、「俺とお前は血を分けた兄弟だから、俺が主人に交渉してお前だけのスペシャル・ディスカウントをしてやる」などともちかける。「八釜しいわい、お前みたいな下衆野郎と兄弟の血なんか分けた覚えはないぞ」といっても手を離さず、「今はカネガない」などと言おうものなら、「おや、すぐそこにほら銀行が・・・」なんてことになって余計始末が悪いので小走りに逃げる。まあそんなことも楽しんで暑くなったので、気のいいにいちゃんからソフト・クリームを買って大通りへ出ると、たまたま個人営業のミニ・バスがGizaのメトロの駅まで行くというので乗ってみた。途中、トロい日本人の観光客おばちゃん三人組が乗って来た。現地在住のおばちゃんのところに、日本から遊びに来たというわけだ。旦那と離婚して一人になってから、知り合ったエジプト人とここで暮らしていると言う。食べ物は安いし人は優しいし、こんないいところないと・・・まあおめでたいこっちゃ。駅で別れる。エジプトでもバス関係の人は親切や。

 

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 Giza (لجيزة) の下町を散策。腹が減ったので、スタンドで飯にした。チャパティのようなものは食べ放題で、シチューとサラダがつく。名前は知らない。

 

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 Cairoのメトロは、Parisのメトロの車両と似たような感覚で乗れる。

 

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 メトロでOperaまで行き、今夜面白そうなプログラムがないか捜しつつ敷地内を散策。アカデミックな空間というものは、心が落ち着いてよろしおまんなあ・・・でも催し物はなかった。Cairoの伝統音楽を聴きたかったのだが、明日早朝にここを発つので今回は諦めよう。

 

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 昨日目星をつけた楽器屋街へ行き、例のにいちゃんから一番良いルバーブを手に入れた。ケースとかエロエロ・・・失礼、いろいろ付けてもらって、コーヒーまでごちそうになった後、「جامعة الأزهر (Al-Azhar) 」の公園まで足を伸ばした。地図は持っていたが、入り口が解らず、ミリタリー・ポリスに訊いてみたら非常に親切に教えてくれた。のみならず丘の上で見張りをしていた仲間に合図して、上から私が道に迷わないように見張ってくれたりもした。感謝の気持ちを身振り手振りで伝えると、丘の上から大きく手を振ってくれた。徒歩で行くと、入口は都心からは反対側の幹線道路をぐるっと回らなければならない。しかしその東側に広がる下町に庶民の生活を垣間みることが出来た。

 

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 園内は見事だった。都会の喧噪とは全く別の世界があった。家族連れや若いカップルやグループ、小さな子供の乳母車を押している若い夫婦・・・全く平和このうえない和やかな光景である。芝生でランチを広げる者、バドミントンをしている人たち、のんびり林の中を散策する老夫婦・・・そう、全く「絵に描いたような」平和な光景であった。ルクソールで日本人を含む外国人観光客が無差別テロに遭ったのは、たしか1997年のことだったと記憶するが、世界的な観光地とイスラム原理主義テロリストが同居しているという、危険なこの国の実態を思い知らされたのであった。そのテロを強行したグループは、その数年前にニューヨークの貿易センタービルの地下駐車場を爆破し、そのあと「9.11事件」を起こすアル・カーイダとつながりのある「イスラム集団」であった。私が滞在していた時期にも当然起こり得たし、またデモが行われていたときにも当然起こりえた。また、この平和この上ない公園で和やかに遊んでいるかに見えるグループが、突如隠し持っていた武器をとって無差別発砲し、地獄絵が描かれたかもしれない。それは起こりえたのである。実際に隣り合わせになっているのである。その危うさ故に、彼らはこの「絵に描いたような」平和な光景にしがみついているのではなかろうか、そう思えるほどにのんびりした光景であった。一息ついたのは夕暮れ時だった。やがて街は夕陽の逆光の中でヴァーミリオンに色づいて行き、J.G. バラードやDuneの世界を彷彿とさせる風情となった。おりしもアザーンの朗詠が街に響き渡り、園内もそれに合わせて静まり返って、一気に異国情緒に満たされた。ひとしきり写真を撮り終えて公園を出た。その足でスーフィーの旋回舞踊を見に行こうと思ったが、朝洗濯物を出して来たことを思い出し、それを受け取りに行かないと明日は早朝出発なのでややこしいことになる。公園の出口からタクシーを拾い・・・この値段交渉も面白かったが・・・結局若いまだぺーちゃんの運転手が£E10なんて口を滑らしたもんだから、その値段でTahrir 広場まで走らせた。Cairo最後の夕暮れ時、全てが金色に染まる街をタクシーで飛ばす。これはぜひ経験されるべきである。جامعة الأزهر (Al-Azhar) からميدان التحرير (Tahrir Square) までの道は、数多くの大きな遺跡の脇を通る。その光と色の妙、何千年の遺跡が道路のすぐ脇にある。石ころまで転がっている。ピラミッド側がそうであるように、街の東側も砂漠である。Cairoの街は、砂漠の中に孤立するオアシス都市なのだということがしみじみと解る。いわばヴァーチャルな世界なのだ。近代都市と遺跡の光と陰・・・地下鉄やバス移動では経験できない、タクシーならではの迫力ある光景であった。

 

 http://www.alazharpark.com/

 

 洗濯物は今まさに袋に入れられたところだった。下着も何もかも出したが全部で200円ほどだった。しかもめっちゃ仕事が奇麗。感動した。宿のロビーでちょっと情報誌を見ていると、日本人のカップルがやって来て、いまからスーフィーの旋回舞踊を見に行くというので一緒に行くことにした。メトロに乗って場を捜し当てた頃には満席で、頑として入れてくれなかった。残念だが仕方がない。甘く見ていた私が悪かった。三人でスークの中を冷やかし歩いてTahrir広場まで戻って来た。こうしてCairo滞在は早くも終了。その後このカップルとはメールのやり取りが続いている。今も旅を続けているであろうか・・・

 

 

 http://shirokuma2nd.blog46.fc2.com/

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20100223 ميدان التحرير

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 Kinshasa3/22 13:35定刻に離陸したSouth African Airways SA50便 (Airbus A319-117) は、4時間ほどのフライトで現地時間の18:35、Johannesburg O.R. Tambo International Airportに到着した。時差は+1時間である。機内食は、アフリカ風ラム・シチューと極甘プリンにコーヒーが出た。まあまあやった。乗り継ぎ便は約3時間後、21:45 である。JNBの空港内のショッピング・モールはすごい。たぶん世界一ではなかろうか・・・こんなこと書くから「知ったかぶりすんな」言われんねやろけどね・・・とにかくそれほどすごい。免税品やブランドもんにはなぁんも興味ないんで、ひたすらエスニック雑貨コーナーを物色。いやあやっぱりエエもんはエエ。彫刻も仮面も布地もテキスタイルもスバラシイ。しっかり目の保養。しかし楽器はこういうとこではあきまへんな・・・それにしても高い (;_;)・・・ビンボー旅行者の私は、完全に冷やかしであちこちの店のお土産なんかを手に取っては品定めし、ぶつぶつ首を傾げながら訳知り顔にもとに戻すのであった。ひさびさの先進国的ショッピング・モール時間のおかげで、遂にこの旅を生き延びてしまったことを実感した。それは、実にしみじみとした実感であった。今回の旅の生還率はおよそ50%と踏んでいたので、コンゴから先のことはほとんど考えていなかった。これからは観光旅行に徹するぞ !! という楽しみと、緊張感が抜けてしまった頼りなさと、帰国してからの生活のことなどが、一気に頭をよぎった。なにより日本へ帰るのが嫌だった。まだまだ帰りたくはない。ずっと旅を続けていたい。でも、いつかは帰らなければならない。そんな思いを抱きながらトランジットの時間を過ごし、ファスト・フードのコーナーで当店自慢のビーフ・シチューにカステル・ビールで夕食とした。Egyptairの待ち合いヘ行く。さすがアラブの国、白くて全身を覆うガラベーヤを着た彫りの深い顔立ちの男性、黒いブルカを目深に纏った女性、厳粛な面持ちはコンゴ人とは全く異なる・・・別にコンゴ人が厳粛じゃないという意味ぢゃないよ、念のため・・・

 Egyptair MS840便は定刻通りに離陸した。機体はAirbus A330-200。客室乗務員が全て男性なのはイスラムのためか。コンゴを脱出して気が緩んだのか腹も緩んで、何度かリラックスしに行ったらトイレの自動照明がフェイド・イン、フェイド・アウトすることに気がついた。Egyptairのこだわりか。私の座席付近の客室乗務員は、ものごっついいかつい体躯に童顔を乗っけた気のいいおっさんと、眼鏡をかけた博識そうな初老の人であった。夜遅い出発であったので、機内食は深夜になった。メニューは、魚のピカタ・サラダ・パンという軽い内容だったが、ついに出た !! やっぱり出た !! デザートにアラブご自慢の強烈に甘いココナッツ・ケーキと砂糖粒が溶け切ってないプリンの二連発・・・食後に「コヒ」「コヒ」と言ってコーヒーを・・・早よ持って来んかい口ん中ベタベタやんけ。夜行便であるので朝が早い。未だ暗い3時半頃明かりが点いて朝食が始まった。ちょっとうとうとしただけや。これも内容は軽く、クロワッサンにサラダと果物・・・ううむ、イスラムにとって屈辱の象徴であるクロワッサンを食事に出すとは・・・。食後の「コヒ」「コヒ」が済むと機体は高度を下げはじめ、未だ暗い5:40ほぼ定刻にCairo国際空港に到着した。パイロットの腕は今までで最高。離陸の時もすっと滑らかに飛び立って感動したが、着陸の時も全くふらつきがなく、衝撃もほとんどなかった。こんな丁寧な仕事をする人もいるのだ。

 機内預けの荷物が最も心配だったが、無事到着していた。あの喧噪と混乱と無能なコンゴねーちゃんの嘲笑をものともせず、落ち着いて手続きしてくれたSouth African Airwaysの職員に感謝。さて、入国審査待ちのときに、現地在住の日本人と知り合いになり、向かう方面が同じだったので一緒に路線バスに乗ることにした。Cairoの空港も、わりとタクシー勧誘が五月蝿かったが、そこは訳知り顔でパッシン・スルー。彼は途中で下車し、私はそのバスの終点「ميدان التحرير ( = Tahrir Square = Liberation Square = 自由広場 ) 」で降りた。

 

 http://www.backboneltd.com

 

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 Cairo滞在はたった3日間の予定である。しかも3日目は朝9:00の飛行機で発つので実質2日。泥沼のコンゴから脱出した体を十分休めたいと思って、Tahrir 広場に面した7階にある安宿のなかでも、おそらく最も良い部屋を取った。バルコニーつきの角部屋で、窓を全開にするとナイル河から有名な考古学博物館までが見渡せる。最初の写真は部屋のバルコニーから撮ったものだ。トイレ・シャワーは共同だが、なんとお湯が出る。これは天国だ。早速荷を解いて湯の出るシャワーを浴び、午前中は一眠りと決め込んだ。

 Vive la Révolution Blanche !! これを書いている間にエジプトで政変が起こった。たった2日間の滞在だったとはいえ、自分の旅したところで流血が起こるのは心が痛む。しかも毎日見おろして親しんだ風景がそのまま出て来るとなおのことだ。2011年1月25日に始まった民衆蜂起は2月11日ムバラク大統領の辞任を勝ち取った。故サダート前大統領が、1981年に第4次中東戦争の戦勝8周年記念パレードのクライマックスの最中に暗殺されてから、もう30年にもなるのだ。今よりも人の命が軽んじられていた、殺戮に明け暮れた時代だった。日本は平和だったが、今ほどのほほんとはしていなかった。自分が生きるために人を殺さなければならない彼らのことを、ぬるま湯の中から思いやっていた。そうするしかなかった。時代は変わって、私に何が出来るというわけではないが、今回の旅を計画しているときに「世界一周チケット」を組んでいる過程で、ここを訪れることが出来ると知ったので、来てみた。

 アフリカ大陸全体から独裁者が去ろうとしている。南スーダンには新しい国家が生まれようとしている。これまでのように、先進国が隠れ蓑を纏ったまま一方的にアフリカから資源を収奪できる時代は終わる。同時に、先進国の傘のもとで独裁を恣に出来た時代も終わった。力を背景にした安定の時代は過ぎた。私は旅をしていて痛感するのだが、最も高くつくものは「自由」である。カネもないくせに自由旅行なんて、カネがなければ貧乏旅行に堕するだけのことなのに、わざわざ苦労の多い茨の旅路を行こうとする。そして藻掻く。「自由」には高い代償がかかることは百も承知の上で藻掻くのである。

 「自由」を標榜して、アメリカがまた触手を伸ばして来るのか、中国か、ロシアか・・・イランのアフマディネジャド大統領は早々とエジプトに反米国家が出現すると述べた。「アメリカとイスラエルのない中東」が出現するとまで言った。それは恣威行為に過ぎないとは思うけれども、アラブの大国の政変は、否応無しにイスラム革命の連鎖を誘発させずには置かないだろう。それはコーカサスからトルコへ、そしてバルカン半島にまで波及するかもしれない。さまざまな勢力が介入することが予想されるが、エジプトの将来は、エジプト人たちの幸福のためにあってほしい。イスラムも、人の幸福のためにある筈なのだから。

 今回の革命は「白い革命」と呼ばれている。報道というものは異変や事件を追うものだが、異変や事件が連綿と続いていたわけではなかろう。反体制派と体制派が対峙している場面などが強調されているが、たしかにそういう緊張もあっただろうし、動員された勢力も介入していただろうけれども、もしそれで運動が転覆するようならば、とっくに結果が出ていたような気がする。むしろ、そういった「ニュースになる」場面というものは、深夜早朝などにゲリラ的に発生していたに過ぎず、デモがこれほど長期間続いたこと、その割には激しい衝突が起こらなかったこと、集会が行われている広場に入る市民に身体検査が行われていたことなどを見ると、確かに流血はあったのだけれども、何十万人と集まったこの広場が、いわば自由にモノが言えるサロンのような状態になっていたのではないかと想像される。そこから生まれた彼らの力と、脅しにひるまなかった勇気と、諦めなかった忍耐が、実際に革命を引き起こしてしまった。大半の市民にとっては、そこヘ行けば自分の国の将来について様々な人と意見を交換できる、思想的解放区のような雰囲気、文字通りの「自由」の広場になっていたのではないか。その積み重ねが、平和的にエジプトという豊かな国を幸せに導いてくれることを期待する。

 チュニジアで始まった独裁体制に対する民衆蜂起は、イスラム圏ではおそらく世界で初めての「民衆による」蜂起であって、これは同じ問題を抱えている近隣諸国の国民を鼓舞しないわけにはいかない。今回の旅の最後の訪問国となるトルコでも、おそらく状況は同じであろう。彼ら自身が、彼ら自身の手によって問題を解決していける状況が担保されることを切に望む。いかなる外部勢力もこれを利用すべきではなく、超大国も実力を行使するのであれば、今までの彼らの忍耐の上に自分たちの繁栄が築かれたことを深く顧慮して、イスラムだからではなく、中国だからでもなく、外部からの圧力団体であればそれを排除することにこそ、実力を行使するべきである。

 

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 腹が減ったので外へ出る。廃墟のような建物の裏手に手動で柵を開け閉めするエレベーター、というか昇降式の籠があって、それを操作して出たり入ったりするのである。大きな建物に2機しかないので、階下の待合室には運行を整理するおっさんがいてて、客と茶を飲んでいる。出入りするときには、必ず彼らと茶を飲むので、すぐに顔を覚えてくれる。建物の裏手はスラム化していて一見するとヤバそうであるが、おっさんに訊くと「大丈夫や」というので多くの人がたむろして飯を食っているスタンドに入ってサンドイッチを食べてから、行動開始 !!

 

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 Tahrir広場から歴史的建造物保全地区まで、電気屋街などを巡りつつぶらぶら歩く。途中、楽器屋街にさしかかったので最近仲良くしてもらっている古楽演奏家のためにルバーブを捜す。写真のようにウードを制作している工房兼店舗が軒を連ねている。一軒ずつ入ってみたが、押し売りするような気配はなく、多くの場合作業に熱中しているか、ミュージシャンと音の調子について真剣に話し合っているかで、一般の客に対しては素っ気ないか穏やかである。主にウードを扱っていて、ルバーブや打楽器などは少なかった。そのうち、ルバーブを専門に扱っていた小さな店の若者が、何種類ものルバーブを出して来て弾き比べ、熱心に説明してくれたにも関わらず、「他の店でも訊いて良いか」と言っても嫌な顔ひとつしなかったので、翌日そこでプロ仕様のものを買うことにした。初めて接したエジプトの人たちの印象は、職人気質で仕事熱心で温和で親切で解りやすいというものだった。もちろん違う人もいるだろう。しかし大半は勤勉な人たちに見える。コンゴから出て来てすぐからそう感じるのかもしれないが、少しおとなしすぎる、ぐっと物事に耐えるような印象を持ったことは事実だ。このような人たちがゼネストを起こしてまで民衆蜂起したというのは、よくよくのことであろう。

 

 http://www4.kcn.ne.jp/~ortiz/

 

 更に進んでスーク「خان الخليلي (Khan El-Khalili) 」ヘ行く。私は「スーク」なるものを見るのは初めてであったが、もっと市場のようなものを想像していたがここは観光地であった。価格も明らかに観光客用であり、なおかつ店員の態度が横柄だ。しかも押し売りが五月蝿い。たしかに品物は豊富なので冷やかすには面白いが、別にこれといってほしいものはない。ガラベーヤと白いキャップをお土産に買って来た。楽器も見たが、さきの楽器屋街で土産物として安く売られていたものが、プロ用の値段以上を言うので笑って取り合わずにいると、いつまでもいつまでもついて来て五月蝿かったので、街頭で警備に当たっているミリタリー・ポリスに目配せしたら追い払ってくれた。ついでに裏通りの寺町を教えてもらったが、バクシーシはとらなかった。バクシーシに関しては、一種の社会習慣のようなものなので、初めて訪れる国では注意深く様子を見る必要があるのだが、Cairoではこれを要求する人は、主に観光客が集まる空港とか観光地などに多いようである。普通の商店街でものを訊ねたり品定めしたりする分には全く必要を感じないし、コンゴでは必須であったポリスなどの官憲に対しても不要と感じた。エジプトではみだりにこれを使うということは、自分が彼らを見下している、哀れんでいるという態度を表明すること、逆にいえば彼らのプライドを傷つけていることになるのかもしれない。

 

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 ひとつ裏通りへ入れば静かな街である。大抵の寺院は開放されているので、礼拝の邪魔さえしなければ見学は無料、しかも安全である。じっと夕暮れを待っているとアザーンが聞こえ、人々が集まって来て礼拝を始めたので、邪魔にならないように後ろで見守った。

 

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 暗くなってから戻り、裏通りでラム肉のシチューを食べた後、ビールとポテト・チップスを買ってバルコニーで一服・・・イスラムの国なので、基本的に酒は御法度なのだが、食料品店ヘ行くとカーテンの向こうの冷蔵庫にビールが冷えているものである。このように、建前と本音を上手く使い分け、それが通用している社会がエジプトの社会というものかもしれない。来てすぐに知ったかぶりすんなよな・・・

 

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posted by jakiswede at 19:41| Comment(0) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20100322 Tumba Massikini

 何事も総括が肝心である。「総括」というと、先日亡くなったかつての連合赤軍中央委員長永田洋子を思い出す。彼らの一連の行動の意味は、果たしてなんだったのか、彼ら自身が彼ら自身をどのように総括しているのか、傍目からはなにも解らない状態の中で、いやもっとずっと前から、彼らないし彼女は、決して「総括」など出来ない自己欺瞞の罠に陥ってしまったか、あるいはそこから這い上がろうともがき苦しんでいたのか、はたまた彼ら自身の総括を当局が封じ込めて覆い隠して来たのかもしれない。思想が行動を呼び起こした。そういう時勢だった。その思想がなければ、日本や世界は、もっと違う方向へ突き進んでいたかもしれない。しかし行動は一人歩きして事件を起こし、それが事実として思想を実践した人にのしかかった。いわば彼らは贖罪の山羊だった。彼らのほとんどは、負わされた事実の重みに苦しみながらも自分自身を総括しながら死んでいったが、彼らを排除した現在の我々は彼らを正しく総括できているかというと、全くそうではない。日本や西欧と北米のほとんどの国では、いまやそのような思想は過去のものとされているが、過日連鎖的に発生した北アフリカでの一連の民衆蜂起がああいう形で起こったことは、「先進諸国」が自由への希求のひとつの形態にもなった共産主義思想とその体制を正しく総括できていないということを、ありありと示しているのである。日本赤軍が北アフリカに海外拠点を求めてから40年余り経ってから、こうして一般市民による蜂起で革命が実現したことは皮肉と言わざるを得ない。人間の自由というものが、当人の意思に関わりなくシステムの力関係に左右されるということは、絶対にあってはならない。もしそのようなことがあれば、当事者はいかなる手段を行使してでも自由を獲得できる権利を有すると同時に、当事者は全人類の個人に対しても、その自由を尊重する義務を有する。原理は単純である。その実現に向かって行動するのかしないのか、するならばとことんやる。しないのならば家で寝ている。しかしその家でさえ、いつまで寝ていられるのかは解らない。だから私は行動する。そしてその意味は、必ず総括されなければならない。今回のコンゴ旅行についてまとめておきたいと思う。まずは旅の実際から・・・ コンゴ入出国と国内旅行上の注意点に関しては、既に述べた。

 

 http://jakiswede.seesaa.net/article/148031210.html

 http://jakiswede.seesaa.net/article/148136535.html

 http://jakiswede.seesaa.net/article/150817545.html

 

Kinshasa (N'dolo)- Inongo: BDGM Aviationという国内航空会社から水・土曜日7:00 (実際は11:00頃) 発

 Kinshasa都心に近いN'dolo空港発であることに注意。N'djili空港ではない。手続きは煩雑(USD200)。

Inongo 空港にDGMあり。外国人は自動的に「別室案内」の上、市内唯一のホテル「Hydro」素泊USD15へ案内される。

 DGM職員Emmanuel Manza Iyeliはおすすめ。

Lac Mayi-Ndombeを航行する連絡船

 Inongo- Isongo (毎週月曜所要約4時間) - Nkile (隔週月曜所要約半日)

 Isongo- Selenge (毎週金曜)

 Kinshasa、Bandunduと連絡する舟もあるがお勧めできない。

Isongo- Bolia- Iboko: 陸路自動車道あり。便乗できれば所要約6時間。

Nkile- Mbuse-Mpoto: ピローグ・タクシー頻発。

Mbuse-Mpoto- 川路の果て: Mbuse-Mpotoでガイドを雇うべし。Papa Derekお勧め。

川路の果て- Iboko: 徒歩。季節によりルートが変わる。Nkileからの全行程でガイド料含め約USD100。

Iboko- Bikoro- Mbandaka: 自動車道あり。便乗できれば一日コース。全行程で約USD100。

 Mission Catholiqueに宿泊可能 (USD10-25)。各市にDGMあり。

Mbandaka- Kinshasa: 

 CAA (Compagnie Africaine d'Aviation)という国内航空会社が週2便 (USD160)。KinshasaはN'djili空港に着く。

 http://www.caacongo.com/

 Hewa Bora、週一便水曜日。

 http://www.hba.cd/

 フェリーは、よほど怖い目に遭いたい人にしかお勧めできない。

 

 携帯電話はKinshasaで調達しておくべき。

 カネはProcredit BankのATMで自分の預金講座からUSD現金を引き出せたが、最新情報によると、そのサービスは停止されたとのこと。

 http://www.procreditbank.cd/

 

 Kinshasa- Inongo- Lac Mayi-Ndombe周遊の旅は、全く安全快適で風景も素晴らしく、人も穏やかで食べ物も旨い。お勧め観光コースである。音楽も実に素晴らしい。

 Lac Mayi-NdombeからIboko赤道州の旅は、知らなかったから行けたようなもので、前もってこんなことになるとわかっていたら出来なかった。しかし旅とはそんなものである。この苦難の道は、その先に求めるものが確固とした状態で存在しないと、精神的に無理。この区間は宿泊施設もなく、飲料水用フィルターとヘッド・トーチが必須。食べ物は新鮮で安くふんだんにある。水が黒いので日本から部分洗い用固形石けん、電池式蚊遣りが有効。

 Iboko- Bikoro- Mbandaka自動車の旅は全く問題なく、赤道直下の絵に描いたような熱帯アフリカの風景を満喫できる。ちょっとハードかもしれないが、これもお勧め観光コース。

 

 コンゴ奥地を旅行する場合、IbokoやBikoroクラスの小さな町にもDGMがあり、外国人はその都度「Fiche d'identification」を提出する義務がある。写真貼付を求められるので、パスポート写真は多数必要。書式は微妙に異なるが、記入項目は下記の通り。これは訊かれるので、予め自分で書いてまとめておいた方が良い。

 

  Nom (Surname) 姓

  Prénom (Christian Name) 名

  Né(e) à (Born at) 出生地

  Nationalité (Actual Nationality) 国籍

  Nationalité de naissance (Nationality of birth) 出生国

  Nom et prénom du pere (en vie ou décedé) 

   Surname and christian name of the father (alive or dead) 父の姓名 (生死に関わらず)・・・vieかdécedéのどちらかを書く。

  Nom et prénom de la mère (en vie ou décédée) 

   Surname and christian name of the mother (alive or dead) 母の姓名 (生死に関わらず)・・・vieかdécédéeのどちらかを書く。

  Etat-civil (Civil Status) 下記の別: 

   Célibataire (Single) 独身・Marié(e) (Married) 既婚・Veuf(ve) (Widower or widow) なんと訳せば良い ?? 配偶者を失った人

  Nom et prénom du conjoint ou l'ex-conjoint

   Surname and christian name of the actual or ex-husband or wife 前夫または前妻の姓名

  Sexe (Sex) 性別 (右記の別) : Féminin (Female) 女性・Masculin (Male) 男性

  Race (Race) 人種 (右記の別) : Blanche (White) 白人・Noire (Black) 黒人・Asiatique (Asiatic) アジア人・Mulãtre (Mulato) 混血

  Profession (Occupation) (右記の別) : Diplomate (Diplomatist) 外交官・Coopérant (Cooperating) 政府協力者 (Cooperatorとちゃうん ? ) ・Hommes d'affaires (Businessman) 実業家 (女性はどうなるん ??) ・Missionaire (Missionary) 宗教関係者・Agent de l'enterprise d'Etat (State society employee) 政府職員・Agent d'enterprise privée (Private society employee) 民間企業従業員・Sans profession (Without profession) 無職・Divers (Others) その他

   ここで注意すべきは、日本に於ける職業を訊ねているのではなく、コンゴへ来た目的を訊ねていることである。観光ビザで渡航して「Hommes d'affaires 」にチェック入れたりしたらややこしいことになるよ。それもあいつらの「手」かも知れんけどね。「Sans profession」にしとくのが無難。

  Employeur (Employer) 雇用主

  Adresses successives en RDC (Successive adresses in DRC) コンゴ民主共和国に於ける継続的な住所・・・なんてあるわけないやろ、て言うたらあかんよ。相手が不安になるだけやし。適当に泊まったホテルの名前と住所書いといたらええねん。

  Poste d'entrée en RDC (Embarkation place in DRC) コンゴ民主共和国に入国した場所・・・通常「N'djili」

  Date de la Première entrée en RDC (Date of the first entrance in DRC) コンゴ民主共和国に入国した日付

  Motif du voyage (Motive of travel) (右記の別) : Affaire (Business) 職務・Tourisme (Tourism) 観光・Visite (Visit) 滞在・・・VISAの種別の通りに書くこと。

  Nom et prénom du preneur en charge 

   Surname and christian name of person to visit: 身元引受人 (別途証明書類は要求されなかった)

  Titre de séjour:

   Attestation d'agréation (pour diplomates)

    No._______ déliverée á ____________ par ___________ le ___________・・・「外交官用」と書いてあるから無視した。

   Genre du Visa (Type of Visa) __________ No.____________ Validité ______________

    要注意 !! 査証の種類などを訊いている。観光ビザなら「Tourisme」で良いが、

    「Validité」の書き方に注意。必ず「du dd mm yy au dd mm yy」(「何日何月何年から何日何月何年まで」)と書くべし。「3 mois」などと書くと、査証面の発給日から起算する奴が多く、場合によってはトラブルになる。

   Prorogation accordée: Visa No.___________ du ____________・・・延長してないので無視。

  Passeport (Passport): 

   Ordinaire No.___________ Spécial No.____________ Diplomatique No._____________

   Titre de voyage pour réfugié politique No.______________・・・通常は「Ordinaire」のところにバスポート番号を書く。

   Délivré à ____________ le _____________ Expirant le _______________・・・難民用なので無視

  Nom et prénom des personnes en charge

   Surname and christian name of the persons in load・・・無視

 

 こんだけややこしいと、相手の役人も途中でめんどくさなってきよるから、出来たら最初に書類作ったらコピーしといてもろたらええ。私はそないしてコピー持ち歩いてたら、あるとこなんか、そのコピーをコピーしてそのままファイルしといて、コーヒー代だけ要求しよったこともあるくらいや。

 

 楽器や工芸品など、文化的なものと判断されるものの国外持ち出しには手続きが必要である。

 Ministrere de la Culture et des Arts 発行「Autorisation d'exportation des oeuvres d'art」と「Declaration d'Objets d'Art」というふたつの書類に必要事項を記入する。

 

 さて、旅の内容を総括する。20年前までの二度の旅が、コンゴのモダン・ポップスを追い、そのオリジンとしての伝統音楽に触れることが具体的な行動を伴った目的であったのに対して、今回の旅は、ブラジルのアフロ系音楽に接した直後に、連続してもっと抽象的な「音楽の黒さ」を身に浴びに行く旅であった。その目的は、Lac Mayi-Ndombeの湖畔の散策中に水面からそよ風に吹かれるようにして、また期せずして体験したピローグでの川の遡行の途中に天から降り注ぐようにして叶えられた。話される言葉が「唱え」となってメロディを持った生き物のように宙を舞う。来る日も来る日も、意味の連鎖としての言葉が、同時に音の連鎖としてのメロディになる言語を話す人々暮らした。その経験は、今回の旅の全行程の中で最も印象深いものであった。熱帯雨林の深い緑と黒い水と、その色に染められた濃い茶色の土や屋根、水の臭い、獲れた魚を干したり燻したりする臭いなど、かねてから書きたい書きたいと夢に描いていた魑魅魍魎の闊歩するジャングルの、空想と現実が目間苦しく交錯するファンタジックな冒険潭のイメージを彷彿とさせた。音楽の、外に向けての効果の変容ではなく、内へ向けての発生の原理を垣間みた。そこにうごめくもの、それは演奏上の技術や方法論ではなく、その感触をもとに様々な表現が可能になるような、生き物としての音の固まりであった。それは音楽のあり方として、コアで熱いものだった。それは体得して得られるというよりも、その風景の中を通り過ぎることによって、その人々と語り合うことによって、その黒い水を飲み魚を食い野菜をほおばることによって、徐々に体内に溶け込んで来るものだった。「言霊」という日本語があるように、それは魂を持っていて私の魂と共鳴しながら進むものだった。私はそれを感じた。だから具体性をここに明らかにすることは難しい。私は先へ進んだ。その後の徒歩での山越え、州境を越えたところで出会った武装グループ、そして灼熱の道・・・太陽に焦がされて、またもや空想と現実の区別があやふやになっていく中での貴重な体験・・・これらは、川の旅での霊感に満ちた経験とは異なって、より具体的現実的な人とのふれあいの時間であったが、旅の醍醐味としてはかけがえのない収穫であった。これらの音楽的体験は言葉で言い表すことが、今では難しいほどかけがえのないものであり、それを、どこかの国でだれか個人が偶々体験したことではなく、誰もが共有しうる普遍的な事象として書くことが、これからの仕事のひとつになるであろう。その後の旅の目的は次の段階、すなわち楽器を手に入れることに移り、これも十分な成果を上げた。コンゴ河の河下りはかなわなかったが、飛行機でKinshasaへ戻った選択は正しかったと思う。しかしながらKinshasaでは、なんぼモダン・ポップスを追うことが目的でなかったとはいっても、もっと丁寧に回れば多くの音楽に触れることが出来た筈である。しかし奥地の旅の疲れと楽器の発送の段取りなどで、心身ともに余裕がなかったことは反省すべきである。コンゴで手に入れた貴重なものを、無事に日本へ送り出すことができたのは、全く現地の心優しい友達とDHLの職務に忠実で有能なスタッフのおかげであり、それでも奇跡的な綱渡りが成功したからに他ならない。これは私の力ではなく、全く彼らに救われたのである。ブラジルでもそうであったがコンゴでも感じられることは、人の力が大きいことである。人が動くことによって動かされる事実が大きい。日本では、システムが事実を動かしている感じがあるが、ブラジルでもコンゴでも、システムは大雑把であり、人が強い意志と行動力を持って目的を達成に導くのである。それが珍しいことではない。コンゴの奥地で出会った川の男たちも、立派な体格と明晰な頭脳と、バランスの取れた感性を持っていた。こんなに力強く、意志が強く、技術もノウハウも持ち合わせている人がたくさん住んでいる国は、きっと発展する。たぶん日本もかつてはそのような国であった筈なのだが、いつしか忘れてしまったように見える。自らが動いて物事をなし得なくなってしまった人が多く住む国に、健康な将来を想像することが出来ない。

 旅とは、自分の内なる声に導かれて進むものだと思う。それがなければ、いかに安全対策や技術や知識や金をもってしても、その旅は易くはない。しかしそれさえあれば、安全対策や技術や知識や金の多い少ないなど、さして問題にはならない。現在、東京の友人の手で私の旅の写真展が開かれていて、来月には上京するのだけれども、このようなイベントを企画し旅行記などを発表していると、実に様々な人からご連絡をいただく。そのなかには実際にこれから現地へ旅立つので、行った者にしか解らない情報が欲しいという人もあり、そういう人にはていねいにご案内して差し上げ、事実その人は現地で有意義な時間を過ごして先日無事帰国された。おそらく来月のトークショーには同席していただけるもの期待している。しかし最も多いのは、実は残念ながら誹謗中傷なのである。特に音楽に関わっている人たちからのものが多く、それもブラジルやアフリカなど、グローバルなメイン・ストリームとは少し離れたローカルなジャンルで行動している人からのものである。その主な内容は、要するに「ちょっとかじっただけで知ったかぶりすんな」というものであり、物事の本質を見抜けない私の無明を非難する内容であって、ブラジル編を書いていた時はブラジル音楽関係者から、コンゴへ渡ってからはアフリカ音楽関係者から、叱咤激励まことに光栄の行ったり来たりで有り難いことなのだが、中にはかなり細かく私の文章を読み解いてくださり、その説明不足をご指摘いただいたり、思いもよらぬ解釈が可能であることを身を以てお示しくださる方もおられて、たとえブログとはいえ、人様のお時間を拝借してこうしてものを書いていることの責任を痛感し、恐縮することしきりでございます。それにしても、かつてはアフリカ音楽なんて話題にもならぬ程知られない存在、腰蓑着けた土人の裸踊りとばかり言われていたものだが、「貴方はリンガラ音楽についてどれほどご存知なのでしょうか ?? 」などと真っ向から訊いて来る人が出て来たということは、これは誠に喜ばしいことである。しかしながら私は、自分の内なる声に導かれて旅をしたのであり、コンゴやリンガラ音楽というものを包括的体系的に世に広めるために旅をしたのではない。だから、旅の結果出会ったものや考えたことについて書き認めたものが、一般の読者の期待に添えないことは当然であって、広大な大陸の中の短くて細い線のような旅でさえ、一介の凡人である私がその旅の森羅万象を映し出し得る筈はなく、またそうしようとしたところで内容が膨大になりすぎて、言いたいことが解らなくなるであろうと思う。ただでさえ饒舌すぎる文体を批判されることしきりであるのに、凡人の分際で文章なんぞ書くなと言われれば、それはそれとして五つの体を六つにも七つにも折ってお詫びを申し上げるが、どうかお読みいただく場合には、私は自分の内なる声と対話しているのだ、いわば宇宙人と対話しているようなものであって、部分的にしか理解できないものなのだ、多少の常識はずれな部分があったとしても、愛嬌として大目に割り切っていただきたいものです。何か質問があるのなら、せめて自分の名前くらい名乗ったうえで、また私の書いたものは一旦字面の通りご解釈いただいてから、ご自分で旅をなさるのであれば、ご自分で調べを尽くされてから、オフィシャルな情報源からは得られない情報についてお問い合わせいただくとか、それに言及した部分についてご確認いただくとか、凡人の私にも解りやすい手順に従ってご連絡いただいた方が助かりますな。別にお礼が聞きたいわけではありませんが、やはり同じく音楽や旅を愛するものとして、手間暇をかけて詳しく情報提供したのでありますから、返事としてそれを踏まえた上でどう思うか、くらいは書いてほしいが、面倒であればお礼の一行くらい書いてくれても罰は当たらんと思いますがな・・・漠然とした質問を多数送ってよこしておきながら、ひとつひとつ丁寧に答えても返事ひとつよこさず、答えた内容には触れもせずに別の質問を浴びせて来るような奴が余りにも多すぎる。申し訳ないが、これからは誠意の感じられないご質問にはお答え致しかねますので、そこんとこよろしく。

 

 http://www7b.biglobe.ne.jp/~los-barbados/

 

posted by jakiswede at 19:35| Comment(0) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月30日

20110124-0320 「ザイール・ヤ・バココ・第三の旅」写真展開催中

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寒い毎日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか ??
関東地方の皆様にはご無沙汰を致しておりますが、
このほど縁あって下記イベントを開催させていただく運びとなりました。
それにあわせて上京致しますので、お会いできれば幸いに存じます。
なお、場所が少々手狭と聞いておりますので、
念のためご予約いただいた方がよろしいかと思います。
よろしくお願い申し上げます。

■■■「ザイール・ヤ・バココ・第三の旅」写真展開催中 ■■■

コンゴを第二の故郷とするイタミーニョの三度目の旅の写真展。
今回の旅は、ニューヨーク・ブラジル・南アフリカを経てコンゴへ、
新大陸に於けるバントゥー音楽の変遷にも焦点を当てた音楽探究の旅。
旅行記ブログ版も執筆中。下記リンクの一番下からご覧下さい。


2011/01/24 (月) -03/20 (日)
場所 : 熱帯音楽酒場「Los Barbados」
3/12(土)17時より本人によるトークショー(ノーチャージ)あり。
(できるだけご予約ください!)

渋谷区宇田川町41-26
パピエビル104
03-3496-7157
(道に迷ったら、お電話下さい!)
Mon. - Fri. 11:45 〜 25:00
Sat.& Holiday 12:00 〜 24:00
日曜定休

※ハッピーマンデイの週は日曜開店、月曜がお休みです。
※当店はテーブルチャージはございません。

Lunch Time Mon. - Sat. open 〜17:00

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2011年01月27日

20100322 Botondi ya DHL

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 出国の日である。N'djili空港13:35発の飛行機である。予約してあったNgunzaさんを頼んで、9時にDHLに駆けつける。Maguyちゃんはすぐに来てくれた。私は予めVictoireのProcreditでUSD1,000を引き出していた。彼は書類に全ての印鑑をそろえて10時過ぎに到着した。手続きにかかる。もう一度荷物を開けると言うので抗議したが、却って事務を長引かせるかもしれないので折れた。中身を再度改めるのに時間がかかり、二度も開けられたために段ボールはかなり傷んでしまった。そのため、係の者はこれから木箱を作ると言い出した。私は気が遠くなった。この事務手続きの非能率な国で、国際線の飛行機に乗るのだから、どんなに遅くとも11:30には空港に着いておきたい。あそこを突破して出国するのは大変な面倒がかかることが解っているからだ。それを、これから箱を作るやと ?? もうええ、ほな俺カネ払うてくるから作って送っといてくれと言ったが、箱に全部入れてから計量しないと料金が解らんと言い出した。それはわかるが俺は急いどるんぢゃ・・・と言うてもあかんよなあ。とにかく早よしてくれ・・・と、あらあら、見てる間に箱は出来上がった。さすが木の国ロコレの国や、こーゆーことはものすごい手際エエやん。再計量したらさっと伝票出してくれたんで、さっとカウンター行ったら、一昨日の上司のとこさっと案内された。木箱にしたために6kg増えていた。彼女は、私の飛行機の時刻を訊いて、やりかけていた手をさっと止め、私の仕事をさっと先にしてくれた。6kg増えるとUSD200も料金が上がるので、梱包を開いたのは自分たちだからと言って、2kg軽くなった時の料金との真ん中をとってさっと伝票を書いてくれた。感謝の気持ちを表そうとすると「早く !! 」と言われたので、伝票をさっと持って下のカウンターにさっと走った。カード支払いは今日も出来ないと言う。オイ !! ・・・もおええわ。一番近いProcreditのATMどこやと訊いたら、若い職員が一緒に走ってくれた。一番近かった一台は故障中、大使館の近くの本店のATMで引き出そうとしたが、「本日の引き出し限度額を超えてます」・・・・うわぁぁぁぁ・・・・今朝USD1,000引き出したからや。昨日やっときゃ良かった・・・目の前がまっ暗になった。取り乱していく思考回路を冷却し、落ち着いて腹巻きの中をさぐると手つかずのEURが残っていたことを思い出した。「EURの現金ならあるのだが・・・」と言うと「アホ、それ先言わんかい」DHLへ取って返してカウンター脇の銀行窓口でEURからUSDに両替して過不足を清算して無事終了。11:30や。うわぁぁぁぁ、Maguyちゃんも彼氏もありがとね、DHLのみんなもありがとね。他のお客さんお騒がせしてごめんね、ほな行くわ。・・・というわけで、荷物は発送され、Gabon, Lagos, Brusselles, Leiptig, Hongkongを経由して、なんと一週間後に今回の旅の全ての荷物を受け取って下さっている叔父の家に無事到着したのでした。素晴らしい、協力してくれたKinshasaの皆さんに心から感謝 !! ほんまにありがとう。

 

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 ついでに宣伝・・・心から尊敬する私の叔父です !!

 http://homepage1.nifty.com/ModernJazzNavigator/

 その息子です !! ・・・Oh, Yeah (^^v

 http://hino.nu/

 

 空港へは12時過ぎに着いた。Ngunzaさんは外の駐車場に止めた。我々は敷地に入り、中の駐車場を横切って建物へ、入り口にポリが頑張っている。「Go Passを買え」とつっけんどんに言って右手を顎でしゃくった。ううむ・・・制度が変わったのか、初めてのことだ。そこでNgunzaさんと別れた。「あとは一人でやる。ありがとう。さようなら」その方が早いのだ。Go PassはUSD50だった。高い !! これは想定外、USD現金が残っていて本当に良かった。

 そこからが例によって大変だった。普通の空港であれば、本来は、ロビーに入ればすぐにカウンターでチェック・インである。左手に各航空会社のカウンターがあるのは見えている。しかしそこまでの空間が、人で埋め尽くされていて騒然となっているのだ。これは20年前と全く変わらない。カウンターへ辿り着く前に、何人もの係官らしき人物に止められる。パスポートを見せろ、航空券を見せろ、荷物を置け・・・ 彼らは取り入ろうとしているだけなのは解ってはいるのだが、なかに制服を着たやつもいて、もしかして捕まって事態を長引かせてはと、慎重にならざるを得ない。「持ち込み検査だ」と移動式コンベヤの前で制服の男が言った。どうやらこれは本物らしい。もう大切なものは全てDHLで送ってしまったから、別にここで身ぐるみ剥がされても悔いはない。あれはなんだこれはなんだといちゃもんが始まったので、USD10握らせて「もう時間がない」と言うと、すんなり通された。ようやくカウンターに辿り着いたときには12:30になっていた。

 South Africa Airwaysの制服を着た現地採用のムカつくコンゴねーちゃんが「もう仕事は終わった。明日来い」などとぬかしよる。「ふざけんなこのボケ !! あと一時間あるやないか、仕事せんかい仕事を !! 」・・・とまでは怒鳴ってへんねんけどね、周りの客たちも怒ってる。ねーちゃんはフテくされて足を組み、こっちを見ようともせず、頭上に吊ってあった「South Africa Airways」のボードを外してしまった。

 カウンターの奥から息せき切って若い男がやって来た。英語で話しかけられたので、こいつは南アフリカ人の社員のようだ。そこに並んでいた数人の客が「早よせんかい」と怒鳴っている。まあこれだけ怒鳴る人がおったら任しとこ。社員はいそいそと順番に航空券、パスポートをチェックし、機内預けの荷物を計量したりBaggage Claimを切ったり、それを巻き付けたりしている。ねーちゃんどもはそれを鼻でせせら笑って手伝おうともしない。社員もあきらめの境地で一人仕事をこなしている。3人分済んだとき、その3人をなんとカウンターの中に入れた。そして次の3人・・・その中に私も入っていたが・・・の手続きを始めた。

 私の機内預け荷物は、「間違わんといてよ、Johannesburg経由Cairo行きやで」、そう、私はJNBでは降りず、そのままEgyptairに乗り換えてCairoに行くのである。社員の手が、はたと止まった。そうなのだ。ここが意外に落とし穴かな思ってた。この非能率な空港で、チェック・インした航空会社とは別の航空会社の便にトランジットで乗り換える場合の、機内預けの荷物の扱いがどうなるのか・・・その場合を想定して、荷物は機内持ち込みに出来るサイズに抑さえてある。「無理なら持ち込むよ」と言いかけた瞬間、彼は得心が行ったように端末を叩いてBaggage Claimを出力した。半券には、きちんと私の乗り継ぐ便名が明記されていた。この3人もカウンターの中に入った。

 チェック・インは私が最後だった。離陸予定時刻まで、あと30分。やはり国際線は国内線とは違う。とりあえず、社員は先の3人を連れて出国ロビーへの入り口に消えた。待たされること10分程度で、再び現れ、他に乗客が来ていないことを、あっちむいてくっちゃべっとるねーちゃんには訊かずに自分の目で確かめて、われわれ3人を連れて走った。出国審査である。ほかの2人は問題なかったが、私が止められた。例のVISAの有効期限問題である。何度もした同じ説明を繰り返す。社員も私のVISAを見て私と同じ説明をする。役人は納得せず、別室へ連れて行こうとする。社員はマジで焦りはじめたので、仕方なくUSD10で黙らせる。次はイエロー・カードだ。これはスルー。機内持ち込みの荷物検査、年代物のレントゲン検査機である。ここではSouth Africa Airwaysの機内でもらった携帯用の歯ブラシをライターと見誤った係員に止められた。せっかく大きな声で「Good job !! 」と誉めてやったのに荷物を開けさせられ、USD現金をどうのこうのと言いはじめたんで、社員と二人同時に「おまえらええかげんに・・・」と英語でやったらおとなしなりよった。そうや、今頃気がついた。英語でやったら良かったんや。なまじリンガラ語でやるから足許見られんねん。もう遅いけど・・・

 待合室を走り抜けてバスに乗った。タラップの下でまた止められた。Go Passと航空券と搭乗券とパスポートのチェックである。なんべんやったら・・・厳重なこって恐れ入ります。乗ろうとするとまた止められた。機内預けの荷物を職員が持っている。「返してほしければ・・・」むらむらむらむらむらぁぁっと怒りが込み上げて、その顔面のど真ん中にストレート・パンチを食らわすべく、瞬間湯沸かし器で煮えくり返った血が背中から脳髄の許可を得て上腕二頭筋へどっと流れ込み、今まさに拳が弧を描こうとした時、「ご自分でお積みください」・・・周りを見ると、みんな押し黙って自分のケースを機体の腹の下に止まっているリフトに運ぼうとしている。厳重なこって恐れ入ります。タラップを上がる・・・もう二度と来んからな、このダボらが・・・

 

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 コンゴはこれで三回目や、もうこんぐらいにしといてえな・・・

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20100321 Matete

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 日本大使館のK氏の休みを利用して、Kinshasa Golf ClubでMaguyちゃんを交えてお食事・・・いわばコンゴの社交界である。正常不安な国なので、私のような下々の者が住む世界とは隔離された形で、外国人専用のエリア、専用の店が存在する。プールがあってビュッフェがあって、楽しんでいるのはほとんどがヨーロッパの外交官とその家族たち。全くの別世界に落ち着かなかったのは私の方で、Maguyちゃんは場慣れしてましたね・・・やっぱりこの人、タダモンやない・・・話の中で、6月30日のコンゴの独立記念日は、コンゴと独立を承認した世界各国との国交樹立50周年の節目でもある。日本も記念行事を企画していて、K氏によるとその内容が現在検討されていると言う。Maguyちゃんはそれに一役買いたい、大使館としても民間人とのつながりを深めたい、両者の思惑が一致してとてもよかった。会食後、K氏はカメルーン大使と約束があり、Maguyちゃんと私は、昨日の彼の待つMatongeへと向かう。La Creshの裏手のカフェで彼を待つことしばし、彼はにこやかに、昨日埋めたコピーを正式な書類にタイプ・アップして持って来た。私はそれにサインして、申請書は有効なものとなった。「明日9時にDHLで会おう」申請手数料はUSD160であった。運を天に任せよう。

 

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 彼らは今日はデートのようなので、私はひとりMateteへ向かった。私はもう一人、どうしてもここで会っておきたい人があった。それは、第一の旅と第二の旅の様々な局面で私を救ってくれた命の恩人、旧Hotel DiakandaのレセプショニストのNzuziさんである。Diakandaなき今、20年ぶりにこの街へ来たのだから、一目だけでも彼に会っておきたかった。彼が住んでいたMateteの住所は解っている。何度も通い慣れた道である。Victoireから「Matete, Wenze Matete」と叫んでいるタクシー・ビスに乗り込む。終点は市場 (wenze) 、それをまっすぐに抜けて伸びる道Kinzaziの31番である。懐かしい通りに、鉄の門扉の家は残っていた。しかし、そこにNzuziさん一家はいなかった。近所の人に話を聞いてみたが、そこは住民の入れ替わりの激しい地区で、誰も彼を知っている者はなかった。話を聞いて、一人の老女が「わざわざ日本から訪ねて来たの」と声をかけてくれた。「まあお入り」と言ってくれたので、子供たちの遊ぶ中庭に入った。ちょうど昼時で、焼き魚とコンゴ風のみそ汁を作っていた。何故かそこでお昼をよばれ、なんかしみじみと20年前の思い出話などをして帰って来た。今思い出しても、不思議な時だった。

 

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20100320 Maguy Guerembaya

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 宿替えである。Kinshasa最後の二日間は、ちょっとは快適に締めくくるとしよう・・・荷物をまとめて新居La Rennaissanceへ運び込み、日本へ送る分を担いでタクシーをチャーターする。都心へ走らせ、中央郵便局の裏のDHLにつけた。ここで一人会いたい人があった。それは旅立つ前に、日本でリンガラ音楽をやっているYoka Chocというバンドのことを調べていて私のサイトに行き着いたという、Maguyちゃんという女性である。奥地への旅の前にも何度か連絡を試みたがつながらず、先日やっと連絡が取れたので、ここで待ち合わせることにしたのである。

 

 http://www.youtube.com/watch?v=NZEsXZbhhM0

 

 荷造りは出来ていたので、計量すればすんなり終わるものと思っていたが、ここに飛んだ落とし穴が待っていた。中身を改めると言うのだ。ううむ・・・まあそれが職務なら仕方がない。確かに危険物があれば厄介だから。荷物は開梱された。食品類は乾物もダメということで除外され、他にも細かい日用品で不要になったものが何故か取り除かれた。再計量すると2kgも軽くなり、料金はUSD1,020に下がった。ところが、lokoleふたつとditumbaが問題となった。つまりコンゴの法律では文化的な品物、つまりここでは楽器だが、それを国外へ持ち出すには政府の許可がいると言う。政府の許可 ?? ・・・私はほぼそこに頽れんばかりになった。今日は土曜日である。出発は月曜日の昼だ。月曜日の朝からいくらかけずり回ったところで、この事務手続きの非能率な国でそんな許可など降りる筈がない。ううむ・・・1989年、初めてのKinshasa滞在を終えて帰る時、美術学校の友達が描いてくれた絵や彫刻、見事な赤い木のロコレなどを没収されたことを思い出す。1991年の二度目の時も、楽器と彫刻を没収された。確かに筋は通っている。今回奥地まで分け入って苦しみ抜いて手に入れた数々も、金五郎君に作ってもらった作品も、ここで捨てて帰らなければならないのか・・・私はなんとか賄賂で切り抜けようとしたが、係の者は頑として受け付けなかった。これらはプライベートな物で、国のいうような文化的な物ではなく、単なる土産物だと主張したが、埒が開かないと見て、私を上司のところへ連れて行った。上司は女性であった。私の説明を一通り聞いた上で、やはり私の送ろうとしている物は、国の定める文化的な物に該当すると言う。土産物とは、Grand Marchéで買ったおもちゃの仮面や親指ピアノのような類いだと言う。確かに、このlokoleやditumbaはプロの使用に耐えうる楽器だ。しかし私もはるばる日本から旅をして来て、月曜日の昼の飛行機で出国するのだ。それを説明し、だめもとでいいからと、手続きに必要な書類が出来たと仮定した上で、それが手に入ればすぐに発送できるよう、他の手続きは全て済ませてくれるように頼み込んだ。さすが上司だけあって私の話に理解を示し、その書類があるとした上で伝票を作って、会計にまわしてくれた。支払いである。カウンターにはでかでかとVisa Cardのステッカーが貼ってある。私は迷わずカードを出した。すると、なんと今日は現金でないとダメだと言う。あのさあ、だからこないだ見積もりに来たときに、カード支払いも含めて全部箇条書きにして・・・もおええわ、できんもんはしゃあない。とにかく送り状だけでも用意せいと言うたが、発送が確定できない物の送り状は出せないと言って来た。そらそうやな。ほなしゃあないし、すまんけど荷物だけ預かってくれるか、と頼み込んで、裏の倉庫の係の者にもコーヒー代渡して、そこだけはなんとかなった。

 そこへMaguyちゃんが現れた。なんとチャーミングな私好みの女性であることよ。Kinshasaの女性は、ここ20年ですっかりスリムになった。20年前は、太っていることが美の尺度であったのだが、今は正反対だ。ヘア・スタイルも変わった。どっしりとふくよかな女性に似合うものから、すっきりとした都会的なスタイルになった。バリエーションも増えた。ストレート・パーマが流行り、ロング・ヘアをなびかせ・・・いやいや、今はそんなことに現をぬかしてる場合ではない。私の悲壮な表情を見て、彼女はなにかあったのかと訊いた。私は一部始終を説明した。すると彼女はカウンターヘ行って、スタッフから説明を聞いた後、その場で数カ所に電話した。私がメモしていた政府発行の必要書類の名前を確認し、「大丈夫よ、すぐに彼が来るから、どこかのカフェで待ちましょ」と言った。私は何のことだか解らなかった。

 

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 コンゴという、何もかもが遅れ、非能率に苛立たされる国には、本当にきわめて稀に、一瞬ですべてを解決してくれるような逸材が存在するのである。Maguyちゃんはまさしくそんな女性だった。DHLの近くのカフェで「彼」と待ち合わせた。彼は既に「申請書」の白紙のコピーを持っていた。それに必要な項目を全て聞き出して埋めた上で彼は数カ所に電話し、にこやかに頷いて「大丈夫。明日会おう」と言った。DHLを出てからものの15分と経っていなかった。希望が見えて来た。全てを託した。もはやじたばたしても仕方がない。私が動けない以上、彼らを信用する以外、他にベターな方法はあり得ないのだ。

 Maguyちゃんもその彼も、おそらく重要な企業の有能なスタッフに違いない。外見も物腰も、言葉遣いもすべてが違っていた。彼らは日本に大変興味があって、特に音楽や芸能に関心があると言う。かねてから日本のために、ここで何かをしたいと考えていたらしく、そのきっかけになればと、まっすぐな目をして言うのである。私は、奥地から無事に帰京したことを、既に日本大使館のK氏に伝えてあったが、出国する前に、K氏は奥地の情報を欲しがっていたので、明日、大使館で会う約束になっていた。よかったら二人とも同席されてはと誘ってみたが、彼女だけ来てくれることになった。しばし歓談の後、彼らは仕事の続きがあると言って、事務所へ去って行った。

 

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 Maguyちゃんとは、今もコンタクトをとり続けている。お世話になったので、帰国後に日本の浴衣をお送りしたところ、自分で着方を調べて、きちんと着こなして写真を送ってくれた。

 

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 この姿で通勤もし、仕事もするそうである。

 

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 その年の冬に、日本から別の女性がKinshasaを訪れることになり、Maguyちゃんを紹介しておいたところ、現地でなかよく遊んだらしく、Maguyちゃんからのお礼として、このような手縫いのシャツとパンツが託されて来た。手縫いやで。どうもね・・・距離と年齢の遠く離れた女性は素直に好いてくれるのに、近い女性はあきまへんなあ・・・ (;_;)

 

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 いやこれは日本ではあり得んセンスですが、嬉しい限り。

 

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 アホです。

 

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 雪です・・・

 


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20100319 Kisantu

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 さて今日は、タクシーを借り切ってKinshasaから西へ約120km、Kisantuにある植物園目指して2時間のドライブ。

 

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 Bas-Congoの風景は大好きだ。一度目は1989年にMarayMatadiに陸揚げされたRumba Ray業務用車を引き取りに行ったとき・・・こんときは二往復したっけ・・・次は1991年にアニキとクマちゃんとともにMatadiを経てMwanzaまで足を伸ばして寛いだ時だった。ほとんどの風景が果てしない草原で、とにかく気持ちが良いのだ。飯も旨い。

 

 http://web.mac.com/jakiswede/iWeb/3e_mobembo/Kinshasa.html

 

 

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 目的地Jardin Botanique de Kisantu・・・私が野暮な説明するより、これ見てちょうだい。

 

 http://www.kisantu.net/

 

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 Kisantuの植物園は、規模としてはMbandakaのそれより小さいが、ヨーロッパ風の庭園と、トロピカルな庭園とがコンパクトにまとまっていて、Kinshasa近郊のおすすめスポット。園内の至る所に、緑の回廊や花畑がしつらえられていて、さながら熱帯の楽園のようである。園内にはレストランもあり、バイキングで地元料理も食べられる。混沌や喧噪、矛盾や内戦というマイナスのイメージの強い国だが、こんなに美しい時間と空間を守り続ける側面もある。奥の深い国である。

 実はBas-Kongoの旅にはもうひとつ目的があった。それはKisantuからさらに西へ、Matadiのすこし手前にSongololoという街があり、そこから南下する道がAngolaへの国境を越えて、かつてのコンゴ王国の首都M'banza Kongoへ通じているのである。私は準備段階からこの街への訪問を切望しており、たびたびアンゴラ大使館にVISAの申請をしようと試みたのであるが、それは大変厳しい条件をクリアしなければならず、結局断念した。腹いせにSongololoからLuvoへ至る国境の道に向かって「アンゴラのバカヤロウ」・・・さて、かねて調べておいたMatadi-Kinshasa間列車の旅・・・しかしSongololoからの途中乗車はとてもとても・・・参考までに映像だけどうぞ。

 

 http://www.youtube.com/watch?v=GR8b7ZuP2OU

 http://www.youtube.com/watch?v=WxUEsJId6ZM

 

 ことほど左様にコンゴの国内交通事情は厳しい。楽園からのこの落差たるや・・・

 

 http://www.youtube.com/watch?v=hOibkbTNfUs&NR=1

 


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