2011年01月27日

20100318 Papy Kingolo

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 今朝は、師匠の特訓の後、N'djiliの金五郎君 (写真中央) のところへ、完成したditumbaを見に行った。いや驚いた。「ひとつだと選ぶ余地がないやろから、ふたつ作って来たよ。でもひとつ買ってくれればいい」いやホンマにね、心意気とはこういうもんですよ。USD20しか貰えへんことわかってるのに、わざわざふたつ作って選ばせようとする。ほんまにね、彼ら職人たちが報われる事を心から祈ってるよ。出来も素晴らしく、師匠も言うべき言葉とてなく、そのまま素直にひとつを買い、写真に写ってる3人と表通りのバーでビールを飲みつつ歓談したのでした。金五郎君、ほんまに口数の少ない、しかも声の低い、ぱっと見めっちゃ怖いけど心の優しいエエ男でした。

 さていよいよ帰る準備を始めなければならない。師匠とはMateteで別れてホテルへ戻る。まずはここから日本へ送る荷物と持って行く荷物を分ける。lokoleふたつとditumbaの重さを量って、それを梱包した時のおおよその総重量を割り出してみると約30kg、床に並べておおよその外形寸法を出してみてメモし、必要な資材を買いに都心へ走る。タクシー・ビスが捕まらんので「24」方面へ走るタクシーを見つけて乗り込んだ。Muséeで降りてミュージアム・ショップでお目当ての品物を手に入れ、そのままRoyalへ歩いてMarché d'Ivoireで骨董もののlikembeを複数購入。ぶら下がって来た物売りから小さい仮面を3つUSD5まで値切って買ったり、Zaïre時代の懐かしい紙幣を買ったりしたあと、そのままBd. 30 Juinを都心へ行き、中央郵便局の裏手にあるDHLで重量とサイズから日本への発送料金を見積もってもらったところ、なんとUSD1,000〜1,200 !! これにはパソコンでシミュレーションしてくれたねーちゃんも目を丸くした。いやいやそんなことでは驚かない。よしわかった。送ったるさかい待ってろと言ってそこを出て、Grand Marché手前を右へ折れて布地の問屋街に入って行き、アラブ人から安値でコンゴ風の布地を3反買った。Grand Marchéへ行って梱包資材を捜すも見つからず、たまたま立ち寄った本屋でガムテープを買うついでに訊いてみたら、なんとそこで処分する大きな段ボール箱をくれた。それを持ってホテルへ戻り、全部入れてみたら、まるで測ったように収まった。やれやれ・・・そこまでやってしまうと急に疲れが出て、そのまま晩飯も食わずに寝てしまった。

 

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20100317 Diakanda

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 昨夜の事をつらつら思うに痛感する事は、もはやMatongeはコンゴの音楽の、いやアフリカ音楽の首都ではなくなったという事だ。この20年の間にコンゴは内戦、政変、大統領の暗殺などを経ながらも、グローバリズムの波に乗って発展して来た。その結果、音楽が国の主要産業たり得た経済のレベルはとっくに超えて、もっと規模の大きな動きの中でこの国は回っている。人口は密集し、首都の要衝は人で溢れ返り、物価は東京並み、つまり20年前の30倍だ。そんななかではミュージシャンはやって行けず、かつてはこのMatongeの至る所にあったライブ・ハウスや、昼間の時間をバンドの練習のために貸していたバーなどは経営が成り立たなくなって、より利益の大きい、携帯電話ビジネスやインターネット・カフェ (Cyber) 、ブティックやサロンに鞍替えした。かつてPapa WembaのViva la Musicaが活動の本拠地にしていたライブ・ハウスVis-a-visはゲームセンターとなり、Foubourg (T.P.O.K. Jazz) ・Ngoss Club (Zaïko Langa Langa) ・Kimpwanza (Anti Choc) ・Cadioca (Choc Stars) などは影もカタチもなく、Veve Center (Victoria Eleison) すら、もうないのだ。レコード屋や小さなエディションもなくなり、それらは携帯端末などのパーツを売る店になっている。もはやVictoire広場を揺るがしていた、それらレコード屋から垂れ流される大音響の音楽は聴かれなくなり、大渋滞のために動かぬ車のクラクションに取って代わられた。夜な夜なホテルの窓越しにそよ風に乗ってあちこちのライブ・ハウスから聞こえて来た名演奏の代わりに、La Creshの耳を塞ぎたくなるようなコピー・バンドのバカ演奏と、ほうぼうにあるホームレスの簡易宿泊所を兼ねた合宿所でがなり立てられる煽動的なアジテーションが耳をつんざくのである。20年前、私が定宿にしていたHotel Diakandaさえ人手に渡り、かつてセキュリティのしっかりしていた中級ホテルは、このような汚いアパートに成り下がってしまった。このエリアで代表的なHotel Matongeも今は電気もなく、Yaki・Mukokoなどの昔懐かしい南京虫の散歩していた安ホテルは消滅した。音楽を目的にMatongeに来た筈なのに、もうここにはミュージシャンは集まってはいない。音楽シーンは経済の波に押し出されてKinshasaの郊外へ散り散りになった。かつてはすぐ歩いて行ける距離にいくつものライブ・ハウスやバーがあって、朝までハシゴしても危ない目ひとつ会わなかった音楽の楽園は、いまやコンサートを見るために郊外までタクシーで出て行かなければならなくなった。そればかりか、WerrasonやFerreなどビッグ・ネームのバック・バンドは、その練習にさえカネをとられる始末だ。その練習も、歌を持ち寄って歌手が試行錯誤と実験を繰り返しながら歌い込んで歌い込んで、それに寄り添うようにバッキングが次第に練り上がって行くような、ほのぼのとした音楽的創造の場ではなく、パトロンの名前をいかに出資額の順番を間違えずに連呼するか、それに重なるアニマシオンとダンスをいかに効果的に見せるかの練習であり、時によっては新規メンバーのつるし上げ的オーディションの場にもなる。もはやこれらは売名行為以外のなにものでもない。長居は無用。済ませるべき用事だけ済ませたら、さっさと退散するのみ。

 私は、もしかしたら音楽を素直に楽しめなくなっているのではなかろうか・・・と思う事がある。いろいろな音楽に触れて、聞く耳が肥えて、ジャンルではなく、内容によって、その音楽が自分にとって良いものかどうかを判断するようになって来ると、自然と基準が厳しくなって行くのである。どうしても、いやなものはいやだ。世の中にはいやなものの方が多いから、それだけいやな思いをしているわけだ。仕方がないとはいえ、いやだいやだと思っていると、いろんな事がいやになって来て、外に出るのもおっくうになる。奥地の旅は珍しい事の連続だったので、いやな思いをしている暇などなかった。しかしKinshasaは、ここが良かった時代を知っていて、その夢の続きを見たいという期待感があった。しかしそれはたった数日で無惨にも打ち砕かれた。もはやほとんどまともな音楽には出会わない。私が20歳若ければ、こうは思わなかったのかもしれない。しかしもう遅い。Victoire周辺は夜中にならないと混雑が収まらず、あまりの密度の高さに外出する気が失せる。交通手段に対して人が多過ぎ、ほとんど難民状態だ。うっかり出て行くと、なかなか用を足せないままにいろんな奴らに捕まるのが鬱陶しい。もうだいたいわかりきってるのだ。20年前ならKinshasaの物価も今の30分の1だったので、少々人と出歩いても大してカネは使わなかった。しかし今では、ちょっとした事で100ドル札に羽が生えたように飛んで行く。いかん。とりあえず師匠の特訓と、彼とともに外出する以外の雑魚は切り捨てよう。イライラしてる。特にこのホテルは限界だ。ハウス・バンド以外はこれといって問題ないのだが、ちょっと部屋が汚い事もイライラのもとになっている。そうだ、ちょっとしたことだ。今日は、師匠の特訓の後、Viva la Musicaのレペが休みになったので、師匠はそのままMateteへ帰ってしまった。私はどうにも気分が鬱いで、出る気がしなくなり、部屋でテレビを点けた。なんと「Twenty Four」をやっている。見た事のないシーンだ。Kinshasaまで来てじっとへやにこもってアメリカのテレビドラマを見ている。なんとも滑稽なものだ。今日はクーラーが効かないので汗をかく。電子蚊取りのマットが尽きて、蚊の大群が押し寄せて来た。長袖長ズボンで対応するが、暑くていられない。階下に降りて、ガキに蚊取り線香を買って来てもらうものの、中国製のそれは全くといっていいほど効かない。仕方がない。マラリアの不安に苛まれながらも耐えるしかない。そうなってくると、今までなんとも思わなかったものが、全部不潔に感じられる。汗・トイレ・バケツ・スプーン・街角・露店で売られているものの全て・・・・いったんそう感じられはじめるととめどなく、この街全体が不潔に思われて来る。そうだ。この部屋の臭い、つまりトイレの臭いがたまらん・・・疲れているのだ。それはそうだ。Kinshasaに戻ってからトバしっぱなしだったから。少し寝よう・・・

 夕方に目が覚めた。やっぱりイライラしてる。ホテルを変えよう。外に出て、新築のホテルを物色する。目の前のInter Matongeはさすがにばつが悪いので、広場の向こう側を捜す。Av. Kasa-Vubuを少し都心側に歩いたCentre Bibliqueの裏手に、まだオープニング・キャンペーン中のホテルを見つけた。Hotel Rennaissanceといい、一番安い部屋でUSD35、見せてもらったが、まあまあ奇麗で水も電気も来ているので、Kinshasa最後の土日(3/20-21)の予約を入れた。La Creshに戻って荷物を整理していたら、金物入れのタッパーの中から電子蚊取りのマットのスペアが出て来た。そうか、3枚入れてあった筈なんや。落ち着いて考えてみたら解る事や。なにもイライラする事ではない。飲み込まれるとこやった。自分でこの状況を変えていかな神経が持たん。まずは空気を入れ替えよう。この部屋はベランダもないので、空気の入れ替えは扉を開けるしかない。反対側は便所だから臭い臭いが入って来るので、それで我慢するしかない。あまり良くない事だが、廊下に椅子を持ち出して、開けた扉にまたがせて旅日記を付けはじめた。書き物をしていると、不思議に心が落ち着く。格子状になった外壁越しにVictoire広場の喧噪が見える。暗くなるまでそうしていても誰一人通る者はなかった。書き物は終えたので、Cyber巡りに行く。Matonge周辺にはCyberはいくらでもあるが、ネット環境もさることながら、古いWindows PCに古いIEしか載ってない状態で、私のme.comには全くアクセスできない状態が続いていた。ところがホテルの裏手に、なんとFireFoxを搭載した新しいPCのあるCyberを見つけた。雰囲気が落ち着いていてスタッフもなかなか親切である。me.comにもアクセスできて、久しぶりにメールを全て読んだ。それは、ここの喧噪や、雑踏から吐き出される淀んだ空気、緊張感、身の安全、そしてイライラ・・・そんな心の状態からして、遠い遠い別世界からの通信のように見えた。それらに返信を返し、ブログの更新を試みたが、やはり速度が間に合わずダウン。仕方なくブログへのコメントとして、Inongoからの旅路の事を簡単に書いた。このCyberは、比較的電気が安定していて余裕があったので、Cairoで宿泊するつもりのホテルにメールで予約を入れた。「世界一周チケット」の予定通り3/22 (月) にここを発つ。ちなみに、コンゴで私の経験したKinshasa・Inongo・Iboko・Bikoro・Mbandakaの市では、自家発電設備を複数の家で共有する事から、発電機の事を「groupe」と呼びならわしている。電気の供給に不安のある場合は、「Ozali na groupe ? (グループはあるか) 」と訊けば良い。さて腹も減って来たので旧Diakandaの一回で飯を売っているねーちゃんのところヘ行って、魚と豆のシチューで晩飯にした。

 

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20100316 Itscharli

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 本日より午前中はItsharli師匠のロコレの特訓である。こんなこともあろうかと思ってmp3プレイヤーに詰め込んで来た往年のViva la Musicaの大ヒット曲の数々、その数200曲 !! 、中年男二人ホテルの浴場・・・失礼、屋上で二股プラグに仲良くヘッド・ホンをソーニューして、師匠の口 (くち) ロコレに合わせて私が寸分違わずに叩く。やがて高まり行く師匠の声・・・「ココッココッ、カッ・・・、ココッココ、ンッッカンッッカ、ンンカッカッ」・・・鶏のような声を出して口をとんがらせ身振りで指示するええ歳こいた男と、それをしっかり見つめながら的確にロコレに立ち向かうええ歳こいた私・・・よくぞこのホテルに誰も来ない屋上があったものよ、いやいやもしかしたら階段をそこまで上がって来て、あまりの異様な雰囲気に怖じ気づいて降りて行ったのかもしれぬ。どっちみち好都合、師匠の「手」は全て体に染み付いた愛弟子の記憶、それでも「違うっ !! ココッココッ、カッ・・・、ココッココ、ンッッカンッッカ、ンンカッカッや。なんべん言うたらわかんねん !! あかん!! 」と檄の飛ぶ微妙なタメとツッコミ・・・これからロコレをやってみようかなと思っているアフリカン・パーカッショニスト志望の皆さんいいですか、「ンッッカ」というこのタメ、「ココッ」というこのツッコミ、これは非常に大切です心得てください・・・大阪人でもなかなか判断のつきかねる師匠の目の合図と口ぶりの変化によって次の展開を予測する。長年ピリピリのサポートで鍛え抜いた音楽的直観と柔軟性と適応力を総動員して集中する毎日3時間の猛特訓・・・20年前の愛のカンチョーあってのこの展開、やがて3日目にはmp3プレイヤーの全ての曲をさらえ尽くし、終わった頃には二人の中年男が肩で息しながらテーブルに這いつくばる体たらく・・・それを見たホテルの主人「おまえらなあ・・・」すんません、ば・・・場所代、は・・・払います・・・おかげさまで特訓に集中できました。こうして20年の間に次第に崩れた私のロコレの「手」を、毎日昼飯を奢るという約束で師匠は直して下さいました。

 

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 一息ついて師匠と羊肉のてんこもり昼飯を平らげた後、思い立って都心のAcadémy des Beaux-Artsと、それに悶絶・・・失礼、隣接するMusée de Kinshasaへ行く事にした。そこは、かつてはAv. 24 Novembreといって、故Mobutu前々大統領がクーデターを起こした記念日を・・・とにかく通りの名前が変わってAv. Pierre Muléléとなっている。しかし我々のように古くからKinshasaに住んでいる者は、ついついKinshasaの大通りを大雑把に把握するために、Matongesと都心をつなぐAv. Kasa-Vubuを中心にして、東にUniversité、西に24 Novembreと記憶してしまっているものだから、ついタクシーに「24」と叫んでしまう。まあそんなこたどーでもええんやが、美術館ヘ行けば、奥地の旅で見かけた様々な伝統的な仮面や意匠の何たるかを知る事が出来るんちゃうかと思ったのであるが、巨大な建物と敷地の割に開放されていたのはほんの一室のみで、コンゴ人は入場料FC500やのに、外国人はガイド付きでFC5,000なんぞとこきやがる。ガイドちゅうてもね、だいたい解り切ってる事を簡単に説明するだけやし、師匠しびれ切らしてしもてEquateur地方の伝統的な儀式に使われる仮面のそれぞれの役割について、ひとつひとつその学芸員に突っ込んでいじめたりしてたらやがて一周してもた。そこを出て庭を散策中に見つけたミュージアム・ショップがなかなか良い雰囲気で、物静かな男が店番をしていて親切に説明してくれる。ほとんどの商品は美術学校の学生の作品で、手作りの細やかさが良く出ていて初々しい。しかも手頃なお値段である。私は、Kinshasa随一の土産物露店、中央駅前広場のMarché d'Ivoireのえげつないボリ方 (約30倍からスタート !! ) を知ってるから、ここである程度日本へ持って帰る土産物の目処だけつけておいた。

 さてそのMarché d'Ivoireはというと、訊けばなんでも駅前再開発のためにその一等地を立ち退いて、Bd. 30 Juin (コンゴRDCの独立記念日) を西の方へ下がったRoyalという場所の空き地で仮営業していた。外国人を見ると群がって来る売り手たちの様子は変わらない。白人の金持ちや、華僑のトレーダーが来て品定めしている。まとめて大量に買って行く客もあるが、やはり仮営業なので活気に乏しい。売られている物は、仮面・置物・アクセサリーがほとんどで、楽器は極端に少ない。likembeを捜しておこうと思ったが、日本でも売られているようなちゃちな代物に結構な値段を言うので無視していたら、やはり来た。「お前の欲しがっているような物を持っているやつがいるぞ」とか、「今日は持って来てないが、家から古くてトレ・ビアーンなやつを持って来といてやるよ」とか言って来るので、「じゃあまた来たときにいいのがあったら買うよ」といい加減な返事をしておいて、師匠と木陰でビールを飲みながら作戦会議。楽器としての使用に耐えうるlikembeは、やはりミュージシャンから買うに限るので、金五郎君がditumbaを完成させたら、それを取りに行くときにKononoファミリーに頼むか、KitamboにいるKonono Molendeのところで訊いてみるか、それでダメならここでなんとかしよう。ということに落ち着いた。

 せっかく都心に出たので前々から連絡をくれていて、奥地への旅に出る前には捜し当てられなかったFistonの息子と連絡が取れたので、すぐ隣の区のLingwalaへ捜しに行った。かつてFistonが住んでいたあたりは再開発がかかってすっかり荒廃してしまっていたが、息子は親戚に引き取られて、わりとしっかりした家に悠々と住んでいた。話と言っても、私が彼に会ったときは、彼が生まれた直後なので、ともに共通の話題はないのだが、息子がLondonに住む父に電話をし、それを私が引き継いだりして和やかな時が過ぎて行った。やがて夕食時になり、「どうぞご遠慮なく」というそこのママの手料理を食って、満ち足りた気持ちで家路についた。

 

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 夜になると屋上のクソッタレバンドがリハーサルを始めやがる。まったく堪え難いので仕方なく通りへ出て、もうちょいマシなものでもないかと捜しはじめたら「イタミ !! 」あれ ?? 師匠、こんなとこでなにしてんの ?? 女連れである。いやお見それしました。Mateteへ帰ったと思いきや・・・「La Creshがひどいからさあ、ちょっとマシな音楽聞きに行こうと思うてね」「ほな一緒に捜そか」と言うて、奇妙な三人連れで20 Maiの旧スタジアムの方へ斜めに延びる道を歩きかけたところ、右手より何やら黒い気持ち良さげなMutuasiが聞こえて来る。師匠も私ももはやまっすぐには歩く事が出来ず、そっちの方へそっちの方へ引っ張られて行って、とある狭いバーに吸い込まれて行った。おお、これはKasaï AllstarsとともにCD化されたユルユルのMutuasiバンド「Basokin」ではないか !! 師匠も思わず身構えるそのユルさ加減、なんて言うたらええんやろね、リズムのエッジが全然立ってないねんけど、大まかなたゆたうグルーヴがねえ、太いというか柔らかいというか、ともすれば師匠でさえリズムの頭を見失うほどとらえどころがない。でも演奏の全体は、かっちり固まってる。言葉では言い表せへんね。そこへ若い女性ダンサーが3人ほど出て来て、腰を斜め前へ突き上げる動作をしながら低く低く落として踊ってる。師匠の目は爛々と光り輝き、隣の隠し女が思いっきり背中をはり倒す・・・おいおい、私の師匠にナニすんねんと、くずおれた師匠を助け起こす私・・・ともに笑い合う奇妙な三人連れに、明らかに周りの客は怪訝な顔してましたな・・・しかし演奏は素晴らしかった。Mutuasiの音楽とロコレを使う音楽とは、実は全く異なる地方のものなので、相性は良くないのである。Mutuasiのリズムの核をなすのは独特の鋭い金属音、今ではビール瓶で代用するのが当世流なのであるが、それにぬめりつつからみつつ下から鳴り響くのが、私がN'djiliで注文したditumbaというこの地方独特の太鼓である。どんなものかについては、ここに詳しく書いてあるのでご覧頂く事として、

 

 http://homepage.mac.com/jakiswede/2music/23equips/236withhands/2360withhands.html#4

 

 とにかくそのditumbaの音は丸みがあってビビリがあってサスティーンが長いので、ついつい脳みそが後ろに引っ張られる感じがするのである。師匠としてはこの感覚は専門外というか、ご自分の美学とは対極にあるともいうべき種類の感覚なのであるが、そこはリズムの不思議さに引き寄せられるロコリステふたり、ためつすがめつ、ピーナッツ食いつつ聞き惚れたのでございました。演奏は、あっさりと23時頃終わった。感動のお礼に、matabishiを持って長老のもとを訪ねると、中へ招かれて酒宴となった。そこで見せてもらった彼らのditumba、リズムの不思議さに引き寄せられるロコリステふたり、ためつすがめつそれを眺め様々に質問もし、名残惜しくも、「明日仕事があるから・・・」と帰宅を急ぐ彼らの次のライブの予定を聞き出して別れたのでありました。ううむ・・・明日仕事があるからだと ?? 20年前にミュージシャンがそんな事ほざいとったらたちまち袋だたきに合うたであろう。ミュージシャンが仕事をしてるという事自体が許されないモラルがあった。ううむ・・・時代の変化を痛感させられ、未だ鳴り止まぬクソバンドの轟音の中を部屋に戻って寝た。

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20100315 N'djili

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 日本へ帰って来た・・・のではない。これはCAAでMbandakaからKinshasaへ飛んだ飛行機Fokker 50の座席である。Mbandakaの空港には朝6時に来いと言われていたので、5時に起きて身支度をし、通りに出てtolekaを2台拾った。1台はロコレ3つとザック用である。空港までtolekaで30分であった。コンゴ第三の空港も、鄙びた広っぱに事務所棟がひとつあるだけで、建物の前には車止めもない。繰り返すが、空港には朝6時に来いと言われたので、5時に起きて身支度をしたのである。しかるに建物の周りには人っ子一人おらず、当然カギもかかったままなのである。tolekaの若者も笑って行ってしまった。まったくこの国は、約束の時刻というものをなんと心得ておるのであろうか。人と時刻を決めたにも関わらずそれが守られない場合に、相手の時間を無駄にしてしまうという事に関して、どのような整合性を保って世の中が動いているというのであろうか。決めたら決めた通りに動き、みんながそれを守るようになれば、社会全体が円滑に前進するのではないかという事に、何故気がつかないのであろうか・・・まあこれは価値観の違いやさかいしゃあないな。もっとも、待っているうちに暇なおっさんとかが寄って来て、エロエロ・・・失礼、いろいろ近隣の集落なんかを案内してもらったり、荷物係が来て雑談してるうちに、ロコレの袋の補強とかただでしてくれたし、多少待たされたんはそれでよしとしといたろ。

 Mbandakaの空港の手続きはKinshasa N'dolo空港とは幾分異なっていて、先にGo PassをUSD10で買い求め、それを持って奥のカウンターでチェック・インして、次に荷物の計量である。ここでは、機内預けの荷物だけを量るのではなく、手荷物も全て・・・あのね、俺はお前らに言いたい事がひとつある。俺の荷物が全部で何キロやからなんぼ超過しててそれになんぼかかるてね、そこまで言うんやったら客の体重も含めて全部計量せんかいや。このおばはん俺の体重の3倍はあるぞ。このおばはんの荷物が少なうて超過料金が俺より安いちゅうのんは、飛行機が運ばんならん重量のトータル・バランスから考えて、いささか不公平なんとちゃうか・・・とは言うてないねんけどね、奥の計量係が俺に目配せするから、俺、荷物組み替えてウェストポーチに重たいもん詰めるだけ詰め込んでそれをこの暑いのに上着出して着てそのなかに隠したった。ロコレが15kg、ザックに残った荷物が7kg、係が目配せして全部で20kgノーチャージ !! 多少待たされたんはまあこれでよしとしといたろ。

 計量の後、身柄はDGMに拘束されてエロエロ・・・失礼、いろいろ質問されたものの、そこはコーヒー代でなんとかなって、国内線やのになんでや知らんけどYellow Card提示を求められてそれまたコーヒー代がどうのこうのとなって、こちらへどうぞというんでついて行ったら元のカウンター前でやんの・・・あのな、俺はお前らに言いたい事がもうひとつある。手続きが済んだら、済んだ人と済んでない人を分けろや。コンゴと日本の文化の違いは百歩譲って理解しよう。飛行機に乗って旅をするような人は、コンゴでは上流階級に属する人たちである事も理解しよう。彼らには、常にお付きの人がいてて、ご本人はなにもなさらず、全ての面倒はお付きの者がするものだという文化も理解しよう。せやけどね、飛行機という西欧の文化を受け入れたんやったら、それに付随するルールも受け入れんかいや。一人の旅客に対して、そのお付きの者が3人も5人もついてきてやね、ご本人は特別に持って来させた椅子にでーんとふんぞり返って、お付きの者が書類もって右往左往して・・・またこういうお付きの者は大抵アタマ悪いんや・・・そいつらがてんでに職員捕まえてあーだこーだと無理難題押し付けとったらやね、そんなことしとるうちに靴磨きの者とか物売りが入り込んで来て、場所がよけい混雑するやないの。カウンターではひとつの窓口に一列に並んだらええものを、あいつよりうちのご主人の方が身分が上やのになんであいつの方が先にとか、自分のを先にさせようとして賄賂を渡すその手を見逃さなかった役人がその手を止めて、それを見た相手のお付きの者がほなこと言うんやったらてやってるうちに人が群がって喧嘩してたらね、いざ切符の改札が全部終わったというても、この待合室を埋め尽くした雑踏の誰々が手続きの済んだ乗客で誰々が手続きの済んでない乗客で誰々がお付きの者で誰々が靴磨きの者で誰々が物売りなんかさっぱりわからんようになるで。それを分けるのにまたお付きの者がああ言うてこう言うて、それを聞いたご主人がご不満の表情をなされたからどうなってこうなっててお前らねえ、時と場合を考えろや。一人のわがままが全体を遅れさせて、ひいては自分の不利につながる事ぐらい解るやろ。そんなことしとったら今そこで待ってる飛行機でさえ日が暮れても飛ばんで。空港へ来たときくらいコンゴの慣習とやらを捨てんかい。自分が座ってたらお付きの者が全部してくれて、さあ整いましたからこちらへどうぞて、手を引いてタラップまでお見送りてね、そんなもんもうやめろや。黙って自ら全ての手続きを済ませたらお別れや。それですんなり次の待合室に入ったら、たかが数十人の搭乗手続きなんて10分もあったら終わるんや。それがなんや、俺はなあ、何度も繰り返すようやが空港には朝6時に来いと言われたので、5時に起きて身支度をしたのである。しかるに建物の周りには・・・そらもうええわ、済んだこっちゃ。せやのにやねえ、お前ら10時過ぎに来といてから・・・おいこら、もう12時やないか。俺は腹が減った。こらそこのガキ、ちょっとパンとバナナでも買うて来い。

 KinshasaのNgunzaさんには、朝7時の飛行機やし9時には着くよと電話を入れてあったのだが、事の成り行きが事ほど左様であったので「とりあえず飛ぶ前に電話するから、その一時間後に来といて」と変更した。「まあそんなとこやろな」・・・まあそういうことなんやけどね、Equateurへ行けばロコレなんかそこら中で売ってるなんていうKinshasaの話は嘘、BikoroからMbandakaへはタクシー・ビスが頻発してるなんてBandunduの話も嘘、MbandakaからKinshasaへは毎日飛行機が飛んでるなんてIbokoでの話も嘘、しかしLita BemboがMayi-Ndombeヘ行けば分かると言った話は本当、EmmanuelがNkileからピローグで行けと言ったアドバイスも本当、Nkileの村の長老が俺の顔を見て「行けるやろ」と言ったのも本当、これらの話のどれが嘘でどれが本当なのかを、予め見極めるには、文化への慣れが必要。これは文化の違いであって、とにかく現場に居合わせてからでないと、どうにもならんのだこの国では。たとえ携帯電話が普及して、多少便利になっても、そこんとこの文化が変わらんことには、非能率なことは改善できひん。改善すりゃええっちゅうもんでもないんやけどね、ここの文化にはここの文化の良さがあって、だからこそ私も命がけで旅しとんやし、空港で半日もたついたからちゅうて文句いうとったらあかんわな。それは百も承知や。百も承知の上で、敢えて君らのためにもっぺん言うといたるわ。飛行機という西欧の文化を受け入れたんやったら、それに付随するルールも受け入れた方が良い。・・・結局飛行機は12時過ぎに飛び立った。

 CAAがええよと勧めてくれたMbandakaの船着き場の乗組員の話も本当だった。日本から譲渡された中古のFokkerは奇麗に改装されて使われていた。美人スチュワーデスのねーちゃんも乗務していて、サンドイッチと飲み物の機内食が出た。感動。飛行機はさほど高度を上げず、コンゴ河に沿って、河面と沿岸の様子をつぶさに観察できる程度の高さで飛んだ。赤い河であった。元々のの河の名は「Zaïre」である。それは「全てを飲み込む川」という意味である。左右から、深い緑の熱帯雨林が迫って、木々が河の中に押し出されようとしているかに見える。時折村が現れ、ピローグが浮かんでいるが、フェリーの姿はない。早くて4日間かかる船旅の行程を、上空から一時間半見物した。

 KinshasaのN'djili空港には昼過ぎに到着した。例によって乗客は一塊になってバスに乗り、要らんS字を描いて建物に横付けされ、例によって数人の外国人のみ別窓口での受付となり、例によってVISAの有効期限を巡って一悶着になりかけたところを、例によって予め用意した明確な文書をもって「ほっほう・・・」となって、でもやっぱりちょっとは金をむしり取りたい役人に多めのコーヒー代を握らせてなんとか通過し、機内預けの荷物もポーターの手に渡る前にコンベヤから回収に成功したので、あとは群がる奴らを振り切って荷物検査もごぼう抜き、Ngunzaさんがにこやかに待ち受ける到着ロビーに出た。慣れたもんやねえ・・・(自慢にならんけど)

 

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 再びKinshasa、今回は迷わずVictoire Matongeへ走ってもらい、Hotel La Creshに泊まる事にした。ここは20年前から屋上のビア・ガーデンで毎夜バンド演奏がある事で有名なホテルである。しかしだいぶ老朽化していて、周辺に出来た新しいホテルとの価格競争に負け、今では一泊USD20。安いに越した事はない。ただし電気は自家発電で往々にして故障、水は階下からバケツで汲み上げる。しかし門は鉄の頑丈な扉であって門番も常駐しているし、部屋の扉も鉄格子がはまっていてカギも確実にかかり、セキュリティは問題ない。Matongeの交通の要衝Victoire広場沿いにあるので交通至便、仮に夜遅く乗り合いタクシーで戻る場合でも、ターミナル行きは頻繁にあるし説明の必要がなく、歩く距離も短くて安心できる。これはホテル選びでは重要なポイントである。Kinshasaのように市内交通が整っておらず、移動に困難を極めるような街では、タクシーなどに途中から乗る事は難しく、帰りも自分の戻る場所にその車が行くのかどうかの確認に難儀する。交通の要衝であれば、その苦労は省かれる。従業員も親切で、別料金になるが、なまめかしいねーちゃんも常駐している。向かいにネットカフェ、裏手に小じゃれた食料品店もあり、パンや果物などの食料品は露店でいくらでも手に入る。ただ、屋上で夜な夜な演奏するバンドがへたくそで聞いてられへん。どんな曲でもやるのだが、どんな曲も大雑把にしかやらないので、その曲の持つ元々の味わいは、全く感じられない。それは却って苦痛である。

 

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 Itsharli先生 (師匠) に帰京を伝えると、こちらに来ていただけるとの事なので、それまでの間、屋上からMatongeの風景を楽しんだ。危険と思われたタクシー・ビスの取り合いも、見慣れてくればなんという事はない。単に20年前よりも人口が増えて、移動に難儀しているだけの困乱である。BikoroからMbandakaへ至る途上の村で買った古い強烈なロコレはひた隠しに隠しておいて、Bikoroで手に入れた二つを持って行き、新品を「もうちょい修正してほしいところがあるので、職人がいたら教えてほしい」たらなんたら言うて、もひとつのやつを師匠に見せてそれをプレゼントした。「こらイタミ。俺とお前はいわば血を分けた兄弟の間柄ではないか。そっちの新しいのんは、ひとたび私が演奏すればまさに輝ける生命を得て、コンゴ音楽の将来に明るい光をもたらすであろう。それにひきかえこれはなんだ ?? 」「師匠、お願いしますよ。師匠はちょっと飛行機で飛べばこんなロコレぐらいそこらでゴロゴロ手に入るじゃないですか、それに『弘法、筆を選ばず』という言葉もあるじゃないですか、私ははるばる日本から何十万円もかけてこれを手に入れに来たんですよ、わかってくださいよ。」「ほんまにこんなもんしか手に入らなんだんか ?? 」「ほんまですがな、これでも何人もの人を手配して、やっと手に入ったいくつかのうちの、上からマシなもの二つなんですから。」「ほんまかぁ?? 」「ほんまですって。」師匠はニヤニヤ笑いながらも疑り深そうに、名残惜しそうに新品の赤いロコレを眺めていたが、ビールが進むうちにやがて快活になって、「今夜LembaでPapa Wembaのコンセールがある。どうせあっちへ走るんなら、ditumba作れるやつ見つけといたったし、今から行こうではないか。」おお師匠・・・子弟の約束ちゅうもんは堅いもんですなあ。

 

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 新しい方のロコレを持ってVictoireからKingasani行きのタクシー・ビスに乗り込んでBd. Lumumbaを空港方面へひた走り、Entrée ya N'djiliで降りる。右手に広場があって、その脇にProcredit Bankがある。長旅でUSDをほぼ使い切っていたので、ここでUSD現金を補充しとく。その広場を奥へ進んで行くと、見事なmbunda (コンゴ風の長い片面太鼓) を並べた露天の工房がある。そこは主にBamongoの人たちの様式による牛革の太鼓を制作している工房であるが、頼めば他の様式のものも作ってくれる。ちなみに上の写真のものでも、大きなものでだいたいUSD30程度。安い !! 運ぶん大変やけど・・・さてそこへ現れたPapy Kingoloという若者「金五郎」と呼んでやって下さい、彼がKasaï地方に伝わるditumbaを作れると言うので、大きさとイメージを指定して注文した。特注品なので、小さいものだがUSD20という。三日ほどかかるらしい。いや全然問題ない。師匠が携帯で電話している。やがて現れた初老の人、Papa Josephというロコレ職人である。「うわあ、これは・・・」と絶句して、しげしげと私の新しいロコレを眺めては触り、私が「ちょっと底面の彫りが・・・」と言いかけると「みなまで言うな」とばかりに私を押しとどめ、革袋から何本も鑿を取り出して、早速削りはじめた。

 

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 左がItsharli先生、奥が金五郎君である。「ちょっと低い方の側面もねえ・・・」と言いかけるのを「うるさい !! 」とまた押しとどめてひたすら話しかけんな状態。成り行きを見守るしかないのでした。私に対してさえこんな風だったのだから、師匠に対してはもっとつっけんどんだった。というのは、師匠もその面構えから察せられるように、エロエロむっつりスケベエだが職人肌この上ない。職人肌どうしのオヤジ二人のコミュニケーションの取り方というものは一筋縄で行くはずがない。初めにらみ合い、中けんか腰、やがて意地の張り合いののち、なんとか相互に共通する落としどころを探り合って、どうにか和解・・・という面倒くさい段階を踏まねばならん。師匠が「ロコレは断然赤い木に限るのう」と言えば、職人は「アンタは黒い木 (bois noir) の良さを知らん」と答える。「黒い木は、叩いてるうちにすぐササクレてきて、音が悪くなるからあかん」と言うと、「それは質の悪い黒い木だ。良い木はそんな事にはならない」と答える。「うるさいな、俺が注文主だ (いや俺やねんけど ^^) 。お前は黙って仕事しとったらええんや 」と言うと、「私は職人だ。良いものを良いと言って何が悪い」と息巻くので、まあまあまあまあ、こういう良い木がたくさんあるコンゴという国は素晴らしい、と私が持ち上げると、「そうだ。是非ともこのロコレから良い音を引き出そうではないか」と、双方とも何故かそんなとこで意気投合して、小一時間ほどかかって、ようやく双方満足のいく音にまで仕上げたのである。金五郎君はまだ若いので、オヤジ同士のウザッたい議論が始まって5分もせん間にナチュラルに消えた。

 

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 職人の顔っちゅうのんは、やっぱりええね。こそこそと隠し事をしたり、人を騙したりして生きたはる人と違うて、人間の存在そのもののあり方が違う。それがにじみ出てる。ほんまに言うては失礼なんやが、こんなに困難の多い国で、正しい事をして正直に生き抜くという事は並大抵のことやない。しかしそれを実践し貫いて生きるその嘘のない眼差しというものには化粧なんか出来ひんからね、眼差しに魂がこもってるでしょ、このような人がいてはるということを知って、その人が直してくれはったロコレを演奏できるのは光栄や。同じロコレ職人でMbandakaで会うたPapa Francを見ててもそう思う。でもカネはないんやろなあ・・・

 

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 修正に使われたのは、これらの工具である。ほとんど手製、日本の鑿と違うて、柄が長い。鑿の刃を溶接したあるものもあれば、バールを叩いて削ったものもある。新しいロコレは、生木の水分が抜けてくると同時に全体が締まって来るので、このロコレのようにスリットの間隔が狭いものは、両者が接して鳴らなくなる。ノコギリはそれを修正するためのものである。一連の修正によって、高音と低音の音程差が際立ち、音の輪郭も一段と鋭くなった。やはりノウハウが違いますなあ・・・いや感服しました恐れ入りました。しかしてお値段は ?? と訊くと、「まあUSD10にしといたるわ」やて・・・安い !!

 

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 さてKinshasaに来たのであれば、今をときめくlikembe (親指ピアノ) 、しかもここN'djiliは、世界を興奮の坩堝に陥れた「Konono Numero 1」の本拠地である。20年前にも一度お邪魔した事があるが、世界を股にかけた後の率直なご感想を聞きたいと思って訪ねて行く事にした。ここはわかりにくいんですわ。20年前も、連れて行ってもらわな解らんかったし、当時は別に有名でもなんでもない、どこにでもある電気likembeのローカルなファミリー・バンドのひとつに過ぎんかったからね。今回も、金五郎君の友達に案内を頼んで、師匠と三人、路地を曲がって曲がってほんまに合うてんのん ?? と、こっちが不安になるほど入り組んだところへ入って行って、ようやく再会した。日本でも、日比谷と河内長野で親しくお話ししたにもかかわらず、Mingiediじいさんは昼間っから飲んだくれてて、あんまり私に関心ない様子だった。暮らしぶりも、というか、住んでる部屋の家具調度からしても、あれだけ世界を席巻したとは思われぬ程なぁぁぁんにも変わっておらず、ある意味安心したというか、プロモーターにええように遣われて全部持って行かれよってんな、というのがありありと察せられたが、ご本人は対話中も若いねーちゃんが通りかかると、にったぁぁぁっと笑って「うひょぉぉぉぉっ・・・」てアホな奇声あげてご機嫌や。まあ20年前も、わりとこんな感じやったかもなあ、ってlikembeのこととか、もうちょいマトモな話が出来るかと期待したが、師匠が「あかん、帰ろ」と言うので、記念写真だけ撮って帰って来た。likembeも手に入れるか作ってもらうかしたかったのだが、しゃあないし土産もん屋で捜そ。しかし老境に達してこれだけの欲望を素直に表現できるとは、これはこれで、あの二人のロコレ職人とは対極の境地かなと恐れ入りました。

 

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 コンゴのフォルクロールに関しては、ここにまとめて書いたものがあるんでそれを参照してもらうことにして、

 

 http://homepage.mac.com/jakiswede/2music/22discs/221afriq/7210folk/22100folk.html

 

 Konono Mingiediのファンのために情報を提供しといたろ。あんなにもてはやされたのに、カネは全部持って行かれよったみたいやから、ちょっと行って励ましたってくれ。彼らの本拠地は、N'djiliのCitéの中のBondjamboliという通りの39番である。めんどくさければ都心からタクシーを飛ばせば良いが、N'djiliであるので、外国人は足許を見られる可能性がある。USD50とぬかしよったら乗らんかったらええ。N'djiliとはいえ、空港ではなくcommuneの方である事をくれぐれも強調すべし。一般的には、Victoireや都心、Grand Marchéから行く場合は、タクシー・ビスの便数から見てKingasani行きに乗って、Entrée ya N'djiliで降りるが良い。ただ、この言い方があまり通じないので、N'djiliのcommuneへ行きたいと運転手やモギリのにーちゃんに強調しといたらええ。そこからはタクシーで近い。稀に、Grand Marchéからcommuneへ直接入るタクシー・ビスがある。都心からは便がないので、Bd. Lumumbaの7e. rueで乗り換える。行き先はKimbanseke方面行きになる。途中乗車になるので、タクシー・ビスを見かけたら「Kimbanseke !! Kimbanseke !! 」と大声で叫んでいれば、いつかは捕まる (DGMに捕まりそうになったらどれでもええからタクシー・ビスに乗り込んで逃げろ) 。タクシーもタクシー・ビスも、communeの入り口までしか入れない。そこから先は入り組んだ路地を行くので、ガイドなしでは多分無理でしょうな。まあ行けたら行ってみて下さい。ほんまに庶民の生活を垣間みられます。

 ちなみに2010年に来日まで果たしたBenda Bililiの本拠地は、Grand Marchéに隣接する動物園であった。というか、あの辺にはそんなホームレスがごまんといるし、あの辺でなくても、どこにでもいる。特に都心とVictoire方面の下町の境にある空き地の帯や、Ndolo周辺からLe Beachにかけての倉庫街の隙間の帯に多い。最近では再開発されたLemba・Matete・Masinaの旧市街の空き地にも多く住み着いていると聞くので、念のため用心された方が良い。最近Kinshasaから帰ったばかりの旅行者の話では、Benda Bililiは成功して今ではMasinaの新興住宅地に家を構えているそうである。おいおいじいさんよ、そんなとこで飲んだくれて若い女のケツ眺めて喜んでる場合やおまへんで。これら二つのバンドは、ベルギーのCrammed Discsがプロモートしとる。

 

 http://www.crammed.be

 

 N'djiliで楽しい時間を過ごした後、そのまま師匠とBd. Lumumbaを下って、Lembaのとあるレストランで行われるPapa Wembaのライブの、リハーサルからついて行ったが、例によって発電設備の不調で停電頻発。店の構えはおしゃれで奇麗なのに内実がねえ・・・とりあえずリハは出来ないまま客入れとなり、例によってのKinshasa風ダラダラ・モードで演奏開始。わりと若いメンバーのRapから始まってHip Rumbaへ移行しつつ、まずは若手中心のWenge風Soucousで盛り上がった後、夜が更けるにつれて徐々にRumba Typiqueの黒い世界へゆるやかにソーニュー、バックがほぼT.P.O.K. Jazz化した頃おもむろにPapa Wemba御大将が登場し、あとはひたすらたおやかなRumba Congolaiseの世界。往年の激しさとめくるめくような危なっかしさ、怒濤のセベンは影を潜めていたが、さすが腐っても鯛・・・失礼・・・しかしつらつら思うに、植民地支配下の重圧のもとでの閉塞的な伝統音楽から、独立の開放感をアメリカのジャズとキューバのルンバの影響下、能天気なトロピカル・ルンバの世界として具現して始まったルンバ・コンゴレーズの世界は、往々にして事なかれ主義的保守的な音楽姿勢であったのに対して、明らかに破壊的なロック精神を持ち込んだ初期Zaiko Langa LangaからPapa Wembaの音楽姿勢は、その時代の若い世代の代弁者となってキンシャサ・ロック・シーンの火付け役になったのだが、1980年代の絶頂期から90年代、2000年代と時は移って、そのようなストレートなエモーションは受け入れられにくくなり、コンゴ社会の様相は更に複雑化重層化して、様々な要素が彼の音楽の中にも入り込んで来た。Werrason、Ferre、Koffi Olomideなどは独自の境地を切り開いたが、Wembaはむしろ様々な要素を混沌のまま受け入れ、相異なるものが体内で葛藤するその矛盾に満ちた「音」を、そのまま聴衆に投げつけて問いかけているようにも思われる。CDなどでは平板に聞こえるけれども、やはりライブでは、演奏のひとつひとつの表現が手に取るように聞こえ、それらが個々に向かおうとするベクトルまでがまちまちに自分を突いて来るのがわかる。整理統合されないそのあり方は、見方によっては成り行き任せで投げやり、しかし全てを飲み込んで滔々と流れるコンゴ河のように、そのあり方がもし摩訶不思議でとらえどころのない魅力であるという解釈が可能であるのだとしたら、初めて彼の音楽を耳にして人生を棒に振ってしまった私の選択は、マチガイではなかったのかもしれぬ。そして我が師匠・・・老体にむち打って初めから出ずっぱりで、ちょっと若いもんのセンスから浮いてたのは否めなかったが、お年を召されても元気なのはなによりでした。

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20100314 Eala

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 Mbandakaで見ておきたかったものをひとつ忘れてた。植物園である。リンガラ音楽にイカレてKinshasaへ初めて来た当初の私のこの国に対する印象は、がさつ・ばんから・混沌であった。つきあってきたのは、経済的に貧しいこの国の中でも、最も底辺に近い部分で生きるや死ぬやの暮らしをしているミュージシャンたち、貧しいからこそ一攫千金を狙う、ギラギラ・ドロドロ・エロエロしたドス黒い念のうずまくヤバい連中。そんな奴らが、どこから手に入れて来たのか解らないほど身分不相応な服を着て、出来るだけ邪魔になるように通りを歩く・・・そんな奴らがうじゃうじゃいる街・・・というのがKinshasaであり、ザイール・コンゴの印象であった。しかし、「第三の旅」のお預けを食らって20年、行きたい気持ちは知りたい気持ちに振り向けられ、この国に何があるのか、どこにどんなものがあって、どんな人たちがどんな事をしているのか、そういうことを調べまくったのである。こんなにヤバい国にも・・・と言っては本当に失礼なのだが、こんなに不安定な国にも植物園がある。内戦の荒廃を乗り越え、赤道直下の植物を集め、育て、絶やさないように努力する人たちがいる。

 植物園Jardin Botanique d'Ealaは、都心からtolekaで片道FC1,500。それに値する労働である。若者は、小柄ながらもくじけずに、汗を滝のように垂らしながらも懸命にこいだ。街外れまで止まらずにやって来て、最後の分かれ道のところで一服の涼を路傍の家に求めた。そこは見かけは何の変哲もない家だったが、どうやらtolekaの若者たちに人気の溜まり場のようだ。我々のために木陰に椅子を運んでくれ、良く冷えた果物を切って皿に盛って出してくれ、皿に手と口を洗うための水を井戸から汲んで来てくれた。これでFC100である。たったFC100である。おなじMbandakaでも、都心では食事に数千FC使う。FC500を何枚も出さなければ買い物も出来ない。しかし、同じ街にもこのようなアンバランスがあって、おそらくこの金銭感覚で生活している市民もたくさんいるのであろう。分かれ道を左にとって更に行くと、やがて植物園の門が見えて来た。門番がいて、親切に切符を切ってくれたのだが、特にパンフレットなどはない。tolekaの自転車持ち込みと二人分の入場料でFC1,500だった。私は門から歩けると思っていたのだが、上の写真である。おとなしくtolekaの荷台に座る。

 

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 さて植物園というと、手入れされた庭や温室などを思い浮かべるが、ここはコンゴ、非常に大味で、悪く言うと殺風景である。Inongoからここまで飽きるほど見て来たジャングルの風景と全く変わらない。やがて赤煉瓦作りの美しい建物がある。園内の美しい風景は、このリンクの後半をご覧下さい。

 

 http://web.mac.com/jakiswede/iWeb/3e_mobembo/Equateur.html

 

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 しばし散策していると、ガイドが現れた。ここに勤務するエコロジストで、若くて聡明な印象を受ける。彼の案内で園内を一周し、川を取り巻く自然と樹木の解説、資料館の入館と案内・・・標本が臭い !! ・・・それに川べりのカフェで桃に似た果物を食べての寛ぎのひとときと園内写真撮影許可で、FC6,000・・・まあしゃあないな。

 

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 コンゴでは、竹はこのように生える。赤道直下でも必ず日陰が出来るので重宝される。

 

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 ひとり園内を散策していると、木の上から声がした。見上げると、男がひとり木の手入れをしている。「これ食ったことあるか ?? 」見た事のない果物である。momboyaという。なんと直火にくべて食す。真っ黒になるまで焼いて、地面に激しく叩き付けると割れる。なかは真っ白な実で、栗のようにほくほくとした食感で淡白な味わいであった。これにピリピリ・ペーストがまた合うんや・・・

 

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 川にピローグが着いてmongousseを売りに来た。そこでカフェのおばちゃんとそこにいた職員や我々の他の客も含めて、大きいのを2匹買って料理してみんなで食べる事になった。なんとものどかな話である。こうしてMbandaka最後の日は、和やかにゆっくりと過ぎて行った。

 

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20100313 Mbandaka

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 滞在している場所は、Mission Catholique "Institut Frère Iloo" ・・・「ルフレーリルー」と言った方が地元では通じが良い。敷地は広大で全体を把握できないが、おそらくこの1ブロックほぼ全体と思われる。来客用の宿泊施設はそのうちのごく一部で、それでもエントランスは上の写真の通り堂々たるものである。写真右手は小学校のグランド、左手はこの施設の空き地になっている。回れ右をして (ワシは左の方が好きやが) 施設を出て正面の通りを「Av. Révolution」といい、沿道に学校が多いので朝夕には制服姿の学生たちでごった返す。これは田舎から出て来た私のような者にとっては、なかなか壮観な眺めである。それを左にとって次に交差する大通りが「Av. Libération」で、これがMbandakaのメイン・ストリートのひとつである。これを右にとれば空港、左にとれば官庁街と都心を経てフェリー乗り場である。

 

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http://maps.google.co.jp/maps?f=q&source=s_q&hl=ja&geocode=&q=Mbandaka,+Équateur,+République+démocratique+du+Congo&sll=36.5626,136.362305&sspn=34.083006,64.951172&brcurrent=3,0x0:0x0,0&ie=UTF8&hq=&hnear=ムバンダカ,+エクアトゥール,+コンゴ民主共和国&ll=0.056713,18.267646&spn=0.020857,0.031714&z=15&pw=2

 

 Google Mapsから転載してちょっと加筆。Mbandakaの中心部である。Mission Catholiqueからフェリー乗り場まで、さっさと歩いて30分程度であった。さてまずはDGMに出頭しなければならない。Bikoroの役人からのお手紙もあり、全ての書類は揃っているので全く問題ない筈である。とりあえず面通しするものの、主がまだ来ていないからとかなり待たされる。その間、下っ端が携帯電話で確認をとってくれている様子だったが、それでも一時間以上待った。やっと出勤して来た主は、非常にてきぱきと職務をこなす有能な人物と見た。二三質問した後、写真を貼付して新しい書類を作り、Kinshasaへの申次書も作成して封筒に入れた。全ての手続きが済んで、握手して快く別れようとしたが、そのときに「書類作成手数料」としてUSD20を請求された。主の机の脇には、堆く外国人のパスポートが積み上げられていて、私のものも今は彼の手にある。20年前のIleboでの悪夢がまた頭をかすめた。「領収書と引き換えだ」と言うと、すんなりと正式な領収書を出した。手持ちがだいぶ苦しかったが仕方がない。さて気を取り直してそこを出て、河の方ヘ行ってみる。とりあえず携帯電話とデジタル・カメラのチャージ、もし出来ればインターネット・カフェも見つけたい。

 

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 Mbandakaの街の風景である。ここは官庁街。DGMも、この並びにある。

 

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 その一角でVodafoneのチャージをしている若者と仲良くなった。行き帰りの道々話し相手になってもくれ、街の情報を教えてくれもした。インターネット・カフェ (Cyber) を捜していると言うと、都心の「Parc Joseph Kabila」の中にあると教えてくれたので行ってみた。

 

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 中心部のParc Joseph Kabila付近、見かけはのんびりしているが、常に外国人を注視する鋭い視線を感じる。迂闊にカメラを取り出す事も出来ない。インターネット・カフェは、確かに敷地に並んだ連棟の店舗のひとつだった。しかし訊かなければそれとは解りにくい。中は混雑していたので後回しにして、先に河っ淵゜へ行ってみた。Kinshasaへ帰るのに、船にするか飛行機にするかまだ迷っていたし、船がどんなものかくらいは見ておきたかったからである。河沿いの大通りは「Av. Bolenge」という。ここは別世界、雑踏でごった返し、道の両側に露天がひしめき合い、スリが走り回っている。全く油断のならない緊張感と、危険なまでにふくれあがった活気が漲る。コンゴ人の他、アラブ人や中国人や白人も多く、ここがコンゴ河中流域の商業の中心地である事を彷彿とさせる。とりあえずロコレの梱包に必要と思われるものを物色する。物色となると、私も彼らに負けてはいない。とりあえず小麦粉を入れる丈夫な綿の袋と、いわゆるイスラム・バッグ、それに珍しい柄の古Tシャツなどを買った。

 

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 フェリー乗り場ヘ行ってみる。河岸へ降りる路地がいくつもあって、ピローグ・小舟・商船がたくさん見える。早速係留された大型の客船を見つけたので、近づいて行って乗組員と思しき男たちに話を聞く。MbandakaからKinshasaまでは通常4日あれば到着する、小さな舟は頻繁に出ているがそれはやめた方が良い、この船は三日後に出発するので、フェリー事務所でチケットを買うが良いとの事。うむ・・・予定通り航行できれば3/20にはKinshasaに戻れる訳か・・・一応、現時点でのKinshasaからCairo行きの航空券は3/22だから、無理と言う訳ではない。しかし・・・賭けやな。「で、ほんまに4日で着くんか ?? 」と訊くと彼らは肩をすくめて「Nzambe kaka ayebi. (神のみぞ知る) 」と言った。コンゴ河の河下りは、無論これを旅の主目的にする人があるくらい魅力的なものだが、私の旅の位置づけとしては、あくまでオプションである。出国日程はここからでも変更できなくはないが・・・「ちょっと船内を見せてもらっていいかな ?? 」「ほんまはあかんのやが、お前リンガラ語しゃべれるから、入っていいよ」どういう理由やねん・・・うわあ・・・絶句である。いままさに床掃除の真っ最中であったのだが、これはひどい。まさに糞尿と生ゴミと泥水・・・もうこれ以上おもいだしたくない。すんません。ワタシコンジョウアリマセン。ごめんなさい。了見違いでした。ヒコーキで帰ります。乗組員は私の表情を見て「飛行機ならCAAがええよ。事務所はその左や」と教えてくれた。そうしましょうそうしましょう。

 

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 ここまで話がつながったのなら、勢いに任せて全部決めてまえ。CAA (Compagnie Africaine d'Aviation)という国内航空会社は新しく、地元でも人気が高い。Kinshasa行きは週二便、月・金曜日であった。次の月曜日の便を訊くと、席があると言うので購入。USD160であった。時刻表を見てみると、所要1時間半。命がけの船旅で上手くいって4日、カネに物言わせればUSD160で1時間半・・・ううむ、旅の醍醐味からすれば、これは道に外れてるよね・・・でももうエエねん、買うてしもたし。上の写真はCAAの事務所前にて。

 

 http://www.caacongo.com/

 

 もうひとつ、Mbandakaに就航している航空会社にHewa Boraというのがあって、これは出発前に下調べしている段階では線上に上った唯一の国内航空会社であった。ParisとBruxellesへの国際線もかつては運行されていたが、機体整備が国際的な基準を満たしていないため、ヨーロッパ域内上空の飛行を禁止されて国際線からは撤退した。スペイン資本のBravoという航空会社もあったが、同じ理由で撤退、いまではコンゴ自前の国際線というものは就航していない。Hewa BoraのKinshasa行きは週一便水曜日であった。

 

 http://www.hba.cd/

 

 インターネット・カフェに戻る。依然混雑がひどい。それもそうだ。コンゴ第三の都市で唯一のアクセス手段だし、パソコンで仕事してるやつもいる。待つ間に充電をしておいてもらう。カフェというからには何か飲ませろと言うと、このようなハイテク・ショップでも店の若いのがそこらのガキを走らせて食料品店へ買いに行かせた。とりあえずこの旅の最も困難なプロセスを生き延びた事を、日本で私を心配して待っているであろう幾多の女に知らせとかなあかん。さてネット環境だが、これは全く言わずもがなであり、激烈に遅い。当然ブログの更新など出来ないので、自分のHPにコメントする形で状況を「公開」した。それは、Recifeを出る前に書き込んだ最後の記事のコメントに隠されている。

 

 http://jakiswede.seesaa.net/article/141266711.html#comment

 

 都心へ出たついでなので、Mbandakaに書店というものはあるのだろうかと思ってエロエロ・・・失礼、イロイロ訊ね歩く。Mission Protestantの敷地内に大きな本屋があるとか、下流側のMbandaka II への渡りの道沿いにあるとか訊くのだが、人によってそれを指差す向きがまちまちであり全く要領を得ない。なんとか一軒それらしき店を見つけたのだが、ごく小さなスペースで、キリスト教のお祈りに使うと思しき詩集のようなものがわずかにあるのみであった。昼時になったので飯を食おうと思っていると、ねらいすましたようにKing Joeから電話が入った。近くにいると言う。たかるつもりだろうが、まあ知れてるし、一人飯も寂しいもんやから待ち合わせする事にした。彼が連れて行ってくれたのは、普通の庶民が入るような縦簾で囲っただけの安メシ屋だったが、これがまたウマイ !! Mbandakaは飯が旨い街と見える。あまり旨い旨いを連発していたら「お前、日頃どんなもん食うとんねん」とあきれられた。まあええやんかほめとんやし。彼は息子の用事が済んだから今日Bikoroに戻ると言う。お見送りは出来んよ、と言ってそこで別れた。

 

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 荷物が増えたのでいったんMissionに戻り、出直す事にする。昨日から気になっていたのだが、敷地に隣接して田んぼが広がっている。Av. Révolutionへ出て、角を曲がってAv. Libérationに入るのを、地元の人たちが多数田んぼの畦道へ入って行くのを見て、これはショート・カットできそうやなと思ってついて行ったら当たりだった。上の写真を良く見てもらいたい。手前は代掻きが終わって田植えの準備段階である。その向こうは苗代である。ちょっと解りにくいが、その向こうの田んぼは青々としていて、その向こうは稲刈り直前である。畦はきちんと塗られているが、除草はそんなに徹底していない。

 

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 畦に立って田んぼを眺めていたら、対面の木の下の小屋から若者が出て来て手を振る。ここの田んぼを作っている人である。いろいろ話し込んでしまった。なんでもMbandakaの米作りは日本人が技術指導したそうである。だから目に馴染みやすかったのだ。田んぼに於ける稲の状況は、私の見た通りである。つまり、ここでは一枚の田んぼから年に4回収穫できるのだと言う。驚いた。稲は田植えから2ヶ月強で収穫できるらしい。二十日大根やあるまいに。でも事実なのだそうだ。来週田植えをするというので手伝いたかったのだが、飛行機を予約してしまった後である。肥料は何を使っているのかと訊ねたところ、なんと牛糞と籾殻と稲藁だそうだ。雑草はどうしてるかと訊くと、生えるには生えるが、ご覧のように稲の方が強いから、根付いた直後以外は放置するのだと言う。米ヌカは使わんのかと訊いて、それまで順調だった対話が止まった。「コメヌカ ?? 」・・・ううむ、米ヌカをリンガラ語でどう説明するか難渋し、絵に描いたり稲の実をほじくったりして説明したのだが、どうも話が通じない。そのときはそこまでで話を終えてしまったのだが、後日、都心の精米所の脇を通ったときに、吐き出される膨大な籾殻がヌカを大量に含んでいるのを見て、はたと気がついた。ここでは米は一枚の田んぼから年に4回、つまりあちこちの田んぼから通年収穫できるのだ。日本では、米は年に一回しか穫れないから保存食品である。保存性を良くするために、脱穀して籾にした後、臼摺して玄米の状態で保存する。それを更に精米して食する訳である。つまり、籾から食用にするまでに保存しておく必要があるので、研磨するのに二段階の工程を踏んでいるのであるが、ここでは米は年中穫れるのである。だから保存する必要がない。従って、籾は精米されてすぐに白米になるのである。玄米にする必要がなく、従って米ヌカというものも分離された形では存在しない。カルチャー・ショックとはこの事である。田んぼには籾殻ごと米ヌカも還元されている訳だ。

 

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 この道は、滞在中何度も地元の人たちに交じって往来したものだから、二日目にはとっくに面が割れてしまって、通りかかると、ウチの飯を食って行けたら、濁酒を漬込んだから味見しろたら、まっすぐに通り抜け出来ないくらいになってしまった。上の写真は、コンゴで最もポピュラーな野菜mponduを木臼に入れて搗く (kotuta) 風景。

 

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 さて昼からの予定は、Bikoroで訪ね当たったロコレ制作の名手Papa Francに会いに行く事である。Mbandakaの街には、自動車は稀にしか存在しない。市民の移動の「足」は、専ら「toleka」という自転車タクシーである。「toleka」とは、もともとリンガラ語の動詞「koleka」の2人称近未来形であって、「通り抜ける・通じる・越える・勝っている」などの意味があるので、徒歩より早く通り抜けるという意味もあろうが、あいつらより俺らの方が上ぢゃという優越感も多分に含んでおるであろう。客は後部座席に座る。この見事なクッションは、手作りに見えるが・・・手作りかもしれないが、ほぼ規格統一された量産品で、道ばたの至る所で売っている。買って来たら良かった。実に乗り心地が良い。Mbandakaの街は、中心部の「Mbandaka I」、下流側の住宅地「Mbandaka II」、ちょっと山手の「Mbandaka III」に分かれていて、それぞれのゾーン内の移動ならFC200、ゾーンを越える場合はFC500になる。それより遠方ヘ行く場合や荷物を運ぶ場合は交渉次第という事になる。そこら中走り回っているので、tolekaを捕まえるのに苦労はない。出来るだけ身ぎれいなナリをしている奴を捕まえれば良い。

 Mission前で拾ったtolekaは、なかなか好感の持てる若者だったが、不幸な事に数百メートル行ったところでパンクしてしまった。Papa Francの住んでいるところは「Mbandaka II」であったので前金でFC500渡してあったのだが、ほんのわずかな距離で彼は仕事をひとつ失ったわけである。彼はFC500をそのまま返してよこしたが、私はFC100だけ払った。しかも、彼は自分の顔見知りを選んで止め、住所その他を引き継いで念まで押して仕事を渡したのである。私は常々感じるのだが、コンゴでは交通関係の仕事をしている奴から嫌な扱いを受けた事がない。そればかりか、こんな小さな事から、命を救われるような大きな事まで、彼らの善意に接する事が多い。しかも、彼らはそれを膨大な日常のやり取りのたったひとつの出来事として、てきぱきとやってのけたうえに何の見返りも要求しないのである。礼をしようとしても、客扱いの方に忙しくて相手にもしてくれない事の方が多い。コンゴ人は職務に忠実だと感じるのはこういうときである。

 

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 Papa Francは、Unicefの仕事で教員を養成するために学校に派遣されて来ていた。つまり先生の先生である。このまっすぐな目を見よ。これが人格者の目である。物腰・風貌・言葉遣い・立ち居振る舞いのどれをとっても、これまでに出会ったコンゴ人たちとはずいぶん人格が上である。左に立っているのがその息子で、Papa Francが授業中で手が離せなかったものだから、その間私の相手をしてくれていた。さて、授業が終わって担任の教諭と打ち合わせを終えた後、Papa Francはにこやかに出て来られた。Bikoroで住所を訊いて尋ねて来た事、20年来日本でロコレを叩いてきた事、本来貴方に作ってもらいたかったのだが、今回既に3つのロコレを手に入れたので、お話だけでも聞かせてほしい事などを手短に申し上げた。すると彼は、自分をロコレ制作者と知ってわざわざ訪ねてきてくれた事に感謝の言葉を述べた上で、ロコレという楽器について、詳しく説明してくれた。ここでは長くなるので詳細については割愛するが、その際に聞いた話をメモしたものが下の図である。スリット・ドラム一般に当てはまる事なので、ご興味のある方は目をほじくって眺められたし。ちなみに、「lokole」というものは、本来村の集会所などに通信用として置いてある巨大なものを指し、Viva la Musicaなどが広めた、バンド演奏用にスタンドに乗せられるほど小型のものは「ikokole」というらしい。そういえば、Itsharli先生の弟子で、Viva la Musicaの二代目ロコリステは、Ikonola Ishibangi・・・略して「Iko」といったな・・・

 

 

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 下の写真がロコレの現物である。二つの四角い穴の間の「舌」のような部分を叩くのであるが、スリットの両側で音程に差を付けてある。民芸品店などで売られているものは、カタチばかりで音程差のないものが多いが、正しいロコレはだいたい五度くらいの音程差があるものである。そうでないと通信用に言葉を模する事が出来ないからだ。上の図は、その音程差をどのようにつけて行くかのテクニックを図解したものである。それによると、まずロコレは、伐りたての生の木を穿つ。皮を剥いだら適当な大きさの円柱に整形する。四角い穴の部分から彫りはじめ、両方の穴をつないだら、双方の「舌」の部分の音程差をイメージしながら胴の肉厚を調整していく。厚めに残すとその側の音程は相対的に高く、薄めにすると低くなる。ロコレの音は「鶏の鳴くような」鋭い高音が身上であるが、それをねらって胴を厚くしすぎると音量が出ない。最終的な微調整は、「舌」の裏側の細工で行う。すなわち、口と口の間を広くとれば、言い換えれば「舌」の幅を広くとれば、音程は相対的に低くなり、狭くすると高くなる。「舌」の長さを変えずに、音程を調整するには、両端から斜めに削り落とすと音程は上がり、裏側の中ほどを逆から彫ると音程は下がる。生木の湿っているうちは音が出ないが、数日陰干しして乾いてくると、生命を吹き込まれたように鳴りはじめるという。いや、授業の合間のほんの短い会見であったが、非常に感銘を受けた。目から鱗の落ちる思いであった。こうして伝統楽器は出来ている。有意義な事を教えてもらった。技術的な明快さもさることながら、さっと数分で要点だけきちんと伝えるその頭脳の明晰さ、人格の透明さに感銘を受けた。彼は話だけしてさっさと教室に戻ってしまったので、息子にお礼だけでもと言ったのだが受け取らなかった。かたじけないというのは、こういう気持ちをいうのであろうか・・・

 

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 これが今回手に入れたロコレである。左から、余り音の良くない師匠へのお土産・赤い木の新品・途上で買った甲高い逸品、そしてコンゴ風アゴゴ・ベル (Ngongi) である。さてこれをどうやってKinshasまで運ぶか、Kinshasaからどうやって日本へ送るか・・・旅で欲しかったものは全て手に入れてしまったので、すでにMbandaka滞在に主体的目的はない。ただ、コンゴ音楽の主たる震源地の一つであり、私の体に染み付いたSwede Swedeの発祥の地でもあるので、濃いライブの一つや二つは見ておきたい気もする。考え込んでいるうちに暗くなった。Mbandakaも街をカバーする電力はない。ここには自家発電設備もないので、夜は石油ランプのみであるが、もう慣れっこになってしまって苦にはならない。


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20100312 Bikoro-Mbandaka

 早朝、まだ明けやらぬ午前4時半頃、ドアをノックする人があった。身構えて壁に身を寄せ誰何する。「ロコレを作って来たので見てほしい」と言う老人らしき声である。これまでのザイール・コンゴ旅行で、出発間際の強盗未遂を何度か経験しているから、私は警戒した。何故出発間際が危ないかというと、旅行者は出発の段取りをしてしまっていて、移動の不便なこの国の場合、特にそれを間際に変更する事は困難である。その弱みに付け込んで間際を襲えば旅人は追求できない事を彼らは知っている。だから危ない。私は、ロコレを持っているなら音を出してくれ、今から着替えるからと言い訳を言って時間を稼いだ。それもなるべく大きな声で言った。すると隣の部屋で寝ている職員が起きて来て、トーチを持って廊下に出る音が聞こえた。それで私もトーチを点けて廊下に出た。

 老人は、確かにロコレと思しき丸太の穿ったものを携えていた。しかしトーチで照らして良く見てみると、本体はほとんど彫られておらず、彫るべき溝の輪郭がわずかになぞってある程度だった。もちろん音なんか出ない。とてもカネを出せるような代物ではない。しかし老人は、夜を徹して彫ったものだから買ってほしいと言った。やがて話し声を聞きつけて、神父が起きて来た。ロコレと称するものを見て、彼も「これはあかん」と言って老人を戒めた。しばらくやり取りした後、私はこれは買えないけれども、老人の労をねぎらうためにFC900を渡した。

 さて慌ただしく出発となった。King Joeが呼びに来た。なんと彼も息子に会う用事で今からMbandakaへ行くのだと言う。同乗者がいるのは心強い。旅は道連れだ。運転手は、街道筋へ出る道にある「Hotel Toyokani」に宿泊しているので、その前に6時に来いと言っていたので、ちょっと早めに行った。もう荷物の積み込みは始まっていたがまだ時間がかかりそうだったし、とりあえず顔つなぎは出来たし、乗れる確約も得られたし、同乗者もさほど多くないので、ちょっと市場へ買い物に出た。すると、初日に「ロコレを持っている」と言う人が集まった場所で、あるおばちゃんが「ロコレを持っている」と言うのでついて行ったが、「100ドル、100ドル」と言うばかりでモノを出そうとしないので、怒って帰って来た。特に追っては来ず、車は出発した。美しい湖畔の街Bikoro、もう少しのんびり湖の風に吹かれていたい街だった。Bikoroの街は、だいたい下の図のようになっている。Bikoroへ来たら環境保護団体の「CARPE」を訪れたかったのだが、これがどうしても解らなかった。残念。

 

 http://carpe.umd.edu/

 

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 感慨に耽ったのも束の間、出発してわずか30分後、行き違いのトラックに道を譲って停止した拍子にエンジンが止まって動かなくなった。やってくれました。さすがに私も奥地の旅には慣れっこになっているので、King Joeを促して (こーゆーときはお前が促せよ) さっさと降りて荷物を背負い、街道筋の合流点にあるBatwaの村を訪ねて歩いて行った。その村は結構面白くて、両目が真っ赤いけになったぐでんぐでんのおっさんがげらげら笑ってたり緑色の未熟なバナナしか食べない男を紹介されたり・・・だからどうせえっちゅうねん・・・ちゅう話題でげらげら笑い転げたりしても、なかなか車が来ないので、野次馬引き連れて次の村まで歩こうという事になって、快活にロコレ捜しながら歩いて行った。といっても別に道ばたにロコレが落ちてたり木になってたりするわけではないんやが、なんかそーゆーのんが楽しかったんで、「ま、ええか」と彼らに付き従ったという次第、どっちみち車が来んと進めんのやから、おもろい方がええわな。それに、野次馬も多ければ多いほど、ロコレにあたる確率が増える・・・犬みたいなもんや。

 

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 というわけで次の村まで歩いて来て、やっぱりそこでも村人たちと酒を酌み交わして、あんまりみんなで酔っぱらうもんやから、みんなで車見過ごしたらどないしょとちょっと心配になって、どうせ酒盛りするんやったら街道筋に出てやっても一緒ちゃうん、て提案したら「おおそうやそうや」ということになって沿道で飲みながら待ってたら、沿道やから余計野次馬が増えて大宴会になってしもた。そこへ、人が歩くのんとおんなしくらいのスピードでのろのろと車がやって来て、なんもないところでバタッとへたり込んだ。そらアンタ積み過ぎやて・・・ちゅうてまた我々がげらげら笑てたら運転手が怒って・・・その先は僕もあんまりよー覚えてないけど、車が息絶えそうになっとんのに、まだこれでもかこれでもかと積み上げて更に行く。途中で降ろす荷物もあるが、村にさしかかるたびに運転手はスピードを落として、村の集会所に大声で「荷物はないか荷物はないか」と呼びかける。屋根から「もう無理やエエ加減にせえ」と声がかかるが、運転手は「お前らが持っといたらええねん」と客を客とも思わん返事をしよる。私がそれを夢うつつに聞いていたという事は、私は座席に優遇されて暴睡しとったものと思われる。

 

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 King Joeが「イタミ、これを見ろ」と声をかけたところから記憶がつながっている。車はとある村で停まっていた。見ると、King Joeが古ぼけた黒いロコレを持っていた。叩いてみると赤い木の新品を上回る強烈な高音、それは全く金属音と言っても遜色ないほど鋭い音の、実に見事なロコレであった。あんまり喜んで値段がつり上がってもなんなので努めて冷静を、というか、ほとんど買わないふりを装ってKing Joeに値段を訊ねさせると、USD50からの交渉になった。結局King Joeに別途USD5をマージンとして渡す事にしてUSD20で手を打った。強烈な買い物である。今回のロコレ探索の旅は、結局善人神父のMission Catholiqueの筋は全滅、市場関係も全滅で、信用しすぎるなと忠告されたKing Joeが3つもロコレを手に入れてくれた事になる。人は見かけによらないものだ。

 ロコレを手に入れて喜んでばかりいたのだが、車が停まっている本当の理由は、積み荷のピリピリの金を払った払わんで女たちが二手に分かれて大喧嘩していたからである。それはもうものすごい喧嘩で、摑み合うわ引っ掻き合うわ、ときには噛み付いたり髪の毛を引きむしったりで、一人は血だらけ。件のピリピリの入った篭を一人が車の屋根から引きずり降ろして道にぶちまけ、相手と思しき女が今度はマケンバ (緑色の甘くない未熟バナナ) の束をつかんで地面に叩き付ける。仲裁に入っていた男たちも、もう手に負えんという感じで遠巻きに眺めている。とにかくなんとか収拾を付けて車に戻ってもらわないと先へ進めないので、とりあえず二人を分ける必要から、助手席にいた乗組員と私が屋根に上がり、女たちの一方を助手席に、ここまで屋根で荷物版をしていた男たちともう一方の女たちを監視付きで荷物席に、という席替え案を双方が受け入れて再出発。しかし、小休止するたびに出て来ては蒸し返すので、とにかく両者を隔離しつつの荷扱い。いやあ、コンゴでもエロエロ・・・失礼、イロイロ気ぃ遣いまんねんなあ・・・

 車のほうは、一回目の故障の後は意外に順調に走って、15時頃Mbandakaの市場に着いた。運転手は商魂逞しいというか、商売熱心というか、要するに荷物を見たら自分が運ばなあかんような気がして、ついつい無理してでも積んでしまうタイプなんですな。運転技術の方は、油断ならぬ道筋を熟知していて、ぬかるみであろうが朽ちかけた丸太橋であろうが、まろやかに、したたかに、優柔不断に、老獪にやり過ごし、実にすいすいとよく走る。ままならぬ車をだましだまし操るに長けた、極めて徳の高い人格者と見た。その証拠に、市場で荷物を全て降ろしてしまってカネ勘定がビタ一文狂ってなかった事を何度も確認してから、「お前この街不案内やろ、なんやったらMission Catholiqueまで案内したろ、カネはいらんし」と言ってくれた。目的地に着いた双方の女は、もうこれで誰も止める者がいなくなったので、泥沼の往来で心行くまで存分に喧嘩の再燃、もう付き合い切れんとばかりに、とりあえず双方の女の荷物を喧嘩の輪の中に放り込んでおいて、私は運転手のお言葉に甘えることにした。彼はMissionまで私を送り届けてくれたばかりか、なんと広い敷地内の事務所と来客用宿泊棟を行き来してレセプショニストまで捜し出し、私が部屋に落ち着くのを見届けてから、本当にカネも取らずに去って行った。助けられました。MbandakaのMission Catholiqueの宿泊料金は、素泊まりでUSD10である。食事は、裏庭の炊事場に毎日通って来る賄いのおばちゃんと相談して個別に作ってもらう。相場はInongoと同じFC8,000であった。King Joeとは市場で息子に出会ってから別れた。お互いの携帯電話の番号を交換したので、彼がここに滞在する間、行動をともにする事にする。

 

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 さて、荷物をほどいて一息入れて、Kinshasaや旅の途上でMbandakaへ着いたら連絡を取るようにと教えられていた人物と、一通り携帯電話でやり取りした後、King Joeを呼んでみると意外にも近くにいて暇だと言うので、ちょっと早いけれどもゆっくり飯でも食おうやということになった。「いやいやその前にDGMに出頭しとかな」ということを思い出したので、とりあえずLiberation通りを私は河に向かって進むから、お前は山に向かって進んで来いと申し合わせて部屋を出た。DGMの場所を通行人に訊ねながら歩くと、ちょうどKing JoeのいたところとMissionの中間あたりで探し当て、そこにKing Joeも現れた。携帯電話も便利なもんや。ところが肝心のDGMの事務所がもう閉まっていて、敷地から出て来る職員に訊くと「明日朝来い」との事、お役所ちゅーもんは日本もコンゴも一緒とみえる。さて、IbokoからBikoroまでランド・クルーザーで送ってくれた運転手から、魚料理がうまいと聞いた店に飯を食いに行ったのだが、これが大当たり !! 魚料理の専門店で、今まで食べたコンゴ料理の中で、一・二位を争う洗練された逸品であった。モノは河ナマズのMongousseだが、ここへ来るまでの途上、毎日何度も食ってきたのに、これほどのもには出会わなかった。なにが素晴らしいといって、河魚特有のエグ味が上手くコントロールされて、あっさりした旨味とピリピリの辛みと油の中に見事に溶け込んだ、その味の調和である。こういう美学は、日本料理とは全くの対極、ヨーロッパ料理の混とんとした味の調和ともまた異質な、対極と異質の洗練を極めた独特のものである。世界中を広く旅して、現地の食材に親しんだ私から見ても、この店の味はコンゴが世界に誇って良いものではないかとさえ思う。おまけにここは自家発電設備があって冷たいビールも出た。実にInongoを出立してから12日ぶりの冷えたビール・・・もう幸せ幸せ。「Restaurant 3 Soeurs」という。Mbandakaへお越しの節は是非どうぞ。単に腹が減って喉が渇いてただけやったりして・・・

 その後、腹ごなしに暗くなるまで街を散策して、中心部はほぼ全容を把握。Missionに戻って、電気のないなか、ランプの光をたよりに旅日記を綴る。

 

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20100311 Luka Lokole

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 朝食のとき神父の一人が言うには、彼が頼んだ近在のロコレ職人のところへこれから作業を見に行くらしい。なんでも一昨日頼んだら、すぐに木を切り倒しに行ってもう三日目だから形になってる筈だと言うのである。しかし私がついて行って外国人の姿を見ると、絶対値段をつり上げるから、私は物陰に隠れていて、交渉がまとまり次第、細かい要求を出せば良いとのこと。うむ。なかなか筋の通った話だ。食後、バイクの後ろに捕まって、近在のその家まで行ってみた。「ここで待て」という別の家で、そこのねーちゃんとエロエロ・・・失礼、イロイロ雑談しているうちに時間が過ぎ、一時間以上を経てようやく彼が戻って来たが、どうにも浮かない顔をしている。訊くと本人が不在で、仕事場らしき場所にも木のかけらもないと言うのである。その時点で、私はこの線は消えたと悟った。しかし彼は自分が推薦したものだから責任を感じていて、なんとか捜し出して今日中には届けさせるなんて無茶なことを言うものだから、まあまあそう気ぃ遣わんでええてと言うて慰めながら帰って来た。もしかしたら、彼が前金を払ってしまったのかもしれない。

 今日も暑い。さすが赤道直下である。自分の影に入って休みたいと思うが、それも出来ない。Bikoroまで行けば、Mbandakaまではタクシー・ビスが頻繁に走っているという話だったが、それも事実無根である。昨日今日と市場へ出る度に街道への交差点を注意深く眺めているが、それらしき車の姿は見られない。Missionで訊いても市場で訊いても、Mbandakaへ行くには、行商のトラックに便乗するしか方法はないとの話である。アホな写真を撮って喜んどるうちに太陽はみるみる真上まで昇り、通りから人影が消えた。「暑いから日陰に入れ」と聞き覚えのある声がするので振り向いてみると、昨日のバンド連中である。

 彼らに促されるままに、とある家の中庭に入った。学生たちが昼飯を待っているところで、そこはレストランというか、いわば顔見知りに賄いをして小銭を稼いでいる家のようだった。そこで昼飯のご相伴に預かった。昼食後、暑気が収まるまで木陰で寛いでから、みんなで私を街に案内して出てくれた。もちろんロコレのことも話題に上ったが、とある家で、この町の人だが今は仕事でMbandakaに行っているというロコレ作りの名人の家を教えてもらった。みんなでそこを訪ねると、彼の家族は大変喜んで、名手Papa FrancのMbandakaでの住所を教えてくれた。そこは貧しい家だったが、若者が大挙して訪れたことに喜び、子供たちが四方へ散ってビールや果物などをかき集めて来た。ささやかな宴は小一時間ほど続いた。

 

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 市場に戻ると、荷物を満載したボロボロのランド・クルーザーが停まっていたので、運転手と思しき人物にこれからどこヘ行くのかと訊いてみたら、なんと明朝Mbandakaへ発つと言う。まだロコレが手に入らないのが気がかりではあったが、とりあえず事情を説明して席を仮押さえしてくれと頼むと、18時までに確約が欲しいという。向こうも商売だから仕方がない。Missionへ戻ると、King Joeが少々不機嫌な顔をして待っていた。見ると、なんと赤い木 (bois rouge) の見事なロコレを携えていた。Itshcarli師匠の言うごとく、まるで「鶏の鳴くような」甲高くて鋭い音が響き渡る。なんとも非の打ち所がなかったので、約束通りUSD50で買うことにした。他にもう一つ、ちょっと落ちるが悪くはない古いロコレもあったので、こちらは師匠へのお土産用にUSD15で買った。あたりまえや。師匠は腕があるんやから楽器の鳴りの足らん分ぐらい腕で補えるやろ。私はまだまだぺーぺーやさかい鳴るやつ持って帰らなあかんのや。よっしゃ、これでとりあえず坊主はなくなった。あとは逃げる段取りだけや。と、そこへ朝の神父がやって来て、やっぱり職人が戻らないと言うので、もう諦めた方が良いと伝えた。このようにとりあえず二つのロコレは手に入ったのだから、私はこれで満足だと言ったので、幾分彼の表情も晴れた。

 そこで荷造りを調えて明日の準備をし、市場ヘ行って例の運転手に明日乗ることを伝えて前金を払った。帰り道、往来のたびに冗談を言いあった湖畔の露天商のところで、土地の珍しい売り物を写真に撮ろうとしていたら、すっと若者が近づいて来て「ヤバい、今はやめとけ」と耳打ちして去って行った。見ると、DGMの職員が兵士を連れてパトロールして来るところだった。危ない危ない。気を許したらあかん。私がいかに彼らと同化していると感じようとも、彼らから見れば、非常に目立つ異邦人であることに変わりはない。常に多くの目が私を監視していることだけは、肝に銘じなければならん。特にこれから赴くのは、コンゴ第三の都市Mbandakaである。用心せな・・・

 


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20100310 Patience

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 Inongoを出て以来、世話をしてくれた人に対する謝礼にはUSDを使ったし、他に買うものもなく現地通貨を使う場面が少なかったので、10日間も両替することなく来たのだが、さすがにここへ来て手持ちが寂しくなって来たので久しぶりに両替してみた。やはり田舎町である。20年前のように、USD100を出すとうろたえる。市場で一人の両替商に頼んだのだが、彼一人では現地通貨が足りず、あちこち借りまくってようやくそろえてくれた。しかもFC500では揃わなかったので、FC100やFC50、FC20もまぜこぜにして、ようやくFC91,000を積み上げると、こうなってしまった。

 

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 これを鞄に入れるとこうなる。これを下げて街をうろつく訳だが、もう既に面が割れてしまっているので、却ってみんなが心配そうに見ているから安全である。本題のロコレであるが、午前9時に、昨日約束した場所ヘ行ってみたものの、案の定ロコレを持って来た者は一人もいなかった。コンゴ人がリンガラ語の未来時制で話すことは、日本人が日本語の未来時制で聞くことよりも、その実現の可能性は極めて低いとみなければならない。それはもちろんわかってはいたが、一人くらい来るやろ、ゼロはないんちゃうん・・・という顔をしていたら、隣の八百屋のおばちゃんが哀れに思ってか、リンゴとバナナをくれた。まるで子供である。しかしそんなことをして市場でぶらぶらしていると、昨日市場で最後に何人か「私はロコレを作れる人を知っている」と言った数人の若者のうちの一人に会った。狭い路地になった向かいどうしの服地屋と雑貨屋をそれぞれ経営する二人の若者のうちの一人で、なんでも夕方になったら彼のバンドの練習があるから遊びに来いやと言う。雑貨屋の若者の方の親父がロコレ職人だと言うのである。「ロコレを作ってくれるかもしれんぞ。」

 

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 というわけで、今日は一日「待ち」である。気を鎮めて時を待つことの大切さを、この国に来ると痛感する。私は、短期でイラチでいかん。飯である。米の飯が出るのは大変喜ばしい。時計回りに、クワンガ・マデス (豆)・鶏肉・野菜、標準的なコンゴの食事である。毎朝ミサにも出、三度の食事の前には感謝の気持ちを込めてお祈りを捧げる。奥地の苦しい旅路の間、クワンガを主食としていたが、これは日本の餅のようなもので、重くて大変腹にもたれ、便が硬くなる。米が食えると体調が元に戻って、本当に助かるのである。便通が軽いとイライラも収まり、待つことが苦でなくなる。あとは冷たい飲み物が欲しいところであるが、ここも自家発電が夕方から数時間しか稼働しないので、飲み物はたいして冷たくない。

 限られた日限の間に、知らぬ場所で欲しいものを捜したり作ってもらったりするには、ある程度のリスクと忍耐と賭けが必要である。だから、複数の可能性を同時進行させざるを得ないのであるが、それが全部おじゃんになる可能性もあれば、全部かなう可能性もある。おじゃんになれば、この旅の目的の半分はかなわずに帰ることになるが、かなったらかなったで、それを運ぶ算段をしなくてはならない。いけるところまでいくのみ。そういう事情につけ込んで来る奴も当然のようにあって、さういうのは、たいてい前金でないと作ってくれないなどとほざきよるし、話しに行くから交通費をくれと言ってそのままドロンする奴もいる。どうせ私は何日かしか滞在できないのだから、私がここにいる間だけ、どこかに行ってれば良い訳で、そういう奴らは、初から話の持って来方が胡散臭いのでほっておく。で、ある程度具体的に話す奴と、相手の目を見て隠し事のなさそうな奴からの話だけを選り分けて聞く。安心するが良い。神父に「気をつけろ」とアドバイスされるまでもなく、ここコンゴの奥地でも、「モノを見てからでないと支払わない」と言う論法は通用する。そういう観点からみると、King Joeは若干胡散臭い、かといって神父の話も頼りない、今日の若者の話もあるかどうか解らず、「持っている」という奴は一人も来なかった。というわけで、現時点で最も可能性の高い前二者に期待をかけるより仕方がないのであった。

 さて夕方までゆっくり休んで市場へ出かける。くだんの若者たちは店で待っていた。にこやかな笑顔で屈託がない。彼らと連れ立って村の方へ入って行った。村の縁にある家の裏庭に若者が集まっていて、ギターや、例のローカル・ドラム・キットなどを準備して、いまから練習が始まる気配である。コンゴの慣習通り、そこに居合わせた全員に晩飯が振る舞われ、酒も回った後で練習開始となった。その内容であるが、まあそこそこのもんである。EquateurなのでこってりとしたSwede Swedeなどを期待したが、そこはやはり若者、そんな20年も前に流行ったスタイルなぞとっくのむかしに捨ててしまって、今はラップ混じりの軽快なSoukous Funkである。まあそれはそれで活き活きしてて良かった。

 


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20100309 Iboko-Itipo-Bikoro

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ItipoのMission Catholiqueにて、神父と話す運転手 (右) とKisangani出身の助手

 

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 http://web.mac.com/jakiswede/iWeb/3e_mobembo/Equateur.html

 

 運転手の段取りの都合で、早朝5時の出発となった。Itipoという村のMission Catholiqueに6時に到着し、そこでミサに参加した。ここは広大な敷地に大規模な施設が並んでいる。地域の子供たちを集めて学校のようなものもやっていた。ここで男女の信者を乗せて先へ進む。道は舗装されてはないものの、特に大きな損傷もなく快適なドライブだった。沿道の村々には、特に観光客が喜びそうな工芸品などは売っておらず、楽器も見かけなかった。快調に飛ばしすぎて、Bikoroには、なんと9時頃着いた。

 

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ItipoのMission Catholiqueでみつけた巨大ロコレ

 

 BikoroはTumba湖畔の町である。街道はBikoroの手前で三叉路に別れ、右へとればMbandaka、左へとればBikoro中心部へ出る。その道を湖の突き当たりまで来ると、右手には市場を経て村へ、左手にはMission Catholiqueを経てDGMの事務所がある。まずはDGMへ出頭しておく。IbokoのPapa Piusが、BikoroのDGM宛に短信を書いてくれていたので、それを見せるとにこやかに中へ通された。すでにIbokoでEquateur州の通行許可証は得ていたのでそれを見せると、それに到着日時などを記入しただけでOKとなった。あまりの円滑さにコーヒー代を渡すのも忘れそうだったが、別れ際にそっと右手に忍ばせると、なんと彼はそれを断った。のみならず、その場でMbandakaに電話をかけて、数日したらこれこれこういう日本人が行くからよろしくねと伝えていた。いやこれには驚いた。こんな人もいるのだ。Equateur良いとこ一度はおいで。

 

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BikoroTumba湖畔 左手側がコンゴ川

 

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岬の向こうにDGMがある

 

 さてBikoroでもMission Catholiqueに滞在することにした。素泊まり一泊USD10と食事一食USD5x3で、都合一泊三食付きでUSD25である。安い !! Mission Catholiqueに滞在することにしたというのは、これから私はこの旅の二つ目の大きな目的であるロコレ捜しをするからである。「Bikoroヘ行けば、ロコレなんかそこら中で売っている」などと聞いて来たのだが、到着して数時間でそれは事実無根であることが見て取れた。ということは、これからロコレを作ってくれる人を捜して、その人に作ってもらわなければならないということを意味する。しかも一人だけに頼むと、手配が失敗したり出来が良くなかった場合に替えがきかないので、同時に複数の可能性を確保しておく必要がある。これは非常に危険で困難な交渉である。外国人が、地元の物を欲しがっている。そこへ付け入らぬバカはない。ありとあらゆる奴らが押し掛けてくるであろう。セキュリティに不安のある場所はヤバいのである。その点Mission Catholiqueであれば、無闇矢鱈に施設に人が入り込まないので、ある程度ふるいにかけられる。

 まず手始めに、来しなに目にした市場ヘ行ってみた。例によって、珍しい生き物を見た地元の人たちの騒ぎで、市場は蜂の巣をつついたような状態になり、「私はロコレを捜している」と言うと、たちまちのうちに「私はロコレを持っている」と言う老若男女が集まった。これはもしかしたら簡単かもしれん・・・とほくそ笑んだのも当然である。「では明朝9時にここへロコレを持って来てくれ。良い物があれば高く買うぜ !! 」と明言してその場を去った。しかし、明日誰もロコレを持って来なかったら一日無駄になる訳である。そこで保険に、Mission Catholiqueへ戻ってそこの神父に相談したら、彼の知り合いで近在にロコレを作れる人があるというので、そちらにも丁寧に頼んでおいた。さらに、荷物をほどいてちょっと日用品を買いにさっきの市場まで戻ると、何人か「私はロコレを作れる人を知っている」という者があったので、信用できそうな数人の若者に丁寧に頼んでおいた。

 Equateurでは、午前10時を過ぎると厳しい暑さでなにも出来なくなる。人通りもまばらになるので、私もMission Catholiqueへ戻って、Ibokoで乾き切らなかった洗濯物を干し直し、荷物整理や備忘録をつけはじめた。やがて昼になり、部屋付きの者が昼食に呼びに来たので食堂ヘ行った。食事はIbokoより質素で、味ももひとつだった。賄いおばちゃんの腕の差であろうか。

 

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BikoroのMission Catholique大チャペル

 

 BikoroのMission Catholiqueは、湖を望む広い前庭を持ち、来客用の宿泊棟はその庭に面しているので大変景色が良い。しかも二部屋続きで反対側は裏庭へ開いている。両側の扉を開け放っておけば、湖からの風が通り抜けて、昼寝にはもってこいの快適さである。裏庭には二羽鶏が・・・失礼、真ん中に寄宿生が朝のミサに使う小さなチャペルがあって、そこは学校にもなっている。その右手に寄宿舎、奥に教室や作業場が並んでいる。彼らは、主に教会の仕事や奉仕活動をしていて、特に山仕事が多く、毎日のように四輪駆動車やダンプ・カーで山へ出かけて行く。職員や来客の身の回りの世話をするのも彼らである。もっとも、私は特に用がないので、毎朝のバケツの水を運ぶだけの、手のかからない客だったとは思うが。寄宿舎と来客用の宿泊棟の間には、ベルギー人が建設した当初に使われていたと思しきシャワー・ルームやバス・ルームもあったが、それらは朽ち果てて放棄されていた。共同便所だけは活きていて、そこは奇麗に清掃されていた。その建物の裏で、彼らは井戸から汲んで来た水で体を洗ったり洗濯したり、集まってしゃべったりしていた。彼らにもロコレのことを訊いてみたが、確たる返事は得られなかった。裏庭の左手には井戸があって、賄いのおばちゃんは朝にやって来て、そこで煮炊きしている。彼女は、大鍋で寄宿生を含めた全員の分を作り、寄宿生が職員と来客用に小鍋に取り分けてサロンへ供して、知らせてくれる。朝食は、紅茶とパンにバターと蜂蜜、それにフルーツがつく。おばちゃんが供するのは大量の昼食で、夕食は寄宿生がそれを温め直して食べる。炊事場の裏にも洗濯場があって、脇に広い物干し場もある。施設は広大である。前庭の、湖に向かって左端には、一般信者のミサに使われる大チャペルがあって、そこから右に、私が宿泊している来客用宿泊棟、セミナー・ハウス、事務所、白人の神父の住んでいる住居兼事務所などが散在している。電気は、自家発電設備が18時から21時まで稼働する。この間に電気を使う用事を済ませる。夕食もこの時間帯にあり、食後21時までは団欒の時間で、テレビを見たりDVDを見たりしている。21時には自動的に電源が落ちるので、彼らはランプを手に寄宿舎に戻るのだが、まだまだ暑いので屋外でしゃべっているが22時頃には寝静まる。従って朝は早く、まだ暗い5時頃から掃除したりサロンの片付けをする物音が聞こえる。

 

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部屋の湖側の扉越しに見た風景

 

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反対側の扉越しに見た風景

 

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反対側の廊下は日陰になっていて人も来ないので、物思いに耽るには好適であった。

 

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炊事場

 

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 昼寝の後、15時頃にもっぺん市場ヘ行ってみた。やはり謎の東洋人がロコレを捜しているという噂は広まっていて、何人かから声がかかった。なかには質の悪そうな酔っぱらいもいて絡まれかけたが、そこは上手くすり抜けたりしているうちに、Mission Catholiqueの近所に住んでいるというKing Joeという人物に巡り会った。彼は、ここから8kmほど奥地にある村にロコレ作りの名手が住んでいて、3日ほどあればUSD50で作ると言っているがどうかと持ちかけて来た。時間と選択肢がないので、具体的な話を持って来た彼の言うことを信じて発注することにする。ただし、交通費は渡すが代金はモノを見てからだと言うと、意外にあっさりと「尤もだ」と答えた。そのほかに、別ルートで20kmほど離れた村に別の作り手がいて・・・という話にも交通費だけかけて、とりあえずその日はそれだけで戻った。すると、Mission Catholiqueの神父の一人が、知り合いにロコレ作りがいると言って、自発的に手配してくれていたので、これでまず信用に足る三つの可能性が動き出したことになる。神父にKing Joeはどう言う奴かと訊いてみたら、たしかにMissionの敷地の隣に住んでいて、毎週ミサにも来る真面目な奴だが余り信用しすぎるなとの事だった。到着早々で手応えがあったのだから、今日はこれでよしとしよう。

posted by jakiswede at 15:29| Comment(0) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする