
滞在している場所は、Mission Catholique "Institut Frère Iloo" ・・・「ルフレーリルー」と言った方が地元では通じが良い。敷地は広大で全体を把握できないが、おそらくこの1ブロックほぼ全体と思われる。来客用の宿泊施設はそのうちのごく一部で、それでもエントランスは上の写真の通り堂々たるものである。写真右手は小学校のグランド、左手はこの施設の空き地になっている。回れ右をして (ワシは左の方が好きやが) 施設を出て正面の通りを「Av. Révolution」といい、沿道に学校が多いので朝夕には制服姿の学生たちでごった返す。これは田舎から出て来た私のような者にとっては、なかなか壮観な眺めである。それを左にとって次に交差する大通りが「Av. Libération」で、これがMbandakaのメイン・ストリートのひとつである。これを右にとれば空港、左にとれば官庁街と都心を経てフェリー乗り場である。

http://maps.google.co.jp/maps?f=q&source=s_q&hl=ja&geocode=&q=Mbandaka,+Équateur,+République+démocratique+du+Congo&sll=36.5626,136.362305&sspn=34.083006,64.951172&brcurrent=3,0x0:0x0,0&ie=UTF8&hq=&hnear=ムバンダカ,+エクアトゥール,+コンゴ民主共和国&ll=0.056713,18.267646&spn=0.020857,0.031714&z=15&pw=2
Google Mapsから転載してちょっと加筆。Mbandakaの中心部である。Mission Catholiqueからフェリー乗り場まで、さっさと歩いて30分程度であった。さてまずはDGMに出頭しなければならない。Bikoroの役人からのお手紙もあり、全ての書類は揃っているので全く問題ない筈である。とりあえず面通しするものの、主がまだ来ていないからとかなり待たされる。その間、下っ端が携帯電話で確認をとってくれている様子だったが、それでも一時間以上待った。やっと出勤して来た主は、非常にてきぱきと職務をこなす有能な人物と見た。二三質問した後、写真を貼付して新しい書類を作り、Kinshasaへの申次書も作成して封筒に入れた。全ての手続きが済んで、握手して快く別れようとしたが、そのときに「書類作成手数料」としてUSD20を請求された。主の机の脇には、堆く外国人のパスポートが積み上げられていて、私のものも今は彼の手にある。20年前のIleboでの悪夢がまた頭をかすめた。「領収書と引き換えだ」と言うと、すんなりと正式な領収書を出した。手持ちがだいぶ苦しかったが仕方がない。さて気を取り直してそこを出て、河の方ヘ行ってみる。とりあえず携帯電話とデジタル・カメラのチャージ、もし出来ればインターネット・カフェも見つけたい。

Mbandakaの街の風景である。ここは官庁街。DGMも、この並びにある。

その一角でVodafoneのチャージをしている若者と仲良くなった。行き帰りの道々話し相手になってもくれ、街の情報を教えてくれもした。インターネット・カフェ (Cyber) を捜していると言うと、都心の「Parc Joseph Kabila」の中にあると教えてくれたので行ってみた。

中心部のParc Joseph Kabila付近、見かけはのんびりしているが、常に外国人を注視する鋭い視線を感じる。迂闊にカメラを取り出す事も出来ない。インターネット・カフェは、確かに敷地に並んだ連棟の店舗のひとつだった。しかし訊かなければそれとは解りにくい。中は混雑していたので後回しにして、先に河っ淵゜へ行ってみた。Kinshasaへ帰るのに、船にするか飛行機にするかまだ迷っていたし、船がどんなものかくらいは見ておきたかったからである。河沿いの大通りは「Av. Bolenge」という。ここは別世界、雑踏でごった返し、道の両側に露天がひしめき合い、スリが走り回っている。全く油断のならない緊張感と、危険なまでにふくれあがった活気が漲る。コンゴ人の他、アラブ人や中国人や白人も多く、ここがコンゴ河中流域の商業の中心地である事を彷彿とさせる。とりあえずロコレの梱包に必要と思われるものを物色する。物色となると、私も彼らに負けてはいない。とりあえず小麦粉を入れる丈夫な綿の袋と、いわゆるイスラム・バッグ、それに珍しい柄の古Tシャツなどを買った。

フェリー乗り場ヘ行ってみる。河岸へ降りる路地がいくつもあって、ピローグ・小舟・商船がたくさん見える。早速係留された大型の客船を見つけたので、近づいて行って乗組員と思しき男たちに話を聞く。MbandakaからKinshasaまでは通常4日あれば到着する、小さな舟は頻繁に出ているがそれはやめた方が良い、この船は三日後に出発するので、フェリー事務所でチケットを買うが良いとの事。うむ・・・予定通り航行できれば3/20にはKinshasaに戻れる訳か・・・一応、現時点でのKinshasaからCairo行きの航空券は3/22だから、無理と言う訳ではない。しかし・・・賭けやな。「で、ほんまに4日で着くんか ?? 」と訊くと彼らは肩をすくめて「Nzambe kaka ayebi. (神のみぞ知る) 」と言った。コンゴ河の河下りは、無論これを旅の主目的にする人があるくらい魅力的なものだが、私の旅の位置づけとしては、あくまでオプションである。出国日程はここからでも変更できなくはないが・・・「ちょっと船内を見せてもらっていいかな ?? 」「ほんまはあかんのやが、お前リンガラ語しゃべれるから、入っていいよ」どういう理由やねん・・・うわあ・・・絶句である。いままさに床掃除の真っ最中であったのだが、これはひどい。まさに糞尿と生ゴミと泥水・・・もうこれ以上おもいだしたくない。すんません。ワタシコンジョウアリマセン。ごめんなさい。了見違いでした。ヒコーキで帰ります。乗組員は私の表情を見て「飛行機ならCAAがええよ。事務所はその左や」と教えてくれた。そうしましょうそうしましょう。

ここまで話がつながったのなら、勢いに任せて全部決めてまえ。CAA (Compagnie Africaine d'Aviation)という国内航空会社は新しく、地元でも人気が高い。Kinshasa行きは週二便、月・金曜日であった。次の月曜日の便を訊くと、席があると言うので購入。USD160であった。時刻表を見てみると、所要1時間半。命がけの船旅で上手くいって4日、カネに物言わせればUSD160で1時間半・・・ううむ、旅の醍醐味からすれば、これは道に外れてるよね・・・でももうエエねん、買うてしもたし。上の写真はCAAの事務所前にて。
http://www.caacongo.com/
もうひとつ、Mbandakaに就航している航空会社にHewa Boraというのがあって、これは出発前に下調べしている段階では線上に上った唯一の国内航空会社であった。ParisとBruxellesへの国際線もかつては運行されていたが、機体整備が国際的な基準を満たしていないため、ヨーロッパ域内上空の飛行を禁止されて国際線からは撤退した。スペイン資本のBravoという航空会社もあったが、同じ理由で撤退、いまではコンゴ自前の国際線というものは就航していない。Hewa BoraのKinshasa行きは週一便水曜日であった。
http://www.hba.cd/
インターネット・カフェに戻る。依然混雑がひどい。それもそうだ。コンゴ第三の都市で唯一のアクセス手段だし、パソコンで仕事してるやつもいる。待つ間に充電をしておいてもらう。カフェというからには何か飲ませろと言うと、このようなハイテク・ショップでも店の若いのがそこらのガキを走らせて食料品店へ買いに行かせた。とりあえずこの旅の最も困難なプロセスを生き延びた事を、日本で私を心配して待っているであろう幾多の女に知らせとかなあかん。さてネット環境だが、これは全く言わずもがなであり、激烈に遅い。当然ブログの更新など出来ないので、自分のHPにコメントする形で状況を「公開」した。それは、Recifeを出る前に書き込んだ最後の記事のコメントに隠されている。
http://jakiswede.seesaa.net/article/141266711.html#comment
都心へ出たついでなので、Mbandakaに書店というものはあるのだろうかと思ってエロエロ・・・失礼、イロイロ訊ね歩く。Mission Protestantの敷地内に大きな本屋があるとか、下流側のMbandaka II への渡りの道沿いにあるとか訊くのだが、人によってそれを指差す向きがまちまちであり全く要領を得ない。なんとか一軒それらしき店を見つけたのだが、ごく小さなスペースで、キリスト教のお祈りに使うと思しき詩集のようなものがわずかにあるのみであった。昼時になったので飯を食おうと思っていると、ねらいすましたようにKing Joeから電話が入った。近くにいると言う。たかるつもりだろうが、まあ知れてるし、一人飯も寂しいもんやから待ち合わせする事にした。彼が連れて行ってくれたのは、普通の庶民が入るような縦簾で囲っただけの安メシ屋だったが、これがまたウマイ !! Mbandakaは飯が旨い街と見える。あまり旨い旨いを連発していたら「お前、日頃どんなもん食うとんねん」とあきれられた。まあええやんかほめとんやし。彼は息子の用事が済んだから今日Bikoroに戻ると言う。お見送りは出来んよ、と言ってそこで別れた。

荷物が増えたのでいったんMissionに戻り、出直す事にする。昨日から気になっていたのだが、敷地に隣接して田んぼが広がっている。Av. Révolutionへ出て、角を曲がってAv. Libérationに入るのを、地元の人たちが多数田んぼの畦道へ入って行くのを見て、これはショート・カットできそうやなと思ってついて行ったら当たりだった。上の写真を良く見てもらいたい。手前は代掻きが終わって田植えの準備段階である。その向こうは苗代である。ちょっと解りにくいが、その向こうの田んぼは青々としていて、その向こうは稲刈り直前である。畦はきちんと塗られているが、除草はそんなに徹底していない。

畦に立って田んぼを眺めていたら、対面の木の下の小屋から若者が出て来て手を振る。ここの田んぼを作っている人である。いろいろ話し込んでしまった。なんでもMbandakaの米作りは日本人が技術指導したそうである。だから目に馴染みやすかったのだ。田んぼに於ける稲の状況は、私の見た通りである。つまり、ここでは一枚の田んぼから年に4回収穫できるのだと言う。驚いた。稲は田植えから2ヶ月強で収穫できるらしい。二十日大根やあるまいに。でも事実なのだそうだ。来週田植えをするというので手伝いたかったのだが、飛行機を予約してしまった後である。肥料は何を使っているのかと訊ねたところ、なんと牛糞と籾殻と稲藁だそうだ。雑草はどうしてるかと訊くと、生えるには生えるが、ご覧のように稲の方が強いから、根付いた直後以外は放置するのだと言う。米ヌカは使わんのかと訊いて、それまで順調だった対話が止まった。「コメヌカ ?? 」・・・ううむ、米ヌカをリンガラ語でどう説明するか難渋し、絵に描いたり稲の実をほじくったりして説明したのだが、どうも話が通じない。そのときはそこまでで話を終えてしまったのだが、後日、都心の精米所の脇を通ったときに、吐き出される膨大な籾殻がヌカを大量に含んでいるのを見て、はたと気がついた。ここでは米は一枚の田んぼから年に4回、つまりあちこちの田んぼから通年収穫できるのだ。日本では、米は年に一回しか穫れないから保存食品である。保存性を良くするために、脱穀して籾にした後、臼摺して玄米の状態で保存する。それを更に精米して食する訳である。つまり、籾から食用にするまでに保存しておく必要があるので、研磨するのに二段階の工程を踏んでいるのであるが、ここでは米は年中穫れるのである。だから保存する必要がない。従って、籾は精米されてすぐに白米になるのである。玄米にする必要がなく、従って米ヌカというものも分離された形では存在しない。カルチャー・ショックとはこの事である。田んぼには籾殻ごと米ヌカも還元されている訳だ。

この道は、滞在中何度も地元の人たちに交じって往来したものだから、二日目にはとっくに面が割れてしまって、通りかかると、ウチの飯を食って行けたら、濁酒を漬込んだから味見しろたら、まっすぐに通り抜け出来ないくらいになってしまった。上の写真は、コンゴで最もポピュラーな野菜mponduを木臼に入れて搗く (kotuta) 風景。

さて昼からの予定は、Bikoroで訪ね当たったロコレ制作の名手Papa Francに会いに行く事である。Mbandakaの街には、自動車は稀にしか存在しない。市民の移動の「足」は、専ら「toleka」という自転車タクシーである。「toleka」とは、もともとリンガラ語の動詞「koleka」の2人称近未来形であって、「通り抜ける・通じる・越える・勝っている」などの意味があるので、徒歩より早く通り抜けるという意味もあろうが、あいつらより俺らの方が上ぢゃという優越感も多分に含んでおるであろう。客は後部座席に座る。この見事なクッションは、手作りに見えるが・・・手作りかもしれないが、ほぼ規格統一された量産品で、道ばたの至る所で売っている。買って来たら良かった。実に乗り心地が良い。Mbandakaの街は、中心部の「Mbandaka I」、下流側の住宅地「Mbandaka II」、ちょっと山手の「Mbandaka III」に分かれていて、それぞれのゾーン内の移動ならFC200、ゾーンを越える場合はFC500になる。それより遠方ヘ行く場合や荷物を運ぶ場合は交渉次第という事になる。そこら中走り回っているので、tolekaを捕まえるのに苦労はない。出来るだけ身ぎれいなナリをしている奴を捕まえれば良い。
Mission前で拾ったtolekaは、なかなか好感の持てる若者だったが、不幸な事に数百メートル行ったところでパンクしてしまった。Papa Francの住んでいるところは「Mbandaka II」であったので前金でFC500渡してあったのだが、ほんのわずかな距離で彼は仕事をひとつ失ったわけである。彼はFC500をそのまま返してよこしたが、私はFC100だけ払った。しかも、彼は自分の顔見知りを選んで止め、住所その他を引き継いで念まで押して仕事を渡したのである。私は常々感じるのだが、コンゴでは交通関係の仕事をしている奴から嫌な扱いを受けた事がない。そればかりか、こんな小さな事から、命を救われるような大きな事まで、彼らの善意に接する事が多い。しかも、彼らはそれを膨大な日常のやり取りのたったひとつの出来事として、てきぱきとやってのけたうえに何の見返りも要求しないのである。礼をしようとしても、客扱いの方に忙しくて相手にもしてくれない事の方が多い。コンゴ人は職務に忠実だと感じるのはこういうときである。

Papa Francは、Unicefの仕事で教員を養成するために学校に派遣されて来ていた。つまり先生の先生である。このまっすぐな目を見よ。これが人格者の目である。物腰・風貌・言葉遣い・立ち居振る舞いのどれをとっても、これまでに出会ったコンゴ人たちとはずいぶん人格が上である。左に立っているのがその息子で、Papa Francが授業中で手が離せなかったものだから、その間私の相手をしてくれていた。さて、授業が終わって担任の教諭と打ち合わせを終えた後、Papa Francはにこやかに出て来られた。Bikoroで住所を訊いて尋ねて来た事、20年来日本でロコレを叩いてきた事、本来貴方に作ってもらいたかったのだが、今回既に3つのロコレを手に入れたので、お話だけでも聞かせてほしい事などを手短に申し上げた。すると彼は、自分をロコレ制作者と知ってわざわざ訪ねてきてくれた事に感謝の言葉を述べた上で、ロコレという楽器について、詳しく説明してくれた。ここでは長くなるので詳細については割愛するが、その際に聞いた話をメモしたものが下の図である。スリット・ドラム一般に当てはまる事なので、ご興味のある方は目をほじくって眺められたし。ちなみに、「lokole」というものは、本来村の集会所などに通信用として置いてある巨大なものを指し、Viva la Musicaなどが広めた、バンド演奏用にスタンドに乗せられるほど小型のものは「ikokole」というらしい。そういえば、Itsharli先生の弟子で、Viva la Musicaの二代目ロコリステは、Ikonola Ishibangi・・・略して「Iko」といったな・・・

下の写真がロコレの現物である。二つの四角い穴の間の「舌」のような部分を叩くのであるが、スリットの両側で音程に差を付けてある。民芸品店などで売られているものは、カタチばかりで音程差のないものが多いが、正しいロコレはだいたい五度くらいの音程差があるものである。そうでないと通信用に言葉を模する事が出来ないからだ。上の図は、その音程差をどのようにつけて行くかのテクニックを図解したものである。それによると、まずロコレは、伐りたての生の木を穿つ。皮を剥いだら適当な大きさの円柱に整形する。四角い穴の部分から彫りはじめ、両方の穴をつないだら、双方の「舌」の部分の音程差をイメージしながら胴の肉厚を調整していく。厚めに残すとその側の音程は相対的に高く、薄めにすると低くなる。ロコレの音は「鶏の鳴くような」鋭い高音が身上であるが、それをねらって胴を厚くしすぎると音量が出ない。最終的な微調整は、「舌」の裏側の細工で行う。すなわち、口と口の間を広くとれば、言い換えれば「舌」の幅を広くとれば、音程は相対的に低くなり、狭くすると高くなる。「舌」の長さを変えずに、音程を調整するには、両端から斜めに削り落とすと音程は上がり、裏側の中ほどを逆から彫ると音程は下がる。生木の湿っているうちは音が出ないが、数日陰干しして乾いてくると、生命を吹き込まれたように鳴りはじめるという。いや、授業の合間のほんの短い会見であったが、非常に感銘を受けた。目から鱗の落ちる思いであった。こうして伝統楽器は出来ている。有意義な事を教えてもらった。技術的な明快さもさることながら、さっと数分で要点だけきちんと伝えるその頭脳の明晰さ、人格の透明さに感銘を受けた。彼は話だけしてさっさと教室に戻ってしまったので、息子にお礼だけでもと言ったのだが受け取らなかった。かたじけないというのは、こういう気持ちをいうのであろうか・・・

これが今回手に入れたロコレである。左から、余り音の良くない師匠へのお土産・赤い木の新品・途上で買った甲高い逸品、そしてコンゴ風アゴゴ・ベル (Ngongi) である。さてこれをどうやってKinshasまで運ぶか、Kinshasaからどうやって日本へ送るか・・・旅で欲しかったものは全て手に入れてしまったので、すでにMbandaka滞在に主体的目的はない。ただ、コンゴ音楽の主たる震源地の一つであり、私の体に染み付いたSwede Swedeの発祥の地でもあるので、濃いライブの一つや二つは見ておきたい気もする。考え込んでいるうちに暗くなった。Mbandakaも街をカバーする電力はない。ここには自家発電設備もないので、夜は石油ランプのみであるが、もう慣れっこになってしまって苦にはならない。