翌朝早く起きて早朝ミサに出た後、トラブルを避けるためにDGMへ出頭した。Ibokoは携帯電話が通じるので、神父に事情を説明し、私が数時間以内に戻らなかったら念のため電話してくれるように、それで出なかったらDGMへ助けに来てくれるように頼んでおいた。上の写真はその途上、振り返って北向きに撮影したものである。Ibokoの町は途切れ途切れに集落があって、Mission Catholiqueの周辺は、いわば中心地であり、DGMのあるのは南の端の入り口にあたる。その間は、このように人家のない赤土の道が続く。昨日、エクアトリアルな陽射しにやられて、這うようにして辿り着いたこの道は、暴風雨で倒木があり通行不能になったという、Isongoから北上して来るメイン・ルートだった。その合流点あたりにもまばらな人家があって、雑貨屋と思しき倉庫と並んで東側にDGMの事務所はあった。
8時に来いと言っておきながら、事務所はまだ閉まっていた。隣の雑貨屋で無駄話をしながら時間をつぶしていると、小一時間ほどしてガキが一人呼びに来た。昨日道で会った男は次官らしく、厳しい表情を崩さないまま「お前がこの町に滞在できるかどうかは主がお決になるので書類は預かる、そこへ控えておれ」という。こういうときは言う通りにする以外仕方がない。このパターンで20年前、Ileboの町で書類を全て没収されて投獄された苦い思い出が頭をよぎる。次官は一通り書類に目を通した後、主にお伺いを立てに行った。ほどなく現れた主なる人物は、予想に反してにこやかに私を出迎えた。明らかにここには似つかわしくない、洗練された雰囲気をたたえ、書類にざっと目を通していくつか質問すると、全て解ったという風に頷いて、てきぱきと判を押した。「水はあるか、電気は来てるか」と訊くので問題ないと言うと、念のためにと前置きして、簡単な街の地図まで書いてくれた。「Ibokoへようこそ」・・・こういうパターンは初めてである。こっちもお礼に「これでコーヒーでも」と言って、主と次官にFC500ずつ、なんか知らんけどそこで鼻を垂らして成り行きを見ていた4人にもFC100ずつ渡して円満に別れを告げた。
ザイール時代を通じて、この国で外国人が円満に移民局を通過するには、いくつかのコツがあるように思う。まず、大多数の役人は、物事をきわめて論理的に考える厳格なタイプだと思って良い。外国人が旅行するときに守るべきルールも、国際的な常識に沿うようにきちんと決められている。しかし観光立国でないこの国では、実際に外国人を見ることが稀なので、査証その他の書類を扱った経験のある人が少ないので、文面の解釈に時間がかかるのである。例えば、パスポートに押された査証のスタンプは、往々にして小さな字で書かれている上に、インクが滲んだり潰れたりしている。査証というものは国際的に、発行されてからの有効期間と、入国してからの有効期間が明記されているが、発行日については査証に記載があるものの、入国日は、パスポートの別のページに押された入国スタンプを見ないと解らない。長期旅行者の場合、発行されてから入国するまでに、かなりの日数を経ていることが普通なので、発行されてからの有効期間をもって期限切れと判断されてしまうことがある。私の場合、東京のコンゴ (RDC) 大使館から査証の発給を受けたのが11/30、査証に記載されていた発給から入国までの有効期間は3ヶ月、入国から2ヶ月有効の査証であった。旅立ったのが翌年の1/22、ブラジルに長期滞在した後、コンゴに入国したのが2/22であるので、4/21まで滞在できる査証である。しかし、入国スタンプは別のページに押されている。査証のページだけで判断すると、11/30から2ヶ月後は1/30で、とっくに期限が切れているということになる。これを頭の固い役人にどうリンガラ語で説明するか、それにしくじって正論をぶちまけてしまうと20年前のような目に遭う。しかしお互い人と人との関係であるので、予め査証のページと入国スタンプのあるページに付箋でも貼っておいて素早く参照してもらえるようにし、入国カードの有効期限欄には、「du 22/02/2010 au 21/04/2010」のように「いつからいつまで」と太陽を見るより明らかに書いておけば、「ほっほう・・・」となって少なくとも誤解は免れる。私は彼らの国にお邪魔させてもらっているという気持ちを持っている。これは彼らの仕事に対する心遣いである。
さて、私が出て行こうとすると主が呼び止めた。「さっきの地図に書いたことだが・・・ここは田舎なので戸惑うだろうが、この道をずっとずっと行けば右手にわりと大きな家がある。そこがこの町で唯一飲み物を卸している店なので、そこで水を買うがよい。」なんとも親切の至れり尽くせりで、賄賂も取らずこんな役人は初めて見た。
しかしEquateurでは水は大切である。ここの陽射しは、BandunduやBrasilの比ではない。文字通り赤道直下である。肌の焼け方まで違う。束の間の晴れ間でも強烈な陽射しで、飲んだ水が汗になって噴き出すほどだ。湿気はむしろ低い。その分乾いた熱気が喉に痛い。
さて今日は一日休息と決めて、たまった洗濯物を片付けたり、Missionに出入りしている街の人たちと世間話をしたりして過ごすことにした。
部屋に戻って旅日記をつける。こうしてテーブルに向かうのもInongo以来のことだ。
昨日、途中から合流して我々を助けてくれたMissionの職員。ええ表情でんな・・・
写真に撮るのを忘れたが、昼食はなかなか豪華なものだった。ポンドゥ・牛肉のトマトシチュー・魚のピーナツバター煮・サフ、それに米の飯が出たのは助かった。デザートもついた。全員が集まったところでお祈りを捧げ、各自皿によそっても余るほどの量だった。これらはMissionに働きに来る賄い婦が作るのだが、腕が良いとみえる。ランチを一緒に摂った後、Papa Dereckは「じゃあな」と言って去って行った。別れを惜しむことさえ拒絶するような、慌ただしさであった。お礼はUSD100を渡したかったのだが50で良いといってきかなかった。そのかわり、私の持っていた100円の携帯灰皿をほしがったので差し上げた。足掛け4日、往復一週間の仕事に対して、十分なお礼が出来なかったのが心残りではある。
Inongoを出るときEmmanuelから走り書きで渡されたメモがあって、そこにはPapa Piusという人の連絡先とともに「この日本人をよろしく」との短信が添えられていた。Missionの職員に「この人物に会いたいのだが」と問いかけると、「ああ・・・」と言って子供を走らせた。携帯電話が通じるのだから、何も人を遣らなくてもと思うのだが、それより子供の方が早かった。ほどなくバイクの音がして、Orchestre CavachaのMoperoによく似た温和な男が現れた。バイクで町の近隣を案内するというので、後ろに乗って走り出した。まずは道を北にとり、いくつかのPygmeの村を経て、かなり外れの小さな村に着いた。そこでは酒を造っていて、強烈なトウモロコシの蒸留酒を飲ませてくれた。Ba-Pygmeの家は竹で編んだ壁に土を詰め込んであるが、Bakondaの家は日干しレンガ積みであるのが違う。ここのPygmeはさほど背が低いとは思われなかった。
上の写真の真ん中の黄色いシャツを着た人がPapa Piusである。彼の家にMissionの職員も巡回で来ていた。さて、Bikoroへの足を確保しておかなくてはならないので、Missionの職員に訊ねてみると、渡りに舟とはこのことで、なんと明朝、Missionどうしの連絡便があって、四輪駆動車で早朝にここを出て、Itipo・Bikoroを経てMbandakaに向かうという。もう少しこの町にいたかったが、これを逃すと次の便がいつになるか解らないので、それを頼むことにした。残されたIbokoの時間、敷地内の庭にある日陰の家でゆっくり寛ぐことにした。
さて、私はここまでどのような行程を経て来たのだろうか。持って行ったのはMichelinのロードマップだけだったので、こんな細かいところまで出てはいない。帰国してからエロエロ・・・失礼、いろいろ捜したが、かのGoogleMapにもなく、偶然見つけたbing.comに下のような地図を見つけたので、ちょっと加筆して掲載しておきたい。
Mayi-Ndombe湖の連絡船が最後に着いたのはNkileという小さな湖畔の港だった。そこから青線のルートに沿ってピローグで遡上して行った。KukuというLita Bemboの生地を知らずにMbuse-Mpoto (地図ではMputuとなっているが音写の違いである) まで行き、そこでPapa Dereckと出会った。彼のガイドによって、おそらく地図上のYembeのあたりから「ぬかるみの道」に入って行ったものと思われる。この辺りにはいくつもの山越えの道があるということだったので、あるいは別の場所かもしれぬ。また、地図上にあるBootaやItikalaという地名も旅日記に出て来るから、それらの村も通ったのか、あるいは話に出ただけなのか、はたまたこの地図が厳密でないのか、そのへんは定かではない。地図上のYembe付近を通る街道が描かれているが、我々はその道を西へとった。Lo-Ongo (LongoまたはLoangoと記載されている地図もある) の場所は、感覚としてはもっと東寄りだったように思われる。そこから陽射しの道を進み、途中で倒れてIkengeで村人に救われ、Elingola (現地の農場の看板にはElingolaとあるが地図上ではElingala) を経て、Iboko-Bolombiの国道との合流点に出る。道路沿いに途切れ途切れに集落があると感じられたのは、Ibokoが都合3つの村に別れているためだろう。Mission CatholiqueはIboko-Monene (「大きい」という意味、ちなみにmokeは「小さい」) にある。Papa Piusに連れられて行ったのはMboloよりもっと北だった。Pygmeの村は、この沿道に何カ所かある。MboloからBikoroへの徒歩コースは集落の家と家の間を南向きに分岐していた。
画像をクリックして出る地図の縮尺 約1/300,000 (1cmが約3km)
上のリンクをクリックしてもらって、もちろん途中で強制的に改行されてしまっている場合は一行につないでURLを入力して下さい。すると、bing.comの地図が現れます。地図上の「A」を選択して徐々に縮尺を上げていくと、だいたい上のような縮尺の地図が表示されます。
ちなみに旅日記に備忘録として記載したIbokoの町とその周辺図も載せておきたい。もちろん距離観は滅茶苦茶だが、位置関係はだいたい合っている。Nkileの場所が、ほぼMayi-Ndombe湖の近辺として描かれているのは、現地の人の話に疑いを持っていたことの現れである。
画像をクリックして出る地図の縮尺 約1/2,500,000 (1cmが約25km)
ところがそのNkileという村は上の地図のような位置にある。この地図を見ると、Emmanuelの言っていたことが正しいことがよくわかる。コンゴでは道路状況は全く予断を許さない。IsongoからIbokoへ直通する道路が通れなくなっていたとすれば、Nkileからピローグで行けというアドバイスは、全くもって適切なものだった。NkileからIbokoへは、確かにすぐそこである。しかし私は事実を知らなかったので、途上は不安であった。この後、翌日に私は四駆でBikoroへ至り、そこでロコレを捜した後、ヒッチハイクでEquateur州の州都Mbandakaへ至る。