2011年01月13日

20100308 Iboko

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 翌朝早く起きて早朝ミサに出た後、トラブルを避けるためにDGMへ出頭した。Ibokoは携帯電話が通じるので、神父に事情を説明し、私が数時間以内に戻らなかったら念のため電話してくれるように、それで出なかったらDGMへ助けに来てくれるように頼んでおいた。上の写真はその途上、振り返って北向きに撮影したものである。Ibokoの町は途切れ途切れに集落があって、Mission Catholiqueの周辺は、いわば中心地であり、DGMのあるのは南の端の入り口にあたる。その間は、このように人家のない赤土の道が続く。昨日、エクアトリアルな陽射しにやられて、這うようにして辿り着いたこの道は、暴風雨で倒木があり通行不能になったという、Isongoから北上して来るメイン・ルートだった。その合流点あたりにもまばらな人家があって、雑貨屋と思しき倉庫と並んで東側にDGMの事務所はあった。

 8時に来いと言っておきながら、事務所はまだ閉まっていた。隣の雑貨屋で無駄話をしながら時間をつぶしていると、小一時間ほどしてガキが一人呼びに来た。昨日道で会った男は次官らしく、厳しい表情を崩さないまま「お前がこの町に滞在できるかどうかは主がお決になるので書類は預かる、そこへ控えておれ」という。こういうときは言う通りにする以外仕方がない。このパターンで20年前、Ileboの町で書類を全て没収されて投獄された苦い思い出が頭をよぎる。次官は一通り書類に目を通した後、主にお伺いを立てに行った。ほどなく現れた主なる人物は、予想に反してにこやかに私を出迎えた。明らかにここには似つかわしくない、洗練された雰囲気をたたえ、書類にざっと目を通していくつか質問すると、全て解ったという風に頷いて、てきぱきと判を押した。「水はあるか、電気は来てるか」と訊くので問題ないと言うと、念のためにと前置きして、簡単な街の地図まで書いてくれた。「Ibokoへようこそ」・・・こういうパターンは初めてである。こっちもお礼に「これでコーヒーでも」と言って、主と次官にFC500ずつ、なんか知らんけどそこで鼻を垂らして成り行きを見ていた4人にもFC100ずつ渡して円満に別れを告げた。

 ザイール時代を通じて、この国で外国人が円満に移民局を通過するには、いくつかのコツがあるように思う。まず、大多数の役人は、物事をきわめて論理的に考える厳格なタイプだと思って良い。外国人が旅行するときに守るべきルールも、国際的な常識に沿うようにきちんと決められている。しかし観光立国でないこの国では、実際に外国人を見ることが稀なので、査証その他の書類を扱った経験のある人が少ないので、文面の解釈に時間がかかるのである。例えば、パスポートに押された査証のスタンプは、往々にして小さな字で書かれている上に、インクが滲んだり潰れたりしている。査証というものは国際的に、発行されてからの有効期間と、入国してからの有効期間が明記されているが、発行日については査証に記載があるものの、入国日は、パスポートの別のページに押された入国スタンプを見ないと解らない。長期旅行者の場合、発行されてから入国するまでに、かなりの日数を経ていることが普通なので、発行されてからの有効期間をもって期限切れと判断されてしまうことがある。私の場合、東京のコンゴ (RDC) 大使館から査証の発給を受けたのが11/30、査証に記載されていた発給から入国までの有効期間は3ヶ月、入国から2ヶ月有効の査証であった。旅立ったのが翌年の1/22、ブラジルに長期滞在した後、コンゴに入国したのが2/22であるので、4/21まで滞在できる査証である。しかし、入国スタンプは別のページに押されている。査証のページだけで判断すると、11/30から2ヶ月後は1/30で、とっくに期限が切れているということになる。これを頭の固い役人にどうリンガラ語で説明するか、それにしくじって正論をぶちまけてしまうと20年前のような目に遭う。しかしお互い人と人との関係であるので、予め査証のページと入国スタンプのあるページに付箋でも貼っておいて素早く参照してもらえるようにし、入国カードの有効期限欄には、「du 22/02/2010 au 21/04/2010」のように「いつからいつまで」と太陽を見るより明らかに書いておけば、「ほっほう・・・」となって少なくとも誤解は免れる。私は彼らの国にお邪魔させてもらっているという気持ちを持っている。これは彼らの仕事に対する心遣いである。

 さて、私が出て行こうとすると主が呼び止めた。「さっきの地図に書いたことだが・・・ここは田舎なので戸惑うだろうが、この道をずっとずっと行けば右手にわりと大きな家がある。そこがこの町で唯一飲み物を卸している店なので、そこで水を買うがよい。」なんとも親切の至れり尽くせりで、賄賂も取らずこんな役人は初めて見た。

 

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 しかしEquateurでは水は大切である。ここの陽射しは、BandunduやBrasilの比ではない。文字通り赤道直下である。肌の焼け方まで違う。束の間の晴れ間でも強烈な陽射しで、飲んだ水が汗になって噴き出すほどだ。湿気はむしろ低い。その分乾いた熱気が喉に痛い。

 

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 さて今日は一日休息と決めて、たまった洗濯物を片付けたり、Missionに出入りしている街の人たちと世間話をしたりして過ごすことにした。

 

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 部屋に戻って旅日記をつける。こうしてテーブルに向かうのもInongo以来のことだ。

 

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 昨日、途中から合流して我々を助けてくれたMissionの職員。ええ表情でんな・・・

 

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 写真に撮るのを忘れたが、昼食はなかなか豪華なものだった。ポンドゥ・牛肉のトマトシチュー・魚のピーナツバター煮・サフ、それに米の飯が出たのは助かった。デザートもついた。全員が集まったところでお祈りを捧げ、各自皿によそっても余るほどの量だった。これらはMissionに働きに来る賄い婦が作るのだが、腕が良いとみえる。ランチを一緒に摂った後、Papa Dereckは「じゃあな」と言って去って行った。別れを惜しむことさえ拒絶するような、慌ただしさであった。お礼はUSD100を渡したかったのだが50で良いといってきかなかった。そのかわり、私の持っていた100円の携帯灰皿をほしがったので差し上げた。足掛け4日、往復一週間の仕事に対して、十分なお礼が出来なかったのが心残りではある。

 

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 Inongoを出るときEmmanuelから走り書きで渡されたメモがあって、そこにはPapa Piusという人の連絡先とともに「この日本人をよろしく」との短信が添えられていた。Missionの職員に「この人物に会いたいのだが」と問いかけると、「ああ・・・」と言って子供を走らせた。携帯電話が通じるのだから、何も人を遣らなくてもと思うのだが、それより子供の方が早かった。ほどなくバイクの音がして、Orchestre CavachaのMoperoによく似た温和な男が現れた。バイクで町の近隣を案内するというので、後ろに乗って走り出した。まずは道を北にとり、いくつかのPygmeの村を経て、かなり外れの小さな村に着いた。そこでは酒を造っていて、強烈なトウモロコシの蒸留酒を飲ませてくれた。Ba-Pygmeの家は竹で編んだ壁に土を詰め込んであるが、Bakondaの家は日干しレンガ積みであるのが違う。ここのPygmeはさほど背が低いとは思われなかった。

 

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 上の写真の真ん中の黄色いシャツを着た人がPapa Piusである。彼の家にMissionの職員も巡回で来ていた。さて、Bikoroへの足を確保しておかなくてはならないので、Missionの職員に訊ねてみると、渡りに舟とはこのことで、なんと明朝、Missionどうしの連絡便があって、四輪駆動車で早朝にここを出て、Itipo・Bikoroを経てMbandakaに向かうという。もう少しこの町にいたかったが、これを逃すと次の便がいつになるか解らないので、それを頼むことにした。残されたIbokoの時間、敷地内の庭にある日陰の家でゆっくり寛ぐことにした。

 

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 さて、私はここまでどのような行程を経て来たのだろうか。持って行ったのはMichelinのロードマップだけだったので、こんな細かいところまで出てはいない。帰国してからエロエロ・・・失礼、いろいろ捜したが、かのGoogleMapにもなく、偶然見つけたbing.comに下のような地図を見つけたので、ちょっと加筆して掲載しておきたい。

 Mayi-Ndombe湖の連絡船が最後に着いたのはNkileという小さな湖畔の港だった。そこから青線のルートに沿ってピローグで遡上して行った。KukuというLita Bemboの生地を知らずにMbuse-Mpoto (地図ではMputuとなっているが音写の違いである) まで行き、そこでPapa Dereckと出会った。彼のガイドによって、おそらく地図上のYembeのあたりから「ぬかるみの道」に入って行ったものと思われる。この辺りにはいくつもの山越えの道があるということだったので、あるいは別の場所かもしれぬ。また、地図上にあるBootaやItikalaという地名も旅日記に出て来るから、それらの村も通ったのか、あるいは話に出ただけなのか、はたまたこの地図が厳密でないのか、そのへんは定かではない。地図上のYembe付近を通る街道が描かれているが、我々はその道を西へとった。Lo-Ongo (LongoまたはLoangoと記載されている地図もある) の場所は、感覚としてはもっと東寄りだったように思われる。そこから陽射しの道を進み、途中で倒れてIkengeで村人に救われ、Elingola (現地の農場の看板にはElingolaとあるが地図上ではElingala) を経て、Iboko-Bolombiの国道との合流点に出る。道路沿いに途切れ途切れに集落があると感じられたのは、Ibokoが都合3つの村に別れているためだろう。Mission CatholiqueはIboko-Monene (「大きい」という意味、ちなみにmokeは「小さい」) にある。Papa Piusに連れられて行ったのはMboloよりもっと北だった。Pygmeの村は、この沿道に何カ所かある。MboloからBikoroへの徒歩コースは集落の家と家の間を南向きに分岐していた。

 

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画像をクリックして出る地図の縮尺 約1/300,000 (1cmが約3km)

 

http://www.bing.com/maps/default.aspx?q=Nkile&mkt=ja-JP&FORM=BYFD#JndoZXJlMT1Oa2lsZSUyYytCYW5kdW5kdSUyYytDb25nbysoRFJDKSZiYj0tMS4zODkxMDI3OTQzNDUwOSU3ZTE4Ljg3NDEzNDg0MDE3NDYlN2UtMS40NDcwNDM1NjAzMzAyJTdlMTguNzk2ODU3NzcyNjY0MQ==

 

 上のリンクをクリックしてもらって、もちろん途中で強制的に改行されてしまっている場合は一行につないでURLを入力して下さい。すると、bing.comの地図が現れます。地図上の「A」を選択して徐々に縮尺を上げていくと、だいたい上のような縮尺の地図が表示されます。

 

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 ちなみに旅日記に備忘録として記載したIbokoの町とその周辺図も載せておきたい。もちろん距離観は滅茶苦茶だが、位置関係はだいたい合っている。Nkileの場所が、ほぼMayi-Ndombe湖の近辺として描かれているのは、現地の人の話に疑いを持っていたことの現れである。

 

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画像をクリックして出る地図の縮尺 約1/2,500,000 (1cmが約25km)

 

 ところがそのNkileという村は上の地図のような位置にある。この地図を見ると、Emmanuelの言っていたことが正しいことがよくわかる。コンゴでは道路状況は全く予断を許さない。IsongoからIbokoへ直通する道路が通れなくなっていたとすれば、Nkileからピローグで行けというアドバイスは、全くもって適切なものだった。NkileからIbokoへは、確かにすぐそこである。しかし私は事実を知らなかったので、途上は不安であった。この後、翌日に私は四駆でBikoroへ至り、そこでロコレを捜した後、ヒッチハイクでEquateur州の州都Mbandakaへ至る。

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2011年01月12日

20100307 Nzela ya Equateur

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 ピローグに別れを告げて陸に上がった場所はEleleという。川縁に降りられる場所がちょっとあるだけで、他には何もない。さて、気を取り直して進む。「ぬかるみの道」と言われていたので、どんなひどい目に遭うかと心配していたが、またもや「案ずるより産むが易し」とはこのことで、たとえ熱帯雨林のジャングルとはいえ、そこに住む人々にとっては生活の道、こんな普通のおばちゃんが、買い物袋下げて・・・失礼、買い物かご頭に乗せて世間話しながら山から降りて来た。しかも裸足かビーサンである。服も汚れていない。「Dereck、ピローグある ?? 」「今帰したとこだから叫べばすぐ来るよ」「ありがとう」こんなやりとりであった。

 

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 道は快適だった。六甲山のハイキング・コースとたいして変わらない。何人もの山越えの人と行き違った。しかし所によっては小川の真ん中を行かなくてはならなかったり、ぬかるみの池を横断したり、膝上まで泥にはまって進む場所もあった。Papa Dereckは、その都度先に立って踏み跡を見分け、硬い場所を指し示した。かれこれ一時間強ほどで、ぬかるみの状態は予断の範囲内となり、やがて細い流れになった。それは不思議な色だった。「黒い水」の源流の一つに違いない。源流でさえこの色である。この水は、湧き出たときから黒いのだ。たったこれだけの水の量で、こんなにも黒いのだ。底の砂地はこんなに白いのに、水は黒い。落ち葉から滲み出すのか、独特の鉱物成分のためか・・・そしてほどなく、この黒い水は白い砂地に消えた。

 「Equateurだ」・・・水を見なくなってからしばらく登り、やがて稜線に出た時、Papa Dereckは言った。見晴らしは良くなかったが、それまでとは異なる、明らかに乾いた白い空気と、強い直射日光を感じた。州境を越えたのだ。次の瞬間、Papa Dereckは、私の腕をつかんで木陰に押しやった。「静かに・・・」人の話し声が聞こえる。「ebembeだ」・・・「ebembe」というのは、何者か分からない警戒すべき人の集団というほどの意味である。しかし彼らは既に我々を捕捉していた。グループのリーダー格の男は、Papa Dereckの姿を認めると、恭しく礼をして握手を求めた。彼は私を紹介した。彼らは、Equateur州側の初めての村「Lo-Ongo Biole」の自警団だった。中国製の古いライフルを2丁装備していたので、日本では、さしづめ「武装組織に拉致された」と報道されるカタチになるだろう。Papa Dereckは、彼らの若いメンバーとは面識がなかったらしく、互いに緊張感のある眼差しをかわした跡、リーダー格の男がPapa Dereckを促して、山を降りはじめた。私は武装した若者と話をしながらついていった。若者は、初めこそ緊張して威圧的だったが、私が音楽の目的を持ってKinshasaから来た日本人であると知ると、習いたてのむちゃくちゃな英語でしきりに対話を試みようとした。しかしリンガラ語の方が解りやすいと知ると、急に打ち解けて世間話に興じた。ジャングルの山道は、やがて乾燥した砂道となり、人の生活の臭いがしはじめると、畑の中を歩いていた。農夫とも行き違った。彼らは、初め我々を奇異な目で見ていたが、やがて得心したらしく、自分たちの仕事に戻っていった。さて、彼らは私を街道筋にある「Lo-Ongo Bompaka」という、同じ名前を冠する次の村に導いた。この二つの村は同じ祖先から別れたもので、「Lo-Ongo Bompaka」は街道筋にあり、「Lo-Ongo Biole」は山沿いにあるという。ただ、我々が下って来たルートからIbokoへ向かうには、こちらにつれて来た方が近道だというのである。話によると、我々がとったルートは正解で、Ngange川から街道筋に出る道は何本もあるが、そのほとんどはこの季節、ぬかるみで難渋すると言う。現地の人たちでも越え難いものらしいので、さすがにPapa Dereckの判断が正しかった訳である。

 

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 「Lo-Ongo Bompaka」の村はお昼寝の真っ最中であった。谷間の川の道と違って、陸の街道筋は周りの森からアクセスする人が多いから、縦の連絡系統を持てないのだという。それでこの村では「お出迎え」がなかった訳だ。それにしてもEquateurに入ってから急に暑くなった。蒸し暑いのではない、太陽に焦がされて熱いのである。警備上の理由というより、ほんまは暑いから外でるん嫌なだけちゃうのん ??

 

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 我々はすぐに「日陰の家」に入って休んだ。それを見かけた子供たちが集まって来て、おなじみの騒ぎになった。水を切らしてしまったので、彼らに飲み水を所望した。それが上の写真である。澄んだ水である。これほど異なるのだ。黒い水の味に慣れ親しんだ舌は、初め違和感を覚えたが、やがてこれも飲み干した。濾過する作業を見守る子供たちの興味津々の眼差しは同じであった。

 

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 ここからIbokoへは14kmの道のりだというので、水分補給を十分にした後、少し休んでおくことにした。

 

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 昼下がりということもあり、村のおもだった連中は猟に出ていたりIbokoへ働きに出ていたりで不在だったため、村人たちとの交流もあっさりしたもので、村の規模の割にはこじんまりとした写真大会の後、出発となった。「Lo-Ongo Biole」の自警団のグループは山へ戻って行き、代わりに「Lo-Ongo Bompaka」の若者が一人、次の村まで「護衛」してくれることになった。ところが肝心の私が、この旅で最も困難な部分と見ていた「ぬかるみの道」を生きながらえた安堵感から緊張が溶けてしまったのか、Equateurの真上からギラギラと襲いかかる日差しに根を上げてしまった。いくつかの小さな村を過ぎ、小一時間も歩いた頃には14kgのザックが重く感じられはじめた。体温が上がり、動悸が早くなったので、なるべく木陰を選び、タオルに水を含ませて首や腋の下を冷やしつつ、休み休み歩みを進めた。しかしついに頭痛とめまいが始まり、典型的な脱水症状になった。しかしその頃は、既に旅は私一人のものではなくなっていた。ベースが上がらないものだから、沿道の村々で暇なガキや野次馬がどんどん合流し、やがて大名行列のような状態になっていたからだ。休みたかったが、いかな主役は私だといえども、この行列を小休止させるには重大な覚悟と膨大な手続きを要するに違いなかった。小休止をしたらしたで、野次馬がもっと増えて、その対応に、更なる精神力と体力を消耗させられることは太陽を見るより明らかだった。それを考えると、なかなか休みたいと言い出しにくかったが、たまたま行列のペースが私の歩調より早かったので、何度も何度も入れ替わり立ち替わり現れる質問者の問いかけが途切れた隙と、街道が角を曲がるように死角に入った頃合いを見計らって、木陰に隠れて座り込んだ。しばらくしてPapa Dereckが心配して私を捜しに来た。私も、努めて体温を下げようとしたが、意気が上がり切って収まらない。そこへ野次馬たちが戻って来た。ついに動けなくなった私の身を案じて、温和だったPapa Dereckが遂にブチきれた。次の瞬間、同行者は「Lo-Ongo Bompaka」の若者ひとりになった。Papa Dereckは私のザックを取り上げ、「Ibokoに着くまで返さん」と言い放って歩きはじめた。私も彼についてなんとか歩きはじめ、ほどなくIkengeという村の「日陰の家」に頽れるように倒れ込んだ。

 

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 Ikengeの村で、ガキどもに頼み込んでバケツに水を汲んで来てもらい、水場へ案内してもらった。とにかく体を冷やさなければ、この灼熱地獄を生きながらえることは出来ない。Papa Dereckの判断で、陽が傾く15時まで休息することになった。寝てしまった。

 

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 Ikengeは美しい村だった。のみならず村人もとても親切だった。命を救われた。前後不覚に陥った私を介抱し、ゆっくり休めるように「日陰の家」から村のサロンを奇麗にして移して、ガキどもを追い払ってくれた。1時間半ほどして私は目覚め、ようやく受け答えできる程度にまで回復した。Papa Dereckは心配そうにしていたが、水をもらい、もう一度水浴びをして来ると、今度は気分が爽快にさえなった。「やれ」目の合図があって、写真大会をぶちかました後、我々は出発した。

 

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 延々とこのような道を進むのである。風景に変化はない。ただ、都会が近くなったのか、道ばたにゴミが見えはじめた。ここまでは、カネなんかあっても使うところのない世界だった。村人の善意に答えるには、カネではなくて「お話」だった。彼らはなにより、外の世界の珍しい話を聞きたがり、私からカネをとろうとはしなかった。彼らにしてみても、カネなんてあっても使い道がないからだろう。

 

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 回復したとはいえ、やはり体調は万全ではなく、時々休みながら進んだ。沿道には、ときどき村でもないのに、上の写真のような「日陰の家」がある。

 

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 上の写真、右がPapa Dereck、左が「Lo-Ongo Bompaka」から随行してくれた若者である。夕方近くになると陽射しも弱まって、幾分涼やかさも感じられるようになった。ここはElingolaという場所で、広大な農場があった。元気ならばぜひとも視察したいところだったが、さすがに体がいうことを利かず、そのまま先を急ぐ。途中、一人の厳格な顔つきの男に誰何された。訊けば、彼はDGMの職員だという。DGMか・・・懐かしい響きだった。ここまでは村人同士で治安を守る世界だった。Ibokoは都会なのだ。国の組織が治安を守る世界に戻って来たということだ。彼に手短に来訪の意図を告げると、外国人は明朝8時にIbokoのSGM事務所に出頭せよと告げて、表情を崩さずに去っていった。Papa Dereckは、(`へ'っ)と言って後ろ姿に向かってつばを吐きかけた。「やめてくれよ、ややこしなったらかなんさかい・・・」やがて左から太い道が合流し、Ibokoという地名が標識に現れた。かなり暗くなっていた。

 

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20100307 Bosale

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 Bosaleの村の滞在は思い出深い。この建物が来客用の宿舎である。非常に立派なものだ。窓がないので蒸し暑いかと思いきや、土壁が呼吸するかのように、さわやかな風を一晩中送り続けてくれたのである。

 

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 この細かい造作を見られたし。これは天井である。竹を編んだ上に、藁を敷き詰めて土で固めてある。天井も呼吸しているように思われる。

 

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 竹を簀子状に並べて組んだベッド。骨格が緩やかに作られていて、横になると全体が微妙にたわんで心地よいクッションが得られる。通気性も良く、寝心地抜群であった。

 

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 ついでにトイレのことも書いておこう。トイレを写真に撮ることは適当でないと思ったので、写真は残していない。まずコンゴではごく普通のことだが、男子小用と水浴びは同じところでする。つまり水浴び場は小便臭いものである。水浴び場は、たいてい縦簀で囲われた天井のない部屋の、土の上に藁が厚く敷いてあって、そこに大きな石があったり太い角材が渡してあったりする。川でバケツに水をくんで来て、その上に置き、そこから自分も落ちないように気をつけながら水浴びまたは男子小用をする。女子小用と大便は別に、縦簀で囲われた中に小山があって、その中が空洞になっている。山の頂上に小さな穴があいていて、そこにまたがって用を足すのである。これが実に爽快であって、天井がないから臭いも残らず、縦簀の壁からもそよ風が吹いて、健康なお通じが促される。これらは、村と森の間の、ちょっと隠れた場所にあり、人の声は聞こえるものの、外国人だからと珍しがって覗きに来るような奴はいなかった。用を足したあとにガキどもと遊んでいても、ごくごく自然な振る舞いで、くすくす笑いなどもなかったので、覗きを面白がるセンスというものがないのであろう。奇麗な心ではないか。さて、出来ることならこの村に何日も滞在して、毎日このトイレにかがんでいたかったのだがそうもいかん。お別れである。Papa Dereckによると、今日は一日がかりでIbokoまで到達しなければならないので早く出ると言う。ゆっくりしたい気持ちとは裏腹に、村人とトイレとは慌ただしい別れとなった。

 

 

 

 川を行き交う男たちが声を掛け合っている。これが聞けるのもあとわずかと思うと感慨深い。ここから先、ほどなく川の道は終わり、そこから先は徒歩になるので、Bosaleからピローグにもう一人漕ぎ手がついた。川の道の終点で、Papa Dereckが漕いで来た私のピローグをBosaleまで戻しておくためである。私をIbokoまで送り届けたあと、終点からBosaleに向かって叫ぶと、彼が迎えに来てくれるという寸法である。

 

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 やはり私は天国に迷い込んだのだ。朝は、蓮の花の咲き乱れる中をピローグで行く。村人たちがピローグで往来する。囁くように、歌うように掛け合う声が、谷間にこだまする。川岸には大抵、網や木の枝だけの釣り糸などが仕掛けてあって、かなりの確率で魚がかかっている。

 

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 ふと、なにもないと見えた場所にBosaleから乗り込んで来た男が舳先を向けてピローグを止めた。

 

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 このピローグとも、ここでお別れである。この瑞々しい風景とも、ここでお別れである。

 

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 Bosaleから乗り込んで来た男。無口で実直な印象の男であった。

 

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 ここからは、徒歩による「Nzela ya mpoto-mpoto (ぬかるみの道) 」・・・(つづく)

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20100306 Ekonda Lokole

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 右の男がPapa Dereckというガイドである。旅の準備とて特になく、Kwanga三つと魚の干物を一串袋に放り込んで「ほな行こか」かっこええ !!

 

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 賑々しく送り出してくれるのは、どこの村も変わらない。

 

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 漕ぎ出してすぐに川幅は狭くなり、ピローグの底を擦るほどになった。しかも、このような魚を捕る仕掛けがあちこちにあって、これを遡るのはPapa Dereckをしても難渋した。上の写真が仕掛けを下流から見たところ、下の写真は、その柵を振り返ったところである。

 

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 見事な工芸である。この仕掛けの事を「bisiko」という。どうやって魚が獲れるのかはわからない。このころになると、私も時折川に降りてピローグを押した。あるいは乗ったまま木をつかんでピローグを前に押し出した。二人で息を合わせていると連帯感が生まれる。口数は少ないが、なかなか気心の細やかな人である。

 

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 下流では水没していたnganda ya mbisiが、ここでは活きている。この色、「Nzela ya Mayi-Ndombe (黒い水の道) 」の深い森の色である。ちょうど昼時で、漁師たちが集まって煮炊きをしているところだった。通りかかると中から声がかかり、Papa Dereckとは親しい間柄らしく、我が家に帰るようにして彼らの輪の中に入った。獲れた魚をその場でさばき、手際よく煮付けにした。醤油のような万能ソースがあって、タマネギやニンニクを炒めた中に魚を入れ、炒め煮にしたところへそのソースで和え、おきまりのヤシ油で風味付けをしたあと、クワンガとともに食らうのである。「遠慮せんと食え。俺たちはコミュニストだからな。ここで獲れたものはみんなのものだ」そうか、共産主義者なら友達だ。遠慮なく頂くぜ。

 

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 こういう面構えの奴らである。さすが顔の利くガイドがついてると話が早い。食うだけ食ってテキパキと情報交換してルートを確認し、ちょっと談笑したら出発である。Papa Dereckが言うには、本当は、次の支流を左へ取った方がIbokoは近いのだが、そこから先の道がぬかるんで歩けないから、遠回りになるが右の川を行って途中から街道へ出る山道へ入れとアドバイスされたらしい。いや頼もしい限りである。右の川を行く。谷間の小川なので、様々な声や音が聞こえて来る。それらは森に谺して美しく響く。まさに、ここは音の天国である。Papa Dereckは、年相応に穏やかに、思慮深く舟を進めた。床に置いたペットボトルが倒れなかったほどだ。さすがに長老だけあって川に精通しているらしく、方々から声がかかる。行き交う舟どころか森の中から声がかかることもあった。訊けば、川の民は舟を出すときに大声で叫ぶそうである。彼らはどこにいても、声が聞こえて来る方角と声質や声の大きさで、いつ誰がどこから何 (誰) を乗せて出たかがわかるそうである。ところがこの声の大きさが半端でない。コンゴ人が腹から声を出す事はわかっていたが、川に響き渡るその声は、この地方の言葉Lokonda (Ekonda人の言葉) の持つ独特のイントネイションと相まって、全くもって歌に聞こえる。ちなみにNkile近辺に住むEtomba人たちの言葉「Lotomba」も、似たような響きをもっていた。Mayi-Ndombe湖畔で聞いた漁師の声を、今は間近に聞いている。水面や森の木々に反射して、その声は低く深く、明確な輪郭をもって響いて来るのである。しばらくその声に酔いしれていると、Bebongoというわりと大きな村に近づいた。遠くから、まるでフィールド・アスレティックで遊んでいるかのような子供たちの声が聞こえて来る。その様子が音声に残っているのでお聞きいただきたい。舟で村に着くときの音である。

 

 

 

 「ここで休む」・・・Papa Dereckは日陰小屋に入って横になった。村には大抵、四方に壁のない棕櫚葺きの屋根だけの共有の小屋がある。片方に丸太の骨組みに竹で簀子状にした床机が組まれていて、年長者はそこで休む。もう片方は丸太が並べられていて、子供や若者が座る。ときには年長者が若者にそこで訓示を足れたりもするのであろう。私は微妙な年齢だが客ということで床机台の方を勧められたが、この村が楽しそうに見えたので、子供たちに案内してもらった。師匠が休んでいる間に撮影したおもしろおかしい動画三連発いってみましょか・・・

 


 まずはBebongo村の入口から、日陰小屋に置いてある本物の通信用巨大ロコレである。かつてKinshasa近郊の村でこのようなものを見た事があるが、既にただの前世紀の遺物であった。しかしここでは違った。これはれっきとした通信用である。その音を聞いてもらいたい。

 

 

 

 通信用であるので強く叩くなよと村人に念を押されている。指の腹で軽く叩いているがこの深い響きである。Papa Dereckが村の長老と話している声が聞こえている。村人に、ロコレで何かしゃべってくれと頼んだら、Lokondaでなにか叩いて聞かせてくれた。これを付属の撥でやったら、たちまち方々の村から驚いて人々が駆けつける・・・いや、漕ぎつけるのだそうだ。だから強く叩くなよ。

 



 だんだん騒ぎが大きくなって、村中の人たちが集まりはじめた。そのなかにPygmeの人がいて村の人にからかわれていた。子供たちに訊くと、彼はこの村の人ではなく、近くの森に住んでいるが、時々この村に遊びに来るのだと言う。Pygmeの人たちは、森のなかで小さなグループで狩猟と採集で暮らしを立てているという知識はある。川で通商をしている彼らEkondaの人たちとは住み分けが出来ているとされているのだが、やはり様々な交流の形があるのだろう。彼がガッツ・ポーズを見せて「写真を撮れ」というのでカメラを構えたらものすごい騒ぎになった。余りに凄まじいのでビデオに切り替えて撮影したのがこの動画である。

 



 Papa Dereckも十分休息し、私も遊び尽くし、アフタヌーン・ティーの会も恙なく終わって村人たちも私から訊きたい事は訊き尽くしたので、集合写真を撮ってからお披良喜となった。最後まで別れを惜しんでくれた子供たちである。この様子には、さすがに目頭が熱くなった。

 

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 更に進む。しばらく行くと、またnganda ya mbisiの集落が現れる。

 

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 ここはちょっとした村になっていて、幾分生活のにおいがする。しかしコンゴ人のこの面構え、好きやなあ・・・ここでもちょっと共産主義的ブランチを頂いて更に進む。この村から次の村までは、たぶん地続きになっていると思われ、途切れなく森から人の声がしていた。結構にぎやかである。歌もよく聞こえる。次の村はBosaleという。その村に近づいて行くときの様子が録音に残っていた。

 

 

 

 Bosaleはピローグの村である。川沿いに伸びた細長い村である。初めに上がったところでは、男たちがピローグを作っていた。下はその際の動画である。非常に重い斧で奇麗に削り出していく。その捌きは強力にして精確、この腕っ節゜・・・ホレボレするねえ。

 



 いやあ、男ですわ。男のなかの男やねえ・・・そのポーズの意味が分からんけど・・・

 

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 そこからPapa Dereckはピローグで、私は村人や子供たちに囲まれて徒歩で村の中心部へ向かった。

 

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 ガイドを雇ってると有利な事がある。まずは、当然だが道に迷わずに済むこと。そして思わぬ効果が得られるのは、要らぬ出費を抑えられるという事である。このようなコンゴの奥地を旅していると、まっすぐにまかり通る事はまず出来ない。道筋に現れる村という村で必ず足止めを食らう。なぜかというと、ここは日本のように社会システムの完成した治安の良い国ではないので、自分たちの安全は自分たちで守らねばならず、部外者を気にするからである。近隣の村、近隣の部族の安定が、常に自分たちの安定に大きく影響する。だから、常に近隣との関係を良好に保ち、部外者を監視し、交通路の安全に気を遣っていなければならない。そこへ外国人の旅行者がのこのこ入っていく訳だから、村は蜂の巣をつついたような大騒ぎになってしまう。そこで部外者たる私は、彼らに礼儀を尽くして通行の許可を求め、安全に次の集落まで辿り着ける事をお願いする事になる。この手順を一つ一つやろうとすると、まず勝手が解らないので様子をうかがってるうちに要らぬ誤解を招いたり、足許を見て吹っかけられたりして余計な出費を強いられる。しかしガイドを雇っていれば、それが地元に精通し、地元から信頼されているガイドであればあるほど、しきたりや祝儀の相場を知っているし、要らぬ誘いを退けたり、礼を尽くすべきところと、退くべき頃合いを教えてくれたりするので、地元とのコミュニケーションが上手くいき、こちらも風習を学ぶ事が出来る。

 特に、退くべき頃合いをこちらから切り出す手段として最も有効なのは集合写真の撮影である。ガキどもの洗礼は、ガイドがいればスルーできる。そのまま彼の顔パスで長老宅かサロンへ案内され、公式な挨拶をし、村人たちとの交流が始まる。もちろん川の民の口コミネットワークによって、事前に我々の到着は熟知されているから、女たちは既に宴の酒肴は調えている。宴もたけなわになった頃合いを見計らって、Papa Dereckは私に「そろそろやれ」と目で合図する。私はおもむろにカメラを取り出して、「みんなで記念写真を撮ろう」と言う。すると、巨大スズメバチの巣を襲撃したほどの大騒動がおっ始゜まってしまうのだ。

 コンゴの年配の人や女性たちは、おしなべて写真に撮られることをいやがるが、撮られたい人は迫って来る。しかし集合写真となると、レンズの視野の関係で、ある程度離れてもらわないと全員は入らない。そこで「さがってさがって」と合図するのだが、例によって誰が誰の後ろにさがるのかを巡ってものすごい駆け引きが展開されて、みんなが写真に写るのは良いことだとしても、私は最前列でなきゃ嫌・・・というわがままが友人や大人にたしなめられて泣き出したり、せっかくの晴れの場を穢すなと本気で怒り出す大人がいたり、あちこちで殴り合いが始まったりで、たかが写真一枚で血みどろ砂だらけの乱闘が繰り広げられたりする。何度も隊列を組み直したあげくに全員がどうにか収まって何枚か撮影すると、こんどは「見せろ見せろ」の殺到で、かれらもデジタル・カメラというものを知っているから、その場で全員に見せないと、どうしても収まらない。ところがこれを見せたら、歓声が上がるばかりか、泣き出したり、孫が本当に魂を吸い取られたと信じて泣き崩れるばあさんがいたりで、もうここで説明しきれないくらい様々な人間ドラマがその数分間のうちに同時多発的に展開されるのです。

 その騒ぎがどうにか落ち着くと、なんとなく終わりだなという雰囲気になるので、その気を見計らってPapa Dereckが暇乞いをする・・・まあ道筋に現れる村ごとにこれをやる訳ですから、わずかな距離でも結構時間がかかる。謝礼の方も、彼にだいたいの懐具合を伝えておけば、一人で旅するよりもずっと安く上がることが解ったので非常に助かった。しかしこんなこともあった。「そろそろやれ」の合図で大盛り上がりしている最中に、村の要人が猟 (漁) から戻って来て、自分だけ疎外されたように感じて拗ねてしまった。しかしさすがはさすらいのPapa Dereckである。拗ねた彼にほんの一瞥をくれただけで、険悪な空気は解消されたのであった。このように、コンゴの奥地では、外国人が個人で自由に旅を続けることが難しい。詳しい地図もないから現地の人やガイドに頼らなければならず、通常のペース配分は全く通用しない。なぜそこまでして先を進むのか、それはその先に待っている目的が明確にあるからだ。

 

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 今夜は、ここBosaleで一泊することになった。お披良喜となったあと、公式行事を終えて一般の村人は家に戻り、村のインテリなどが残って村を案内してくれることになった。ここはBandundu州とEquateur州の境に近い村である。Ngange川北端流域唯一の学校があるとのことなので、このエリアで主要な村と思われる。上の写真は、学校とその運動場。案内してくれたのは数学の先生。

 村を歩いていて気がついたのだが、そういえば川にも、この村の道にも、ゴミというものを見かけたことがない。つまり、ゴミになるような工業製品は、ここまで上がっては来られないということだ。川幅が狭いので動力を装備した舟は入れない。従って自家発電設備も持てないし、ピローグで運べる量の物流しかない。あるのは川魚と野菜とクワンガと、それらを供するときに皿の代わりに使う大きな葉、これは包み紙にもなり、要らなくなればどこに捨てても土に帰る。だからゴミがない。衣服や日用雑貨もたまに見かけるが、それらはこれでもかこれでもかというくらい耐久消費財的に使われている。Nkileを出てから既に5日、旅は憂きものというが、とんでもない。Inongoで毎日Fifiの手料理で満腹し、川の旅を始めても手持ちの食料には全く手をつけていないばかりか、この黒い水を飲んで川魚と野菜とクワンガばかり食べて、日に日に元気になっていくのである。不思議である。粗食であるのに、こんなに毎日が軽くて力強い。余っ程゜この黒い水が体に合うとみえる。



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20100305 Mbuse-Mpoto

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 その村を出て先へ進む。村人の話によると、ここから半日で川の道は終わり、陸に上がって山を越えればIbokoはすぐだという。そんなに簡単に行く筈がない。Nkileの村人たちは、川の道を一日遡って、次の日に山を越えれば明日にはIbokoに着くと言っていたのにもう二日目だ・・・まあ俺がどんくさいからやねんけど。昨日送ってくれた若者たちと束の間の別れを惜しみ、またピローグで漕ぎ出す。自分が全行程のどの辺りにいるのかさえわからないのが不安である。川行く人々に訊いても「明日には着くだろう」という曖昧な返事しか帰って来ない。まあいい。時間はたっぷりある・・・たぶん。行けるとこまで行って・・・どうなるの ?? いらんことは考えんことにしよう。前へ進む。日本から持参した荷扱い用のゴム引き軍手がとても役に立つ。しかし掌は腫れぼったくなっている。それでも慣れというものは恐ろしいもので、当初バチャバチャ掻いとったkoluka kayiさばきもだいぶ円滑になった。仙人のようにすーーーっと水面を走る。

 

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 やはりどこを通りかかっても既に私の通過は知られているようだ。ガキどもが川を通せんぼして待ち構えていて、必ず村へ上陸させられる。そしてガキどもの洗礼を通過するとサロンへご案内となり、ひとくさり質問攻めに会ったあと酒肴のお接待があって、村人総出の写真撮影大会のあと、賑々しく送り出される。しかも出される酒は、どれもアクが強くてきつい、たぶん現地の芋焼酎だから、へろへろの状態のまま漕ぎ出さざるを得なくなる。川を行く人に「あんまり酔っぱらっとったら着かへんぞ」とからかわれ、ままよとばかり急ぐのだが、勢い込むとすぐに失速して、川縁の木の間で休む事になる。何度目かのお接待のあと木陰で休んでいると、「この次の村でガイドを雇った方がいい。そこから先はお前には無理だ」と声をかけていく老人があった。とりあえず次の村まで気を取り直して漕ぎ出したが、やがて川幅が狭くなり、水面下に隠れた木の枝や幹に底を取られ、舳先をまっすぐ立てるのも難しくなった。難渋していると、川で魚を捕っていた若者が「ちょっと難しいよ」と言って乗り込んで来た。ありがたかった。心からの感謝を述べると「こんなところまで来るなんて、いい度胸してるよ。なにしに来たんだ ?? 」と訊くので、「俺はミュージシャンで、Lita BemboからMayi-Ndombeを遡って行けと言われて来たんだ」彼はあきれた顔をして、「Lita BemboはNkutuの産まれだ。さっき通って来ただろ ?? 」それは知らなかった。村人も教えてくれなかった。そうだったのか・・・Lita Bemboが作ったStukasの初期の名曲に「Ekonda Sakade (Ekonda人の踊り) 」というのがあるが、とうとうここまでやって来たのだ。感慨深い・・・どこからか太鼓の音が聞こえて来た。「Mbuse Mpotoだ」と若者は言った。

 

 

 

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 若者は友達のピローグを借りて漁に戻って行った。十分お礼をしてお別れした。村に上がってIbokoへ行きたいと相談したら、とある初老の男を紹介された。名をPapa Dereckといい、穏やかな表情をたたえた大柄な男だった。「心配いらん。Ibokoはすぐそこだ」・・・まあコンゴ人の「すぐ」は初から信用してないけど、別に急ぐ旅でもないからええよ。一日半舟を漕いでいる間に5回ほどお接待を受けたので、食料は全く減らなかったが、体力がかなり減ったので、今日はこの村で休む事にした。村の休憩所でごろっと横になったら昼寝をしてしもた。2時間ほど寝て、周りでガキどもがくすくす笑ってるので目が覚めた。ガキに村を案内してもらう。なかでも面白かったのが上の写真である。川で獲れた小魚を開いて塩をして串に刺して、それを筏にして天日に干している。晴れた日なら一日でからからに乾くので、それを下のようにして燻して干物にする。棕櫚の葉にくるまれているものは、彼らの主食であるキャッサバ芋の粉を餅にして醗酵させ、日持ちさせるためにくるんで燻したKwangaという携帯食料である。これはおそらくコンゴのどこにでも存在する。重く粘りが強いので、食い過ぎると便秘になる。川で生計を立てる漁師の毎日の弁当である。

 Mbuse-Mpotoとは「ぬかるみの果てる場所」というほどの意味である。流れを遡上している私にとっては、逆にぬかるみの始まるところというべきか。「ぬかるみ」をリンガラ語で「mpoto」といい、泥沼の事を「mpoto-mpoto」という。転じて、物事が膠着して進まない事や、病気のときにfufuを水で解いておかゆのようにしたものもmpoto-mpotoという。また「mpoto」には、なぜか「先進国」という意味もあって、村人たちは村の名をしゃれて「先進国の国境」だなどとほざいておるので、私はこの村を「京終」と呼ぶ事にしよう。

 

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2011年01月10日

20100304 Ebandeli ya Mobembo

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 リンガラ語で舟を漕ぐ事を「koluka kayi」という。「koluka」は、普通は「捜す」という意味なのだが、「掻く」仕草を指して使われていたのを聞いた事がある。「kayi」の意味が判然としないのだが、日本語の「櫂」と音が同じで面白い。櫂で水面を掻いて進むからだろうか。「案ずるより産むが易し」・・・自暴自棄の破れかぶれの舟出であったが、なんとかなるもんよ。朝、心を落ち着けるために水辺へ出てみた。相変わらず黒い。何も答えてはくれなかった・・・当たり前か。ガキが遊んでいる。

 

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 あまり大騒ぎになっては出発が遅れるからというので、昨日の若いのの計らいで慌ただしくお見送りとなった。櫂を漕ぐ。私は初め、日本の渡し船のようにオールを舟尾に出して、櫓を操るようにコネコネやってみた。しかし、日本のもののように、櫓としても櫂としてもその形になっていないので、舟が「いやんいやん」するだけで危なく落ちるところだった。それを岸で見ていた見送りの人たちが笑い転げたのは言うまでもない。しかもその先頭で腹を抱えて苦しんでいたのは、他でもない長老だった。楽しんどるな。「そうじゃない、こうするんだ」と若者が言って、ばしゃばしゃと水を掻く動作をした。そんなもんわかっとるわいや。俺はな、痩せても枯れても日本男児の端くれなんぢゃ。そんなはしたないマネができるか、頭を使えちゅうんぢゃ頭を・・・「そうぢゃないって、舳先を川上に向けろ」うるさいな、この野蛮な舟に慣れ親しむほど俺は下卑てへんのや。こんなもんぐらい・・・

 

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 結局このピローグを操るには、彼らの言う通りにするのが一番良いと悟って川の真ん中へ漕ぎ出した。川を遡るといっても、水流はそんなに早くない。むしろ快適で風が心地よい。どんなときにでも、気持ちさえ良ければ呑気になれる自分の性格は、本当に親から授かった宝物だ。ところどころに、このような蓮が浮いている。中には花を咲かせているものもある。ここは天国か・・・川とはいっても、ここらはまだ幅も広く、ちっぽけなピローグで漕ぎ出すといかにも頼りない。川の真ん中でさえどこかわからない。まっすぐ遡上しているつもりが、どんどん岸へ引き寄せられたりする。「おーい、こっちだ」と、後ろから声がかかる。手を振って舳先を向ける先を指してくれる。進むべき筋に戻ってひたすら漕ぐ。しかしその脇を猛スピードで追い抜いていくやつがいる。「おい、まだまだやぞ (^^) 」・・・この川は流域住民の生活の道である。陽がのぼるにつれて、私を追い抜いていくやつも、川上からすれ違って来るやつも増えた。川の合流点にさしかかると、すかさず「左ヘ行け」と、どこからか声がかかる。そうなのだ。彼らは私がNgange川を遡ってIbokoへ行く事を知っている。つまり、私がNkileに着いて旅の目的を語った途端、それはこの川の口コミネットワークを通じて、既に流域の村々、全ての漁師と川の行商人の知るところになってしまっていたのである。

 

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 逆にいえば、これほど気の楽な事はない。たった一人で地図もなしにいくのではない。地図はないがたくさんの人が私を見ていて、今どこそこを通ったとか、きっと噂しあっているに違いない。そして、川の道には、このようなピローグ商店がたくさん寄って来る。魚屋・果物屋・八百屋・クワンガ屋・雑貨屋・・・そしてなかには総菜屋ともいうべき、川の魚や村の野菜を使って定食を作って売るおばちゃんや、買い込んだ野菜や魚を目の前で調理してくれる料理屋までいるのだ。日本のコンビニなんかよりずっと便利で新鮮で安全だ。また、この写真のように、慣れない私を見かねてか、次の村まで行く奴が、ちょい乗りして漕いでくれたりもする。




 この動画は、雨季で増水した川の様子である。乾季になると水位が下がって、その分魚が採りやすくなる。漁師たちは、乾季にはこのような「出作りの村」へ滞在して漁に専念する。いまは村は水没して、小屋の屋根だけが水面から顔をのぞかせている。こういう小屋の事を「Nganda ya mbisi (魚の家) 」という。「ここらは難しいから、俺がやってやるよ」と言ってコンビニの客が乗り込んで来て小屋や立ち木の間をすり抜けてくれた。私は舳先にへたり込んで、移り行く川の風景を楽しむ事が出来たりもした。

 

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 いやほんまに、ここは天国か ??

 

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 夕刻になってその若者の家のある非常に小さな村に着いた。今夜はここで一泊・・・彼の家で酒肴を賜り、そのまま頽れるように眠ってしまった。


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2011年01月09日

20100303 Nkile

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 船は、湖の北岸の港に何度か寄港したあと、朝のうちにNkileという終着の港に着いた。途中の航路は、かなり入り組んだ木々の間をすり抜けたり、船底が何かを引きずったような轟音や、時には衝撃を感じたりして、その都度乗客から悲鳴が上がり、拍手に変わったりして恐奮の連続だった。Inongoで見かけた、4日がかりでKinshasaから辿り着いた貨客船と似たような船とすれ違ったりもした。コンゴの国内交通は悲惨を極める。旅の模様は、以下の写真ページにありますのでご参照ください。

 

 http://web.mac.com/jakiswede/iWeb/3e_mobembo/Bandundu.html

 

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 Nkileの港に着くと、たちまちのうちに子供たちに取り囲まれた。身動きが取れないほどだ。この表情、たぶん大半は外国人、特に異人種、なかでもアジア人は見た事がないのだろう。恐怖・警戒・好奇心・歓迎の気持ちが、実に複雑に入り交じり、交錯している事が察せられる。一言リンガラ語で挨拶しただけで、蜂の巣をつついたような騒ぎになるものの、しばらくすると静まり返り、また取り囲まれる。一人に声をかけようとすると、泣きながら逃げ出す。それを見て笑う者あり、取り乱す者あり。しかし次の瞬間、また静まり返り、取り囲まれる。ここは正念場である。20年前のKasai州の旅でも、似たような事を経験した。スタックしたトラックを見捨てて、真っ赤なぬかるみの道を雨に打たれながら三日三晩歩き通し、ようやく辿り着いた村での事だ。まず子供が出てくる。大人たちは遠巻きに見ている。子供たちとのコミュニケーションが上手くいくと、子供が大人を連れて来る。わりとこのパターンは経験がある。

 

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 案の定ここでも同じように展開した。私からきっかけを出す。それはなんでも良いが、物やカネは御法度だ。リンガラ語で冗談を言うのも良い・・・無理か・・・緊張のほぐれた輪が徐々に広がって行くだろう。静まり返り、取り囲まれるを繰り返し、その輪が遠巻きに見ている大人たちのところまで行くと、やがて村の酋長のところへ伝令が走る。そして、酋長の居るところへ案内されるか、酋長が御自らお出ましになるか、どちらかの展開になる。そこでポイントを稼ぐには、酋長への敬意を態度できちんと表す事である。酋長の家や、村のサロン・・・コンゴでは集会所のように共同で使う建物をこう呼ぶ・・・には、多くの場合白い砂が置いてある。白い砂は黒い土地や赤い土地にあっては貴重な物である。これをおでこと両方の頬に少しつけてそこに入る。そして目上の人と握手するときは、握手する右手に左手を添えるのが礼儀である。これを知っておくと、コンゴでは、特に田舎ではぐっと株が上がる。白人の冒険家まがいの輩がやらかす最も危険な間違いは、アフリカ人を野蛮人として上から見下し、必要な物だけを手っ取り早く手に入れて先を急ぐ態度である。「郷に入っては郷に従え」・・・郷に従うには郷を知る必要がある。郷を知るには心を彼らの下に置く必要がある。なぜなら彼らの方が私より遥かに良く知っているからだ。だから、彼らの子供たちと心を通わせて、子供たちの言う通りにした方が良い。子供たちを退かせてはいけない。その場で立ち止まって、子供たちと徐々に心を通わせていると、その様子を大人たちが見ている。そして、かならず子供たちが手引きしてくれる。そうして村のサロンに案内され、村の長老と思しき人に面通しを許された。一人で旅を続けるには、複雑で長い手続きを踏む必要がある。しかし、連絡船がInongoへ向けて出航する前に、進退を決めなければならないこともまた事実である。私は単刀直入に事情を話し、その行程が可能な物なのかを長老に問うた。「行けるやろ」次の瞬間、左の男が立って出て行ったが、それが私のピローグを用意してくれるためだったとは、そのときは知る由もなかった。

 

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 後戻りは許されなくなった。私が問うた途端、いやもしかしたら問う前から、ひょっとしたら私がここに着く前から私の到着を彼らは予見しており、全ての段取りが整えられていたとさえ思われるほどの手際の良さだった。しかし肝心の私の不安、すなわちそれは大丈夫なのかという問いには、誰も答えてはくれなかった。私は既に、ピローグでここから旅立つという事で、Nkileの全ての村人に認知されてしまったのである。そのとき私は、川を往来する舟のタクシーのようなものを想像していた。そこで左の男が帰って来たときに「川の終点まではいくらぐらいかかる ?? 」と訊ねた。男はきょとんとして「お前はピローグを買うのだ」と言った。「 ??? 」・・・つまりこういうことだった。私が、私自身の力で、ピローグを漕いで川の終点まで遡れというのだ。これには参った。ピローグ・タクシーでも何日かかるか、距離すらわからないのに、自分で漕いで上がるだと・・・ ??? しかもそのあと徒歩で山越え・・・お先真っ暗になってしまった。あかん、帰ろ。俺には絶対無理や。その表情を察したのか、その場に居たみんなが笑い出した。「行ける行ける」「だって、日本は海に囲まれてるやんか、行けへんはずないよな」Inongoのホテルで豪語した言葉がそのまま返って来てしもた。「ごめん、一晩考えさせて」・・・命知らずの旅とはいえ余りの展開だったので、その夜はNkileで一泊し熟慮してから進退を決める事にした。「考えたかて一緒や。お前は行くんだ。」こういうときは、差し当たって必要な実務的な事から片付ける事にしている。そうすれば平常心を取り戻せる事が多いし、進むと決まってから準備したのでは間に合わん事も多いからだ。

 

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 まずは水の確保である。これをInongoにいるうちにやっとくべきだったと後悔したが、後の祭りである。ここから先はミネラル・ウォーターなどはない。全て川の水か、果物で水分を補給しなければならない。そのためにフィルターを持参していたが、まだ一度も使っていなかったのだ。水を求めると、子供が一人、さっとバケツに川の水をくんで来た。Mayi-Ndombeに注ぐ水だから黒いのは当然だ。それを右のフィルターのボトルに採っては、口のフィルターを通して左のポット・ボトルに入れていく。この通りフィルターで濾しても色はとれない。その作業が珍しい・・・当たり前だ、俺も初めてやるんやから・・・ので、子供たちが更ににじり寄って来て、ますます身動きが取れなくなる。「ごめん、ちょっと風を通してくれないか」こんな風に言うと、イヤミがなくて良い。しかししばらくすると、またにじり寄って来る。「私は日本人で、日本の水を飲んで育ったから、ここの水を飲むのは初めてだ」と言いながら、ままよとばかり、そのペット・ボトルの水をぐっと飲んだ。拍手がわき起こる。しかも、この水、非常にすっきりしていて旨いのである。なんか、頭がすーっとさわやかにリフレッシュされるような、体にすぐにしみ込んでいくような水だった。自分の体が「この水は大丈夫」と言った。事実、私はEquateur州との州境の分水嶺を越えるまでこの水を飲み続けたが、腹具合一つ悪くならなかった。私の様子を見ていた長老が、「行けるやろ」と言った。「行けるかもしれん」と思った。そして、先の男が、私のピローグを見せると言って、私を船着き場まで導いた。「シロウトさんのために、なるべく底の広いやつを捜して来てやったぞ。」

 

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2011年01月08日

20100302 Isongo


 IsongoはMayi-Ndombe湖の北岸の主要な港である。北へすぐのところにBoliaという村があって、そこから北へは自動車の通れるメイン・ルートが始まっている。先述した通り、私の当初の計画では、ここからヒッチ・ハイクで北方のIbokoを経てTumba湖畔の街Bikoroへ至り、そこからEquateur州の州都Mbandakaを目指す筈だった。Emmanuelのもたらした情報では、この先の道で倒木があって道路が封鎖されているという。昨夜Isongoに到着直後から、私は情報収集に走った。連絡船には、何人か私と道を同じくする旅人が何人かあって、彼らもその情報を得ていたが、東の川沿いにピローグで遡上することは困難と危険を極めるというのが、彼らの一致した見解だった。Isongoはただの港であって小さな村しかない。もちろん電気はないので、真っ暗闇に降り立って、彼らの助けを借りながら村の事情通を捜しに行く。連絡船は今夜はここで一泊するそうだ。まったくいつも驚かされるのだが、なぜ彼らはこの暗闇のなかで、鼻をつままれてもわからないほどの暗闇のなかで、ああもさっさと歩けるのだろうか・・・持参のトーチを頭に巻いて進む。これがなければ、誰かに手を引いてもらわないと、というか、肩からぶら下げてもらわないと、こんな山道とても進めるものではない。Isongoの集落に出た。小さな漁村である。嵐があった事は伝わっていたが、道が通れるのかどうか、確たる情報を持っている者には出会わなかった。旅人たちと話し合った。Boliaまで今夜中に辿り着ければ、トラックがあるかどうかは確かめられる。なければ夜通しかけてでも戻ってくれば連絡船の出港に間に合う。辿り着けなければ一週間待ちぼうけだ。しかしこの真夜闇にBoliaまでの徒歩行は、夜目の利かない私には無理。私が同行すれば足手まといになる。話はついた。彼らはそのままBoliaへ発ってゆき、私は港に戻った。

 

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 朝になっても彼らが戻って来なかったところをみると、Boliaからの足が確保されたのだろう。私はピローグの道に賭けた。しかし旅のイメージがここで大きく変わった事は事実だ。Boiliaからの陸路が約束されていれば、Michelinの地図には黄色い太線で書いてあるから、距離からしてIbokoまでは一日あれば十分の筈だ。しかしピローグの道は全く予測が出来ない。Ngangeという川沿いに源流まで遡上し、そこから徒歩で山越えすればIbokoはすぐそこだと・・・地図にも載っていないし、彼らの話を信じるしかない。しかも、その「彼ら」でさえ、訊く人によって微妙に話は異なるのだ。75%以上疑いの確率を持った半信半疑状態で船の上で出航を待つ・・・またしてもこの小さな港で乗客同士の優先順位や荷物の置き場の事で諍いが始まった。昼を過ぎても終わらない。それを見ながら、そのピローグの道というのも怪しいものだと思いはじめた。

 結局、Isongoを出航したのは、その日の宵の口だった。命知らずの旅に踏み出しておきながら、計画が一つ崩れると途端に不安でたまらなくなる自分が滑稽だった。相変わらずすし詰めの甲板で闇に閉ざされながら気を取り直してみたり、不安のどん底に突き落とされてみたりしつつ、いつしか眠りに落ちてしまった。ふと目が覚めたのは積まれてあった豚が逃げ出して客がパニックに陥ったときだ。キャッサバ芋の束が頭に落ちて来て、私は不定形な積み荷の間に挟まれてしまった。這い上がろうとしたとき巨大な女性の尻で顔を塞がれた。客が争っている。暗闇なので全く様子が分からない。トーチを捜したものの、荷物がどこヘ行ったかわからない。ぬかった。乗客と仲良くなれたので、ちょっと気が緩んでいた。彼らは集団で豹変するのだ。

 騒ぎが一段落した頃には、私は腹を下にしたU字型に伸びていた。背中には野菜かなにかの束が乗っていて、その上に人がいるようだ。床は豚の尿や蒸し暑さで臭いはじめた小麦粉が大量にこぼれていた。いくら私がお人好しの日本人でも、さすがに我慢の限界を超えている。しかし、いくら声をかけても、彼らはエロエロ・・・失礼、イロイロ場所を変えたりしてくれはするものの、背中に被さった重圧は変わらなかった。仕方がない。俺は何をしてるんだろう。ここからどうなるんだろう・・・また弱気な自分が目を覚まし、くじけかけた勇気に追い討ちをかける。この闇、いっこうに進まぬ行程、気は良いが信じきれぬ人々、油断ならない自然・・・眠れる筈がない。

 ポケットにmp3プレイヤーがあったので、また日本語の歌に救いを求めた。このときほど彼らの声に救われた事はない。それは、あまりにも今の私の身を閉じ込めている現実とは、かけ離れた音世界だった。大鉈を振るいながらでないと進めない山道を這い上がりながら、細かい針仕事をしようとしているようなものだった。しかしそれは救いであった。汚物の悪臭と腐臭の船底で聴く優雅で感傷的なボサノバは、頭が斜めに引っ張られて、どこか遠くへ飛ばされて行くような異常な感覚をもたらした。

 アルバムが終わる頃、空が白みはじめた。右舷の山が朝焼けに覆われるのが垣間見えた。寝穢く眠りこけている上の奴が寝返りを打った瞬間、私は呪縛を脱する事が出来た。なんや、こいつが乗っかっとっただけやんけ。荷物の山からはい出した私を見つけて、何人かのコンゴ人が驚いた顔をした。あんなけ大声だしとんのに、やっぱり生活感覚の焦点の合わせどころが、こいつらとは全然違うんや。


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2011年01月07日

20100301 Ebale Mbonge

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 昨夜の雨の予感は的中し、帰ってガキどもに取り囲まれてる間に生暖かい突風が吹きはじめ、やがて雷を伴った激しい雨が襲った。窓やドアもつっかい棒をして体で支えなければならないほどの横殴りの雨で、建物も揺れるばかりのものすごい嵐となり、一時間ほどでいったん収まったものの、激しい雷雨とともに土砂降りの雨は朝まで続いた。このような突然の荒天の事を、リンガラ語で「mbonge」という。mbongeは凶運をもたらす兆候であるが、それを乗り越えた者には無敵の強運がもたらされるという。夜が明けると、雨は日本の梅雨のようなだらだら雨となり、連絡船は出港を見合わせた。携帯電話も通じず、ついてくれていたガキに船が出そうなら知らせてくれと頼んでベッドに寝転がって時を待つ。この「待つ」ということにどれだけ馴れ合う事が出来るかが、コンゴ旅行を楽しくできるかどうかのカギである。この時間を利用して、私は旅行記の欠けていた部分を書き足した。

 

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 ガキが呼びに来て、慌ただしくEmmanuelとともに船着き場へ向かったのは昼過ぎだった。案の定そこは大混乱に陥っていて、誰が切符を買ったのか、誰が金を払ってないのか、全くわからないごちゃ混ぜの混沌のなかを、連絡船の職員やポリスやDGMが怒鳴り散らしながら群衆を別けようとしていた。しかし出来るだけ安全な場所に荷物を置こうとする客が抜け駆けし、あるいはせっかく奇麗に積み込んだ荷物を全部降ろされたことに激怒し、一方で客が排除された端から別の客が居座るというイタチごっこが数時間繰り返され、結局出航できたのは夕方近くだった。コンゴではいつもこうである。改札口を作ってロープでも張れば済む事を、それが出来ないのである。

 

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 この船旅は嵐に祝福された実に感慨深いものになった。積み込まれた「荷物」は商品や雑貨ばかりでなく、農産物や生鮮食品、更には豚や羊や鶏などという家畜までもが積み込まれた。この国では、動けるものは後回しである。硬い箱ものを積んで、その上に小麦粉の粉や野菜などの不定形なものを積んで、家畜など人語を解さないものを積んで、最後に人が乗る。そうしないと、とっさのときに修正できないからだ。人は、たいてい荷物の上に乗るのである。座席など、ない。幸いにして、私は乗客のなかで唯一の外国人であったので、渋い船長の特別な計らいで船縁に積まれたビール・ケースの上に小麦粉の粉を乗せてその上に陣取る事が出来た。しかしそれは昼過ぎの話である。切符を買ったや買わんや、荷物の重さがオーバーしてるとかしてないとか、その料金の計算が不当だとか正当だとか、そのたんびに積んだ荷物を降ろしたり、降ろした荷物をまた積んだり、客が乗ったり降りたり、まあ大変なこっちゃと思うてそのやり取りを横目で見ていたのだが、やがて私の乗っているビールケースは誰のものかという話になり、持ち主がそのとき待ちくたびれて街へ用足しに出ていたのを、誰が見ていて誰が見ていなかったでもめた結果、そのケースが降ろされる事になって私の快適な座席は消えた。それから更に混乱があって、数時間後に出航したときには、私は伸び上がった首がようやくあたりを見渡せるような、泳ぐ人の体が斜めに伸びた姿勢で宙ぶらりんになっていた。あまりの混沌と苦痛、滑稽さと泥沼の一時間ほどが過ぎた頃、ようやく私は手を伸ばしてmp3プレイヤーにヘッドホンを刺す余裕を得た。この極限状態のなかで聴く日本語のボサノバは、また格別であった。

 

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 http://www.myspace.com/uribossa

 

 やがて不適当に空いた部分が押し詰められて余裕ができ、私もひと息つける体勢になった。そのころには荷物や場所取り合戦に勝った者と負けた者のいがみ合いもなんとか和らいで、呉越同舟でとにかく行けるところまで行こうという気運になっていた。そんなとき、乗組員の一人が踊り出して、みんなの気持ちを和らげるのに一役買った。私も相変わらず荷物に挟まれた体勢ではあったが、無理からに旅を楽しもうとしていた。船そのものは出航してから実に快調に航行し、暗くなってからIsongoの港に着いた。



posted by jakiswede at 23:47| Comment(0) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20100228 Mopepe Ndombe

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 明日は旅立ちである。Inongoへ着いてから結構精力的に動き回ったので、今日は一日静養する。今日は日曜日である。LMCの信者軍団がホテルに押し寄せる前にMission Catholiqueの早朝ミサへ逃れる。LMCの信者は貧しい身なりの者が多く、Inongoの近隣からやって来ていると思しい。遠くから来ている者もホテルなどには泊まらずに、森の木陰や商店や空き家の軒下で夜を明かしているようだ。常に人を伺うような目つきでこちらを見るので、あまり良い気はしない。InongoのMission Catholiqueは、名をSt. Albertといい、1940年代に建てられたという大きな教会である (データによると創建は1953年とある) 。骨組みは木造であり、かつて香炉を吊り下げて振ったと思われる大きな鈎が下がっている。

 

 http://evecheinongo.blogspot.com/

 

 コンゴのカトリック教会のミサは、どこも大体同じようなメニューであるが、1989年に初めて見たときには感動した。なにより信者自身が歌い踊るアフリカ的ゴスペルの音の渦が、天井の高いカテドラルに反響して、独特の神聖な雰囲気を醸し出すからである。楽器といって特になく、だいたいどこもキーを合わせるための簡単なオルガンと、現地の伝統的なコンガ型の太鼓が数本あるのみ。信者自身の声だけで十分すぎるのである。日曜日の朝からミサに集まる人たちは、誰もが温和な表情をしている。コンゴの田舎では、教会を見つけたら早朝ミサに参加して、友達を作るのも安全を考える上では有効な手段である。ただし、こわいもの見たいひとには不満が残るかもしれない。過激な人はどこ行ったんかわからん位飛んでしまっているが、保守的な人は頭痛がするくらい保守的であるからだ。

 

 

 

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 さて、ミサも終わり平和な気分のまま敷地内を散策して、日曜日で休んでいる市場の脇で遊んでいるガキどもに冷やかされ、「中国人がやってる雑貨屋があるぞ」と言うので連れて行ってもらい、ひさびさにアジアティックな顔立ちの奥さんと漢字で筆談して珍しがられ、奥地への旅に必要な缶詰や飲料水などを買い込んでホテルへ戻った。LMCの主の謁見もランチ・タイムで一休みと見え、意外にあっさりと中に入る事が出来た。裏の調理場でFifiが最後の飯を作ってくれている。毎日うまい飯を食わせてくれた彼女との別れにちょっと感傷的になりながらも、ここで隙を見せるとカネをせびられて嫌な思いをするだけなので、そこはぐっとこらえて仏頂面を通す。

 このホテルについて書いておこう。Hotel HydroはInongoの街で実質的に唯一の宿泊施設である。2010年2月現在、素泊まりで一泊USD15であった。Mission Catholiqueにも宿泊できるというが、僧坊のようなものなので、信者や関係者が滞在しているときは部屋が塞がる可能性がある。宿泊できれば二食付きでUSD5だというので、これは破格に安い。ただ、小さな街であり収容人員が限られているので、船や飛行機が遅れた場合、この二つをもってしても収容しきれない事はままあるようだ。両者ともに自家発電設備をもっている。Inongoの街でほかに設備があるのは市長の家と隣接するDGMの事務所だけである。どこも夕方の18時頃から21時頃まで稼働する。夕方になって発電機が動きはじめる頃には、宿泊客たちは出先から戻って来て、部屋で携帯電話の充電をしたりパソコンで仕事をしたりしている。21時が近づくと慌ただしくなり、部屋付きのガキに「俺がいいと言うまで発電機を止めるな」などと無理なことを叫んどるおっさんもいる。そしてわずかにエンジンの音が高まったかと思うと、突然電気は切れるのである。「そのわずかな兆候を聞き逃さずに作りかけの書類を保存するのがワザやねん」と、誇らしげに語るビジネスマンが面白かった。電気が切れると、懐中電灯やランプで明かりをとる。私は大学ノートに旅行記をつけていたので石油ランプで事足りていたが、ほかのハイテクな宿泊客は電気が切れるとする事がなくなり、中庭に出て来て酒盛りを始める。ホテルの主も暇なので、大抵これに参加する。彼は私より5つばかり歳上の、温和な感じの男であった。別に勘ぐったりねだったりする事もなく、ごく普通に客あしらいをする人であった。日本人旅行者に対しては、コンゴではこれは珍しい部類である。

 従業員は、ほとんどが10代のガキどもである。先述したように、ホテルの建物の軒下で夜を明かしていて、客が注文した料理を盛りつけた余りや食べ残しを食べ、ホテルの道具を使って客室を掃除したり、客の用事を請け負っては小遣いをもらって糊口を凌いでいるので、日本人が考える従業員とはいいがたい。このような光景も、日本人なら初めは哀れみを感じるものだが、こういう社会のシステムになっているとわかると、見慣れて行くものである。確かに劣悪な環境だが、本人らはさほど苦にしている様子はない。私の部屋に最初についた少年は10代前半で、気も利かないしおねだりがひどかったので遠ざけていると、次の日から担当が代って、もう少ししっかりしたのがついた。最初よく物をねだったり、部屋に入って来て、私の珍しい物を手に取ったりしていたが、Emmanuelに諭されて控えるようになり、逆に他の者のおねだりをたしなめるようになった。ほかに数人の少年が各部屋の客についており、そのなかに初日に伝統音楽を演奏してくれたなかの踊り手が一人いた。その上に、金勘定の出来る年長のグループが数人いて、彼らは金庫や冷蔵庫の鍵を持っている。ホテル業務のほかにやっているバーへ飲みに来る客の相手をして小遣いを得るか、売り上げからマージンを受け取っているものと思われる。ほぼ実質的に彼らがホテルを切り盛りしていて、彼らに訊けば大抵の事はわかる。バーはInongo唯一のもので、電気のついている間だけ大音響で音楽をかけて、前庭のテラスやサロンで営業している。客室の鍵と宿泊料金は主人が管理している。先述した通り、Inongoにはレストランというものがないので、料理人を雇う必要がある。とはいっても、彼女らもガキどもと同じように、繁くホテルに出入りしているので、捜す手間はかからない。彼女らのほとんどは近所の主婦である。

 


 昼寝のあと荷造りをして、同じく手の空いた彼らとともに裏通りを散策し、鶏の駆け回る路地から路地へ、彼らの友達の家々を訪ねて回るのは面白い事である。そのあとふたたびMission Catholiqueに出る。敷地内には湖畔にベンチもあって、寛ぐには最適の環境である。風がたくさんの音楽が運んで来てくれる。それは漁師の唱える言葉遊びであったり、子供たちの遊びがそのまま歌と躍りであったり、近所の家で母親たちが共同で木の実を搗いている音に歌が絡んでいたりするものだった。ぶらぶら歩いている人たちも、こちらから会釈すれば笑顔で返してくれる普通の人たちだ。身なりのきちんとした人を選べば、相談にもきちんと乗ってもらえる。カトリック教会の人やビジネスマンたちとは、ごく普通にソフィスティケイトされた話が出来る。そうでない人たちは、たいてい金品をねだって来るのが目的だから、頑として受け付けなければそんなにしつこくはない。ポリスやDGM職員は要注意であるが、ここInongoに限定すれば、さほど悪質な者はいないように思われた。たぶん街が豊かで平和であるからだろう。DGMの職員は、週に二回、水曜日と土曜日に飛行機があるとき以外は仕事もなく、ただの人である。基本的に男は何もせずにぶらぶらしていて、女がよく働く。公務員も仕事がないので、漁に出たり畑に行ったりしている。女は家事育児の傍ら道ばたで商売をしたり、畑との間を夫の倍の頻度で往復したり、合間に隣の赤ん坊の世話をしたりと、女同士の強いネットワークで助け合いながらたくましく活きている様子がうかがえた。自動車は、多分市長とDGMとMission Catholiqueが1台ずつ持っているので全てである。単車は何台か見かけた。しかし大半の「車」は自転車である。中国製の頑丈そうに見えるダイヤモンド・フレームの実用車で、トップチューブがダブル・フレームになっている。しかし見かけ倒しとはこの自転車のためにあるような言葉で、部品の精度は粗悪で調整も行き届かぬため、ハブはがたがた、ペダルはシャフトだけ、チェーンもだらだらでブレーキのついてないものが大半である。ゆっくり走ってもまっすぐ進めない。工具さえあれば全て調整してやるところだが、そんな事したら旅立てなくなるので笑って見ていた。

 Emmanuelが捜しに来て、行動をともにする。こんなところでなにもせずに湖からの風に吹かれているより、もっと面白いところへ連れて行ってやると言われたが、実質的に今日がInongo最後の日だから好きにさせてくれと言って、私は頑としてそこを動かなかった。彼が持って来た旅程の最新情報によると、数日前に湖北方面で暴風雨があり、IsongoからIbokoへ抜けるメイン・ルートが倒木で通れなくなったという。しかし幸い明日の連絡船は、Isongoから少し東から湖に流れ込むNgangeという川を遡ってNkileという村まで行く便なのだそうだ。私は当初、IsongoからIbokoまでヒッチ・ハイクにする予定だったが、通れなければ仕方がない。Nkileからピローグで川を遡ると、Ibokoの東の山向こうの谷あいの村まで出られるので、そこから徒歩で山越えするが良いと、なんとも心もとないことを言う。どうにも気が進まなかったが、他に選択肢もなさそうだし、Isongoでさらに情報を集め、あるいはNkileまで行ってみて、そのピローグでの行程というものが、果たして実現可能なものかを見極めた上で、無理そうなら諦めて戻って来る事にした。そうなれば、この旅そのものの存在意義が半分以上失われる事にはなるが・・・そうなったらKinshasaへいったん戻って飛行機でMbandakaを目指すか・・・いずれにせよ交通事情の悪い国なので、予定通りにいかない場合は、撤退する勇気も必要である。・・・しかし、Emmanuelがこの情報を持って来たという事は、Inongoの村人たちはほぼ全員これを知っているという事であって、つまりホテルのガキどもも知っているという事で、そこに宿泊していて同じルートをたどる他の旅人も知っていて、つまりその頃には、私も同じコースを辿るものだと決め込んで、彼らは勝手に噂をばらまいてしまっていた。Cyberinoで昨日できなかったブログのコメント入れをして、パソコンを借りて写真や音源のバック・アップなどをしようとして失敗したあと、雨の予感がしたので急いでホテルに戻って、今聞いた話を地図に落とし込んでいると、私はガキどもに取り囲まれ、お前は舟を漕げるのか、とか、川の水は怖くはないか、とか、村で泊まった事はあるのか、などと矢継ぎ早の質問攻めに途方に暮れたのである。「何を言う、日本は海に取り囲まれた国だぞ、水が怖くて日本人が務まるかってんだべらぼおめえ」とやっちゃったので行くしかなくなったのでした。

 

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posted by jakiswede at 23:39| Comment(0) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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