2011年01月07日

20100227 L'orch. Sam Schola


 エロエロ・・・失礼、イロイロあって昨日会えなかった地元バンドは、「L'orchestre Sam Schola」という。いやあ、やっぱり俺こういうのんがええわ。ほのぼのとした80年代ルンバ・コンゴレーズの王道を行ったはるもんね。生ギターに生ベース、どちらも針金の弦、それにコンゴ風の手作りドラム・キット !! スチロールの保冷箱をバス・ドラムにしたのはアイディアやな。ほんまにねえ、この動画を見てもらえればわかる通り、音楽って、機材でも技術でもないんよね。素振りの特訓を逃げ出して去って行った俺の弟子たちよ、この動画を良く見よ。これがドラムというものぞ。これが歌に沿ってリズムを入れるということぞ。ギタリストがなんで壁に向かってるかて ?? あいつ性格が暗いんとちゃうんやで。アンプがないから壁に反響させて、ちょっとでも音量稼ごうとしてるんや。この涙ぐましい努力を、毎日さらっとやってのけるこの心意気こそが、ミュージシャンたるもんとちゃうんか ?? こいつら世に出て成功したろとか、そういう雑念が全然ないねん。誰にも顧みられず、売れる見込みなんか皆無やのに、毎日集まっては練習してる。それは音楽が楽しいからにほかならん。コンゴでは、ほんまにそこらじゅうにこういうミュージシャンが遊んでる。コンゴ人なら見向きもせんが、これ聞いたらほんまに心が微笑むのがわかるんや。

 

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 この手作りドラム・キットのペダルを見よ。ゴムで後ろから引っ張ってる。これで結構ちゃんとしたレスポンスがあるんや。ペダルはFP720がええたら、いやFP710の方がクイックでええたら、そんな戯言なんかぶっ飛んでまうで・・・オークションで両方買うてしもた俺がいうのもナンやけど・・・

 

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 彼らに会いに行ったのが夕方近かったんで、上の動画の後半は暗くなりかけてる。その後は持参したPCMレコーダーで録音のみ残してあるので、それを聞かれたし。ちなみに上の動画の曲名は「Per Nalture」という。

 

 


 Lac Mayi-Ndombe




 4e Commandement

 

 暗くなって手元が見えないから練習は終わりになった。そのあと、メンバーに付き添われて、昨日閉まっていたCyberinoへ行くと開いていた。こう言っては甚だ失礼だが、このような田舎町にもインターネットを必要としてやって来る若者やビジネスマンがいる。なかにはホテルで同宿している顔見知りもいた。パソコンの間を案内してくれたのは、これも甚だ失礼だが、この街には到底似つかわしくないほどの都会的な美女であった。ううむ・・・このギャップがある意味コンゴの現状を象徴しているようにも見える。さて、肝心のネット環境だが、これが気が遠くなるほど遅い。まず普通にウェブ・ページを表示させるのに数分かかる。「me.com」のメール・ボックスにアクセスするなど無理無理。仕方がないのでブログの更新だけしておこうと思ったが、自分のブログにログ・インするという機能を働かせる事も出来ないので、仕方なく自分のホームページのブログに客としてコメントするカタチで更新する事にした。その結果、ブラジルのRecifeからエジプトのCairoまで更新が飛んでいるように見えるが、その間の記事は、実はここにあったのです。気がついてくれてたかな ??

 

 http://jakiswede.seesaa.net/article/141266711.html



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 ネット環境という訳ではないが、Inongoでもvodafoneの携帯電話が通じる。コンゴでの携帯電話の課金システムがよくわからなかったのだが、Kinshasaでは道ばたでUSD1.00のチケットが売られていて、スクラッチして現れる数列を入力すればそのポイント分だけ使える。しかしInongoではそのような姿は見かけず、道ばたにいるブローカーに金を払えば携帯電話を操作して、払った分だけ使えるようにしてくれる。操作した後、しばらくすると衛星からメールが来て、残りのポイントを知らせてくれる事で相互に確認し、取引成立となる。このように衛星とアクセスして携帯電話のポイントを売って稼いでいる奴がいて、しかしそいつも夕方しか電気も来ず、水道もないから黒い水をバケツに汲んで全ての用を足している。上の写真は、我々日本人の感じるそういうギャップを良く表していると思う。なかには、棕櫚の家の日よけが、vodacomのマークの入った布だったりする。その夜、実家の母に電話をしてみた。ここまでは、いわば連れて来られた旅である。しかしここを発てば、あとは自分の力で進まなければならない旅である。ここまでなら、まだ文明の助けがあるし、いざとなれば一時間でKinshasaへ戻れる。しかしこの先は、まったく見えない。今回の旅の最も危険かつ重要なプロセスである。死ぬ前に母の声を聞いておきたかったし、母に声を聞かせておきたかった。

 

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 さて話は相前後するが、水曜日と土曜日は週二回Kinshasaと連絡する飛行機が発着する日なのである。今日は朝から慌ただしかった。商用を終えてチェック・アウトする客、土産物集めに奔走する客・・・上の写真はワニを活きたまま運ぶための荷造りである。もちろん食用にする。こいつがまた旨いんや。特に背中のイボの部分のゼラチン質が・・・失礼、本題に戻ろう。わいわいと旅支度を整える客に促されて、なんだかわからんけど私も飛行場へお見送りに行く事になった。まあおもろかったらそれでええんや。空港へ着くと、えらいにぎやかにお祭り騒ぎが盛り上がっとる。訊くと、LMCという新興宗教の団体の指導者が到着するという。到着する芝生の遮断機の手前側に、写真付きの大きなプラカードを持った集団が、隊列を組んで一糸乱れぬ振り付けで踊り、見事なコーラスで歌っている。なんにしても音楽の国である。しかし音楽が、特定の目的に利用されやすい国民性でもある。歌と踊りはやがて白熱し、新興宗教特有の熱狂的な空気が漂いはじめる。これがこわいんや。この熱狂のまま、訳もわからずに平気で人を殺す事もある。LMCがそういうものなのかどうかはわからんが、いずれにせよ自発的に音楽を楽しんでいる姿ではなく、踊りやコーラスの見事さは認めざるを得ないけれども、操られたものである事は明らかだ。やがて飛行機が到着し、その主が姿を見せると隊列は崩れて我勝ちに主に群がろうとし、それを静止しようとする警備の者やDGMの職員と激しいもみ合いになる。わたしは、Kinshasaへ帰る同宿の客に促されて建物の陰に身を隠す。

 その日からホテルの様相は一変した。その主が同宿する事になったからだ。主の到着を知った信者たちがホテルに押し寄せ、私のために村の楽士たちが伝統音楽を披露してくれた幸福な前庭ばかりか、私の部屋の前に広がる平和な中庭まで信者に埋め尽くされた。我勝ちに主に謁見を求めようとするのだが人数が多すぎて収拾がつかない。コンゴではこういう場面がよくある。熱狂が集中して統制が利かなくなる状態。当然待ちぼうけを強いられた人たちの鬱憤はたまり、珍しい外国人である私を見て、なんとか取り入ろうとしたりカネをせびろうとしたり、危害を加えようという不穏な空気までが漂いはじめたとき、Emmanuelと配下のDGM職員が来て、こん棒で彼らを鎮圧した。私は部屋に閉じこもらざるを得なくなり、Fifiが食事を差し入れてくれた。外では、主を囲んで信者の嘆願が白熱し、興奮を通り越して狂乱状態に近くなる。無秩序な叫びは、やがて主のキーワードに収斂してゆき、主のアジテーションを繰り返すシュプレヒ・コールに爆発し、主が立ち上がって一段と大きな声で「Oh Yeah !! 」と連呼し、「ザ・・・失礼、「Amen !! 」と絶叫すると、信者たちが大声でそれに呼応し、空港で聞いたのと同じ、おそらく彼らのテーマ・ソングの大合唱で収まるのである。そして次の陳情が始められ・・・ということが延々と続く。

 いくら熱狂的な宗教指導者とはいえ、何時間も体が持つ筈がないから、疲れたら謁見はおしまいなのである。お付きの者たちによって群衆は排除され、ホテルに静けさが戻る。Emmanuelが来て「出てもいいぞ」と言うので出て行くと、主がほかの宿泊客に「お騒がせしました」という振る舞い酒をしているところだった。熱狂の中心人物の主と相対する。日本人的感覚からすると、はっきり言って悪趣味な成金の強欲な守銭奴としか映らない。目がぎょろっとしていて人相が悪い。コンゴでは裕福である事が正義の証という価値観があるから、ある程度の成金趣味は大目に見るとしても、これは明らかに胡散臭い。その見境をなくしてしまう者が、容易く群れをなすところに、この国の怖さがある。だいぶ時間を空費してしまったので、挨拶もそこそこにそこを抜け出し、市場へ先に書いた地元バンドの連中に会いに行ったのであった。

 



 
 
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20100226 Libongo ya Inongo


 今日はEmmanuelが仕事だというので、久々に監視のない単独行動で羽を伸ばす。Inongo滞在も三日目になって、ほぼ街中に面も割れて来たから逆に安全だ。まずは市場だ。昨日は夕方に通りかかっただけなので活気はほとんど感じられなかったが、今日は早朝である。いやいや面白い。コンゴでは、市場を写真に撮る事はトラブルのもとであるが、十分に敬意を払って信頼関係を築いた上であれば、このように良好な写真が得られる。生鮮食品コーナーも良いが、なんと言っても日用雑貨が面白い。中国製の、おもちゃとも日用品ともつかぬすれすれの品が所狭しと並べられていて、それがきちんと売れていく。また、古着や布地、装飾品も興味が尽きない。たまには現地録音や海賊版のカセットやCDRもある。

 

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 Mafuta ya Mbila ココヤシの油

 

 http://web.mac.com/jakiswede/iWeb/3e_mobembo/Inongo.html

 

 そこで遊んでいると、一人のぎょろっとした男に声をかけられた。気をつけた方が良いタイプではあったが、いろいろ案内するからと言うので、周囲の視線に注意しながら距離を置いて行動をともにする事にした。彼とともに船着き場ヘ行く。ちょうどKinshasaから4日がかりでたどりついたという、ぼろぼろの貨客船から人と物が溢れ出しているところだった。汗と汚物に疲れ切った乗客よりも早く、商人たちは港で店を広げた。上の動画は、そのうちの一人とのやり取りである。普段静かな湖面と港だが、このときばかりは騒然とし、活気というか、コンゴ的な緊張感が走る。DGMの職員も、外国人の私に何かあっては自分たちが問われると思ってか、遠巻きに注視しているのが目の端に入る。

 

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 コンゴの国内交通事情は、非人間的に悲惨である。Kinshasa - Inongo間の航空運賃USD200が払えない者にはこのオンボロ舟が待っている。いやみだから運賃は訊かなかった。飛行機なら1時間半でUSD200、舟なら4日で命がけ、それでも早い方だと思う。しかもご覧の通りのすし詰め状態で、個室はおろかトイレもない。雨風を防ぐ手段は帆布シートだけである。これで4日である。沿岸の村々に立ち寄って来るだろうから、そのときに休憩は出来るものと思われるが、疲れ切って動けない乗客の表情を見ただけで・・・静かな湖面に思いを馳せて、漁師のかけ声を歌だなどとほざいて呑気な一人旅を続けている私と彼らの境遇の違いとは・・・

 



 雑踏から逃れて、漁師が小魚を上げているところへ行ってみる。上の動画はその場面である。驚くなかれ、ndakalaというこの小魚、干してスープの出汁をとるのである。日本の出汁雑魚と同じである。その風味は、まさしくこれこそが「コンゴのおふくろの味」である。

 

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 さて、どぎついものを見た反動で、静かなMission Catholiqueの敷地内を散策、その中にあるというCyber Cafeを捜す。Inongoでインターネットが出来るとは、とてもとても信じられなかったので、事実なら特筆ものだ。敷地内の木陰で談笑している人たちに訊いてみると、たしかにあるという。しかし自家発電装置が稼働するのが18時からなので夕方来いと言われた。日本人を見て興味津々だが、そこは市中の人たちとは態度が違う。あくまでも鷹揚に、聖職者らしく振る舞いつつも、何しに来たのか、どこに泊まってるのかなどと、訊きたい事がいっぱいあるのが見て取れて面白い。まあこっちは今日は暇なのだから話し相手にはちょうど良い。聖職者だからといって特に変わった様子はなく、あくまで世間話である。非常に広い敷地内には宿泊施設もあって、一泊USD5で2食付くらしい。しまった・・・湖からの風が心地よい。その湖から得られる海の幸がこの街を潤している事、漁師たちが街の経済を支えている事などを聞いた。私は、昨日彼らの「唱え」の声に感動したというと、彼らのうちの一人がまねして聞かせてくれた。「こいつはもと漁師だからな」それは確かに昨日聞いた漁師の節回しと同じだった。「で、それは一体なんなんだ ?? 」と訊くと、単なる言葉遊びらしい。一日中湖に浮かんでいると、ものすごく眠たくなって、退屈さのあまり舟のバランスを崩して海に落ちる事もあるそうだ。黒い湖は、恵みももたらすが、恐ろしい魔物でもある。だから、自分が落ちないように、仲間には自分が起きている事を知らせるために、また湖の魔物には自分が落ちても襲わないでくれとの願いを込めて、ずっと声を出し続けるのだそうだ。もちろん、退屈だから世間話もするし、魚群を見つけたら声を掛け合ったりという連絡もするという。リンガラ語でやる事もあるが、漁師仲間で湖の沿岸全てに通じる混成語の事もあるらしい。私が聞いたのは、多分後者の方だ。それはリンガラ語と違って言葉そのものに音程があって、イントネーションが細分化されているので、ちょっと聞けばメロディを持っているようにも聞こえるという。「これからEquateurを目指すんなら、もっと面白い言葉が聞けるぞ」いや楽しみ楽しみ・・・昼頃までうだうだと話した後、彼らは賄いが出来たと伝えに来た少年に促され、私はFifiがそろそろ飯を持って来る頃合いなので、ぶらぶらとホテルまで戻った。敷地のちょい外れに、そのインターネット・カフェはあった・・・カフェではなさそうだが・・・「Cyberino」という。


 

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 ホテルに戻ってみると、Fifiはまだこれから調理を始めるところだった。願ってもないチャンスである。本当は、コンゴでは「男子厨房に入らず」というモラルがあって、ましてや客が使用人の調理してる場面など見るものではない。しかしそこを頼み込んで「日本に君の料理の素晴らしさを伝えたいんだよ」なあんちゃっておだててビデオ撮影に成功した。

 



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 上の動画は、ヤシ油にニンニクを入れ香りが立ったところでタマネギとトマトを入れて炒め煮にし、シチューのベースを作っているところである。写真はそのプロセスが終了したところ。

 

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 今日のメニューは、豚の段バラ肉のシチューであるので、まずは肉の血抜きをしている。

 

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 ネギを搗いて薬味にしている。

 

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 これを柔らかく煮て上のベースと和えれば完成。

 
 
 



 客が料理を注文すると、従業員がそのお相伴にあずかる仕組みになっている。コンゴ的相互扶助の一場面。




 コンゴの主食の「fufu」を作っている。原料は、キャッサバ芋の粉である。




 器用に取り分けて供する。

 

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2011年01月04日

20100224 Bobongo Batwa AVI






 ほないよいよInongoに到着して洗礼を受けたBatwaの人たちのトラディショナル・ダンス三連発いってみましょか・・・これはおそらく世界でも例を見ない貴重な動画やと思いますよ。帰り道に立ち寄ったPortugalObidosに在住する中部アフリカ音楽研究家の教授も目を見張っとったくらいやしな・・・コンゴの音楽好きな人は、ここにLidjoやEmenyaやStynoの様々な節回しを聞ける事でしょう。旅行記ブログ版ではこの部分です。

 

 http://jakiswede.seesaa.net/article/171056630.html

 

 

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 あのねえ、君らねえ、僕は君らの「なにしに来た ?? 」という質問に「音楽を聞きに来た」と答えただけや。それが次の瞬間に、なんでこうなるの ?? ええやんけ・・・

 

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 しかもやね、まだ荷物も解いてないちゅうのに、なによこの人だかり・・・そうなのです。もう既に本番が始まってしまった。にこやかに出迎えられて、彼らの質問に不用意に答えてしまった私に一瞬の隙があった。コンゴ人の「善意」というものは、日本人の想像を遥かに超えて爆発する。「音楽を聴きたい」という日本人の心の中のささやかな気持ちは、ちょっと口にしたとたん、いやひょっとしたら、口にする前に彼らの耳に入り、口コミネットワークを通じて瞬時にして村中に知れ渡り、えり抜きの楽士が呼び集められることになる。その結果、彼らへの謝礼としてビールを人数分と、手配してくれた村人たちの人数分と、彼らの主人の・・・ということになって、大変な散財を強いられる事になる。しかもそれを断ろうものなら、この小さな村社会の中で、明日から誰も口をきいてくれなくなるやも・・・まあそんなことはないけどね。とにかく私は、何かの行事でもあればその末席に連ならさせていただいて、その音楽でも聴いてみたいものだというくらいの積りで言ったのだが、それが彼らに伝わったとたん、あの日本人が音楽の出来る奴を呼んでるぞ、ということになって、つまり私が祭りをぶち上げてしまう事になるのである・・・

posted by jakiswede at 23:47| Comment(3) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20100216 Chão de Estrelas AVI

 


 これは2/16にChão de Estrelasという、Recife中心部からOlinda寄りの郊外へ"6' Encontro de Cultura Indigena"と題された催しを見に行ったときの動画である。旅行記ブログ版ではこの部分の前半に該当する。

 

 http://jakiswede.seesaa.net/article/165515507.html

 

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 ・・・前略・・・RecifeからOlindaへ行く中間あたりに、その極めて庶民的な下町があって、今日Indigenaの祭りがあるという。Boa Vistaから東向きに出ている724番のバスがここを終着としているのでわかりやすい。写真のようにのどかな地元ファミリー向けのプログラムと見え、予定よりだいぶ押していたが特に焦る気配もなくのんびりムード。たぶん地元の子供たちによるパレードがあって、ビデオ片手に子供を追っかける親あり、先導する先生ありで、その様子は日本のこどもむけお祭りパレードと全く変わらない。Indigenaというのは書いて字のごとくインド風、すなわち南米大陸では先住民を表すのだが、地元の先住民が手作りで出演するのかと思いきや、そうではなくてバスであちこちの会場を回っているグループからいくつかが派遣されて来た模様だ。

 

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 演奏の内容は、Indigenaとはいっても「Caboclinhos」と表示されたプラカードを持つグループもあって、その違いがわからないのだが、シンプルな笛メロディにガラガラをたくさんつけたシェイカーと毛皮太鼓の丸い低音が伴奏する。いままで聞いたどんなブラジル音楽とも異なり、また中心部でのパレードとは違って、ステージに笛・太鼓・歌のミュージシャンが上がり、拡声された演奏にあわせて、ステージ下の踊り手たちが鳴りものを鳴らしながら輪踊りするという形を取っている。見に来ている客は、確かに先住民族の血を引いているらしき顔つきの人たちが多い。しかしおばちゃんね、そのタバコの持ち方・・・後略・・・

 

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posted by jakiswede at 23:25| Comment(0) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20100214 Caboclinhos AVI

 


 AVアダルト・ビデオ・・・失礼、旅行中に撮りためたビデオ・クリップを整理したので順次公開していこうと思う。旅行記ブログ版の進行とは相前後するので、タイトルにつけられた日付を確認して読まれたし。まずはRecifeのcarnvalで撮影したこの場面、この誇らしい人たちの演奏の動画である。

 

http://jakiswede.seesaa.net/article/165514282.html

 

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 出番を待つCaboclinhosの一団 (2/14)・・・迷いのない楽士たちの表情には一点の曇りもない。パワーと余裕・・・このあと私は彼等の強烈な音に惹かれておっかけをし、楽器と奏法について、つぶさに見せてもらった。もちろんお礼もして記録を残させていただき、ともにミュージシャンとしての敬意に満ちた時間を過ごした。でも名前訊くん忘れた・・・ (^^;


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2010年12月31日

20100225 Lac Mayi-Ndombe

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 翌朝、Fifiが朝食を届けに来た。ううむ・・・パンが4つでFC800、バナナとアボカドはまとめてここらではFC200、卵もピーナッツもたいしたことないし、昨日の夕食と合わせてみても、どう考えてもこれは高い !! 紅茶を持って来た彼女に「悪いけど今日から一食でええわ」日本人は胃袋ちっちゃいもんね。ちょっと憮然としていたが「今日から前金よ」と言うので、一食いくらだと訊くとFC8,000とぬかしよる。するとこの朝食はFC7,000か、そらなんぼなんでも高いで。まあ彼女の子供たちや友達が遊びに来てあちこち案内してくれる事も考えて、セキュリティ対策として毎日FC8,000ならええかと思うて渡す事にする。そのかわり日曜日まで全部日替わりやぞ、と念を押したら笑って出て行きよった。Emmanuelが来たので二人でこれを平らげついでに、「このペースで散財を続けるとMbandakaまではおろか、ここからKinshasaへ戻らざるを得なくなる」と窮状を訴えると「わかった」と言って、こいつも笑って出て行った。

 ひさしぶりにひとりになり、気が楽になったし晴れていたので洗濯をする。従業員に頼んで洗濯用の水を頼むと「おお、そのようなことは私どもが致しますのに」なんぞとこきやがって、なかなか水を持って来ようとしない。そのペースに乗るとまたもや彼らの術中にはまって「病弱のうちの母が・・・」ちゅう展開になる事は目に見えているので、ここは頑として水を持って来させる。窮屈だがシャワー・ルームで洗濯しようとすると、彼が笑って私を導いて井戸端へ案内してくれた。裏庭の端の物置小屋の陰の空き地の隅っこに井戸があって、そこにガキどもがたむろして洗濯している。たぶんほかの宿泊客や近所の家のものだろう。リンガラ語をしゃべる変な日本人が、当然めずらしくて、しょーもないことをなんでも訊いては箸がこけても可笑しいくらいによく笑う。おかげでだいぶこの辺りの様子が分かって来た。彼らは金がないので学校には行ってない。なかには内戦の戦災孤児もいて、親戚に引き取られたり、路上を彷徨っているところを拾われたりして、ある者は一般家庭の小間遣いをしながら、またある者はホテルや商店の用を足しながら、客や出先から小遣いをもらって生活しているのである。従業員とはいっても給料が出る訳ではない。日本にも俺たちのような子供はいるのかと訊かれて答えに困った。全く異なる社会の事を説明するのは骨が折れるが、見識は広がる。そんなふうにしてわいわいと洗濯を終えて中庭に広げて干しているとEmmanuelが来て、「自転車を借りてくるから、今日は市内を案内してやろう」・・・なるほど、カネのかからん暇つぶしを見つけて来てくれたという訳だ。

 Emmanuelが自転車を2台調達して来たのとFifiが食事を持って来たのはほぼ同時だった。今日は地元で捕れた魚料理だ。思わず食い気に走って喉がつかえるほどに食ってしまうと、眠たくなって小一時間ほど中庭の木陰で昼寝した。まったく平和だ。通りや裏の家々から聞こえる人の話し声や鶏の鳴き声、時折静寂を破る犬の吠え声など、びったりと止まって動かないアフリカの真ん中の時間があった。湖から涼しい風が吹くので、不思議に暑くない。朝夕もそんなに蚊は出ない。実に快適な街である。さてせっかくだからとEmmanuelに起こされて自転車をこぎながら通りに出る。ホテルのなかは平穏でも、一歩通りへ出るとたちまち衆目に晒される。行く先々でガキどもが走りよって来て、彼がそれを追い散らしながら進路を確保する。まずは南へ進路を取り、ようやく外れまで出て一息つく。

 

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 まずは漁港である。Mayi-Ndombeとは「黒い水」という意味である。まさしくその水は黒く、手を入れると数十センチ先で見えなくなるほどである。Lidjo Kwempaも、Emeneya Kesterも、Lita Bemboも、Stynoも、「お前はこのメロディが好きならMayi-Ndombeへ行け」と口を揃えて言った。なぜかと訊いても、彼らは「行けばわかる」と答えただけだった。Litaは「わからんでもいいから、とにかく行ってこい」とまで言った。「第二の旅」で、奥地への泥沼の道をともに這うようにして進んだ、かつてのRumba Rayの名ギタリストLusambo Fistonの家系は、ここの出身である。「アソコノミズハ黒イデース。ダカラ、アソコノ音楽ハ、世界デ一番黒イ」昔ナショナルの「ネオ・ハイトップ」という乾電池のコマーシャルに「万里ノ長城世界一長イ、タカラ中国ノねお・はいとっぷ世界一長持チ」ちゅーのんがあったんを思い出して腹がよじれるほど笑うたが、Fistonは笑いもせずに「世界ノ黒人音楽ノるーつハ、アソコニアルト思イマース」とまで言い放った。まあそれは措くとして、コンゴ音楽の重要なミュージシャンがそのように言うのであれば、行ってみるに越した事はないと思って来たのである。いや、なんというか、ものすごく感慨深い。湖畔の石に座って感慨に耽っている私を怪訝に思ったのか、Emmanuelは、しきりに先を急ごうとする。「こんなとこより、もっと良い場所がある」こういうときの地元の人の言う「良い場所」はアテにならない。私は上のような事を並べてここへ着た理由を説明し、しばらくそっとしといてくれるように頼んだ。漁師がピローグを漕ぎながら岸に戻ってくる。こちらを注視しているが、話しかけて来る事はない。それをいいことに、ただぼんやりと水面を眺める。不思議な感覚だ。水は澄んだものの方が良いという価値観がある。当然といえば当然の事だ。しかし、この黒い水に不思議と毒気が感じられない。もちろんにおいもない。掬ってみたが、まさか粘りのある訳でもない。不思議に思われるかもしれないが、濁りもないのである。ただ黒いのである。黒く澄んでいるといえば、より近い表現といえようか・・・それは、全てを見通す澄んだ水とは対極にある、全てを飲み込んで覆い隠し、しかしながら澄んだ水のように無味無臭の「なにか」である。それが「なに」なのかはわからないが、ここではこれが、あたりまえの「水」なのである。日本では、水は澄んでいるのが当然で、濁った水は悪である。しかしここでは、この黒い水が当然で、彼らはこれを飲んで生きている。彼らの体には、生まれたときからこの水が入っていて、人間の体の60%の水分が、この通り黒いのである。もっと私には時間が必要だ。ここに滞在する間、私は出来るだけこの水の近くにいるとしよう。そこまで思いを致してから、おもむろに立ち上がりEmmanuelを捜すと、横の草むらで寝とった。「ほな、行こか」・・・

 

 http://web.mac.com/jakiswede/iWeb/3e_mobembo/Inongo.html

 

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 めんどくさいからInongoの写真は、上のリンクを参照してくだされ。ここではそれ以外の写真を掲載しようと思う。古い連絡船が打ち棄てられていて、その残骸がガキどもの遊び場になっている。この街にもかつては発電所があったと思われ、電気の来なくなった外灯が放置されている。道は湖畔を南下し、内戦で廃墟となった小学校の跡地を通り過ぎて徐々に上り、ちょうどInongoの街を弧を描く海岸線の中央に見晴るかす岸壁に出たところで行き止まりになった。Emmanuelが「良い場所」と言ったのは、おそらくここのことだ。湖面から離れているのでさほどでもない反応を見せた私を気遣ってか、彼はしばらく街を展望して、その向こうの海岸線や、雲って見えない西の対岸のことをひとくさり説明すると帰路についた。

 

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 さて、今度は湖畔の道を北上して街の中心部を通り過ぎ、Mission Catholiqueを右手に見ながらさらに進んだ。その先はかなり鬱蒼とした森になっていて、やはり少しずつ上り坂になり、やがて廃止された修道院の跡地に出た。かなり大規模な修道院だったらしく、今でも廃墟に住み着いている人があるらしい。そこへ自転車を止めて森の小径を岸壁まで出てみた。何艘ものピローグが出て漁をしている。静まり返った湖面に、彼らの呼び合う声が反射する。またEmmanuelに頼んでそっとしといてもろて思索に耽る。ちょうど良い木の切り株があったのでそれに座って、漁師たちの呼び声に耳を澄ます。リンガラ語ではない。特徴のある抑揚を持っている。イントネーションは、まるでメロディのようだ。それが湖面と森にこだまして、独特の残響を響かせている。鳥のさえずりではない、明らかな人の声なのだが、それは会話というより歌に近い。鳥のさえずりを歌と呼ぶならそうであろう。しかし人間の概念としての歌とも違う。歌っているようにしゃべり、それが厳密には会話をなしているわけでもなさそうである。なぜなら一人で声を出している人もあるからだ。言葉がわからないので内容がわからないのだが、基本的には一人で何かを、そう、「唱えている」感じである。「唱えている」という表現が最も近い。その唱えている文句に、多分近くにいる漁師が絡んで来るのである。それが、言葉で絡んで行くというより、「唱え」で絡んで行くように聞こえる。歌とも違うし、節回しとも言いにくい、口説きや唱え、「話芸」ならぬ「唱芸」とでもいうものが、湖面に散る漁師たちの間で、まさにクモの巣のようにやり取りされている。その全体は、人の声というより「響き」である。それは、非常に調和のとれた音の重なりであり、それがときには、三声・四声・五声くらいの、明確な和音を形作ったかと思うと消え去ってゆき、また寄り添って、あるときは展開までするのである。ひとつの和音から次の和音へ展開するのである。しかし必ずそうなるとは限らず、それはやがて崩れたり、別の複数の声と戯れたりして、あたかも湖面をステージに、不特定多数の声が言霊となって戯れているかのようだ。それは波紋である。何時間あっても聞き飽きない、おそらく彼ら自身以外に顧みるものとてない、いや、彼ら自身ですら顧みる事のない、ただの遊びに過ぎないのかもしれない。もちろん交わされている言葉のなかには、実務的な連絡事項も含まれているであろうし、他愛のない愚痴や世間話がほとんどであろう。しかし私は言葉がわからないからなおの事、それが音楽に非常に近いように感じられたのである。もしかしたら、ミュージシャンたちが「行けばわかる」と言ったのは、このことだったのかもしれない。しかし、今日のところは、その感触はあまりにも穿かなすぎて、確たるものとして感じられる程には至らなかった。もっと時間が必要なようである。

 待ちくたびれて眠たそうにしているEmmanuelを促して帰路につく。帰り道は、村の始まりから内陸側の道をとり、人家の間を走り抜けた。Emmanuelはこの街の人だから顔見知りも多い。「その日本人はあんたのなんなのさ ?? 」と声がかかったり、「ええカネ蔓やの、あとで酒でも奢らんかい」と声がかかったりして、私が吹き出すのを見て「あの日本人リンガラ語わかるみたいやで」「ほなことあるかいな」などという会話が聞こえて来たりもするのである。しかし、ときおり全然わからない言葉でEmmanuelが対話している事もあって、あとで訊くと現地の言葉だというだけで何語か笑って教えてくれなかった。そのうちの何軒かでは中庭に入って休んだりもした。休むと言っても木陰に座るだけで、特にどうする訳でもない。家族や訪ねて来た人と世間話をするだけである。かねてから気になっていたのだが、Emmanuelのリンガラ語がちょっと変わっていて、本来人称変化は動詞の語頭に任せて主語は省略するべきところを、主語を置いた後を動詞の三人称単数形で受けているのである。正しいリンガラ語・・・とコンゴ人を差し置いて私が言うのもなんだが、そのへんのくわしいことは下のリンクをご参照くだされ。初め、これは私が外国人なので、わかりやすくするためにそうしているのかと思ったのだが、彼ら同士でもそういう使い方をしているので、この地方ではこうするものなのか、しかし私のリンガラ語もストレスなく通じているので、そのへんのことを彼に訊いてみたのだが、やっぱり笑うだけだった。

 

 http://homepage.mac.com/jakiswede/1congo/14lingala/140lingala_fr.html

 

 さて、夕方になりかけてしまいはじめた市場を通りかかると、脇の建物の軒下で、Emmanuelの知り合いの現地バンドがギター一本で歌合わせをしているところだった。こんなためになるものを見逃す私ではない。近づく私の笑顔にミュージシャン同士のテレパシーを感じたのか、歌手の一人が歌いながら奥から椅子を持って来て、私が到着すると同時にそれをすすめてくれた。ミュージシャン同士である。歌は止まらないのである。そのままそのまま、歌と演奏を楽しみながら一人ずつと握手を交わす。ギタリストには、邪魔にならないように、そっと手の甲と甲を合わせるのである。私は椅子に座り、肘掛けをキーホルダーで叩いてリズムを補助的に出した。これに上手くギターのリフが絡んで、場がぐっと活きはじめる。これですわ。ルンバ・コンゴレーズの醍醐味というか、このまったり感というか、粘りすぎず乾きすぎない人肌の温もりというか、これはもう、言葉では説明できない一体感、くっついて安心、音楽の喜び・・・やっぱりね、ここの音楽は、今まで経験したどの国の音楽よりも、音楽のあり方が根本的に違うように思いますね。ブラジル音楽ファンの皆さん、私がここに書いたような、こういう音楽との通じ方を、みなさんしておられますか ?? まあ人の事はええ。ともかく翌日にはメンバー全員がそろうからと言うので、再び夕刻にここで合う事を約束して、その日は別れたのであった。

 

 


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20100224 Inongo

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 Inongoでは、Mayi-Ndombe湖を北上する連絡船を待つのである。船は毎週月曜日に湖の北端の港Isongoへ向かう便があり、そのうち2本に1本はさらに東へ進路を取って川を遡り、Nkileという街まで行くそうだ。片道一日行程なので、翌々日にはInongoに戻り、その足で西の対岸にあるSelengeという港までを往復し、帰港してから月曜日まで休むのだそうだ。予定通り進めばの話だが。この街では、こうした事はすべてDGMが管理していて、特に外国人旅行者には職員が一人張り付いて案内役を務めるのである。もちろんその間の飲み食いはこちら持ちであるが・・・空港での出迎えから私についた男は、名前をEmmanuelといった。面倒見の良い、わりと善良な奴である。船の事やこの街の事は彼がすべて教えてくれるので、滞在は非常に楽であった。

 さて、Kinshasaで飯らしい飯にありつけなかった私は、Inongoでもこの騒ぎでビールとヤシ酒ばっかり飲まされるので、ついに「俺は飯が食いたい !! レストランへ案内せい !! 」と口走ってもた。あかん、えらいこっちゃ・・・ここでそんな事ゆーたら、このどんちゃん騒ぎをカネのかかる場所へ移すだけや。そのツケは当然私のところへ回ってくるだろう・・・もうええわ、なるようになれ・・・とにかく腹が減って死にそうや。しかし幸か不幸か、なんとInongoの街にはレストランというものがない。路傍でちょっとした揚げ物や果物やパンは売られている。しかしレストランや総菜屋というものは、ただの一軒もないのであった。市民はみんな家で食うし、それの出来ない奴は湖で魚を捕ったり、木を見上げてれば果物が落ちてくるからだが、ではこのホテルに泊まるような旅行者や出張ビジネスマンはどうしているのか、というと、これはコンゴの田舎のしきたりで「客」は専属の料理人を雇うのである・・・というか、先の言葉を口走るか口走らないかのうちに、いや多分口走る前から、そこにFifiという女が立っていて、私のために料理を作っているのであった。

 こうして私が望むと望まざるとに関わらず、そうせざるを得ないと観念するよりも早く、すべては段取りされて設えられ、そこに座らざるを得ないような、不思議な不思議なコンゴ奥地へのパック旅行が始まったのである。Fifiが言うには、本来前金でもらうべきだが、あなたは勝手がわからないでしょうから後払いで結構ですなどとこきやがる。なにが食いたいかと調理しながら訊くので、羊か山羊と野菜とサフと米が食いたいというと、あらまあ今ちょうどそれを作っていたところですわおほほほほ、さあ召し上がれボナペチィやて、もう好きにしてくれ何でも食うたるさかい・・・しかしこの量である。当然一人で食いきれる量ではない。ここへ案内してくれたDGMのEmmanuelが、すかさずそれを嗅ぎ付けて、部屋に入り込んで来てがつがつ食いやがる。まあ要するにそれも込み込みのパック料金ちゅうわけや。しかし旨い !! この料理、めっちゃ旨かった。羊の肉の、喉にまとわりつくような独特のエグ味といい、野菜のシチューに使われている川ナマズのブイヤベースといい、全体を覆うヤシ油の香りといい、いやいや、それよりもなによりも、およそ20年ぶりに味わうサフの酸っぱさ・・・あああ、これや。これがまたたまらんのや。旨い !! Fifi !! ほめて遣わすぞ !! と感動したのがわかったのか、彼女がにんまり笑って入って来て、朝食はどうします ?? ほな作ってもらおやないけ、どうせこれから食うや食わずの地獄巡りや。ここで船を待つ間、たらふくお前の料理食うたるさかい毎回違うもん出せよ。ほっほっほ・・・と笑て出て行きよった。皿の下に伝票が置いてある。なんとFC15,000・・・おいおいちょと待たんかい・・・と追いすがるのをEmmanuelが「まあまあ」と止めて、これはここでは良心的な値段や、「郷に入っては郷に従えちゅう言葉があるやろ」やて、なんでお前に日本のことわざ習わなあかんねん、FC15,000ちゅうたらJPY1,500やぞ。おれ日本でもそんなにええ食生活してへんで。「まあええからええから」・・・でも旨いから、まあええか。およそ三日ぶりのまともな食事に胃も心も酔いしれて、判断の甘くなる情けないビンボー旅行者・・・巻き込まれなければ、前に進まないのであった。


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 Inongoの街は、だいたいこんな感じになっている。Hotel Hydroは、一泊USD15であった。この街に商用で訪れるビジネスマンはすべてここに泊まるので、セキュリティは良い。街では、こことMission Catholiqueと市長の家には自家発電設備があって電気が通じる。稼働時間はこのホテルの場合、だいたい18時から22時までである。ホテルは街で唯一ビールや飲料水を卸しているが、電気がこのような状態なので、深夜早朝以外はあまり冷たくはない。水は、従業員が井戸からバケツに汲んで、毎朝ドアの前に置いてくれるので、それで全ての用を足すのである。

 

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 腹くちくなって一休みしたあと、Emmanuelが街を案内するというので、暮れかかった街を散策に出た。湖沿いに漁村の方へ歩く。おそらくEmmanuelが予め手配していたのであろう、昼間の連中がわりとちゃんとした衣装を着込んで、さらに高齢の楽士とともにたき火を囲んで岸で待ち構えていた。我々を見るなり演奏が始まった。湖で捕れた魚の焼いたものやクワンガ、それにたぶんキャッサバ芋の焼酎などが振る舞われ、あっという間にどんちゃん騒ぎになった。いやな予感がしたがもう止められない。ここは楽しむしか仕方がないのだ。例によって物好きなコンゴ人たちは私を担ぎだし、即席に鳥の羽根や腰蓑をつけさせ、顔までは黒くは塗られなかったが、踊りの輪の中に私を放り込んだ。21年前のItscharli大先生の腰の特訓の苦い思い出が頭をよぎったがそれもつかの間、きつい酒と呪術的な言葉の反復のめくるめく定常波にアタマもヤラレてあとはひたすらトランス状態。気がつけば踊り手とぴったり手足の動きの合った陶酔の中で、腰から頭頂部へわき上がる心地よい虚脱感の中で、あっという間に数時間が経過したのでした。その後の和やかな団欒のひととき、湖から渡って来る涼しい風に身を任せ、火の弾ける音と虫の声だけが残る束の間の静けさに隠れてすっと渡された伝票・・・「おいっ、お前らなあ・・・」「まあまあまあまあ・・・・」もうええわかった。あとは・・・わかるよな。

posted by jakiswede at 17:40| Comment(0) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20100221 JNB補遺

 20100221 さて、いよいよ夢にまで見たKinshasaへ乗り込む。Johannesburg 9:30発South African Airways SA50、Kinshasa着は12:30、良い時間だ。朝5時起床。ビスケットとミルクティーで朝食をとり、規則正しい排泄で体調を整えて、既に手配済みのピック・アップを待つ。週明けでもあるし、「空港まで1時間」というから、大事を取って1時間半前の6時に来るように手配したのに・・・既に手配済みのピック・アップを待つ。手配済みのピック・アップを待つ。済みのピック・アップを待つ。のピック・アップを待つ。ック・アップを待つ。・アップを待つ。ップを待つ。を待つ。つつつつつつ・・・・・・・おいこらいつんなったら来るんぢゃい。みんなまだ寝てやがんので、6時半にスタッフ・ルームをノックしたら、眠たそうなオーナーが不機嫌な顔でケータイいじっとる。しばらくして別の男が現れてドライバーの家へ呼びに行くという。なんのためにケータイ使とんぢゃこのダボ !! ・・・

 まったくアフリカらしさの感じられなかったJohannesburg滞在だったが、最後の最後にちょっとアフリからしくなってきた・・・ちゅーて喜んどる場合とちゃうわな・・・イライラして待つ事さらに30分、ようやく来たのが例の5時間野郎だ。

 おまえほんま大丈夫なんか「ダイジョウブダイジョウブ」鼻歌なんか歌いながらご機嫌にトバしよるけど、あっという間に大渋滞。脇道へ入って入ってかなり泥沼に陥った感があったがなんと、幹線道路へ出る手前の渋滞の列を、彼は右へ、つまり南アフリカは左側通行なので対向車線へ避けた。え ?? と思う間もなく対向車が突進、これをなんと、さらに右へ、つまり対向車線の路側帯へ避けた !! こうなったらもう「俺が法律ぢゃ文句あったらドタマかち割んぞ」の世界で、ついには四駆の機動性を遺憾なく発揮してダートを谷へおり、川を渡り、薮や茂みをかき分けて橋のたもとから防音壁の割れ目をすり抜けてメトロバス専用レーンへ突っ込んだ !! こいつ知り尽くしとるな、あとは停車中のバスは当然右へ追い越して、大渋滞の本線を横目にひたすら突っ走る。いやあVIPでもこんな待遇はないぜ。なんと「空港まで1時間」の言葉通り・・・やけど出発が遅れたんで8:30に空港到着。

 チェックインは、なんの問題もなく30分ほどで終了。しかしザックを担ぎ直すときにもぎ取れたのか、腕時計がなくなっている。まあいい。先を急ごう。荷物は規定の容積以下に小さくしたにもかかわらず、機内持ち込みは断られた。まあいい。なりゆきに任せよう。ちっこいショルダーのみで搭乗ゲートへ急ぐ。場所だけ確認したらまだまだのんびりムードだったので、ショッピング・エリアへ戻って一番安い腕時計を購入。ねーちゃんごっつい奇麗かった。ここのショッピング・モールは凄まじい。が、帰り道のお楽しみに取っておこう。生きて帰れたらな・・・

 航空機はAirbus A319-100。片側3席ずつの中型機だ。座席上に等間隔を置いて設置された小型スクリーンが、全自動で開閉するのがかっこえがった。ねーちゃんも奇麗ぢゃった・・・

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2010年12月09日

20110124-0320 写真展 in 渋谷

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 関東地方の皆様お待たせしました。「ザイール・ヤ・バココ・第三の旅」写真展が開催されます。トーク・ショーも企画されておりますので、よろしければお運びください。


posted by jakiswede at 23:30| Comment(0) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月29日

20100224 Inongo

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 昨夜は、結局Matonge周辺の停電が復旧せずレペは中止。暗闇の中でPapa Wembaとも16年ぶりくらいに会ったが、かつての強烈なオーラはなかった。ピリピリの死を伝えると、一同驚愕。彼のために一分間の黙祷を捧げた。その後、うだうだしとってもしゃあないので、京都大学のサル学の教授から紹介された民俗学者のMwanza先生に電話を入れ、Mateteで会う事になる。たまたま師匠も現在Mateteの人なので、帰り道がてらDebonhommeの私の泊まっているホテル前のバーで落ち合う事にした。といっても今日はMateteも停電。暗闇の中で互いの顔を知らない同士が待ち合わせるのは至難の業だった。

 「日本人を捜せ」が合い言葉。かつては「日本人」と見ると「ピリピリ」・「アラタ」と声がかかったものだが、もうそんなこともない。中には私の名前を覚えていて、私に「イタミを知ってるか ?」と真顔で訊く奴がいる。「俺がイタミぢゃ」と答えてやるのだが、「いんや違う。俺の知ってるイタミは髪がダンゼーだった」・・・ううむ、たしかに今は長い。でも20年も昔の日本人の名前を知ってる奴が多いのには驚かされた。

 さて、Mwanzaさんは大学の助手とともに現れた。周囲とは、格が一段も二段も上の洗練された雰囲気をたたえ、澄んだ目でまっすぐ私を認め、にこやかに挨拶を交わした。これからの奥地への旅の最終目的地であるEquateur州Mbandakaの最新情報と、現地に住む家族や知人の連絡先をもらった。また、京都大学の研究チームがKinshasaへ来たときに必ずアテンドするというドライバーNgunzaさんを紹介してもらった。その夜は会えなかったが、翌朝飛行場まで送ってもらうために、ここへ迎えに来てもらう事を約した。

 ところで私はKinshasaへ来て2日間、ゴタゴタしてて食事らしい食事をしていなかった。人と会ってはビールばかり飲むはめになってた。乾杯しては別れ、乾杯しては別れと慌ただしい。とにかく腹を満たしたい・・・しかし市の中心部であるMatongeならともかく、Debonhommeのような幹線道路沿いの郊外ではレストランはおろか、路傍で食べ物を売っている人さえ稀だ。師匠たちと別れた後、ようやく一息ついて、何か食べ物を売ってないかと探したが、夜も更けていて何もない。ホテルに戻ってガキに訊いたが、ポテトフライの冷凍した奴はあるが、厨房の鍵はボスが持って帰ったので調理できないと言う。しゃあないし空腹を抱えたまま寝る。

 翌日、朝7時の飛行機だから6時に来いと言われたので、5時に起きる。荷造りは済ませてあったので階下に降りると、従業員たちは汚水溝のドブ板の上にござを敷いて寝ている。過酷な環境だ。それにひきかえのんきに奥地への旅に出ようとしている私を、にこやかに送り出してくれた彼らの笑顔が忘れられない。しかし気をつけなければならないのは、彼らは汚物に振れた手で、平気で人と握手する事だ。

 Ngunzaさんが迎えにきた。5時半にNdolo飛行場へ着く。真っ暗で誰も来ていない。ここで、コンゴの国内航空事情が、国際航空とは全く異なる事を実感する。通常、飛行機に乗るときは、出発時刻の何時間か前に手続きを済ませて待つものであるが、この国では定刻から何時間か後に手続きが始まるのだ。事務所を開ける小遣いが来たのが6時半、社員が来たのが7時半、事務所前に鶏やアヒルや魚の薫製や電化製品や布や・・・その他雑多な荷物を抱えたり、運び屋に運ばせたりして客が集まりはじめたのが8時半、そこから手続きが始まった。

 コンゴの国内線に乗るのは大変貴重な経験であるので、少し詳しく書いておこう。まずは荷物の計量である。ここでは手荷物を含めて計量する。装備を現地調達したので、少し増えて14kgだったが難なくクリア・・・しかし例によって「コーヒーを飲みたい・・・」「はいはい・・・」

 次は「Go Pass」という通行手形のような切符を買いに行かされ、そこのねーちゃんが「コーヒーを飲みたい・・・」「よしよし・・・」

 私は外国人なのでパスポートなどを持ってDGMの事務所で旅行目的などを訊かれ、これも難なくクリア・・・しかし「コーヒーを飲みたい・・・」「わかったわかった・・・」

 最後に空港警察でなんやわからんけどにこにこしながら「コーヒーを飲みたい・・・」「・・・」

 そんなことをなごやかにこなしているうちにおおむね予約客がそろったと見え、客の書類を一括して社員が空港の事務所に手続きに行ったのが9時過ぎで、結局待合室から出たのが9時半頃。私のコンゴ的感覚からすると、意外にスムーズに行った感じである。しかしいつもながら感じることは、一人で手続きが出来ない不便さと不透明さである。日本人的常識からいうならば、手続きというものは、手前から順番に奥に進んで行けば、自動的に済んでしまうものであるが、ここでは、この手続きはあの建物の白い扉、この手続きはこっちの端の木の陰・・・という風にバラバラに点在していて、いちいち案内してもらわなければわからない。しかもその度に「コーヒーを飲みたい・・・」をやられるものだから鬱陶しい事この上ない。さらに中に入ると必ず用もないのに複数の係官が待ち受けていて、全員「コーヒーを飲みたい・・・」ここで「おまえらええかげんに・・・」とやっちゃうと、ほんま後が面倒なんよね、これ以上に。

 愚痴はこんくらいにしとこ。雑草の生い茂る原っぱのような空港で、長い先の曲がった鎌を振り回して草刈りしてる奴らを横目に見ながら、人の踏み跡を辿りつつピクニック気分で飛行機の格納庫へ案内された。そこで50人乗り程度の小型プロペラ機に「ご搭乗」・・・後ろ半分に客の荷物が積み込まれていてブルー・シートで覆ってある。前半分の20ほどの座席に適当に座る。「ええか ?? ほな・・・」てな感じでよろよろと出発する。舗装もしてない・・・というか、舗装すると手入れせなあかんからかえって危ないんよね、この国では・・・土の地面の滑走路をガタガタガタガタって走ってふわっと舞い上がって・・・いやなかなかスリルもあるけど、パイロットの腕ええね。もちろん客室乗務員なんておらん。前に座った慣れた客が、クーラー・ボックスからペット・ボトル入りの清涼飲料を適当に後ろにまわしはじめたので、おのおの好きなものを取る。それを機に客同士うちとけた雰囲気になって会話が弾む。私は待合室で既に自己紹介済み・・・というか、珍しもん好きのコンゴ人がほっとてくれるはずがないから、もうだいたいみんな私がなにしにこの飛行機に乗っているのかはわかってる。飛行機はそんなに高くは飛ばん。上の写真のように、鬱蒼としたジャングルに時ーたまこんな村が現れる。そして・・・

 

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 私の今回の旅の目的地のひとつ、夢にまで見た憧れのMayi-Ndombe (黒い水) 湖である。実に感慨深い。写真で見るとそうでもないが、確かに水が黒い。実は、数年前のもともとの旅の計画段階では、Kinshasaから直接ここへ飛ぶのではなく、Bandunduあたりから陸路、あるいは水路で湖に至りたかった。というのは、1991年に旅したKasai方面は赤土の土壌で、川も赤い水が流れる。それが黒いMayi-Ndombeからの水とBandunduあたりで合流し、どす黒い渦を巻くという。そこから上流を見ると、右手Kasai方面からの水が赤く、左手Mayi-Ndombeからの水が黒いのを、はっきりと見分ける事が出来るらしい。そして、その赤と黒の入り交じったどす黒い水が、下流Kinshasaへ向けて悠然と流れ下るのである。かつてはこの河をZaireといった。それは「すべてを飲み込む河」という意味である。その混沌の一場面を、この目で見たかったのだ。しかしその旅程は余りにも困難が多過ぎ、わずかな距離の移動に膨大な時間がかかる・・・もしかしたら移動できない、移動したものの立ち往生する、最悪生きて戻れないほどの危険きわまりない賭けである。今回は、もはや時間的にも体力的にも、地面を這いずり回るだけの余裕がない。だから泣く泣く飛んだのである。湖畔の街Inongoに到着したのは、ほぼ昼頃だった。着陸の瞬間の大拍手が印象的。明るい奴らめ。

 

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 本当はこの国では空港なんかで写真を撮っちゃいけませんことよ、よい子は決してマネをしないようにね。Inongoの空港は、Ndoloを上回る草ぼうぼうの広っ場゜であって、滑走路の脇で芋を栽培してたりする。そこへ農夫が手入れに来てたりしてなんとものどかというか危ない・・・とはいっても週に2便しか飛んで来んのやから、まあええか・・・なんて感心してるうちに荷物が降ろされ、例によってコンゴ人は和やかにその場でお出迎えの家族などと抱擁を交わしたりしている。外国人は、というと、実は私のほかにベルギーから慈善事業のために来ているリンガラ語ばりばりの白人のねーちゃんがいてて、DGMの青い制服着たやつがにこやかにお出迎え、そしてふたり仲良く別室へご案内となった。こんな田舎町じゃ、逃げようったって右も左もわからんし、おとなしくお縄をちょうだいする。取り調べとはいっても、やっぱり田舎だけあってのどかなもんや。通り一遍の事調べて書類作って、写真提出したら通行手形みたいなもんくれた。コーヒー代はちょっとかさんだけど・・・なごやかに時を過ごして、DGM直属の4WDで市内までご案内や。で、唯一のホテル「Hydro」へ直行する。

 

 http://www.maluaviation.com/ 乗ってきた飛行機は、だいたいこんな感じ。

 

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 あのねえ、君らねえ、僕は君らの「なにしに来た ?? 」という質問に「音楽を聞きに来た」と答えただけや。それが次の瞬間に、なんでこうなるの ?? ええやんけ・・・

 

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 しかもやね、まだ荷物も解いてないちゅうのに、なによこの人だかり・・・そうなのです。もう既に本番が始まってしまった。にこやかに出迎えられて、彼らの質問に不用意に答えてしまった私に一瞬の隙があった。コンゴ人の「善意」というものは、日本人の想像を遥かに超えて爆発する。「音楽を聴きたい」という日本人の心の中のささやかな気持ちは、ちょっと口にしたとたん、いやひょっとしたら、口にする前に彼らの耳に入り、口コミネットワークを通じて瞬時にして村中に知れ渡り、えり抜きの楽士が呼び集められることになる。その結果、彼らへの謝礼としてビールを人数分と、手配してくれた村人たちの人数分と、彼らの主人の・・・ということになって、大変な散財を強いられる事になる。しかもそれを断ろうものなら、この小さな村社会の中で、明日から誰も口をきいてくれなくなるやも・・・まあそんなことはないけどね。とにかく私は、何かの行事でもあればその末席に連ならさせていただいて、その音楽でも聴いてみたいものだというくらいの積りで言ったのだが、それが彼らに伝わったとたん、あの日本人が音楽の出来る奴を呼んでるぞ、ということになって、つまり私が祭りをぶち上げてしまう事になるのである。いよいよおいでなすった。まあしょっ初の花火はこんくらいブチ上げといた方がええやろ。しかし疲れた。ようやく部屋が決まって、こののどかな中庭で一息ついたのは、もうかれこれ夕方だった。

 

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posted by jakiswede at 00:11| Comment(2) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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