2020年06月28日

20200628 An American Prayer



https://www.youtube.com/watch?v=I86Qz5yEpME

Jim Morrison: An American Prayer, music by the Doors (LP, Elektra, 5E-502, 1978, US)

Awake
Awake
Ghost Song
Dawn's Highway / New Born Awakening
To Come Of Age
To Come Of Age
Black Polished Chrome / Latino Chrome
Angels And Sailors / Stoned Immaculate
The Poet's Dreams
The Movie
Curses, Invocations

World On Fire
American Night
Roadhouse Blues
Lament
The Hitchhiker
An American Prayer
An American Prayer
The End
Albinoni: Adagio

 Jim Morrisonが亡くなった後、残されていた彼の詩の朗読の録音に、Doorsがバッキングをつけたもので、ちょうど私が高校を卒業する直前、大学受験にほぼ失敗するのが確実になった状況のもと、焦燥感と虚脱感の板挟みの中で一縷の心の支えになった作品である。アフレコ演奏なので合うはずがないのだが、それが全く奇跡のように、一緒に演奏しているかの様に合っている。もちろん、タイミングが寸分違わずという意味ではない。詩の精神性、彼の声によって具体化されたその世界に、それまで活動を共にしてきたメンバーたちの、彼に対する敬意が、 演奏として見事に合っているのである。その気持ちの集中こそが、この作品を素晴らしいものにしている。心なしか、彼らの演奏も、バック・バンドとして伴奏に徹している音よりも、クリアで生命を感じる。実は、私にとってDoorsで最も好きなアルバムがこれである。さて私はロック・ファンでありながらBluesもSoulもほとんど聞いてこなかった。つまりアメリカのポピュラー音楽の基礎の基礎、共通言語とさえ言える部分を経過していないのである。私はビートルズ世代でもない。ストーンズともちょっと時差がある。クリームは終わってた。ちょっとした空白期間に思春期を迎えたのである。次に現れたのはツェッペリンだった。そこからブリティッシュ・ロックへのめり込み、少ない小遣いのほとんどは、イギリスのプログレからドイツのそれへと、何人かの友人と共同で費やされることになった。そこから先はワールド・ミュージックであったので、実はアメリカのポピュラー音楽の基礎の基礎をいまだに習得していないのである。したがってストックも少ない。書くこともないんで、もうちょいしたら海を渡ることにしよう。
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20200628 Rahsaan Patterson



https://www.youtube.com/watch?v=0fI-BY96IDg

Rahsaan Patterson (CD, MCA Records, MCD 115591997,1997, US)

Stop By 5:55
Spend The Night 4:52
Where You Are 5:09
So Fine 4:32
Stay Awhile 5:09
Come Over 4:49
Can't We Wait A Minute 4:49
Joy 2:52
My Sweetheart 3:56
One More Night 4:06
Don't Wanna Lose It 4:33
Tears Ago 5:02
Ain't No Way 4:10
Soul Free 5:23

 1995年の阪神淡路大震災直後にのめり込んだものに、同じアフリカン・アメリカンの音楽でありながらRapとは対極にあるNew Classic Soulの機種で、今や押しも押されもせぬシンガー・ソングライターのデビュー・アルバム。文句なしに美しく、甘く切なく、センス抜群、上手い !! もう、ここまでやられると、カラダ全部差し出すから好きなようにして・・・て感じ、いらんやろけど・・・
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20200628 Message From The Tribe



https://www.youtube.com/watch?v=TgATZhG1tQg

V.A.: Message From The Tribe (An Anthology Of Tribe Records, 1972-1976 (CD, comp., Box, Universal Sound/ Tribe, US CD 5, 1996, US)

–Phil Ranelin & Tribe Vibes From The Tribe 3:54
–Phil Ranelin & Tribe Sounds From The Village 4:54
–Doug Hammond Moves 4:31
–Tribe Beneficent 7:01
–David Durrah Space 2 0:39
–Tribe Farewell To The Welfare (1 & 2) 3:15
–Marcus Belgrave Space Odyssey 4:30
–Tribe What We Need 3:59
–The Mixed Bag La Margarita 5:17
–Wendell Harrison Tons And Tons Of B.S. 5:03

 アメリカの一大ブラック・ミュージックの中心地Detroitの裏路地に咲いたSpritual Jazzの仇花、Tribe Recordsに残された音源のアンソロジーで、これを聞くと、いかに当時の音楽シーンに活気と多様性があったかを思い知らされる。BluesだとかJazzだとかR&BだとかSoulだとかFunkだとかSambaだとかジャンルなんて、単なる後付けの理屈にらすぎないことがよくわかる。それぞれの持ち味に名前なんてない。自由奔放で意外性に満ちていて、どうしようもなくかっこいい。それに尽きる。
・・・と言われてもなんのこっちゃわからおヤロから追加して書くと、全体としてはJazzではあるものの、4ビートではなく、ラテン的ソウルフルでファンキーな8ビート・スウィングで、即興が大半を占める。トロピカルでサイケデリックだが、ブラジルっぽくはなく、あくまでアメリカ黒人のくろさが濃厚に出ているところが良い。このCDとは別に、のちに8枚シリーズでこのレーベルのアンソロジーが出たくらいなので、隠れた魅力があるのだろう。とにかく良いです・・・やっぱりわからんかこれでは・・・
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20200628 Was (Not Was)



https://www.youtube.com/watch?v=jlE8YzLRlcI

Orquestra Was:Forever's A Long, Long Time (Enhanced CD, Verve Forecast, 533 915-2, 1997, U
S)

Once Upon A Time In Detroit – 1:55
I Ain't Got Nothin' But Time – 8:27
Never Again (Will I Knock On Your Door) – 3:52
Excuse Me, Colonel, Could I Borrow Your Newspaper? – 4:56
Detroit In A Time Upon Once – 0:58
Forever's A Long, Long Time – 6:50
You've Been Having A Rough Night, Huh? – 4:49
Lost On The River – 13:04
A Big Poem About Hell – 2:48
I'm So Tired Of It All – 3:38

Sweet Pea Atkinson – vocals
Terence Blanchard – flugelhorn, trumpet
Sir Harry Bowens – vocals (background)
Lenny Castro – percussion
Merle Haggard – guitar, vocals
Herbie Hancock – Fender Rhodes, piano
Wayne Kramer – guitar
Harvey Mason, Sr. – drums
Donald Ray Mitchell – vocals (background)
Sheila E. – percussion
David Weiss (Not Was) – performer
Don Fagenson (Don Was) – bass, guitar, keyboards, saxophone
Kris Kristofferson – Performer (Enhanced Content)

 アメリカという国は捉え所のないほど多様で複雑で、魅力に満ちている。その魅力は、ヨーロッパやアジアやアフリカのように、千年単位の歴史の積み重ねによるものではなく、数百年の間に起こった歴史の断絶を含む急激で人為的な変化と、それがもたらした矛盾である。したがって、長い歴史に裏付けられた文化を把握するようなやり方では捉えられないところがある。それを文化不毛とする見方もある。しかし、アメリカ、というよりは、アメリカ人の不思議さ、そもそもアメリカ人という人種すら存在しないのに、アメリカという文化、平たく言えばアメリカらしさは、厳然と存在する。そしてなにより、1960年生まれの私にとって、半生の前半は、日本人にとっての外国という言葉が指すものはすなわちアメリカであった。舶来、外国、輸入物とは、すなわちアメリカのものを指していた。ポピュラー音楽も、いや、ポピュラー音楽こそ、アメリカのものであったことに異論を挟む余地はない。しかし、例えばイギリスの音楽ならば、ダウランドの昔からビートルズもストーンズも、プログレもパンクも、どんなに違っていてもやっぱりイギリスの匂いがプンプンするのだ。ではアメリカではどうかと問われると、知れば知るほど答えが見つからなくなる。歴史的な匂いの欠如と、それによる軽さという別の匂い、その自由でバラバラなところがアメリカらしいと言えば言える。アメリカン・ドリームという幻想も昔はあった。それも確かにアメリカらしさの主要な要素だと思う。それを懐かしみ、そこへ回帰する精神性も、一つのアメリカらしさである。一方で、第二次世界大戦以降、西側陣営の名主として、世界中に戦力を拡大したことによる、実に様々な影響から生まれた文化運動もまた、アメリカらしさである。外に対して民主主義を標榜し、自由と民主主義の精神を謳っておきながら、国内の人種差別は解決されていないところもまた、アメリカらしさである。それがゆえに、たとえばポピュラー音楽でも、人種や地域やポリシーによって、互いにほとんど断絶した音楽が並存していたり、その隔絶が融合されたことによる新しい音楽が常に生み出されているのもアメリカらしい。つくづく、アメリカという国を不思議に思う。そんなアメリカの一つの不思議、別に取り立てて書くほどのことではないone of themなのだろうが、それでも不思議な作品である。曲は往年のフォーク・シンガーHank Williamsと、Detroitで1980年にデビューしたディスコ・バンドの創設者の一人であり、現在のBlue Note RecordsのCEOでもあるアメリカ音楽界の超大物Don Fagenson (Don Was)の曲がほぼ半々で、最後の一曲を除いて、20世紀末感あふれる、黄金時代を懐かしむような、深くて濃いノスタルジーに満ちた、絶望的な脱力感を秘めたHip Hopなムードあふれる演奏である。しかも、極めてジャジーな、要するにアメリカらしい不思議な音楽である。砂漠を枯れ葉色に染めながら沈んでいく夕陽にさめざめと泣く思いがする。
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20200628 Gin And Juice



https://www.youtube.com/watch?v=OKGJOtRaqMg

Snoop Doggy Dogg: Doggystyle (CD, RE*, Death Row Records, CDL 50605, 1996, US)
*originally released in 1993

1 Bathtub 1:50
2 G Funk Intro
Featuring – The Lady Of Rage 2:24
3 Gin And Juice
Vocals [Additional] – Dat Nigga Daz 3:31
4 W Balls
Featuring – Ricky Harris, The Queen Of Funk 0:36
5 Tha Shiznit 4:03
6 Interlude 1 0:37
7 Lodi Dodi
Vocals [Additional] – Nancy Fletcher 4:24
8 Murder Was The Case
Featuring – Dat Nigga Daz 3:38
9 Serial Killa
Featuring – RBX, Tha Dogg Pound, The D.O.C. 3:34
10 Who Am I (What's My Name)?
Featuring – Dr. Dre
Vocals – Jewel, Tony Green 4:42
11 For All My Niggaz & Bitches
Featuring – Tha Dogg Pound, The Lady Of Rage 4:07
12 Ain't No Fun (If The Homies Can't Have None)
Featuring – Kurupt, Nate Dogg, Warren G 4:07
13 Interlude 2 0:33
14 Doggy Dogg World
Featuring – Tha Dogg Pound, The Dramatics 5:05
15 Interlude 3 0:44
16 Gz And Hustlas
Backing Vocals – Nancy Fletcher 3:51
17 Interlude 4 0:56
18 Pump Pump
Featuring – Lil' Malik 3:41

Produced by Dr. Dre

 アルバム・レビュのほうは、たしかアメリカの途中で、SalsaとJazzをやってRBあたりに言及したあたりで止まってたので続きを・・・たまたま持ってるアルバムのレビュなので認識不足など色々あるとは思うし、このジャンルを集中して聴いたのは阪神淡路大震災直後の数年間だけだったので、書くことが偏ってるしかなり古い。もう25年くらい古いので、書く意味なんてほとんどないに等しいのだが・・・やっぱりこの人のこの作品だけは触れておきたいと思う。もう随分と当時の震災によって崩れた街・世界・・・とりもなおさず我々の観念、固定された、絶対不動なる、生存の前提、過去と現在と未来という揺るぎない時間の流れ、なんの疑いもなく、空気のように当たり前にそこに存在していた、あるいは、存在していたと思い込んでいた全てが崩れ去った時の、あの、なんとも知れぬ喪失感と、数日間の極度の緊迫に押し上げられて高揚した精神が、どすんと落ちてきたときに見えた「無」と、気を取り直した時に現れた解放感・・・それがまったく脳裏にこびり付いて宿病のようになってしまった。その心の風景にしっくりと溶け込んでいくこのような音、もはやここには絶望とか反抗とか孤独とか、そんな生易しい感情の入る余地はない。彼の生い立ちや当時の状況、アメリカという国の持つ得体の知れない矛盾が、この音世界を生み出したことに違いはないが、私にとってはそんなことはどうでも良い。出された音が心に響く。この虚無感。絶え間ない破壊と不毛な荒廃、ただそれを見つめるだけの刹那的な感覚、切っ先を研ぎ澄ませておかなければ次の瞬間生きていられるかどうかさえわからない。感覚だけがモノをいう世界。考えることをやめた頭にずっと染み込んで鳴り響く、あまりにも殺伐すぎる音風景。彼のデビュー・アルバムはその普遍的現実を切り取って見せる。
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2020年05月29日

20200529 Attaingnant Danceries

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Ann.: Branle Gay "Que Je Chatouille Ta Fossette" & Branles Gays 28,23,42,7/ Doulce Memoire
(CD, Pierre Attaingnant/ Doulce Mémoire, V.A.: Que Je Chatouille Ta Fossette, Ricercar, RIC 294, 2010, Belgium)
 「引きこもりの美学」・・・楽しい !! Pierre Attaingnant (1494?-1552?)・・・1530年ごろから生涯にわたって1500曲ものシャンソンや舞曲などの楽譜の量産印刷をして音楽の普及に努めた人物。彼の功績のおかげで、現代の我々は500年以上前の庶民の楽しみがどのようなものであったか、詳細に知ることができる。このCDは、Attainganntが発行した7巻の舞曲集からの抜粋で、Pavane・Gailliard・Branle・Basse Dance・Touldion・Allemandeなど、当時の一通りの舞曲の伴奏形式が網羅されていて、しかも様々な楽器による意欲的な演奏の試みに満ちている。多くは作曲者不詳、あるいは不明と思われるか、そんなことは問題にならないような断片であったりもする。また多くはメロディや構成がよく似ており、ごく細かい違いによって呼び方が変わるに過ぎず、その呼び方さえ、ダンスの変遷とともに伴奏も変わったであろうと思われる。ダンス・ミュージックというものは、今も昔も移り変わりの早いものだ。表題のつけられたものには歌詞がある。しかしつけられていないものにも、他の録音で全く別の表題と歌詞を持って演奏されているものもある。作曲者が明記されているものもあるが、全く同じメロディを持つ別の作曲者の曲もあったりする。この時代、何をもとに曲を作るかで、今のような厳格な管理がなされていなかったものと思われる。さてこの「曲」というかトラックも、アルバム・タイトルにもなっている表題のついた曲を含め5曲のメドレイになっていて、それが見事な変奏になっている。特に、リズムを複雑化してダンスの技を競ったと思われる部分や、それに続いてそのまま盛り上がる部分があったり、いろいろな楽器、いろいろな音色で多様に演奏される16世紀ヨーロッパのダンス・ミュージックが、楽しい !! さて、6年分録り貯めた「NHK古楽の楽しみ」の音源から選んだ私のベスト古楽10選これにて終了。
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2020年05月28日

20200528 Odhecaton

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Hayne van Ghizeghem: De tous biens playne a 3/ Les Flamboyants
(CD, V.A./ Ottaviano Petrucci: Harmonice Musices Odhecaton A/ Les Flamboyants, Raumklang, RK2005, 2001, Germany)
 「引きこもりの美学」・・・Gutenbergが活版印刷技術を発明したとされた約半世紀後の1501年に、世界初の印刷楽譜がイタリアのOttavio Petrucciによって出版された。"Harmonice Musices Odhecaton A"(多声音楽百選其壱) と題されたその曲集には、Josquin des Prezをはじめ、フェッラーラ侯爵邸楽長の座をめぐってJosquinに敗れたHeinrich Isaac、そしてJacob ObrechtやAntoine Busnoysなどの世俗歌曲や作曲者不詳の俗謡、さらにはミサ曲の断片などが、約100曲収められている。これに取り組まれた録音も複数あるが、なぜか私はこのCDがとても心地よく、これを聴いているとすぐに眠ってしまうので、実はあまりよく聞いていないのだ。アルバムは、"De tous biens playne"という穏やかで眠りを誘う、どこか『涙のパヴァーヌ』の原型とも思われるような美しく物憂い器楽合奏で始まり、その変奏ロング・ヴァージョンで終わるのだが、初めの曲の終わりを待たずに意識を失ってしまい、後は夢とうつつの間を行ったり来たりして、18曲目あたりで一旦意識は浮上する。しかしその長い変奏曲を聴いている間に二度寝してしまって、最後の曲出始めのテーマが奏されると目が覚めるのである。だから、いろいろ調べたりしてわかったことはあるのだけれども、ここではこれを聴きながら幸せな眠りに落ちることだけをお勧めして・・・ああ・・・zzz
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2020年05月27日

20200527 e-u-e-u-e-a-i-e


Josquin Desprez: Missa Hercules dux Ferrariae/ A Sei Voci
(CD, Astrée Auvidis, E 8601, 1997, FR)

 「引きこもりの美学」・・・Josquin Des Prez (1450?-1521) の生きた時代はルネサンスの絶頂期であった。Leonardo Da Vinci (1451-1519)とほぼ同世代であり、先に言及したGuillaume Dufay (1397?-1474)などの、いわゆる「フランドル学派」の作曲家たちと世代の重なる直接の後輩にあたる。その時代のフランスやイタリアがどのような世界であったか、社会や音楽は、教会や王侯貴族、また庶民生活との関わり方はどんなものであったか、これらについてはすでに学術的な調査研究が尽くされてきている。それは余生の楽しみに残しておくとして、現代に録音された演奏のことだけに集中すると、その先輩たちの世代のものより、もっとポピュラーというか、世俗的・処世的・実業家としての音楽家の性格をより強く感じるものがある。Dufayの音楽が、聖歌や伝統音楽、世俗化曲の定旋律をもとにしたパリエイションの方法を数学的に構築していった感があって、その実験性や複雑さが、一種難解な魅力となっているのに対して、Josquin Des Prezには、よりメロディ・メイカーとしての才能が強く感じられる。テーマが明確で、印象的なメロディが一貫して出てくるので親しみやすい。
 歴史的には、15世紀に入ると、それまでの王侯貴族の権力の淘汰集中が進み、より強大な宮廷の政治力が勃興するようになって、しばしばそれが教会と対立するまでになる。歴史のほんの一部をかいつまんだだけでも、15世紀後半に北イタリアにあったフフフ・・・フェッラーラ公国のエルコレ1世 (Ercole I, 1431-1505) は、ヴェネツィアとの戦いに苦慮して和平に転じ、教会と和解して領地の破壊を免れた。以後長く続くイタリア全土と隣接する地域を巻き込んだ戦争に中立を決め込んで領内の文化芸術を保護した結果、フランドルや北フランスから文化人芸術家がここを頼って移り住んで来た。実はこの戦争は例によっての王侯貴族や教皇の覇権争いだったのだが、その要因の一つに塩があった。当時の塩はトルコ産が主で、オスマン・トルコ帝国がその権益を握っており、コンスタンディノープルが陥落した遠因もこれである。当時のスルタンはいうまでもなくMehmet 2世 (1432-1481) であって、その息子にCem (Djem, 1459-1495) がいて、兄のBeyazıt 2世との皇位継承に敗れて初めエジプトに亡命、その後、地中海の覇権争いをめぐる各国の駆け引きに利用されてイタリアやフランスに身柄を移された。しかしその間も、トルコ帝国からの地位と仕送り、受け入れた側の破格の待遇などもあって、裕福な生活であったとみられる。
 同時代に多くの文化人芸術家が、あのLeonardo Da Vinciでさえもヨーロッパ全域を職を求めて転々としていた。Josquin Des Prezがエルコレ1世のもとに草鞋を脱いで、彼のためにこのミサ曲を書いたのは公爵の最晩年の頃とされている。一聴してわかるように、非常にわかりやすいテーマが全編を通じて繰り返される。それぞれの一小節に通奏される音が決まっていて、それらは8小節で一楽章になっており、その8つの音は、従来のように聖歌や伝統音楽、世俗化曲の定旋律を元に作り出されたのではなく、全く新しい発想で「導き出された(soggetto covato)」ものである。すなわち、「フェッラーラのエルコレ」は、ラテン語で「Hercules Dux Ferrariae」となるが、その母音だけを取り出して並べると、e-u-e-u-e-a-i-eとなる。これを当時の「ドレミ」にあてはめると、「レ・ド・レ・ド・レ・ファ・ミ・レ」となり、これが各小節に通奏され、その上に多声が載っている。今で言うコード展開のようなものである。美しく、印象的で、素晴らしい曲である。ミサ曲を聞いてこれほど親しみを感じたことはない。しかし想像してみれば、繰り返し繰り返し、何度も何度も自分の名前から出た定旋律が繰り返される曲を聞いて悦にいったかもしれない公爵、またそのようなゴマスリ曲を書いたJosquinの阿諛追従ぶりもなかなかのもんである。
 Soggetto Covatoの手法で作られた曲に、"Missa lesse faire a mi"がある。これは、作曲したのに支払いをしない依頼者に催促しても、いつも返事は「わかった、まかせておけ (laissez-moi faire)」であったが、これをイタリア語にすると"lesse faire a mi"となり、ここに「ラ・ソ・ファ・レ・ミ」というメロディが導き出される。この曲では通奏音ではなく、冒頭のメロディに"lesse faire a mi"という歌詞までついて現れる。当て擦りもここまでくると痛快だが、このメロディはのちにまで伝わって、Eustache Du Caurroy (1549-1609) のシャンソンに使われたりもしている。で、その依頼主とは誰だったかというと諸説あって、そのうちの一人が、先に述べたオスマン・トルコのCemではないかというのである。名前が上がるということは、亡命者とはいえそれだけの財力があったということだ。
 その真偽はともかく、キリスト教国家にとって当時の最大の敵はオスマン・トルコであったのだが、地中海の覇権や商取引の上では、様々な事情で取引したようである。キプロスやエーゲ海の島々に、古くからのフランスの民謡が残っていたり、バルカン半島からその西北地方にかけてトルコの古い歌が伝わっていたりして、調べていくと興味は尽きない。人的交流が広く盛んになるにつれて、文化も入り混じる。ヨーロッパ全体で見ると、研究対象になるクラシック音楽のメイン・ステージは、このあと教会と宮廷へ、両者を股にかけて活躍する大作曲家の変遷へと移ってゆく。Clément Janequin・Claudio Monteverdi・Jean-Baptiste Lully・Johann Sebastian Bach・・・しかし、もう私には臭くて堪らなくなる。私が付き合えるのは、このJosquinまで。いささか悪ノリミサ曲でっち上げのきらいはあるが、従来の定旋律にこだわらず、「音楽に支配された作曲家」ではなく「音楽を支配した作曲家」・・・すなわち神に最も近づき得た人間として尊敬された凄み、神が人々の心の中に畏怖の念を持って生きていたからこそなされたこの評価は、これらの音楽で一心に祈ったかもしれない人々のことが想像されて、心に迫る凄みがある。これ以降、私の興味は、教会音楽や宮廷音楽にはなくなり、より広く民衆や民族の暮らしを反映した記録の残る写本を調査研究して、演奏によって世に問うている人たちのものに向かう。


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2020年05月18日

20200518 Dufay: Gaude Virgo, Mater Christi

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Guillaume Dufay: Gaude Virgo, Mater Christi/ Cantica Symphonia
(CD, Cantica Symphonia: Quadrivium, Guillome Dufay, Motets, vol.1, Glossa, GCD P31902, 2005, EU)
 「引きこもりの美学」・・・多声音楽の魅力というものは、クラシックに限らずどんな音楽にもいえることだと思うが、幾重ものメロディが散発的に別々の動きを持って歌われることによる重層性である。単旋律の歌は純粋性を、多声音楽は複雑な苦悩をよく表現できるが、その内容は全く様々である。Guillaume Dufay (1397?-1474) の生きた時代は、ペストの感染爆発が鎮静したものの、ローマ教会の大分裂が深く社会を分断していた.人々の精神的支柱であったキリスト教世界観が、唯一絶対の揺るぎないものではなくなった.神は人々を助けてはくれなかったし、神を信じよと我々に説く者が権威をめぐって争い続けていた.それは、神性を普遍無謬のものとし、その前提のもとで社会が成り立っていた時代とは全く異なる。神が普遍的原理なのではなく、それは別にある。音楽に限らず、人間のあらゆる知性的活動の分野で、改めて原理を問い直し、追い求める衝動が、ルネサンス運動を後押ししたのである。
 Dufayの音楽を調査研究して現代に復興させる試みのほとんど全てで、彼の楽曲にしか考えられない複雑で深刻で、しかも整った構成美を持つ独特の情感に触れるのはなぜだろう。もちろん演奏家による解釈や表現方法の違いは大きいけれども、多くの演奏で極めてDufay的な響きを感じざるを得ないのはなぜだろう。それまでの中世の音楽、単旋律で歌われる、純粋な信仰をイメージする清らかな聖歌、素朴で明るい庶民の歌を取り入れながら、「騎士道」という統一された美学のもと王侯貴族の館に開花した前宮廷音楽、両者を取り入れたり排除しながら発展してきた典礼音楽・・・さまざまな影響を受けながらも醸成されてきたヨーロッパ的な音楽の様々な要素が、一瞬にして彼のもとに結晶したかのような凝縮感を感じる。聞けば聴くほど、それまでに聞いた様々な時代の音楽の結果や、この時代以後に現れるいろんな音楽の萌芽が、多声のそれぞれの動きの中に組み込まれ、前衛的でありながら、全体としては美しい結晶のように聞こえるのである。
 "Gaude virgo, mater Christi"・・・このタイトルは、のちのJosquin Des Prez作曲のものの方が有名かもしれないが、もともとは聖書の詩句によらない古くからの定型句である。「喜びたまえ、処女なる、キリストの母よ」・・・細かい解釈は別として、概ねこのくらいの意味になると思うが、聖母マリアが男との性交渉に依らず、精霊と交わることで処女を維持したままキリストを宿した、という考え方に基づく。この曲は典礼音楽ではなく、それと世俗歌曲との橋渡し的な性格を持つ「モテット」・・・すなわち、グレゴリオ聖歌の定旋律の引き伸ばされた母音の長音に、様々な解釈などを織り込んだ言葉を持つ音楽が、やがて独立してひとつのジャンルになったものである。分類としては宗教曲に含まれるが、内容は両者の中間的な意味合いを持つ。聖母マリアのイメージが、キリスト教文化の中においては、聖なるもの、美なるものから始まって、やがてそれを賛美する内容が、男が女に求める理想の姿を様々に重ね合わせて、やがて複雑化していく。その傾向は、音楽のみならず、宗教画に女性の裸体が多く描かれることにも現れる。これらが調和して存在することが、ヨーロッパ的なるものの不思議と思われて仕方がない。
 重層する複雑さを統率する原理は、古来から数学的にアプローチされてきた.古代ギリシアで、一本の弦を鳴らした音の高さと、その半分の長さの弦を鳴らした音の高さが、同じようでありながら調和して快く聞こえたことをきっかけに「オクターブ」が発見され、やがて音階の数学的な分析に発展した.私は楽典を理解していないので、ここでDufayのこの分野における功績について書くことはできない。ただ、それによって構成された音楽が演奏された結果は、強く圧倒されるにもかかわらず、全体として深い安堵にに満ちたものだった.このアルバムのタイトル、"Quadrivium"・・・すなわち中世の大学における基礎学科「文法学」・「論理学」・「修辞学」に次いで修めるべきとされる四学科「算術」・「幾何学」・「音楽」・「天文学」・・・も、胎内に統合されたDufayの魅力を暗示しているようである。このアルバムは、サブタイトルが示す通り彼のモテット集である。長大な代表作ではなく、珠玉の短編集という趣がある。私は歳を取ったとはいえ自分ではロック・ミュージシャンの端くれのつもりなのだが、この700年もの時を越えてなおかつ奏でられる音楽の生気に触れる時、たかが数十年のポピュラー音楽の歴史が色褪せて見えるのはやむを得ないように思う。

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2020年05月17日

20200517 Hocquetus David


Guillaume de Machaut: Hocquetus David (instrumental)/ Ensemble Musica Nova
(CD, Ensemble Musica Nova: Guillaume de Machaut, Ballads, æon, AECD 0982, 2009, EU)
 「引きこもりの美学」・・・クラシック愛好家やキリスト教関係者とは異なって、私が古学に興味を持ったのは、ドイツのロック・バンド"Faust"に入れあげたことがそもそもの原因だった。Faustのアウト・テイクス集や、そのメンバーのセッションに、多くの実験的反復音楽の録音がある。それらはロックの魂を高揚させるような情熱が昇華されて無機質となり、宇宙に彷徨う光の周期のように感じられる。そこから反復をテーマとした現代音楽へと興味が広がるにつれて、やがてクラシック音楽へ、バロックをかすめて中世の音楽へと聴き進んでいった。私の古学に対する関心は、あまり純粋なものではないし、クラシック音楽の多くがキリスト教文化の基礎の上に成り立っているにもかかわらず、私はクラシック愛好家やキリスト教関係者のように、その歴史や伝統に充分な敬意を払っていない。単に、録音に現れた音の感触を自分なりに評価しているだけである。古楽の歴史を辿るのも、要するに自分が良いと感じる音楽の断片を探し求める道標にしているに過ぎない。
 そういうアプローチもありうるとすると、中世の音楽は、まさに良いフレーズの宝庫である。断片とかフレーズという言葉を使ったのは、これらの音楽が、ヨーロッパでは教会の典礼の式次第によって形作られ、あるいは音楽劇の形態をとって、往々にして長大な組曲の様相を呈するからである。私はそれらを正しく正面から聴き通すだけの忍耐力がなく、本題が始まる前の前奏曲や、その合間に挟まれた間奏曲に関心を持つ。あるいは庶民的な流行歌や、その一節が独立して様々に変奏されていく様子を聴いて楽しむ。宗教曲においてさえ、その一節を強調して歌い込んだり、やがては独立して別の曲に仕立てたりされている。または、逆にそうしてできた曲や断片を、ミサ曲に挟み込んでバリエイションを持たせたりしている。このような関心を持って中世の音楽を聴き進んでいると、似たようなフレーズがあちこちの、しかも時代もかなり離れたものの中に散見される。それらを遡っていくと、多くは作曲者不詳の庶民の歌や伝統的な民謡であることが多いが、時にはイスラム圏の古いマカームの一節だったりする。歌詞のあるものは、その意味を辿っていくのもまた楽しい。多くは結局旧約聖書の詩篇に行き着くのだが・・・
 旧来歌い継がれてきた典礼音楽や庶民の歌を、おそらく楽譜上で加工して作曲したと思われる曲も多い・・・というか、それが作曲家のメシのタネだったようだが、特定の印象的なフレーズを繰り返し、あるいはテンポを変えて、あるいは原曲と重ね合わせて演奏するとどうなるか、あるいはリズムが正確に記譜できるようになったことから、本来グレゴリオ聖歌の文句の抑揚に合わせる形で音楽が成立していった重要性に対して、明らかにリズムを弄んでどう響くかを楽しんだと思われる曲も多く伝えられている。それをシレッとミサ曲に挟んで聖歌隊に堂々と歌わせてみたり、騎士の嗜みなどと言って宮廷に献上し、紳士淑女がそれに合わせて踊るのを眺めてみたり、あんまり雑多になり過ぎたので教会側が怒ってこれらの演奏を禁止してみたり、それでも懲りない作曲家たちが、聖歌の途中に入れる間奏に、もともと卑猥な歌を器楽合奏で挿入し、後で聖歌隊に曲名を当てさせてみたり・・・おまえらなかなかやるのう、こんな、現代音楽なんて腰を抜かすような実験が、早くも14世紀の昔から行われていたことを知るにつけ、ますますその響きに取り憑かれるようになってしまった。
 Guillaume de Machaut (1300?-1377) は、おそらく中世のヨーロッパに現れた最初の大作曲家であろう。その生涯は波乱万丈で興味が尽きないし、代表作とされる「ノートル・ダム・ミサ曲」も、聴き込んでいくにつれて複雑な味わいに惹かれてくのであるが、ここでは異色とされる「ダヴィデのホケトゥス」を紹介したい。この曲は、もともとグレゴリオ聖歌の「アレルヤ唄」のなかのマリア生誕の部分"Maria Nativitas"の最後に家系の祖としてダヴィデに言及される部分の一節を取り出して、多声楽曲に編曲されたものである。複雑なリズムが交錯し、特に細かい連打音が、各声部交互に出現するのが「しゃっくり」に似ていることから、その意味であるところの"Hocquetus"が充てられたと言われている。今でいう「シャッフル」ですな。これは複雑すぎて元の歌詞をもっては到底歌えないので器楽合奏曲ではないかと言われているが、様々な解釈の演奏が存在する。非常に「クラシック臭く」演奏されたものもあれば、むしろコミカルに押し倒したようなものもある。しかしこのEnsemble Musica Novaの演奏は、このアルバム唯一のインストゥルメンタルであり、それがこの曲の正しい解釈だと明記されている。ほとんどの場合笛で演奏されるが、彼らはハープやヴィエールなどの弦楽器を加えている。その響きは、空間に浮遊する音霊の群れのように聞こえ、同じフレーズが時々現れては消える。万巻を読み尽くした老学者の穏やかさというべきか、独特の精神的な高みに誘われたような、不思議な感触がある。
posted by jakiswede at 14:19| Comment(0) | 変態的音楽遍歴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする