2020年04月19日

20200419 Cantigas de Santa Maria

Cantigas de Santa Maria, Des oge mais quer’ eu trobar, CSM 1

 「引きこもりの美学」・・・ピレネー以北に伝わった抒情詩人や吟遊詩人の音楽は、イベリア半島にも影響を及ぼした。特にカスティーリャ王アルフォンソ10世 (Alfonso X, 1221_1284) は、政治家としてはちょっと残念だったようだが知性を愛し、詩作や音楽に通じた。音楽における彼の功績は、「聖母マリアのカンティガ集(Cantigas de Santa Maria」という419曲からなる歌集を完成させたことにある。名前が示す通り聖母マリアを讃える歌が中心だが、古くからの民謡や俗謡など、当時知られていた古今東西の様々な楽曲の断片のほかに彼自身の作曲によるものも含まれていて、楽譜や挿絵とともに、現代に貴重な資料を残している。したがってこれを取り上げた現代の音楽家たちも多く、まさに演奏法が指定されていないからこそ許された多種多様な解釈が花開いて、古楽の楽しみ面目躍如の観がある。その醍醐味は、何と言ってもイベリア風の異国情緒であろう。当時、イスラム勢力からのキリスト教徒による奪還 (レコンキスタ) が進行中であり、二つの大きな文化が合流している。それは使われている弦楽器の響かせ方、打楽器のリズムなどに顕著に表れている。もちろん私の聴いたものはそのうちのごくごくひとかけらであるが、ここで取り上げたアルバムは、その中でもきわめて実験的でありながら、響きが繊細で美しく、全く他に類を見ない独創的なものだと思う。声・ハープ・ダルシマー・打楽器というシンプルな構成で、静かに、彫り深く、研ぎ澄まされた感覚の音世界が広がっている。これより100年くらい後になるが、バルセロナ近郊のモンセラート修道院に伝わる「赤い本」(Llibre Velmell de Monserrat) も、ほぼ同じ時代に広まっていた傾向の曲が集められている。また、ドイツのバイエルン近郊にある修道院から19世紀になって発見された「カルミナ・ブラーナ (Carmina Burana)」も、ほぼ同じ時期に書かれたものとされており、13世紀ごろまでの中世ヨーロッパ音楽を探索する上で、この三つは大きな道しるべとなるであろう。これらに関連するキーワードで探索していけば、キモチノヨイ音楽体験ができるに違いない。その代わり欲を出せばまた一財産くらい飛んでしまうであろうが・・・

posted by jakiswede at 00:00| Comment(0) | 変態的音楽遍歴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20200419 Thibaut de Champagne

Thibaut de Champagne: Chançon ferai, que talenz m'en est pris

 「引きこもりの美学」・・・中世ヨーロッパのキリスト教会で用いられていた聖歌のほとんど大部分はグレゴリオ聖歌だが、その発祥の紆余曲折や議論については無視したうえで、きわめて乱暴で大雑把にいうと、それは単旋律で詩篇を朗詠し定型句をひたすら繰り返すだけの退屈なものであった。それが退屈であったからこそ、そこにいろいろな工夫が生まれ、異なる要素を取り込んで複雑化することは自然であった。異なる要素とは、地域による差異、民族や宗教、身分などによる差異が挙げられる。当時の多くの人々は文字が読めなかったので、彼らに教義を伝えるにあたって、それをわかりやすく面白おかしく語って聞かせ、やがて演じて見せたことが、のちのバレエやオペラにつながる。その過程で、様々な地域の庶民に広まっていた歌が取り入れられ、また洋の東西を越えて往来する吟遊詩人の影響も取り入れられた。なにごとも、混ざりはじめが面白いのである。熟成された味というものは、好き嫌いが分かれる。そういう意味で、13世紀頃までの古楽はとても面白い。当時はまだ現代用いられている五線譜は存在せず、音の抑揚を記しただけの様々な譜面が断片的に残る。これらのほとんどはリズムが明確でなく、メロディ・ハーモニー・テンポという考え方もない。使う楽器も指定されていないし、そもそもどの音域のものかもわからない。全てが厳密に指定された現代の楽譜音楽とは全く異なるアプローチが必要になる。どんな響きが飛び出してくるか驚かされることが多い。演奏家によるところも多いが、元々の楽曲の良さが今に伝わるものも非常に多い。という点で、きわめて宗教的であり才能の塊であったドイツのHildegard von Bingenと同時代に、フランス南西部大西洋側のイベリア半島に近いアキテーヌ地方 (ボルドーが中心) が大きな役割を演じる。その領主であったアキテーヌ公ギヨーム9世 (Guillaume d’Aquitaine, 1071-1126) は最初の抒情詩人として世俗音楽と当時の典礼劇の即興に影響を与えたと言われ、その孫娘のアリエノール (Aliénor d'Aquitaine, 1122-1204) は自ら芸術を愛し自らも吟遊詩人として活動した。この時代にベルナルト・デ・ヴェンタドルン(Bernart de Ventadorn (1130?-1200?) など中世を代表する作曲家が多く庇護されて世に出ている。この後、彼女は姻戚関係からフランス王妃、さらにイングランド王妃にまでなり、このときイングランドはフランスの半分を領有して、のちの百年戦争、薔薇戦争へとつながることになる。これによって吟遊詩人の芸術が北フランスに伝わり、当時勃興しつつあった騎士団すなわち武装勢力と結びついて、ルネサンス期の宮廷音楽に代表されるフランス音楽文化の基礎となる。ただ、そっち方面へ行くとだんだん「クラシック臭く」なるので私は関心がない。そうなるずっと前、アリエノールが亡くなる数年前にフランス北東部に生まれたシャンパーニュ伯ティボー4世、Thibaut de Champagne (1201-1253) も姻戚関係によって、アキテーヌ地方の南西、ピレネー山脈を隔てる形で隣接するナバラ王国のテオバルド1世となるが、彼自身も吟遊詩人であり、この時代にしては珍しくその作品が多く残されていて、旋律のつけられたものもある。この後、14世紀に入ると少しずつ音楽の性格が変わってくる。教会音楽から派生して、自由な施策と作曲が出始め、それが熟成しつつある安定期として、これらの土地や人物を追うのもまた一興と思われ・・・

posted by jakiswede at 00:00| Comment(0) | 変態的音楽遍歴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20200419 Hildegardt von Bingen

Hildegard_ O Jerusalem.jpg

 「引きこもりの美学」・・・6年分録り貯めた「NHK古楽の楽しみ」の音源から選んだ私のベスト古楽10選。放送でかかったものから選んだものなので、全ての古楽録音をベースにしたものではない。選んだものが名演なのかどうかというより、全くの独断と偏見で、時代順に並べることにする。

 先にも書いたが、私は「クラシックくさい」ものが嫌いである。そこで一気に1600年以前に飛んでしまったのだが、とはいえグレゴリオ聖歌はあまりにも宗教的すぎて、もう少し人間的な匂いのするものから・・・ということで Hildegardt von Bingen (1098-1179) の最も好きなテイク、演奏しているのはBingenの研究に一生を捧げていると言っても過言のない愛が熱く伝わってくるSequentia (1977- ) 古楽の好きな人には常道の選択なので、興味のある人は詳細データについてはインターネットに譲る。とにかくこの音空間の異様さ、この強烈な匂いと不毛と安らぎ・・・反復がもたらす精神的高揚・・・これですわ。Sequentiaさんすんません合唱より器楽合奏の方が好きなもんで・・・

posted by jakiswede at 00:00| Comment(0) | 変態的音楽遍歴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20200419 皆川龍夫先生逝去

KIF_7235.jpg

小泉文夫・中村とうよう・竹内勉・阿木譲・皆川達夫・・・違うんだ。何もかもが違いすぎる。掴み方が違う、というか、掴む手の大きさが、もともと全く違う。彼らにかかっては、自分の研究素材が、すでに手の中にあって、「ゆっくり料理したるから待っとれ」て感じだ。対象にかじりついて一個一個・・・なんて小さくないんだ。全然違う。ぶっちぎりのスピードに圧倒される。そんな次元の違う最後の人が亡くなってしまったね・・・

posted by jakiswede at 00:00| Comment(0) | 変態的音楽遍歴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月05日

20200405 クラシック臭さ

KIF_7058.jpg

 ようやく録り溜めてきたNHK-FM「古楽の楽しみ」の音源整理を終えた。私はクラシック音楽が苦手である。あの、なんともいえぬ「その世界の音感」が苦手なのだ。それを「クラシック臭さ」と勝手に呼んでいるのだが、それがなんなのか、あんなに「臭い」ものを好む人間が多いのは何故なのか、もともと学校教育からしてあの「臭さ」を撒き散らすのは何故なのか、まあそんなことに興味があったのである。私は1970年代はプログレッシブ・ロックをよく聞いていたのだが、そこからイギリスやヨーロッパのトラッドやフォークへ行くのはすぐだった。その音感はこよなく好きで、やがて中世のヨーロッパの音楽に行き着いた。それは分類上、「クラシック音楽」に属するのだが、情報を得ようとしても、巷には仰ぐべき師匠はいなかった。大抵、バッハ以前の音楽は聴くに値しないという評価だった。全く偶然、あるバンドの練習場所が西宮市の甲東園だったのだが、そこには日本がルネサンスに誇る「ダンスリー・ルネサンス合奏団」があったのだ。師匠はそこにいた。しかしまだ時代はそこまで来ていなかった。若かった私の興味の拡散は広くて激しく、その狭い世界には飽きてしまった。長い長い紆余曲折を経て、ようやく「古楽」というものが見直され、演奏家がたくさんいることに気がついた。全く知らぬ世界である。ラジオはまさに、知らぬ世界へ誘う専門家の貴重な授業であった。日本の音楽界にも、立派な研究者が何人もおられ、早く早く亡くなってしまった民族音楽研究家の小泉文夫大先生をはじめ、なんといってもクラシック界の大御所、皆川達夫大先生の意外な側面も別番組で知った。そのなかでバッハ研究の第一人者であった磯山雅大先生がお亡くなりになったのも知らなかった。その道を極めた人は、単なる専門知識の羅列だけでなく、なぜそこに注目して、なぜその演奏が良いのか、その価値を単刀直入に解いてくれる。もう、聞いていて面白くて面白くて仕方がない。クラシック音楽の歴史が、いかにしてあの「臭さ」が醸成されたか、そしてその「臭み」そのものがクラシック音楽の本質であって、その中に入り込めば、様々な微妙に異なる「臭み」を楽しむことができることもわかった。その「良さげ」なことは理解した。でもやっぱり苦手だということも確認できた。だから、やはり私は「古楽」に向くのである。「古楽の楽しみ」とはいいながら、番組内容のほとんどは「バロック音楽」である。本来「古楽」という言葉は、私の理解では中世からルネサンス前半、作曲家でいえば大バッハ以前のものを指していたはずなのだが、そんなものは年に数回しかかからない。従って大半の録音は破棄した。残されたものを聞き込み、作曲者や演奏家をキーワードに追い求めていって、さらに参考文献まで教えてくれるものだから、便利なインターネットで検索しまくった結果、私は一つの見解を得た。だいたい1600年頃を境にして、ヨーロッパのクラシック音楽は「臭く」なるので、聞くべきはそれ以前、流石にグレゴリオ聖歌では単調にすぎるので、12世紀のHildegard von Bingenあたりから始めて、13世紀の吟遊詩人その他、14世紀に入って行われる様々な技術的な変容・・・その辺りが最も面白い。一つ一つに敬意を払いすぎると、またぞろひと財産イッてしまいそうになるので、申し訳ないがほとんど我慢してmp3、それでもアルバムを通して極めて良い演奏と調べがついたもののうち、日本円に換算して送料込みで\2,000未満のものに泣く泣く限定してCDを購入してしまった。私はメンタルの弱い人間である。CDを処分しようとしているのに増やしてしまったのだ。しかし6年分の日本の古楽会の総力の結晶を聞き込んだ末に厳選したCDがこれだけに絞り込まれたのだから、まあ良しとせんかい。良いアンプで聞くと、耳の常識が吹っ飛ぶほど素晴らしい音世界が広がる。これこそまさに「引きこもりの美学」・・・このような時世、誰に気兼ねすることもなく、よくぞ首にしてくれました、幸せの日々を、どこ吹く桜・・・

posted by jakiswede at 00:00| Comment(0) | 変態的音楽遍歴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月01日

20200401 Ciaccona

 「引きこもりの美学」・・・私は毎朝NHK-FMの「古楽の楽しみ」という番組で目覚めるのだが、去年の一月に・・・私の耳は別の生き物で、よく番組の興味深いフレーズを聞き分けて私を叩き起こす。今朝は「シャコンヌ、あるいはチャッコーナは、ペルーの卑猥な踊りの音楽に起源を持つ」という衝撃的なフレーズに叩き起こされた・・・と書いた。ここんとこずっと、6年ほど録りためてきた音源の整理をしているのだが、ようやくこの2019.01.25の録音までたどり着いた。改めてその曲を聴きかえす・・・これは・・・ちょっとペルーの都市音楽をかじった人なら歴然とわかる「Festijo」ではないか・・・「Chaccona」をキーワードに、YouTubeでさらに音源を漁ると、出るわ出るわ、イタリアやイベリア半島で流行りまくったというChacconaの復元演奏のかずかず・・・さらに文献にも行き当たり、オンライン翻訳機能を使いながらたどたどしく意味を探っていくと、いわゆる「ハチロク」・・・6/8拍子で踊ることに喜びを感じるようになった始まり、さらにその二小節目の第二拍を最も強く響かせるようになった経緯・・・これすなわち、ブラジルのSambaのスルドゥの強拍が、なぜあれほどSambaにとって重要かという謎の証でもある。クラシック音楽という不慣れな世界で、世界の音楽につながる発見に喜ぶ日々・・・


20200330 志村けんさん死去 新型コロナウィルス (2020.04.20追記)

posted by jakiswede at 00:00| Comment(0) | 変態的音楽遍歴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月29日

20200329 皆川達夫先生引退

 「引きこもりの美学」FMラジオ録音整理編完了。私はミニ・コンポのタイマー機能を利用してメモリ・スティックにNHK-FMを録音している。毎朝6時からの月曜から金曜までの「古楽の楽しみ」、土曜日は飛ばして日曜日の「能楽鑑賞」と、土曜日7時からの「ウィークエンド・サンシャイン」、日曜日に再放送の「音楽の泉」・・・ちなみに今日は長年お話を務めてこられた皆川達夫先生の最後の放送であった。「おはようございます。今日の放送をもって私の最後の解説と致します。その最後の音楽の泉はバッハ作曲の無伴奏バイオリンのソナタをお送り致しましょう。・・・今日の音楽の泉、このあたりでお別れすることと致しましょう。ところで個人的な事柄で恐縮ですが、私は音楽の泉の解説を1988年昭和63年10月から担当させて頂きました。30年以上の長きに渡り、しかも92歳の高齢を迎えて体調にやや不安を覚えるようになりましたので、これをもって引退させて頂きたく存じます。全国の皆様に長い間ご注視、お聞き取り頂き、お支え頂いたことを心より御礼申し上げます。ここでお別れ致します。皆さん ごきげんよう、さようなら。」忙しいからリアル・タイムに聞く時間はない。毎月メモリ・スティックからパソコンに落として溜め込んだものが6年分、いつか整理しようしようと思っていたところへ、昼のバイトがクビになったのとセルフロックダウンでたっぷり時間があるから手をつけたものが先ほど大終わった。肩と首がパンパンで目ェが痛い。


20200327 国内一日の感染者100人超え 新型コロナウィルス (2020.04.20追記)

20200328 国内一日の感染者200人超え 新型コロナウィルス (2020.04.20追記)

posted by jakiswede at 00:00| Comment(0) | 変態的音楽遍歴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月29日

20200229 なにゆえ国々は騒ぎたち


 Claudin de Sermisy (1490?-1562) 作曲Missa "Quare Fremuerunt Gentes?"から"Kyrie"・・・これは旧約聖書の「なにゆえ国々は騒ぎたち」という文句から始まる詩篇第二によるミサ曲から「主よ憐れみたまえ」に始まる冒頭の部分である。詩篇は以下のように続く。Quare fremuerunt gentes, et populi meditati sunt inania? Astiterunt reges terræ, et principes convenerunt in unum・・・すなわち公的な日本語訳によると、「なにゆえ国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか。・・・」セルミジによるメロディとDouls Memoireによるこの演奏に耳をヤラレて調べてみたらこのような内容・・・これはたまたま耳に入ったミサ曲、その出自は旧約聖書の詩篇、しかし今の我々の置かれた状態にも通じるものを感じ寝るのだが・・・
 Nicholas Ludford (1485? – 1557) 作曲Missa "Missa Benedicta et venerabilis"から"Gloria" ・・・当時のフランス王フランソワ1世が、同じカトリック内で敵対するドイツ神聖ローマ帝国のカール5世、すなわちハプスズルクケによる兄弟王国スペインのカルロス1世をくじくために、半ば宿敵状態であったイングランドのヘンリー8世を招いてカレー近郊の草原で「黄金の祝宴」を行なった。その際に行われたミサでフランスとイングランドのミサ曲が交互に演奏されたという。このアルバムはその趣向に沿ったものである。時代はまさにルネサンスの黄金時代であった。フランソワ1世はレオナルド・ダ・ヴィンチを保護し、アメリゴ・ヴェスプッチの北米への航海を援助した。ヘンリー8世は、何と言っても随一のカリスマ性のある文武に長けた王であったし、イングランド国教会のカトリックからの独立と宗教改革をまねいたが放漫な財政によって身を持ち崩した。ドイツは東からスレイマン1世の率いるオスマン・トルコ帝国に脅かされていたが、なんといってもスペイン・イタリア・ドイツ・オーストリアを含み今のフィリピンあたりまで勢力を伸ばす「陽の沈まない国」であった。要するに世界史愛好家なら、湧き上がる記憶を落ち着かせるのに幾晩もの眠れぬ夜を過ごさなければならない歴史の激動期であった。「なにゆえ国々は騒ぎ立ち」・・・まさにそうだったはずだ。Sermisyのシャンソンやミサ曲の多くが、どちらかというと清透でわかりやすいのに対して、イングランドのLudfordの曲は各声部が複雑に絡み合って独特のうねりを出し、背後から闇が、darknessが、湧き上がるというか、英語的にはfallおちかかるのである。古楽が複雑な様相を抱え込んで毒味を醸し出すのは、宗教心や信仰心がもまだ上から下まで人々の心に恐れを持って住み着いていたこの時代までで、だいたいこの時代から後は、音楽の中心が宮廷の舞踏会や国王の耳を慰めるための阿諛追従の輩どもによるオナニー合戦に堕落してしまってちっとも面白く無くなるように感じるのは、私だけかもしれない・・・
posted by jakiswede at 00:00| Comment(0) | 変態的音楽遍歴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月31日

20200131 The Roots: Things Fall Apart

KIF_6435.jpg

The Roots: Things Fall Apart (CD, MCA Records, MCAD-11830/ Limited Edition, Ace Cover, 1999, US)


Act Won (Things Fall Apart)

Table Of Contents (Parts 1 & 2)

The Next Movement

Step Into The Realm

The Spark

Dynamite!

Without A Doubt

Double Trouble

Act Too (The Love Of My Life)

100% Dundee

Diedre Vs. Dice

Adrenaline!

3rd Acts: ? Vs. Scratch 2... Electric Boogaloo

You Got Me

Don't See Us

The Return To Innocence Lost

Untitled (blank)


https://www.youtube.com/watch?v=MJCHeEQV454


D'Angelo、Erykah Baduと聞いて、その周辺のNew Classic Soul、Hip HopやRapをたどるなかで、The Rootsという「バンド」に惹きつけられることになった。「バンド」と「」付きにしたのは、実は彼らはRapグループなのだが、おそらく世界唯一、サンプリングやプログラミングに頼らず、楽器演奏をするバンドだからである。Hip HopやRapが、なぜ既存の音源をサンプリングしてベース・トラックにするようになったかというと、要するに貧乏だったからであるが、その貧乏を生み出した状況について、社会や仕組みの不当性から、自分自身が変えられない要素、例えば肌の色や故郷の喪失などによって、苦しい状況に置かれることを余儀なくされていること、それを言葉にするには、個人的でストレートなメッセージ性を得る必要があると認識されたからである。状況の変化が早く、バンド演奏を醸成している時間がないことと、バンド演奏だと、それぞれの情感に応じた音が空間的に出せるかどうかが不透明で、ミュージシャンの肉体的整合性に依拠せざるをえなくなる、つまりメッセージの切っ先が鈍るからである。Hip HopやRapというのはそういう「音楽」である。これも「」付きにしたのは、私は未だ、そういう意味では純粋に奏でられたものでないと音楽として認めたくない気持ちがどこかに残っているからである。だから例えばReggaeがRoots Rockの時代からDance Hallへと進化し、バック・バンドが「奏でる」ことよりもDJのバック・トラックの役割しか果たさなくなったこと、ひいてはサンプリングやスクラッチ、あるいはプログラミングによるバック・トラックが主流になっていったこと、要するに日本で言うところの「クラブ・シーン」に、一抹の寂しさを覚える。なぜかというと、私はヴォーカルであれ器楽合奏であれ、全ての演唱が有機的に結合して一つの音楽が成立している状態に、より一層感動するからである。いわゆる打ち込みやループなど、その場で合わされたものでないバック・トラック上での演唱は、どうしても両者の間にタイム・ラグが生じる。それがいかに微々たるものであっても違和感が出る。楽曲が良ければ良いほど、それを最大限に表現しようとして、コンポーザーは不確定要素を排除したい気持ちは理解できるのだが、それだけにこの違和感があると失望が大きいのである。だから文化としては理解しているものの、私個人の趣味としては、これらのジャンルには深入りしなかった。それだけに、The Rootsの演奏を最初に聞いたときは衝撃だった。1993年のデビュー・アルバムからトラックに通し番号か振られており、私はアルバム3作目から数枚持っている。ここに紹介するのは、そのなかで最もメロディアスなトラックの多い、音楽的に聴きやすいものである。オリジナルが出た直後に並行して発売された5種類のジャケット違いのうちの一つである。おそらくは銃撃された人の手に握られたスペードのエース、衝撃的な写真である。インナー・スリーブにはメンバーの表情とともに、各トラックの来歴やコンセプトが延々と綴られている。内容は、かなり難解な英語で意味するところのわからない部分が多いが、拾い読みでも十分伝わってくる。どうにもかける言葉の見当たらない絶望的な気分になる。その気分を共有することによって、明日を生き抜こうという気持ちになる。ちなみに最後のトラックは無音。

posted by jakiswede at 00:00| Comment(0) | 変態的音楽遍歴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20200131 Erykah Badu: Baduizm

KIF_6410.jpg


Erykah Badu: Baduizm (CD, Universal, UD 53027, 1996, US)


Rimshot (Intro)

On & On

Appletree

Otherside Of The Game

Sometimes

Next Lifetime

Afro (Freestyle Skit)

Certainly

4 Leaf Clover

No Love

Drama

Sometimes...

Certainly (Flipped It)

Rimshot (Outro)


https://www.youtube.com/watch?v=HEPo3DEBtUI

https://www.youtube.com/watch?v=73aLNB0pPuQ


これはD’Angeloの翌年に買った。尼崎市内の強烈にエキゾチックなアパートに仮住まいを始め、バイトで食いつなぎ、ぶり返す悪夢と戦っていた。枕許に東海道本線が走り、夜通し数分おきに貨物列車が通過する。凄まじい轟音と振動で、とても眠れたものではない。それは「あの瞬間」を思い出させるに十分すぎる刺激だった。選りに選ってこんなところに仮住まいを始めてしまったのには訳があるが、それは措くとして・・・しかしここに長年暮らす人もいる。慣れとは恐ろしいもので、午前2時ごろ數十分ほど列車の往来が途絶える時がある。そこを狙って眠りに落ちる。そんな状況の中で、どうやってこのアルバムに出会ったか全く覚えていないのだが、パッと見てすぐ買った。イントロから、独特の歯切れの良いリム・ショットの音とソウル・ミュージックに特有の、甘くて丸くて暗い、粘りつくようなグルーヴを持つベース・ライン・・・たちまちこの世界に引きずり込まれる。オーソドックスなソウル・ミュージックである。しかし1970年代とは何もかも異なる。レーベルのオール・スター・バンドがあって、そのバッキングに乗せて歌手が量産された時代ではない。あらゆる指向性は細分化されて、大きなシーンでも、一つのコンセプトをバンド演奏で練り上げることが困難になっている。Hip HopやRapは、個人のメッセージ性がモノを言う「音楽」である。「」付きにしたのは、これらが純粋に「奏でられたもの」ではないので、私としては音楽と呼ぶのに若干の戸惑いがあるからである。しかしそれらの影響を受けて、さらにデジタル技術が洗練、蓄積されて、多くのトラックが容易に (「安易に」ではなく) 完成できたことも事実である。都会的な現代ゴスペルの中で蓄積された才能、プロデューサー・シンガー・ソングライターのMadukwu Chinwahが関わった作品群と、ほぼ世界唯一と言って良いバンド演奏によるHip Hopグループの ≫The Roots ≫が関わった作品群があり、彼らがバック・トラックを制作して、コーラスを含めた全てのヴォイスをErykah Baduが務めている。トラックの多くの部分が、そうしたプログラミングや多重録音で構成されているが、それによる違和感は全く感じない。それどころか、その一貫性が、バンド・サウンドよりも強固な個性を打ち出すことに成功している。全体として見事に統一されたアルバムの空気を持っていて、イントロから徐々に、ソウルフルでアフリカ的な、つまり呪術的で反復を基調とした、そこに私は色濃いバントゥーのニオイを感じるのだが、さらに硬質で社会的な緊張感を孕んだ世界に降りてゆく。特に、転調してもベースが安易に追随しないのが良い。転調されたコードと共通の音程を慎重に選んで変わっていく曲想に、むしろ動かしがたい凄みを感じる。初めは、愛について、男と女の気持ちのすれ違いについて・・・彼女の、低いが真の強い、見事な歌い回しに導かれ、そして事実上のラストを飾る ≫Drama ≫で、このコンセプトが見事に提示される。なんと、この曲だけRon Carterがベースを弾いている。「この世界はとてもドラマチック・・・こんな世界に私たちが生きているなんて、とても信じられない。なんという、狂いに狂った世界に、それでも私はまだ生きている。」そう、生きることそのものに苦しむ人が世界中にいる。いや、苦しんでいる人の方が、はるかに多いに違いない。これは24年前に発表された作品である。あの頃に比べて、今はもっと切羽詰まっている。状況に苦しみ、心を痛めない人は、おそらく気がついていないだけに違いない。生きるか死ぬかの瀬戸際にいる人たちに比べて、私はなんと幸であろう・・・出自によって差別されたわけではない。不当に隔離されたわけでもない。仕事がないわけではない。貧富の差に落ちているわけでもない。デモに参加して拘束されたわけでもない。間違った教育を受けたわけでもない。そしてい命が狙われたわけでもない。「子供たちに知恵を、明日を生きられるように、本当の知恵を・・・」私は今でもこの曲を聴くと涙が出る。なんという安らかな、暗くて冷たい、厳しい、絶望的な、そして希望に満ち溢れた歌だろう・・・そしてアルバムは進行し、徐々に現実に戻っていく、独特の歯切れの良いリム・ショットに導かれて・・・

posted by jakiswede at 00:00| Comment(0) | 変態的音楽遍歴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする