2020年05月02日

20200502 能勢電1700系邂逅

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 今も運用されている阪急最古の車両系列といえば、1960年から製造された阪急の主に旧2000系が能勢電に譲渡された能勢電1700系がある。これらは1990-92年にかけて4両編成9本が譲渡されたもので、今も4両編成が4本残っている。能勢電は古くから阪急の旧型車両の博物館のようなところがあって、私が子供の頃は、まだ小型木造車が走っていた。1983-85年に、1962年から製造された主に旧2100系のうち4両編成6本が譲渡されて能勢電1500系となり、能勢電に初めての大型高性能車両が導入されることになった。これらは2016年までに全て廃車されているので、阪急時代から通算すると50年以上の長寿を誇ったことになる。また、それより車齢の古い1010-1100系が後になって譲渡され、これも2001年に廃車されて現存しない。その後、旧2000系・旧3100系や旧5100系が譲渡され、古き良きマルーン一色時代の阪急の姿が残されている。さてその能勢電に残る1700系は、すでにない1500系とともに阪急時代の編成単位での譲渡であったために、阪急時代の紆余曲折を経て組み込まれた別形式と入り混じった状態で移籍した。私は阪急鉄道少年であったので、その全ての車両の来し方行く末が頭に入っているのであるが、この二つのグループのすべての車両の一生は全く波乱万丈である。以下にそのあらましを述べる。

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 広義としての阪急2000番台は、2000系・2100系・2021系・2300系・2800系、さらには2021系が改造されて別形式を与えられた2071系が存在していて、登場時の外観はほとんど同じだったが内容はかなり異なる。

 2000系は1960年に登場した。阪急の現在の車両デザインを決定づけた形式である。回生ブレーキと定速度運転という最も特色ある機能を有し、2300系とともに1961年第一回ローレル賞の栄誉に輝いた。竣工時の第一編成は、2050-2000-2051-2001という4両編成であったが、系列を代表するトップ・ナンバーが大阪方から2両目の中間車であることが興味深かった。トップ・ナンバーなら先頭に持ってきてやっても良いものを、なぜ中間に、しかも運転台もない付随車なのかと子供心に思った。パンタグラフは電動車に2器搭載だったが、上の編成では2000と2001にあって、大阪に向かうときは逆向きに走っているように見える。これは、当時のラッシュ時の増結運転の計画では、大阪方に一両増結することが想定されていたのだが、その一両は単独走行できるパンタグラフ付きの電動車でなければならず、大阪方に電動車とパンタグラフがあると、それらが隣接して架線を押し上げてしまうので、それを防ぐために編成の向きを従来とは逆にしたのである。しかしユニット単位での編成の番号順は大阪方からとしたので、2050-2000-2051-2001の順となり、トップ・ナンバーは中間付随車に隠れる形になった。しかし一両ずつの増結計画を立てている間に沿線人口が急激に増えたので、増結よりも編成の長大化の方に計画は変更されて、2-4両単位での増備が続けられることになった。日本は高度経済成長、都市人口爆発の時代だったのである。しかし両運転台付きの2000系というものも見たかったものではある。

 2100系は1962年に登場した宝塚専用車両で、カーブが多くて速度の遅い宝塚線に適したように、出力とギア比を抑えた以外は全て2000系と同一である。

 2021系は1963-64年に製造された。2000系の追番を持つが、複電圧車という全く異なる性質の系列である。回生ブレーキと定速度運転という機能も持っていた。外観は、内側窓枠上部の直線化、扉のデザインに変更があり、のちの3000系と同じものになった。当時の宝塚・神戸線は架線電圧が600Vであって、上の2000系・2100系は、600V専用車であった。以前からこれを京都線と同じ1500Vに昇圧する計画があったのだが、公共交通機関なので、昇圧は一夜にして成し遂げられなければならない。2021系はそれに即応するために設計された車両だったが、構造が複雑すぎてトラブルが続出し、他形式との混結もできなかったので、編成としての運用は早くに打ち切られ、バラバラに電装解除されて単なる付随車として他形式の増備の代用に回された不運な系列である。1984年ごろから、組み込まれた編成とともに冷房改造され、それを機に改番されて2071系と称されるようになった。電装解除された元モーター付きの電動車2021-2040は車両番号に150を足して2171-2190に、元々モーターのない付随車2071-2090は、車番を変えずに存続した。当時、宝塚線の2100系は能勢電に譲渡中であったが、その車番は電動車が2114まで、付随車が2164までだったので、番号の重複はなかった。2171-2190 は2100番台を名乗っているが、もちろん2100系ではない。結局阪急線内では、2000番台として最も遅くまで存在した。

 2300系は1960年に登場した京都線用の車両である。2000系とともにローレル賞を受賞している。京都線は支線を含めて当時から1500Vだったので、登場時の外観は2000系と同じだったが中身は全く異なる。モーターもメーカーが異なるため全く異なる音がする。2000系はけたたましく唸りながら急発進するのに対して、2300系は上品でツヤのある音を発しながら徐に発車する。2000系が昇圧改造で早くに原型を崩してしまったのに対して、2300系は架線電圧の変更に関する大掛かりな改造を受けておらず、ローレル賞受賞の要因ともなった回生ブレーキや定速度運転という機能も残されて、原型の良さを留めたまま2000年まで一両も欠けることなく全車在籍していた。2305Fが2800系の車両を編入した以外は他形式との混結もなく、ごく短期間神戸線に転属した以外は一生を京都線とその支線で過ごした。これが全廃されたのは能勢電1500系 (主に阪急旧2100系) とほぼ同じ2015年なので50年以上の長寿である。原型をよく保っていることから2301-2352の2両が正雀工場で動態保存されている。編成順は、2000系・2100系・2021系と違って大阪方にモーターがあり、編成表記も電動車から始まる。

 2800系は1964年に登場した特急専用車で、2扉で転換式クロス・シート、窓が特徴ある二連になっていること以外は2300系と全く同じ車両である。子供の頃、母に連れられて月に一回梅田へ買い物に出かけたのだが、私は買い物よりも、その帰途で梅田駅を三線同時に発車して十三駅まで並走する電車を眺めるのが好きだった。特に淀川橋梁では京都線が一段高くて羨ましかったし、十三駅から分かれていく姿も美しかった。阪急京都線の特急といえば、この2800系が絶大な存在だった。1995年に編成としての運用は終わったが、3両だけが2305Fに組み込まれて2001年まで生き延びた。

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 阪急の運行形態は、宝塚線と神戸線は共通運用があるが、京都線とは余程の事情がない限り共用されてこなかった。まず1967年以前は架線電圧が違うので、両方の電圧で動作する複電圧車両以外は乗り入れそのものが無理だった。古いところでは、700・710・800・810系での、いわゆる「神京特急」・「神宝特急」という観光列車があった。その時代は、京都線の大阪方のターミナルは天神橋であって、淡路-十三間は支線だった。多くの車両が十三止まりであり、一部の優等列車が、宝塚線に無理を押して侵入し、ノロノロ運転で梅田へ乗り入れたらしい。その名残は、私が中学高校へ通った時期、京都行きの普通は十三発が多かったことに残されていた。

 全ての列車を統一規格にするための昇圧の必要性というのは阪急にとって大きな課題であった。1960年当時の神戸線用の2000系と宝塚線用の2100系は600V専用車であった。600Vから1500Vへの架線電圧の昇圧は、神戸線で1967年、宝塚線で1969年に行われた。これにむけて多くの旧型車両は淘汰され、残されたものは昇圧に耐えられるように改造されたり、2021系・3000系・3100系という昇圧に対応できる新車が製造されたりした。2000系と2100系は昇圧改造に入ったが、その際、輝かしいローレル賞の要因になっていた回生ブレーキと定速度運転という最も特色ある機能を捨てた。そのため電動車に2器搭載だったパンタグラフのうち回生ブレーキによる余剰電力を架線に戻していた1器が除去され、台座を残したままのもぎ取られた姿を晒し続けた。つまり、デビュー当時の先駆的機能と美しいスタイルを誇ったのは、当初の10年そこそこだったのである。

 そう、話が逸れたが阪急の運行形態は、宝塚線と神戸線は共通運用があるが、京都線とは余程の事情がない限り共用されてこなかった。その余程の事情というのは、上の観光列車を別にすると、1967年に神戸線の架線電圧が京都線と同じ1500Vに引き上げられた直後の応援に京都線から神戸線に2300系が入ったこと、1970年の万博輸送のための全線総力を挙げての相互乗り入れに、あらゆる車両が京都線経由で千里線を走ったこと、1972年ごろに当時の京都線100系 (P-6) が廃車されていく不足を補う形で神戸線用2000系が7両編成で主に京都線急行に投入されたことなど、いずれも期間限定運用であった。なお1971年から製造された本格的冷房車5100系は、三線共通運用を目指したもので当初京都線にも配置されたが、翌年から製造された5300系配置後に宝塚線に転属した。

 なかでも神戸線用2000系の京都線での運用は、中学高校時代を宝塚から高槻まで毎日通った時期の苦しい思い出である。京都線を共に走る同僚の2300系が最後まで二丁パンタの原型を留めたのに対して、早くから後ろのパンタグラフをもぎ取られた惨めな姿を晒し、冷房もなく、当時すでにかなりガタガタでよく揺れたし、発進時から響き渡る太くて馬鹿でかいモーター音、しかも高速力走時に発する焼けるような匂い、鋭い音を立てるブレーキ、車両間通路が広く扉がないので冬は強烈に寒く、走り方が荒っぽい、とにかく乗り心地の悪い車両だった。しかし力強くてよく走った。これが、いま能勢電を走っている能勢電1700系である。しかし、いまだに解けない謎が一つある。この頃までの一定期間、阪急京都線の急行の標識板だけは、車両正面に向かって左側にかけられていた。特急は全て二枚看板だったが、他のものは全て右側だったのに、なぜ京都線急行だけ左側だったのか、その謎が今も解けていない。

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 さて、彼らが京都線運用を終える頃、私も高校を卒業する頃になっていたが、京都線の特急には6300系が投入されはじめていて、京都線特急の代名詞だった2800系が3枚扉ロングシートの普通車用に改造されはじめたのには胸が痛んだものである。2800系の特急時代は意外に短くて最長で15年であった。最終的には8両編成7本56両が製造されたが、特急運用から外された後は主に急行、やがて前から2両目の2880番台をはずして7両編成で普通に格下げされた。このとき外された7両のうち、6両は5000系・5200系に組み込まれて神戸線に移籍したが、彼らの廃車やリニュアルとともに消えた。2885という1両は2305Fに組み込まれて京都線にとどまった。特急専用だったので累積走行距離が長く、経路も一定していたために更新が行われてこなかったので廃車は早かった。先述したように、1995年にさよなら運転が行われて編成が廃止されたが、その後も京都線の2305Fに2831・2841が組み込まれて、先に組み込まれた2885とともに2001年まで生き延びた。

 また全く特異な例だが、阪神淡路大震災の時に伊丹駅で被災した下り側先頭車3109の代車の調達にからんだやりくりで、廃車寸前の2842が数ヶ月だけ3072Fの編成に組み込まれたことがある。廃車になった下り側先頭車3109の代用に3072Fの中間に挟まっていた運転台付きの元下り側先頭車3022が充てられて二代目3109となり、その位置に廃車寸前だった中間電動車2842が充てられたのである。このとき3022の車体に事故車3109の機材を取り付け、2842の車体に3022の機材を取り付けて、両系統との互換性を確保した。このようなたらい回しが行われたのは、3100系に現役の下り側先頭車の余剰がなく、3022は中間位置だったがこんなこともあろうかと思って運転台を撤去していなかったからである。しかし当時中間電動車の余剰が全く別系統の2842しか見当たらなかっので三つ巴のたらい回しになった。1995年という年は忘れもしない阪神淡路大震災のあった年で、私は砂埃にまみれて生活再建に取り組んでいたのだが、たまたま乗り込んだ今津線で3000系6両編成に組み込まれた2800系を見てまず驚き、その車体から3000系の音がするのを聞いて再び驚いた。数ヶ月後、2842はその元3022の機材を付随車旧2171 (元2021) に渡して去っていった。死に際の最後の奉公であった。これによって再電装された旧2171は二代目3022に改番された。そんなことを知る由も無い私は、2842に入れ替わって入っていた3022の車両を見て三度驚いた。なぜなら阪急の厳格な付番ルールからすると、3022という車番は運転台のある電動制御車のはずであるが、それはどこから見ても運転台がなかったからである。そればかりか、側窓の大きさと内装の特徴から見て、明らかに2100系のはずなのに、モーターの音はまごうことなき3000系だったので、四たび、頭が混乱するほど驚いた。3022は阪急の歴史上唯一の「3022系3022形」ともいうべき一形式一車両の全く特異な存在だった。その状態で、驚いたことに3072Fはパンタグラフの一つがもげたまま13年後の2008年まで走り続けた。この3072Fという編成は、たいして阪急電車に詳しくもない私でさえ5回も驚かされたほどだから、多分当時の鉄道ファンの興味の的であったに違いない。

 さて、その二代目3022の種車であった旧2171は宝塚線用8両編成の3154Fという編成から抜かれたものだが、その位置は、能勢電1500系に譲渡された唯一の2021系2030の後釜で、この2030が抜かれた原因は、実は後で述べるある大きな事故がきっかけだった。3154Fは、2171が抜かれた状態で7両編成であれば竣工当時の姿に戻れたものを、3652も抜かれて6両編成となって、よりによって今津線に移籍した。つまり助けられた3072Fと助けた3154Fが同席したのである。まさに、事故による因果が宝塚線・能勢電・神戸線・伊丹線・京都線・今津線と巡りに巡ったのである。

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 また話が逸れてしまったが、1977年に京都線に移籍していた2000系は神戸線に復帰したのち、彼らは順次冷房改造され、振りかざしていたパンタグラフを後ろに引っ込めて、ちょっとマイルドな姿になった。しばらくは電装解除され冷房改造された2071系すなわち元2021系を挟んで8両編成を組んでいたが、やがて新型車両の増備に押されて支線運用に回され、6両・4両・3両などに分割編成されていくうちに、もともと誰が誰と組んでいたのかさっぱりわからんくらいに混乱してしまった。1990年、能勢電のために主に2000系を譲渡するのに合わせて、3000系・3100系が支線運用に回されることになった。2000系の譲渡は、主に今津南線・伊丹線用の3両編成を中心に、運用中の2000系の編成をバラバラにして、3000系・3100系の短編成化で余剰となる2000系・2100系・2021系の増備代行車を組み合わせる形で、4両編成を8本組み直して行われた。これが能勢電1700系である。そんなわけで、やっと話が最初に戻った。この話がこんなに紆余曲折しまくるのも、ことほどさように2000系が目まぐるしく改造されたり組み替えられたりして阪急線内を走り回ったからである。

 能勢電への譲渡は2100系の方が先だった。製造されたのは6両編成5本合計30両だったが、後述するように1967年から始まった神戸線の昇圧工事の際に、最終編成の2162Fが2000系と同一仕様に改造されて2000系の増備に出た。その際に、前後関係はわからないが、2055・2059の2両の2000系を受け入れて2153・2155の2両を放出した。これらは2000系に組み込まれたという資料もあるが、1978年ごろから始まった3000系の8両化増備の代車に出るまでの10年間の所在がよくわからない。で、2055・2059の2両の2000系を含む24両は、すでに1968年には8両編成3本を組んで、1983年ごろまで非冷房のまま宝塚線を走っていた。しかし線形の改良や高性能車の導入によって相対的に性能不足の状態に陥り、その全てが能勢電に譲渡されて能勢電1500系になった。それらの冷房化は能勢電で行われた。一方の2153・2155は、当時3000系8両編成に組み込まれていて、これらの編成とともにすでに冷房化されていた。阪急で冷房化改造を受けた2100系はこの2両のみである。これ以外の2100系を全て譲渡してしまったので、この2両は、二代目2055・2059に改番され、阪急2100系は消滅した。しかしこの2両も、若い車両に挟まれて阪急線内で生き延びられるかと思いきや、編成された3000系の支線運用の際にバラされて廃車されてしまい、結果的に能勢電に移籍した多くの元2100系の仲間たちより先にあの世へ旅立ってしまった。なにが運命を決めるかわからんもんですなあ。阪急2000番台の大まかな変遷は、だいたい以上のようなものである。

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 さて、能勢電1700系のうち廃車されてしまった第一編成の先頭車に1750というのがあって、これは阪急旧2092、宝塚線用の元2162であった。2100系最後の編成だったが、神戸線の2000系の昇圧工事の時に、全部の車両を一気に工事するのではなく、まず一編成分だけ部品を新調して組み込んで運用に出し、外した部品を改造して次の編成に組み込む・・・ということを順繰りにやって最後に残った部品を、この2100系最後の編成に使った。そのときの編成は、2162-2112-2163-2113=2164-2114であった。これによって彼らは2100系の車番を持っていながら2000系と同等の性能を持つことになり、既存の2000系の中にバラされて、私が中学高校似通った頃の京都線で急行として爆走していた。神戸線に戻って冷房改造された時にそれぞれの番号から70を引いて名実ともに2000系に編入されたのだが、なぜ70を引いたかというと、当時すでに戦力外通告を受けて2071系に改番されていた弟分2021系の最後の編成が2091-2041であったので、その続きにしたのである。したがって両者が続き番号として同時に存在した時期はない。バラされて改番された後の番号を、仮想的に元の編成に組んで並べると、2092-2042-2093-2043=2094-2044となる。これらのうち能勢電1700系には、上に述べた2092のほかに、2044と2042が阪急での編成のまま別々に譲渡されていたが、すでに廃車されて現存しない。これらはもともと同じ編成で生まれていながら、死ぬときはバラバラだった。しかしあの順繰りの改造がなかったら2000系に編入されることなく、能勢電1500系として先にあの世へ旅立っていたかもしれない。なにが運命を変えるか、全く分からんもんである。

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 で、現存する4編成のうちの1754Fの先頭車1754は、阪急の旧2050なのだが、この車番そのものは2000系第一編成の所属である。しかし実はこの車両は二代目なのである。そういえば、あれからもう36年、これは阪急電鉄の歴史に残る大事故であった1984年の六甲駅、山陽電鉄車両との衝突で大破した元2050が廃車されたために、能勢電1500系の一員として譲渡されるはずだった2154が急遽呼び出されて改造され、二代目2050になった。今ある1754はこれなのである。ちなみに初代2050は、竣工した直後の試運転で工場から出される時にも配管のつなぎ間違いでブレーキが効かず、900系に衝突して破損した。これを含む編成は阪急の輝かしい高性能車両2000系の第一編成であったので、これによってそのデビューが遅れたのである。初代2050は、事故に始まって事故に終わった。主に2100系を種車とする1500系は全廃されたので、この能勢電1754は、現存する元2100系最後の1両ということになる。この時呼び出されていなかったら、2154は1985年に能勢電に譲渡されて能勢電1585となり、そのまま2015年に廃車されていたはずである。この入れ替わりのおかげで、彼は元2100系最長の命を永らえている。いや本当になにが運命を変えるか分からんもんであることよのう。

 その2154の代わりに能勢電に譲渡されて能勢電1585になったのは3154Fに挟まれていた2030であった。これは電装解除された元2021系で、2071系に改番されなかった唯一の車両である。2180が欠番になっているのはこのことによる。これが選ばれたのは、ちょうど3154Fが冷房化改造の途中で、2030が未施工だったためである。かつては複電圧車としてデビューしながら早々に戦力外通告を受け、長い間黙って3100系に挟まれていじめられていたのが、性能の劣る元2100系とはいえ再び兄弟分とともに走れるようになった。しかし運転台は復元されず中間車の扱いだったため、後からやってきて先頭車として走る1754すなわち旧2154を、ほんまはお前がここに繫がれるはずやったのにと恨みながら、早々に2015年に廃車されてしまった彼の無念を思うと胸が痛む。ちなみに冷房改造中だった3154Fは2030を放出した後、電装解除された2021系のトップ・ナンバー2021を新たに迎え入れて冷房化された8両編成として復帰した。このとき2021は2171に改番されたが、12年後に起こった阪神淡路大震災の時に伊丹駅で被災した3109の代車の調達にからんだ例のやりくりで代打を務めた2842と入れ替わる形で再電装されて出ていった。二代目3022に生まれ変わって3072Fを援護したが、2008年にその編成の廃止とともに、後輩の名を冠したままこの世を去った。一つの系列のトップ・ナンバーの最期としては、あまりにも無念な消え方である。

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 能勢電に譲渡された1700系のうち1754F以外は、その直前までは全て3両編成で余生を今津南・甲陽の各支線で過ごしていた。さきにも書いたように彼らには輝かしい京都線急行時代もあるので、宝塚・神戸・京都の三本線と南北今津・伊丹・甲陽線を含む最も広い守備範囲を誇ったのではないか。で、彼らが4両化されるにあたって呼び出されたのが、2177・2187・2078という、既に2071系に改番されていた元2021系である。改番からおよそ7年が経ってさらに改番されて他社へ譲渡されたのである。このように現存する能勢電1700系4両編成には、その4本の全てに1両ずつ生まれの異なる車両が含まれている。先に全廃されてしまった3000系同様、清濁併せ呑んで阪急の発展を支えた車両として感慨深いものがある。

 しかもそのうち1754F (1754-1734-1784-1704)は、阪急旧2050F (2050ii-2000-2051-2014) であって、上に述べた2000系トップ・ナンバーを2両目に含んでいる。同じ時期に製造された車両がもう一両、1757Fの前から2両目に1737 (旧2002) として残っている。阪急の輝かしい高性能車両2000系の、1960年に製造された初期のモーター音がまだ聴けるというのは素晴らしいではないか。また、1754Fの1両目は現存する唯一の元2100系なので、他と内装が微妙に異なる。またそれ以外の3編成の前から3 両目は元2021系であり、これまた内装が微妙に異なる。たとえば窓の形やその内側のゴム、扉上部内装の縁取り、扉の持ち手金具の切り込みの形やローラーに当たる部分の銀帯など、他の廃車車両のものと交換されてしまったものもあるが、竣工当時の外観の違いなども楽しんでいただきたい。

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 2300系・2800系が、京都線内で最初から最後まで、ほぼ原型を保って走り続けたのに対して、2000系・2100系・2021系が原型を保っていたのは当初の僅か10年ほどだった。しかし改造と編成替えを繰り返し、代車扱いになったり他形式に改番されたり、改番されて改番され、挙げ句の果てに売り飛ばされて非業の死を遂げたものも多い。しかし生き延びたのは最終的に車齢の最も古い2000系で、製造時期の関係から、おそらく次に廃車されるのは1754Fと思われる。彼らのうち1734 (旧2000)・1784(旧2051)・1737(旧2002) は、あと半年で還暦を迎える初期ロットである。その姿を見、音を聞けるのもそう長いことではあるまい。

posted by jakiswede at 00:00| Comment(0) | 鉄道少年の夢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20200502 阪急3000系全廃

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なんとまあ、コロナ騒ぎで外出を自粛している間に、我が懐かしの阪急3000系が密かに引退していたらしい。北海道のローカル線が廃線になったことはニュースで知っていたのに、大手私鉄の黄金時代を飾った阪急3000系列の廃止が報道されなかったのは、全くもって不公平だ。怒りを禁じ得ない !! 伊丹線で余生を送っていた3000系最後の3054Fは、なんとか自分で写真に収めることができたのでよしとしよう。なぜならこの編成の下り側3003号車は、私が幼稚園へ通っていた頃に、清荒神駅の踏切を渡りながら、試運転で停車中のピカピカの新車としてびっくりした記憶があり、それ以来、阪急の新車といえば3003号車を思い浮かべるからだ。

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私は1960年生まれ、この3003号車は3000系の初期ロットで1964年生まれ、私が5歳の時に竣工して宝塚線で試運転されていたものと思われる。その後神戸線に配属になって姿を見なくなったのを寂しく思ったものである。もっとも、竣工時にこの3003号車が含まれていた編成は3052Fであって、当初は大阪方から4両 + 2両の6両編成であった。編成表示は大阪方から表記するので、阪急3000系の付番ルールからすると大阪方先頭車にモーターとパンタグラフがなく、それらは神戸・宝塚方の先頭車にある。これは2000・2100系から始まったことで、その理由はラッシュ時に車両を増結する際に、まだ当時は1両ずつ増結することを想定していたのだが、作業は大阪方で行われるのが普通なので、大阪方にパンタグラフがあると、増結車の向きによってはパンタグラフが近接して架線を押し上げてしまうので、それを避けるためである。実際には、その後の開発経緯で、阪急では最小編成を2両単位とすることになったのでその心配はなくなり、5100系から従来通り、ほとんどの編成で大阪方先頭車にモーターとパンタグラフが配置されるようになった。

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というわけで、この神戸・宝塚方先頭車の3003号車には、まだ銀色に光り輝くパンタグラフが設置されており、その発車時には2000系とは全く異なる繊細で洗練されたモーター音が鳴り響いたのをはっきりと覚えている。先頭にパンタグラフを振りかざして居丈高に疾走する2000系もかっこよかったが、パンタグラフのない先頭で静かに滑ってくる3000系は魅惑的ですらあった。だからこそその引退を知らなかった自分に腹がたつ !! その後、私の中学生時代に輸送力の増強から7両編成に組み替えられるにあたって、整然とした付番ルールに基づいた編成に混乱が生じることとなり、3003号車の大阪方先頭は3054号車となって、それ以来紆余曲折を経て4両編成に短縮されて伊丹線で余生を送るまで、中間に挟まれていた相方を次々に見送る形でこの組み合わせは残ったのである。このように私は、阪急電車における車両番号のつけられ方と、それらの変遷、パンタグラフの配置に、幼少の頃から並々ならぬ興味があって、高校時代までは、すべての編成のすべての車両番号とその順列を記憶していた。ところが近視であった私には、走ってくる編成の先頭車の番号が読めないので、友人に頼んでその番号を読んでもらい、それによってその編成が何両編成か、また冷房付きかを言い当てて、扉の来る正しい位置を示すという下校時の日課を思い出す。この3054Fの最後の編成は3000系初期ロットの同窓生のみで編成されたが、その直前には3100系の付随車と隣接し、また過去には2000系や2171系と隣接したり、8両編成で神戸線特急の主力の座を誇っていた時期から、割と早くに6両編成化されて今津線普通に格下げされたかと思うと、数年後には8両編成化されて神戸線特急に返り咲くなど、全くその生涯に紆余曲折があった。ちなみに去っていったすべての3000系・3100系を通じて、阪急の主力であったにも関わらず純粋にそれぞれの系列車両のみで編成された8両編成はついに存在しなかった。常に旧型車の余剰車両を間に挟み、窓配置や寸法や性能の違いによってぎくしゃくしながら50年余りを走り続けた。美しくしとやかに登場したにも関わらず、その半生のほとんどをなりふり構わぬ姿で疾走した姿は、鉄道車両としては長い生涯がいかに多難なものであったかを物語って共感を覚える。

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参考文献: https://raillab.jp

 https://toyokeizai.net/articles/-/344141

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これは主に神戸線で活躍していた編成ですね。中学に上がった頃の京都戦は、まだP-6; 100系が走っていてびっくりしました。主力は、特急が2800系で、徐々に6300系が入ってきてました。急行と普通は2300系で、それにまじって本来神戸線用の2000系が7両編成で急行で走ってました。小学校の頃、長らく2000系を見なかったので再会できて喜んだものでした。京都線の3300系は、万博に合わせて製造されたので、今回話題の3000系より新しく、まだ走ってるはずです。さて、阪急の最高齢車両ということになると、いま能勢電に残る1700系がありますが、これらは旧2000系の改造車で、外観はほぼ、モーター音は全く同じものです。「それにまじって本来神戸線用の2000系が7両編成で急行で走ってました」と書きましたが、その時に使用されていたものが今も使われています。つまり、彼らのほとんどは、阪急の神戸・宝塚・京都戦を走破した挙句、今も能勢電で山を毎日上り下りしていることになります。彼らの初期ロットは1960年製ですので、我々と同年齢です。

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https://www.youtube.com/watch?v=5Axp-iiMs04

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2019年05月05日

20190505 阪急6008F

・・・で、その友達が待ち合わせに遅れるというので、その前にちょっと時間つぶしに阪急塚口駅へ。なぜというに、実は阪急電鉄少年の私、最もよく乗り親しんだ3000系が、もはや4両を残すのみとなっているというので、もし出会えたらと思ったのである。残された4両とは3054-3502-3551-3003という4両編成1本のみで、この下り方先頭車両の3003は、竣工した試運転のピカピカの状態を、幼稚園へ通い道の清荒神駅でみたときの感動を今も鮮烈に覚えている、私にとっては思い出深い車両なのである。それが最後まで残っていることは誠に感慨深い。で、その4両編成のうち3551だけが、もと3052Fの梅田から3両目に入っていたものであって、残りの3両は紆余曲折がありながらも同じ編成で生まれて現在にいたるのである。で、その3551がどういう経緯ここに入ったかというと、全盛期には全て8両編成で活躍していた3000系だが、阪神淡路大震災で神戸本線や今津線の車両が損傷を受けたり廃車されたりしたことをきっかけに、3000系の今津線での運用が始まった。そのとき、この3054Fもそれに選ばれて本線運用から外され、中間付随車を2両抜かれて6両編成で今津線に入った。このとき抜かれたのが、2021系の付随車で、それは廃車された。ところが、のちにこの編成は8両編成に戻されて本線に返り咲くのである。そのころすでに2000系の廃車が進んでいたので、並行して廃車の始まっていた兄弟系列の3100系をふくめて、3000系内で間に入れる2両の中間付随車を調達することになり、このときこの3054Fの付随車に3100系の3652が選ばれ、3052Fに入っていた3551を外して3054Fに入れかえられた。一方の3052Fには3100系から3651が入れられ、3100系が全廃された後も一両だけ残っていたのを写真に撮ってここに投稿したことがある。その編成は去年廃車になって、これが現在残された最後の3000系になったという経緯である。もしこのとき、36513652をどちらか一つの編成に入れ、35513552を一つの編成に入れていたら、3000系唯一の3000系のみによる8両編成が誕生していたかもしれない。しかしそれはかなわなかった。8両編成の3000系は、2000系などの他形式を含んだ編成しか存在せず、純然たる3000系のみによる8両編成はついに存在しなかったのである。

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そのような記憶をざっと流していたら塚口駅に着いた。伊丹線ホームに停車していたのは7034-7154=7035-71554両編成である。これは7000系の8両編成を10両編成にして運用するときの増結用の編成で、それを二つ繋げて4両編成にしたものである。いまや7000系も10両編成の主役の座から降りつつあるのだろう。

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時代の流れを感じつつ発車していくそれを見送ると、入れ違いに6008Fが入ってきた。6008-6508-6698-6158・・・むむむむむ・・・なんぢゃこりゃあ・・・6698? そんな車番はもともと6000系には存在しない。し・・・しかも・・・下二桁が50以上なのにパンタグラフが、しかも二丁パンタが原則の系列なのに、近鉄じゃあるまいに下り方に一つしかついていないではないか ??

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阪急電車には3000系以降9000系にいたるまで、厳然たる車番の付け方のルールがあって、100の位が5未満は先頭車、5以上は中間車、10の位が5未満は電動車、5以上は付随車と決まっている。パンタグラフは電動車に付くものであって、6698なる番号を持つ車両にパンタグラフなど付き得ない。だいいち、6000系の増結用4両編成はパンタグラフが大阪方先頭車にしかないぞ。

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程なく発車したこの便のモーター音に耳を凝らしてみる。すると、音は6698からは出ていない。よく考えてみればおかしな編成である。6000系の8両編成を4両化するならば、素直に6008-6558-6568-6108くらいにしておけば良いではないか・・・しかし電動車を2両続け、もともと電動車だった2両を電装解除してまで付随車化している。しかもそのうち1両にパンタグラフを追加して隣の電動車に送っている。なんでこんなややこしいことをしたのか。強烈な金属音を響かせながら急カーブを・・・そうか、このカーブで万一脱線した場合、パンタグラフが一両にしかないと、それが逸脱したら身動きが取れなくなる。しかも6000系は初期に電動車を隣接させて節電設計に変更された経緯がある。だから6008-6508という組み合わせは外せなかったのではないか。しかもこの急カーブである。パンタグラフが逸脱した時の用心に予備のパンタグラフを追加したかったが、二丁パンタに近接して立てると、逸脱防止の意味が薄れるので一両離して付随車に付けたのではないか。同じ例は過去にもあって、京都線の特急専用車であった2800系は、私が幼少の頃初めて見たときは確かに5両編成だった。そのうちの京都方先頭車にも二丁パンタが付けられてあって、両端にパンタグラフを振りかざして走る姿が格好よかったのを鮮明に覚えている。ところがその京都方先頭車は電動車ではなく、集電した電気は隣の中間電動車へ送っていた。なぜなら、その中間電動車にパンタグラフを付けると、3両目の二丁パンタと近接するからである。そうか・・・それでこのような形になったのか・・・と時間つぶしをしたつもりが、しっかり鉄道少年の童心に戻った幸せな思いがしたものよ・・・が・・・じゃあ3000系は一両にしかパンタグラフがないのに改造されずに運行されてきたのはなぜなのか・・・という疑問がふと湧いてきて眠れぬ夜をこのように無駄に時間とエネルギーを費やしてしまっているのであった・・・結局3000系みれんかったし・・・

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2018年09月01日

20180901 岡山へ単独

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相生から赤穂線に入る。幹線を外れて支線へゴトッと入る瞬間旅情が掻き立てられる。ゴゴゴっと軋む音がする。車両は最新鋭だが、レールの規格が異なるのか、ぐっとローカル線ぽい情緒が溢れてくる。

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播州赤穂で岡山行きに乗り換え。やった !! これは珍しい115系小口切り車両。長大編成が多かった115系には運転台付きの車両が少ないので、切り刻んでローカル線で利用するために、中間車両を改造して運転台を取り付けた。そのやり方があまりにもそのまんますぎて

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反対側はシャキッとした顔つき。いいですね、色はともかく、正しい電車の顔しとる。

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日生で途中下車。この港町すきなんや。備前中南米美術館は、私設の民族学博物館としては鳥羽のマコンデ美術館と並んで日本屈指。しかも館内撮影自由、どんどん拡散してねという開放的な姿勢が大好き。ほんま岡山てええわ・・・

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日生で牡蠣くうのが定番なんやが、名物にうまいものなしというて、高い割には大したことないんで、駅前の台湾料理店に入ったら、いやこれが大当たり。これで800 !!

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赤穂線の岡山側はだいたいこんな電車で運用されてるみたい。

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2017年02月06日

20170206 阪急3054F

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 ある日の阪急伊丹線。残り少なくなった阪急3000系である。この「3003」という車両には思い出がある。母に手を引かれて幼稚園へ通いだした頃、宝塚の山の手の住宅地から、今の新176R (当時はバイパス) の宝塚警察のすぐ裏手の幼稚園まで、子供の足だと裕に一時間はかかったであろう。その途中、清荒神の駅の踏切を渡る。そこに、真新しい「新型」車両が止まっていた。塗料の匂いが漂ってきそうなほど何もかもピカピカでびっくりした。それが、この「3003」号車だった。今でもその姿は目に焼き付いている。思えばこれが私の鉄道への趣味の始まり、まさにこの車両こそ、そのきっかけを与えてくれたものである。


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 銘板に「昭和39年」とある。阪急の高性能車の奔りは2000系 (以下、2021系と2100系を含む) であって、これは「ローレル賞」を受賞したのだが、3000系 (以下、3100系を含む) というのはそれに次いで製造されたグループである。鉄道、というか、電車への関心、まず最初に惹かれたのは「方向板」といって車両種別や運転区間を客に知らせる標識板が前面に掲げられていて、そこにか書かれている漢字、とくに「急行」や「特急」と書かれた字体だった。上の銘板にある「ナニワ工機」 (現在の「アルナ車両」) という字体もそうだが、力強さを形に表現した独特の雰囲気を持っている。子供心に、そこから垣間見える社会、大人の世界、世の中の勢いを肌で感じ取っていたのかもしれない。ちなみに、その銘板の下に車両諸元が掲示されているが、かつてはここに整備記録票が挿入されてあり、製造年月日と、最新の整備年月日がわかるようになっていた。


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 さてその次に関心を持ったのは、私の場合パンタグラフの配置である。何両かある編成にどのようにパンタグラフを配置するか、これにはその鉄道会社の美学哲学が反映しているように思われる。上り側前方から見ても下り側前方から見ても先頭に見えるように配置するようにしている会社もあれば、一方が先頭で他方が終端というイメージで配置する会社もあり、両者をうまく融合させたり、それをわざと混乱させることによって力強さを表現しようとしていると思われる会社もある。阪急の場合は、500系という非常に古い系列のごく初期のものを除いて、長らく梅田側を先頭として、すべてそちら向くように配置されてきたのだが、2000系・3000系・5000系・5200系はそれが逆転しているのである。ちなみに京都線の兄弟系列の2300系・2800系・3300系は、他のすべての系列と同じく梅田寄りを先頭としている。なぜかという疑問が子供に解けようはずがない。しかしその解けない例外的ルールというものが、社会の複雑さや混沌を教えるきっかけになった。3000系の場合、冷房化のときにパンタグラフの付け替えが行われたので、どちら向きというニュアンスは無くなってしまったが、車両番号にその遍歴が残る。つまり、大阪側にモーターがないのである。


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 そう、車両番号も子供にとって不思議でならなかった。最初に覚えたのは、宝塚線を走っていた3100系のもので、そのトップナンバーを含む3150Fのものであった。3150-3600-3650-3100=3151-3101という6両編成 (竣工当時) だった。順番につければ良いものを、なぜこんな並べ方をしているのだろうと子供心に思った。そして乗っているうちにモーターの音のする車両としない車両があり、音のする車両にはパンタグラフが付いていることに気がついた (当時の3000系の編成の場合) 。そしてその6両編成は、途中に運転席のある車両があって、そこで4両と2両に分割できるようになっていることに気がついた。やがて、車両番号の下2桁が50未満のものからはモーター音がし、50以上のものからは聞こえない。百の位が0と1のものには運転台があり、5と6のものにはなく、百の位にそれ以外の数字がないことに気がついた。それを上の編成に当てはめると、Tc-M-T-Mc=Tc-Mcと分類でき、当時の同じ系列の6両編成には、すべてこの法則が当てはまることを知った。子供心に、分析と綜合という概念をつかんだのである。したがって、上の車両番号は、製造時系列につけられたものではなく、形式別に分類されたものであるということを知った。こうして病みつきになった。いうまでもなく、5300系の登場時点までなら、阪急の全車両の編成を諳んじていた。


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 この3054Fの場合、最大8両編成で運行されていた。3054-3502-2079-3004=3053-3530-2088-3003であった。上の3150Fが整然と並んでいるのに対して、この編成には乱れがある。そこには大変深い物語があるのだが、いまはちょっとやめておこう。この編成は、8両編成で運用されていた黄金時代が終わって主力から外され、分割されて支線運用に回されるにあたって、前後4両ずつに分割されたのではなく、中間車両を抜かれたり他の編成から持ってきて4両編成を組んだのである。現在3054-3502-3551-3003という編成で走っているが、なぜここに3551が入っているのかと、子供心を残した私は疑問に思った。


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 そんな思いで3054Fを見送った後、3052Fが回送で入ってきた。おお、これぞまさしくその3551が入っていた編成ではないか、確か私の記憶が正しければ、3052Fは、3052-3501-3551-3002=3057-2029(2179)-3518-3007であったはずだ。その先頭と終端の関係は維持されている。しかし3両目すなわち3551のあるべき位置に連結されていたのは、・・・


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・・・なんと3651だった。これにはびっくりした。3651というのは3152Fに編成されていた3100系の付随車であって、その3100系は先日全廃されたのである。ということは、これは現存する3100系唯一の生き残りではないか。なんのめぐりあわせか、いつの時点の運命のいたずらか、3152Fから3651が外され、それをわざわざ3052Fから3551を外した後に組み込み、その3551は3054Fに組み込まれているのである。なぜそのようなたらい回しが行われたか、そこであらためて3054Fの8両編成を思い出してみる。そうだった、3000系はもともと6両編成で登場し、7両編成になった時に車両が足りなくなって、一部の編成に当時孤立していた2021系を電装解除して組み込んだ。さらに輸送量増加に対応するために8両編成化された時に決定的に足りなくなって、全編成に2000系を付随車に改造して組み込んだのである。つまり、純粋な3000系3100系だけの8両編成は存在せず、編成の中に1両か2両の2000系を含んでいた。2000系を2両含んだ3000系の編成には3000系の付随車が存在しなかった。3054Fもそのひとつで付随車はすべて2000系だったから、他から借りてこざるをえなかったのである。2000系というひと世代前の系列と、老朽化の進んだ3000系の車両を淘汰する中で、たまたま3054Fの3両は残されることになったが、4両編成にするためにはどこかから付随車を持ってこなくてはならなかった。そこで淘汰されつつあった3100系3152Fがバラされたのを機に、その付随車3651を3000系支線運用編成に編入することになり、工事のタイミングか何かが原因でたらい回しが行われることになったのであろう。久しぶりにコーフンするもと鉄道少年であった。

 ちなみに3000系は現在、伊丹線に4両編成4本、今津線に6両編成3本が残る。伊丹線には3000系トップナンバーをかつて含んでいた3050Fが、そして今津線にはラストナンバーをかつて含んでいた3083Fが残っている。また、能勢電には3120F (旧3156F) の4両編成が一本残る。


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2016年07月06日

20160703 近鉄8459

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 今日は、長年待ちに待ってようやくお誘いをいただいた「奈良ボッサ夜会」に参加するため田原本へ行ってきた。ルートはJR関西線で王寺まで行って、近鉄に乗り換えて西田原本下車。ところが、JR王寺駅で降りて生駒行きはあるのだが、田原本行きが見つからない。降り口を間違えたと思ってJR王寺駅を反対側へ出たがロータリーしかない。また戻って近鉄の駅で訊いてみたら、なんとJRの駅沿いに100メートルほど行くと別の駅がある。


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 生駒から王寺、王寺から田原本と、近鉄はつながっているものと思っていたが分断されていたのだ。長らく関西に住んでいるが、こんなケースは生まれて初めてだ。しかも100メートルほど離れて隣接していて、間には通路しかない。なぜ繋がないのかわからない。


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 とにかく、次の電車には間に合った。古き良き昭和30年代の近鉄電車、欲を言えば全面マルーンでいってほしかったのだが、正しい電車の形をしている、もう数少なくなったタイプのものに乗れた。


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 終点の西田原本駅・・・ここでも戸惑う。よく調べていかなかったのだが、ここも橿原線田原本駅と別なのである。駅の北側に引込み線があってレールはつながっているのだが、営業的には孤立している。西田原本の次が田原本と思い込んでいたので、終点と案内されて戸惑ったのだ。


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 完全にローカル私鉄の鄙びた終点の風情である。建物の向こうに見えるか線の鉄塔が橿原線。


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 このように路線を調べていかなかった私でも、途中すれ違った電車のある特徴には反応したのであった。この妻面のカーブ・・・これはかつて先頭車であったものを、運転台を撤去して中間車に改造したものにちがいない。しかもかつての先頭車両はダブル・パンタのいかつい表情、就中、白の縁取りがされる前のマルーン一色の旧塗装。妻面の塗り上げには縁取りを入れないものなので、この曲面がそのありし姿を今によく伝えている。こういうのん好きなんよね。


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 車両番号を記録して、帰ってから調べてみたら案の定、編成替えの時に組む相手がなくなって改造されたものだった。しかも同じグループからここに編成されたものに何両かの仲間がいて、そのうちの一両は、なんと奈良線での爆弾テロ事件を生き延びたものだったことも分かった。異種混合編成なので、微妙に車高が違う。もと鉄道少年の血がこれを見逃すはずはないのであった。おっとっと・・・約束の13時になってもた。瓜ちゃんごめんね、遅れたのはそういうわけやってん。


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2015年03月19日

20150322 惜別 阪急2300系

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 http://www.hankyu.co.jp/railfan/topics/150209_2300.html

 自分の産まれた年に産まれた電車が廃車になる、しかもその系列が廃止になるということに特別な感慨がある。2015/03/22 (日) 限りを以て阪急の最も旧い系列である2300系の最後の編成が廃止となる。阪急沿線に産まれて育ち、その色や音やにおいに慣れ親しんだ私にとっては、年を追う毎に懐かしい車両が世を去って行くことが辛くて寂しい。54年も走り続けた電車なんて、なかなかお目にかかれるもんでない。しかもこの2300系というのは、兄貴分にあたる神戸線や宝塚線に登場した2000系や2100系などが早くから改造されて原形美を失ってしまったのに対して、顔形を大幅に損なうような改造をせずに済んだことが大変良かったと思う。上の写真ではわかりにくいが、なんといっても特徴的なのは電気機関車顔負けの大型パンタグラフを二挺振りかざして走る姿であろう。これが木造車から脱皮した頃の阪急の新しい姿だった。それはとりもなおさず、戦後から復興して交通手段までもが清潔になって行く象徴であって、そのころまでは舗装された道路など珍しく、そこらじゅう工事だらけで移動すれば砂ぼこりにまみれるのは当たり前だった。こどもが電車で座っていたらぶん殴られた。この洗練された顔立ちの車両が入ってくると気分も和やかになったものである。上の写真は数年前に撮影した2300系の初期ロットで、文字通り1960年生まれである。これを撮っておいて良かったと思う。原形に近い2300系の写真は、私にはこれしかない。美しい鉄道写真を見ると、私も作品をモノにしてみたいと思うのだが、なかなかそんなことをしている時間がない。例えば阪急京都線なら、各駅停車でも片道1時間なので、撮影スポットをひとつ決めれば2時間ちょいあれば必ずモノにできるはずなんだが、その忍耐が私にはない。きょうも、たまたま電車で大阪に出るチャンスがあったので、もしや最後の姿でも見られるかと期待して十三駅に一時間ほど頑張ってんけどね、とちゅうでアホらしなってやめました。この次は、万博の頃に大量投入された3000・3100・3300系の廃車の波が来る筈なので、見慣れたこの姿も今や貴重品・・・

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2014年07月16日

20140714 これは夢か幻か


 はたまた幻覚か錯覚か、あるいはCGか・・・いや・・・
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2014年04月04日

20140312 神鉄日下部

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 神戸電鉄の撮影スポットがまたひとつ消える。道場南口と神鉄道場の間、田んぼを前景に、寺や竹やぶを背景に、編成全体を捉えることが出来る場所だったのだが、田んぼであった部分が転用されて宅地開発が始まった。

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2013年02月25日

20130207 人力保線車両 ??

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 最近JR道場駅にお目見えした新型の保線車両 ?? ・・・に見えるんやが、ほんまのママチャリ用前カゴがまたええやん。これで福知山線のトンネル夜中に暴走してみたい・・・
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