今も運用されている阪急最古の車両系列といえば、1960年から製造された阪急の主に旧2000系が能勢電に譲渡された能勢電1700系がある。これらは1990-92年にかけて4両編成9本が譲渡されたもので、今も4両編成が4本残っている。能勢電は古くから阪急の旧型車両の博物館のようなところがあって、私が子供の頃は、まだ小型木造車が走っていた。1983-85年に、1962年から製造された主に旧2100系のうち4両編成6本が譲渡されて能勢電1500系となり、能勢電に初めての大型高性能車両が導入されることになった。これらは2016年までに全て廃車されているので、阪急時代から通算すると50年以上の長寿を誇ったことになる。また、それより車齢の古い1010-1100系が後になって譲渡され、これも2001年に廃車されて現存しない。その後、旧2000系・旧3100系や旧5100系が譲渡され、古き良きマルーン一色時代の阪急の姿が残されている。さてその能勢電に残る1700系は、すでにない1500系とともに阪急時代の編成単位での譲渡であったために、阪急時代の紆余曲折を経て組み込まれた別形式と入り混じった状態で移籍した。私は阪急鉄道少年であったので、その全ての車両の来し方行く末が頭に入っているのであるが、この二つのグループのすべての車両の一生は全く波乱万丈である。以下にそのあらましを述べる。
広義としての阪急2000番台は、2000系・2100系・2021系・2300系・2800系、さらには2021系が改造されて別形式を与えられた2071系が存在していて、登場時の外観はほとんど同じだったが内容はかなり異なる。
2000系は1960年に登場した。阪急の現在の車両デザインを決定づけた形式である。回生ブレーキと定速度運転という最も特色ある機能を有し、2300系とともに1961年第一回ローレル賞の栄誉に輝いた。竣工時の第一編成は、2050-2000-2051-2001という4両編成であったが、系列を代表するトップ・ナンバーが大阪方から2両目の中間車であることが興味深かった。トップ・ナンバーなら先頭に持ってきてやっても良いものを、なぜ中間に、しかも運転台もない付随車なのかと子供心に思った。パンタグラフは電動車に2器搭載だったが、上の編成では2000と2001にあって、大阪に向かうときは逆向きに走っているように見える。これは、当時のラッシュ時の増結運転の計画では、大阪方に一両増結することが想定されていたのだが、その一両は単独走行できるパンタグラフ付きの電動車でなければならず、大阪方に電動車とパンタグラフがあると、それらが隣接して架線を押し上げてしまうので、それを防ぐために編成の向きを従来とは逆にしたのである。しかしユニット単位での編成の番号順は大阪方からとしたので、2050-2000-2051-2001の順となり、トップ・ナンバーは中間付随車に隠れる形になった。しかし一両ずつの増結計画を立てている間に沿線人口が急激に増えたので、増結よりも編成の長大化の方に計画は変更されて、2-4両単位での増備が続けられることになった。日本は高度経済成長、都市人口爆発の時代だったのである。しかし両運転台付きの2000系というものも見たかったものではある。
2100系は1962年に登場した宝塚専用車両で、カーブが多くて速度の遅い宝塚線に適したように、出力とギア比を抑えた以外は全て2000系と同一である。
2021系は1963-64年に製造された。2000系の追番を持つが、複電圧車という全く異なる性質の系列である。回生ブレーキと定速度運転という機能も持っていた。外観は、内側窓枠上部の直線化、扉のデザインに変更があり、のちの3000系と同じものになった。当時の宝塚・神戸線は架線電圧が600Vであって、上の2000系・2100系は、600V専用車であった。以前からこれを京都線と同じ1500Vに昇圧する計画があったのだが、公共交通機関なので、昇圧は一夜にして成し遂げられなければならない。2021系はそれに即応するために設計された車両だったが、構造が複雑すぎてトラブルが続出し、他形式との混結もできなかったので、編成としての運用は早くに打ち切られ、バラバラに電装解除されて単なる付随車として他形式の増備の代用に回された不運な系列である。1984年ごろから、組み込まれた編成とともに冷房改造され、それを機に改番されて2071系と称されるようになった。電装解除された元モーター付きの電動車2021-2040は車両番号に150を足して2171-2190に、元々モーターのない付随車2071-2090は、車番を変えずに存続した。当時、宝塚線の2100系は能勢電に譲渡中であったが、その車番は電動車が2114まで、付随車が2164までだったので、番号の重複はなかった。2171-2190 は2100番台を名乗っているが、もちろん2100系ではない。結局阪急線内では、2000番台として最も遅くまで存在した。
2300系は1960年に登場した京都線用の車両である。2000系とともにローレル賞を受賞している。京都線は支線を含めて当時から1500Vだったので、登場時の外観は2000系と同じだったが中身は全く異なる。モーターもメーカーが異なるため全く異なる音がする。2000系はけたたましく唸りながら急発進するのに対して、2300系は上品でツヤのある音を発しながら徐に発車する。2000系が昇圧改造で早くに原型を崩してしまったのに対して、2300系は架線電圧の変更に関する大掛かりな改造を受けておらず、ローレル賞受賞の要因ともなった回生ブレーキや定速度運転という機能も残されて、原型の良さを留めたまま2000年まで一両も欠けることなく全車在籍していた。2305Fが2800系の車両を編入した以外は他形式との混結もなく、ごく短期間神戸線に転属した以外は一生を京都線とその支線で過ごした。これが全廃されたのは能勢電1500系 (主に阪急旧2100系) とほぼ同じ2015年なので50年以上の長寿である。原型をよく保っていることから2301-2352の2両が正雀工場で動態保存されている。編成順は、2000系・2100系・2021系と違って大阪方にモーターがあり、編成表記も電動車から始まる。
2800系は1964年に登場した特急専用車で、2扉で転換式クロス・シート、窓が特徴ある二連になっていること以外は2300系と全く同じ車両である。子供の頃、母に連れられて月に一回梅田へ買い物に出かけたのだが、私は買い物よりも、その帰途で梅田駅を三線同時に発車して十三駅まで並走する電車を眺めるのが好きだった。特に淀川橋梁では京都線が一段高くて羨ましかったし、十三駅から分かれていく姿も美しかった。阪急京都線の特急といえば、この2800系が絶大な存在だった。1995年に編成としての運用は終わったが、3両だけが2305Fに組み込まれて2001年まで生き延びた。
阪急の運行形態は、宝塚線と神戸線は共通運用があるが、京都線とは余程の事情がない限り共用されてこなかった。まず1967年以前は架線電圧が違うので、両方の電圧で動作する複電圧車両以外は乗り入れそのものが無理だった。古いところでは、700・710・800・810系での、いわゆる「神京特急」・「神宝特急」という観光列車があった。その時代は、京都線の大阪方のターミナルは天神橋であって、淡路-十三間は支線だった。多くの車両が十三止まりであり、一部の優等列車が、宝塚線に無理を押して侵入し、ノロノロ運転で梅田へ乗り入れたらしい。その名残は、私が中学高校へ通った時期、京都行きの普通は十三発が多かったことに残されていた。
全ての列車を統一規格にするための昇圧の必要性というのは阪急にとって大きな課題であった。1960年当時の神戸線用の2000系と宝塚線用の2100系は600V専用車であった。600Vから1500Vへの架線電圧の昇圧は、神戸線で1967年、宝塚線で1969年に行われた。これにむけて多くの旧型車両は淘汰され、残されたものは昇圧に耐えられるように改造されたり、2021系・3000系・3100系という昇圧に対応できる新車が製造されたりした。2000系と2100系は昇圧改造に入ったが、その際、輝かしいローレル賞の要因になっていた回生ブレーキと定速度運転という最も特色ある機能を捨てた。そのため電動車に2器搭載だったパンタグラフのうち回生ブレーキによる余剰電力を架線に戻していた1器が除去され、台座を残したままのもぎ取られた姿を晒し続けた。つまり、デビュー当時の先駆的機能と美しいスタイルを誇ったのは、当初の10年そこそこだったのである。
そう、話が逸れたが阪急の運行形態は、宝塚線と神戸線は共通運用があるが、京都線とは余程の事情がない限り共用されてこなかった。その余程の事情というのは、上の観光列車を別にすると、1967年に神戸線の架線電圧が京都線と同じ1500Vに引き上げられた直後の応援に京都線から神戸線に2300系が入ったこと、1970年の万博輸送のための全線総力を挙げての相互乗り入れに、あらゆる車両が京都線経由で千里線を走ったこと、1972年ごろに当時の京都線100系 (P-6) が廃車されていく不足を補う形で神戸線用2000系が7両編成で主に京都線急行に投入されたことなど、いずれも期間限定運用であった。なお1971年から製造された本格的冷房車5100系は、三線共通運用を目指したもので当初京都線にも配置されたが、翌年から製造された5300系配置後に宝塚線に転属した。
なかでも神戸線用2000系の京都線での運用は、中学高校時代を宝塚から高槻まで毎日通った時期の苦しい思い出である。京都線を共に走る同僚の2300系が最後まで二丁パンタの原型を留めたのに対して、早くから後ろのパンタグラフをもぎ取られた惨めな姿を晒し、冷房もなく、当時すでにかなりガタガタでよく揺れたし、発進時から響き渡る太くて馬鹿でかいモーター音、しかも高速力走時に発する焼けるような匂い、鋭い音を立てるブレーキ、車両間通路が広く扉がないので冬は強烈に寒く、走り方が荒っぽい、とにかく乗り心地の悪い車両だった。しかし力強くてよく走った。これが、いま能勢電を走っている能勢電1700系である。しかし、いまだに解けない謎が一つある。この頃までの一定期間、阪急京都線の急行の標識板だけは、車両正面に向かって左側にかけられていた。特急は全て二枚看板だったが、他のものは全て右側だったのに、なぜ京都線急行だけ左側だったのか、その謎が今も解けていない。
さて、彼らが京都線運用を終える頃、私も高校を卒業する頃になっていたが、京都線の特急には6300系が投入されはじめていて、京都線特急の代名詞だった2800系が3枚扉ロングシートの普通車用に改造されはじめたのには胸が痛んだものである。2800系の特急時代は意外に短くて最長で15年であった。最終的には8両編成7本56両が製造されたが、特急運用から外された後は主に急行、やがて前から2両目の2880番台をはずして7両編成で普通に格下げされた。このとき外された7両のうち、6両は5000系・5200系に組み込まれて神戸線に移籍したが、彼らの廃車やリニュアルとともに消えた。2885という1両は2305Fに組み込まれて京都線にとどまった。特急専用だったので累積走行距離が長く、経路も一定していたために更新が行われてこなかったので廃車は早かった。先述したように、1995年にさよなら運転が行われて編成が廃止されたが、その後も京都線の2305Fに2831・2841が組み込まれて、先に組み込まれた2885とともに2001年まで生き延びた。
また全く特異な例だが、阪神淡路大震災の時に伊丹駅で被災した下り側先頭車3109の代車の調達にからんだやりくりで、廃車寸前の2842が数ヶ月だけ3072Fの編成に組み込まれたことがある。廃車になった下り側先頭車3109の代用に3072Fの中間に挟まっていた運転台付きの元下り側先頭車3022が充てられて二代目3109となり、その位置に廃車寸前だった中間電動車2842が充てられたのである。このとき3022の車体に事故車3109の機材を取り付け、2842の車体に3022の機材を取り付けて、両系統との互換性を確保した。このようなたらい回しが行われたのは、3100系に現役の下り側先頭車の余剰がなく、3022は中間位置だったがこんなこともあろうかと思って運転台を撤去していなかったからである。しかし当時中間電動車の余剰が全く別系統の2842しか見当たらなかっので三つ巴のたらい回しになった。1995年という年は忘れもしない阪神淡路大震災のあった年で、私は砂埃にまみれて生活再建に取り組んでいたのだが、たまたま乗り込んだ今津線で3000系6両編成に組み込まれた2800系を見てまず驚き、その車体から3000系の音がするのを聞いて再び驚いた。数ヶ月後、2842はその元3022の機材を付随車旧2171 (元2021) に渡して去っていった。死に際の最後の奉公であった。これによって再電装された旧2171は二代目3022に改番された。そんなことを知る由も無い私は、2842に入れ替わって入っていた3022の車両を見て三度驚いた。なぜなら阪急の厳格な付番ルールからすると、3022という車番は運転台のある電動制御車のはずであるが、それはどこから見ても運転台がなかったからである。そればかりか、側窓の大きさと内装の特徴から見て、明らかに2100系のはずなのに、モーターの音はまごうことなき3000系だったので、四たび、頭が混乱するほど驚いた。3022は阪急の歴史上唯一の「3022系3022形」ともいうべき一形式一車両の全く特異な存在だった。その状態で、驚いたことに3072Fはパンタグラフの一つがもげたまま13年後の2008年まで走り続けた。この3072Fという編成は、たいして阪急電車に詳しくもない私でさえ5回も驚かされたほどだから、多分当時の鉄道ファンの興味の的であったに違いない。
さて、その二代目3022の種車であった旧2171は宝塚線用8両編成の3154Fという編成から抜かれたものだが、その位置は、能勢電1500系に譲渡された唯一の2021系2030の後釜で、この2030が抜かれた原因は、実は後で述べるある大きな事故がきっかけだった。3154Fは、2171が抜かれた状態で7両編成であれば竣工当時の姿に戻れたものを、3652も抜かれて6両編成となって、よりによって今津線に移籍した。つまり助けられた3072Fと助けた3154Fが同席したのである。まさに、事故による因果が宝塚線・能勢電・神戸線・伊丹線・京都線・今津線と巡りに巡ったのである。
また話が逸れてしまったが、1977年に京都線に移籍していた2000系は神戸線に復帰したのち、彼らは順次冷房改造され、振りかざしていたパンタグラフを後ろに引っ込めて、ちょっとマイルドな姿になった。しばらくは電装解除され冷房改造された2071系すなわち元2021系を挟んで8両編成を組んでいたが、やがて新型車両の増備に押されて支線運用に回され、6両・4両・3両などに分割編成されていくうちに、もともと誰が誰と組んでいたのかさっぱりわからんくらいに混乱してしまった。1990年、能勢電のために主に2000系を譲渡するのに合わせて、3000系・3100系が支線運用に回されることになった。2000系の譲渡は、主に今津南線・伊丹線用の3両編成を中心に、運用中の2000系の編成をバラバラにして、3000系・3100系の短編成化で余剰となる2000系・2100系・2021系の増備代行車を組み合わせる形で、4両編成を8本組み直して行われた。これが能勢電1700系である。そんなわけで、やっと話が最初に戻った。この話がこんなに紆余曲折しまくるのも、ことほどさように2000系が目まぐるしく改造されたり組み替えられたりして阪急線内を走り回ったからである。
能勢電への譲渡は2100系の方が先だった。製造されたのは6両編成5本合計30両だったが、後述するように1967年から始まった神戸線の昇圧工事の際に、最終編成の2162Fが2000系と同一仕様に改造されて2000系の増備に出た。その際に、前後関係はわからないが、2055・2059の2両の2000系を受け入れて2153・2155の2両を放出した。これらは2000系に組み込まれたという資料もあるが、1978年ごろから始まった3000系の8両化増備の代車に出るまでの10年間の所在がよくわからない。で、2055・2059の2両の2000系を含む24両は、すでに1968年には8両編成3本を組んで、1983年ごろまで非冷房のまま宝塚線を走っていた。しかし線形の改良や高性能車の導入によって相対的に性能不足の状態に陥り、その全てが能勢電に譲渡されて能勢電1500系になった。それらの冷房化は能勢電で行われた。一方の2153・2155は、当時3000系8両編成に組み込まれていて、これらの編成とともにすでに冷房化されていた。阪急で冷房化改造を受けた2100系はこの2両のみである。これ以外の2100系を全て譲渡してしまったので、この2両は、二代目2055・2059に改番され、阪急2100系は消滅した。しかしこの2両も、若い車両に挟まれて阪急線内で生き延びられるかと思いきや、編成された3000系の支線運用の際にバラされて廃車されてしまい、結果的に能勢電に移籍した多くの元2100系の仲間たちより先にあの世へ旅立ってしまった。なにが運命を決めるかわからんもんですなあ。阪急2000番台の大まかな変遷は、だいたい以上のようなものである。
さて、能勢電1700系のうち廃車されてしまった第一編成の先頭車に1750というのがあって、これは阪急旧2092、宝塚線用の元2162であった。2100系最後の編成だったが、神戸線の2000系の昇圧工事の時に、全部の車両を一気に工事するのではなく、まず一編成分だけ部品を新調して組み込んで運用に出し、外した部品を改造して次の編成に組み込む・・・ということを順繰りにやって最後に残った部品を、この2100系最後の編成に使った。そのときの編成は、2162-2112-2163-2113=2164-2114であった。これによって彼らは2100系の車番を持っていながら2000系と同等の性能を持つことになり、既存の2000系の中にバラされて、私が中学高校似通った頃の京都線で急行として爆走していた。神戸線に戻って冷房改造された時にそれぞれの番号から70を引いて名実ともに2000系に編入されたのだが、なぜ70を引いたかというと、当時すでに戦力外通告を受けて2071系に改番されていた弟分2021系の最後の編成が2091-2041であったので、その続きにしたのである。したがって両者が続き番号として同時に存在した時期はない。バラされて改番された後の番号を、仮想的に元の編成に組んで並べると、2092-2042-2093-2043=2094-2044となる。これらのうち能勢電1700系には、上に述べた2092のほかに、2044と2042が阪急での編成のまま別々に譲渡されていたが、すでに廃車されて現存しない。これらはもともと同じ編成で生まれていながら、死ぬときはバラバラだった。しかしあの順繰りの改造がなかったら2000系に編入されることなく、能勢電1500系として先にあの世へ旅立っていたかもしれない。なにが運命を変えるか、全く分からんもんである。
で、現存する4編成のうちの1754Fの先頭車1754は、阪急の旧2050なのだが、この車番そのものは2000系第一編成の所属である。しかし実はこの車両は二代目なのである。そういえば、あれからもう36年、これは阪急電鉄の歴史に残る大事故であった1984年の六甲駅、山陽電鉄車両との衝突で大破した元2050が廃車されたために、能勢電1500系の一員として譲渡されるはずだった2154が急遽呼び出されて改造され、二代目2050になった。今ある1754はこれなのである。ちなみに初代2050は、竣工した直後の試運転で工場から出される時にも配管のつなぎ間違いでブレーキが効かず、900系に衝突して破損した。これを含む編成は阪急の輝かしい高性能車両2000系の第一編成であったので、これによってそのデビューが遅れたのである。初代2050は、事故に始まって事故に終わった。主に2100系を種車とする1500系は全廃されたので、この能勢電1754は、現存する元2100系最後の1両ということになる。この時呼び出されていなかったら、2154は1985年に能勢電に譲渡されて能勢電1585となり、そのまま2015年に廃車されていたはずである。この入れ替わりのおかげで、彼は元2100系最長の命を永らえている。いや本当になにが運命を変えるか分からんもんであることよのう。
その2154の代わりに能勢電に譲渡されて能勢電1585になったのは3154Fに挟まれていた2030であった。これは電装解除された元2021系で、2071系に改番されなかった唯一の車両である。2180が欠番になっているのはこのことによる。これが選ばれたのは、ちょうど3154Fが冷房化改造の途中で、2030が未施工だったためである。かつては複電圧車としてデビューしながら早々に戦力外通告を受け、長い間黙って3100系に挟まれていじめられていたのが、性能の劣る元2100系とはいえ再び兄弟分とともに走れるようになった。しかし運転台は復元されず中間車の扱いだったため、後からやってきて先頭車として走る1754すなわち旧2154を、ほんまはお前がここに繫がれるはずやったのにと恨みながら、早々に2015年に廃車されてしまった彼の無念を思うと胸が痛む。ちなみに冷房改造中だった3154Fは2030を放出した後、電装解除された2021系のトップ・ナンバー2021を新たに迎え入れて冷房化された8両編成として復帰した。このとき2021は2171に改番されたが、12年後に起こった阪神淡路大震災の時に伊丹駅で被災した3109の代車の調達にからんだ例のやりくりで代打を務めた2842と入れ替わる形で再電装されて出ていった。二代目3022に生まれ変わって3072Fを援護したが、2008年にその編成の廃止とともに、後輩の名を冠したままこの世を去った。一つの系列のトップ・ナンバーの最期としては、あまりにも無念な消え方である。
能勢電に譲渡された1700系のうち1754F以外は、その直前までは全て3両編成で余生を今津南・甲陽の各支線で過ごしていた。さきにも書いたように彼らには輝かしい京都線急行時代もあるので、宝塚・神戸・京都の三本線と南北今津・伊丹・甲陽線を含む最も広い守備範囲を誇ったのではないか。で、彼らが4両化されるにあたって呼び出されたのが、2177・2187・2078という、既に2071系に改番されていた元2021系である。改番からおよそ7年が経ってさらに改番されて他社へ譲渡されたのである。このように現存する能勢電1700系4両編成には、その4本の全てに1両ずつ生まれの異なる車両が含まれている。先に全廃されてしまった3000系同様、清濁併せ呑んで阪急の発展を支えた車両として感慨深いものがある。
しかもそのうち1754F (1754-1734-1784-1704)は、阪急旧2050F (2050ii-2000-2051-2014) であって、上に述べた2000系トップ・ナンバーを2両目に含んでいる。同じ時期に製造された車両がもう一両、1757Fの前から2両目に1737 (旧2002) として残っている。阪急の輝かしい高性能車両2000系の、1960年に製造された初期のモーター音がまだ聴けるというのは素晴らしいではないか。また、1754Fの1両目は現存する唯一の元2100系なので、他と内装が微妙に異なる。またそれ以外の3編成の前から3 両目は元2021系であり、これまた内装が微妙に異なる。たとえば窓の形やその内側のゴム、扉上部内装の縁取り、扉の持ち手金具の切り込みの形やローラーに当たる部分の銀帯など、他の廃車車両のものと交換されてしまったものもあるが、竣工当時の外観の違いなども楽しんでいただきたい。
2300系・2800系が、京都線内で最初から最後まで、ほぼ原型を保って走り続けたのに対して、2000系・2100系・2021系が原型を保っていたのは当初の僅か10年ほどだった。しかし改造と編成替えを繰り返し、代車扱いになったり他形式に改番されたり、改番されて改番され、挙げ句の果てに売り飛ばされて非業の死を遂げたものも多い。しかし生き延びたのは最終的に車齢の最も古い2000系で、製造時期の関係から、おそらく次に廃車されるのは1754Fと思われる。彼らのうち1734 (旧2000)・1784(旧2051)・1737(旧2002) は、あと半年で還暦を迎える初期ロットである。その姿を見、音を聞けるのもそう長いことではあるまい。