2020年05月27日

20200527 猫との信頼関係

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 子猫いりませんか ?? まだまだ子供だと思っていたのに、五匹も産んで母親になって立派に育てています。本当に立派な母親です。子供たちが寝入るのを見届けてから、私に餌をねだったり、縄張りのパトロールをしたり、時にはふらふらに疲れ果てて寝そべっています。子供たちは、まだ生後一ヶ月ほどです。なんとか歩きはじめたところで、いろんなものに興味が行き、お母さんは大変です。五匹合わせると自分の体重より大きなものが、昼夜を分かたずむしゃぶりついてくるので、お乳は腫れ上がっています。食べても食べても吸い取られるので、お母さんは痩せています。これが全く援助のない野良猫だったら、毎日狩りをしながら子育てするのでしょう。見ていて本当に頭が下がります。男なんて、母の前では全く情けない存在です。子供たちは、あと一ヶ月もすれば親から離れて、自分の縄張りを求めて散って行きます。しかしおそらく一匹生き残るか、全滅するかでしょう。この辺りの猫が増えないのでわかります。だから、もし良ければ、引き取って育ててもらえればと思います。私のオーガニックな穀物と、新鮮な魚のアラで育った親猫の子供です。

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 母親は黒猫、父親は「じゃりんこチエ」に出てくる「小鉄」のような猫です。出て来た子供は、黒猫が2匹、「のらくろ」のような白黒の猫が2匹、同じ柄でちょっと黒の薄いのが1匹です。性別は確認してません。子猫が親離れするのは、生後約二ヶ月ほどです。たぶん4/22くらいに生まれてますから、あと一ヶ月ほどです。子供たちはすでに目が見えるし歯も生えて来ていますので、乳離はそろそろだと思います。それから彼女が子供たちに一人前の猫になるための教育と訓練を行うはずです。5月末くらいにはお渡しできると思います。

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 猫は出産した後、子供たちの成長に合わせて、また排泄物から離れる目的で、数回居場所を変えます。二週間ほど前から私のところに立ち寄る頻度が増えたので、もしやと思って納屋を探してみたところ、どうやら引っ越して来たようです。ここは農村です。おそらく前のねぐらの持ち主の家の田植えが始まって、そこが慌ただしくなったのでしょう。しかし、ここも来週には田植えが始まります。見つかったら最後、まとめて処分されてしまいますので、随分迷いましたが強制連行しました。猫のねぐらは人間にはほとんどわかりません。親が子供に警戒感を教え込んで、不審な物音がすると鳴りを潜めてしまうからです。しかし、親の声がすると安心して出て来ます。

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 私は彼女との信頼関係がどの程度確かなものかわかりませんでしたが、先日食事を終えた彼女を促して、納屋の前まで行ってみました。食後すぐに戻ることを知っていたからです。彼女はしばらく躊躇していましたが、意を決したように納屋の隅に入ってゆき、独特の声で鳴きました。すると、物陰から続々と子供たちが出て来ました。普通、母親になった雌猫は、たとえ飼い主であっても子供には近づかせないものですが、彼女は特に私に対して威圧的な態度には出なかったので、子供たちも普通に母親に寄り添っていきました。しばらく様子を見て、持参のカゴに子供たちを入れ、用意しておいた中庭のねぐらに運びました。彼女も、特に興奮することもなく、私について来ました。とりあえず成功です。

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 しかし、ここに居ついてくれるかどうかは状況次第です。納屋の中の方が、動物本能的には安全なはずですが、人間の都合で状況が一変します。とくに子供たちが成長すると、いつまでも同じ物陰にじっとしていられるはずがなく、見つかるのは時間の問題です。しかしここも、中庭とはいえ屋外ですから、地上の天敵、空からの天敵、雄猫の襲撃を完全には防ぎきれないので、やはり時間の問題です。子供たちが独立するまで精一杯の援助をしようと思っていますが、それまでもつか、それから生き延びられるか、過酷な状況が待っています。よろしければどうぞ、ご連絡ください。

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2020年05月24日

20200524 クープが開く

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 友達の助言を得てパンの焼成を変える。オーブンを予熱し、生地を霧吹きで湿らせ、クープを深めに切り込む。見事に開いた。

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2020年05月22日

20200522 畑の観察

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畑の観察・・・菜の花が終わって種ができはじめる頃、葉は急速に落ちていくので取れるだけ取る。大根の花が終わったら、夏野菜ができはじめるまで端境期に入るので、タマネギやニンニクの葉、それもなくなれば土手の草を料理して食べる。それが硬くなる頃に、ぼちぼちキュウリや春蒔きの野菜の若葉、場合によっては葉を常食しないシシトウやピーマン、エンドウの葉なども食べることができる。百姓をしていれば、贅沢さえ言わなければ食う物に困ることはない。今シーズンの小さな畑では、青ネギの花が咲いて、一部種ができかけている。それに続くタマネギも根が太りはじめ、種取り用に植えたアカタマネギに葱坊主ができている。これから種を取って秋に種まきをして来年の梅雨入り頃に収穫する。ニンニクも順調。畝は変わって、手前から一寸空豆と、意外に白い花のついた赤空豆、その奥はどんどん蔓を伸ばすウスイエンドウ。メイクイーンは先日来の霜でおそらく全滅。
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2020年05月18日

20200518 Dufay: Gaude Virgo, Mater Christi

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Guillaume Dufay: Gaude Virgo, Mater Christi/ Cantica Symphonia
(CD, Cantica Symphonia: Quadrivium, Guillome Dufay, Motets, vol.1, Glossa, GCD P31902, 2005, EU)
 「引きこもりの美学」・・・多声音楽の魅力というものは、クラシックに限らずどんな音楽にもいえることだと思うが、幾重ものメロディが散発的に別々の動きを持って歌われることによる重層性である。単旋律の歌は純粋性を、多声音楽は複雑な苦悩をよく表現できるが、その内容は全く様々である。Guillaume Dufay (1397?-1474) の生きた時代は、ペストの感染爆発が鎮静したものの、ローマ教会の大分裂が深く社会を分断していた.人々の精神的支柱であったキリスト教世界観が、唯一絶対の揺るぎないものではなくなった.神は人々を助けてはくれなかったし、神を信じよと我々に説く者が権威をめぐって争い続けていた.それは、神性を普遍無謬のものとし、その前提のもとで社会が成り立っていた時代とは全く異なる。神が普遍的原理なのではなく、それは別にある。音楽に限らず、人間のあらゆる知性的活動の分野で、改めて原理を問い直し、追い求める衝動が、ルネサンス運動を後押ししたのである。
 Dufayの音楽を調査研究して現代に復興させる試みのほとんど全てで、彼の楽曲にしか考えられない複雑で深刻で、しかも整った構成美を持つ独特の情感に触れるのはなぜだろう。もちろん演奏家による解釈や表現方法の違いは大きいけれども、多くの演奏で極めてDufay的な響きを感じざるを得ないのはなぜだろう。それまでの中世の音楽、単旋律で歌われる、純粋な信仰をイメージする清らかな聖歌、素朴で明るい庶民の歌を取り入れながら、「騎士道」という統一された美学のもと王侯貴族の館に開花した前宮廷音楽、両者を取り入れたり排除しながら発展してきた典礼音楽・・・さまざまな影響を受けながらも醸成されてきたヨーロッパ的な音楽の様々な要素が、一瞬にして彼のもとに結晶したかのような凝縮感を感じる。聞けば聴くほど、それまでに聞いた様々な時代の音楽の結果や、この時代以後に現れるいろんな音楽の萌芽が、多声のそれぞれの動きの中に組み込まれ、前衛的でありながら、全体としては美しい結晶のように聞こえるのである。
 "Gaude virgo, mater Christi"・・・このタイトルは、のちのJosquin Des Prez作曲のものの方が有名かもしれないが、もともとは聖書の詩句によらない古くからの定型句である。「喜びたまえ、処女なる、キリストの母よ」・・・細かい解釈は別として、概ねこのくらいの意味になると思うが、聖母マリアが男との性交渉に依らず、精霊と交わることで処女を維持したままキリストを宿した、という考え方に基づく。この曲は典礼音楽ではなく、それと世俗歌曲との橋渡し的な性格を持つ「モテット」・・・すなわち、グレゴリオ聖歌の定旋律の引き伸ばされた母音の長音に、様々な解釈などを織り込んだ言葉を持つ音楽が、やがて独立してひとつのジャンルになったものである。分類としては宗教曲に含まれるが、内容は両者の中間的な意味合いを持つ。聖母マリアのイメージが、キリスト教文化の中においては、聖なるもの、美なるものから始まって、やがてそれを賛美する内容が、男が女に求める理想の姿を様々に重ね合わせて、やがて複雑化していく。その傾向は、音楽のみならず、宗教画に女性の裸体が多く描かれることにも現れる。これらが調和して存在することが、ヨーロッパ的なるものの不思議と思われて仕方がない。
 重層する複雑さを統率する原理は、古来から数学的にアプローチされてきた.古代ギリシアで、一本の弦を鳴らした音の高さと、その半分の長さの弦を鳴らした音の高さが、同じようでありながら調和して快く聞こえたことをきっかけに「オクターブ」が発見され、やがて音階の数学的な分析に発展した.私は楽典を理解していないので、ここでDufayのこの分野における功績について書くことはできない。ただ、それによって構成された音楽が演奏された結果は、強く圧倒されるにもかかわらず、全体として深い安堵にに満ちたものだった.このアルバムのタイトル、"Quadrivium"・・・すなわち中世の大学における基礎学科「文法学」・「論理学」・「修辞学」に次いで修めるべきとされる四学科「算術」・「幾何学」・「音楽」・「天文学」・・・も、胎内に統合されたDufayの魅力を暗示しているようである。このアルバムは、サブタイトルが示す通り彼のモテット集である。長大な代表作ではなく、珠玉の短編集という趣がある。私は歳を取ったとはいえ自分ではロック・ミュージシャンの端くれのつもりなのだが、この700年もの時を越えてなおかつ奏でられる音楽の生気に触れる時、たかが数十年のポピュラー音楽の歴史が色褪せて見えるのはやむを得ないように思う。

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2020年05月17日

20200517 Hocquetus David


Guillaume de Machaut: Hocquetus David (instrumental)/ Ensemble Musica Nova
(CD, Ensemble Musica Nova: Guillaume de Machaut, Ballads, æon, AECD 0982, 2009, EU)
 「引きこもりの美学」・・・クラシック愛好家やキリスト教関係者とは異なって、私が古学に興味を持ったのは、ドイツのロック・バンド"Faust"に入れあげたことがそもそもの原因だった。Faustのアウト・テイクス集や、そのメンバーのセッションに、多くの実験的反復音楽の録音がある。それらはロックの魂を高揚させるような情熱が昇華されて無機質となり、宇宙に彷徨う光の周期のように感じられる。そこから反復をテーマとした現代音楽へと興味が広がるにつれて、やがてクラシック音楽へ、バロックをかすめて中世の音楽へと聴き進んでいった。私の古学に対する関心は、あまり純粋なものではないし、クラシック音楽の多くがキリスト教文化の基礎の上に成り立っているにもかかわらず、私はクラシック愛好家やキリスト教関係者のように、その歴史や伝統に充分な敬意を払っていない。単に、録音に現れた音の感触を自分なりに評価しているだけである。古楽の歴史を辿るのも、要するに自分が良いと感じる音楽の断片を探し求める道標にしているに過ぎない。
 そういうアプローチもありうるとすると、中世の音楽は、まさに良いフレーズの宝庫である。断片とかフレーズという言葉を使ったのは、これらの音楽が、ヨーロッパでは教会の典礼の式次第によって形作られ、あるいは音楽劇の形態をとって、往々にして長大な組曲の様相を呈するからである。私はそれらを正しく正面から聴き通すだけの忍耐力がなく、本題が始まる前の前奏曲や、その合間に挟まれた間奏曲に関心を持つ。あるいは庶民的な流行歌や、その一節が独立して様々に変奏されていく様子を聴いて楽しむ。宗教曲においてさえ、その一節を強調して歌い込んだり、やがては独立して別の曲に仕立てたりされている。または、逆にそうしてできた曲や断片を、ミサ曲に挟み込んでバリエイションを持たせたりしている。このような関心を持って中世の音楽を聴き進んでいると、似たようなフレーズがあちこちの、しかも時代もかなり離れたものの中に散見される。それらを遡っていくと、多くは作曲者不詳の庶民の歌や伝統的な民謡であることが多いが、時にはイスラム圏の古いマカームの一節だったりする。歌詞のあるものは、その意味を辿っていくのもまた楽しい。多くは結局旧約聖書の詩篇に行き着くのだが・・・
 旧来歌い継がれてきた典礼音楽や庶民の歌を、おそらく楽譜上で加工して作曲したと思われる曲も多い・・・というか、それが作曲家のメシのタネだったようだが、特定の印象的なフレーズを繰り返し、あるいはテンポを変えて、あるいは原曲と重ね合わせて演奏するとどうなるか、あるいはリズムが正確に記譜できるようになったことから、本来グレゴリオ聖歌の文句の抑揚に合わせる形で音楽が成立していった重要性に対して、明らかにリズムを弄んでどう響くかを楽しんだと思われる曲も多く伝えられている。それをシレッとミサ曲に挟んで聖歌隊に堂々と歌わせてみたり、騎士の嗜みなどと言って宮廷に献上し、紳士淑女がそれに合わせて踊るのを眺めてみたり、あんまり雑多になり過ぎたので教会側が怒ってこれらの演奏を禁止してみたり、それでも懲りない作曲家たちが、聖歌の途中に入れる間奏に、もともと卑猥な歌を器楽合奏で挿入し、後で聖歌隊に曲名を当てさせてみたり・・・おまえらなかなかやるのう、こんな、現代音楽なんて腰を抜かすような実験が、早くも14世紀の昔から行われていたことを知るにつけ、ますますその響きに取り憑かれるようになってしまった。
 Guillaume de Machaut (1300?-1377) は、おそらく中世のヨーロッパに現れた最初の大作曲家であろう。その生涯は波乱万丈で興味が尽きないし、代表作とされる「ノートル・ダム・ミサ曲」も、聴き込んでいくにつれて複雑な味わいに惹かれてくのであるが、ここでは異色とされる「ダヴィデのホケトゥス」を紹介したい。この曲は、もともとグレゴリオ聖歌の「アレルヤ唄」のなかのマリア生誕の部分"Maria Nativitas"の最後に家系の祖としてダヴィデに言及される部分の一節を取り出して、多声楽曲に編曲されたものである。複雑なリズムが交錯し、特に細かい連打音が、各声部交互に出現するのが「しゃっくり」に似ていることから、その意味であるところの"Hocquetus"が充てられたと言われている。今でいう「シャッフル」ですな。これは複雑すぎて元の歌詞をもっては到底歌えないので器楽合奏曲ではないかと言われているが、様々な解釈の演奏が存在する。非常に「クラシック臭く」演奏されたものもあれば、むしろコミカルに押し倒したようなものもある。しかしこのEnsemble Musica Novaの演奏は、このアルバム唯一のインストゥルメンタルであり、それがこの曲の正しい解釈だと明記されている。ほとんどの場合笛で演奏されるが、彼らはハープやヴィエールなどの弦楽器を加えている。その響きは、空間に浮遊する音霊の群れのように聞こえ、同じフレーズが時々現れては消える。万巻を読み尽くした老学者の穏やかさというべきか、独特の精神的な高みに誘われたような、不思議な感触がある。
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20200517 霉豆瓣

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これでいいのかなあ・・・

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20200517 盗撮 (^^+

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2020年05月15日

20200508 サリークイーン種下ろし

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いつも出だしが不機嫌なサリー女王様ようやく・・・でも同期はすでに・・・なによ後で笑うのはいつも私よオホホホホ。
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2020年05月14日

20200514 Che Pana È Quest'al Cor

Francesco Landini: Che Pana È Quest'al Cor/ Ensemble Micrologus
(CD, Ensemble Micrologus: Francesco Landini, Fior Di Dolceça, Zig Zag Territoires, ZZT050603, 2005, France)
 「引きこもりの美学」・・・14世紀のフランスで起こった「アルス・ノーヴァ」の影響を受けて、イタリアでも記譜法の改革による技術的変化によって、一連の多声音楽の動きがあった。1300年代であることから「300」を意味する「トレチェント (trecento)音楽」と呼ばれ、ひとつのカテゴリーになった。南フランスから地中海沿いに東へ進むと、Venghmiglliaの峠を境に風景も光も一変する。明らかに気候と風土が変わるのである。話される言葉もそうだが、料理やパン、ワインの味まで違う。人々の気風が違う。フランスの魅力は、趣向の凝らされた料理のソースの複雑さによく現われていると思う。高級料理に限らず、地方都市の定食屋でもそうなのである。最後に残ったバゲットで皿のソースをねぶっていると店主がむしろ喜んでコーヒーをサービスしてくれるほどだ。これに対してイタリア料理の明快さは格別だ。トマトの酸味、チーズのコク、油やスパイスの使い方も半端でない。これらを使いこなしてあの原色のバリエーションが出る。音楽も、フランスのヴィオール・コンソートの複雑繊細に美しさと違って、あっけらかんと明るくメリハリが効いている。細くくびれたところは抱きしめると折れそうなほどで頭がクラクラ・・・失礼・・・で、Francesco Landini (1325?-1397)は、幼少の頃天然痘によって失明したことがきっかけで音楽の道を志したと言われている。特にオルガンの名手で、墓石に携帯型のポルタティフ・オルガンを携えている姿が映されている。トレチェンと音楽を今に伝える代表的な写本に15世紀に発行された「スクアルチャルーピ写本 (Squarcialupi Codex) 」というものがあって、これをもとに演奏再現が試みられていて、上のEnsemble Micrologus以外にもたくさんある。トレチェンと音楽を復興して演奏、録音したもののうち、私の聞いたものではこの演奏がダントツである。この曲の他の演奏が、どちらかというとイーヴンに譜割りしたリズムの上で丹念に奏でられているのに対して、この演奏はスピードを重視したように思われる。幸い動画がシェアされているので、3'20あたりから始まる演奏をお聞きいただきたい。
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2020年05月12日

20200512 Medee fu en amer veritable

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Philipoctus de Caserta: Medee fu_ fol.24v, Medee fu en amer veritable (ballade)/ Tetraktys
(CD, Tetraktys: Codex Chantilly 1, Etcetera/ Olive Music, KTC 1900, 2008, Netherlands)
 「引きこもりの美学」・・・13世紀までの中世ヨーロッパ音楽は、単旋律のクレゴリオ聖歌を基礎としながらも、吟遊詩人や地方王侯貴族、騎士道による社交界の恋愛の歌が花開いて、まさに黄金時代であったと言える。録音されているものは、残された文献や挿絵などから研究された結果であるが、キリスト教・イスラム・民衆の歌という三つの大きな要因がそれぞれに入り混じってこの時代の音楽の生き生きとした活力を今に伝えてくれているように思われる。なんといっても、グレゴリオ聖歌の単旋律のメロディの、なんとも言えぬ情緒は病みつきになる。時代が下るにつれ、その間に様々な歌曲が挟まれる形でバリエーションが増えていくのが楽しい。さらに間奏として挟まれる器楽合奏の、なんと繊細で緻密で、儚くも美しいことか・・・それらのバリエーションを聞くと、単旋律聖歌と多声歌曲は古くから両立していて、単旋律から多声へ一方的に発展したと言い切るには戸惑いを感じるのてある。アジアやアフリカの伝統音楽にも素晴らしい多声音楽がたくさんあり、ヨーロッパになかったと考えるのは不自然だ。むしろ、キリスト教典礼音楽の歴史を紐解いていくと、たびたび聖歌としてミサに使うことを認める音楽を整理している。つまり、多声の響く楽曲や、リズムを持つ音楽を、聖なるものではなく、俗なるものとして忌み嫌ったかのような記録がある。したがってむしろ、単旋律のグレゴリオ聖歌が当時の典礼音楽として確固たるものがあったのは事実だが、庶民の歌や踊りとして、多声音楽やリズムを持った踊りの音楽が広く分厚く底辺に生き続けていて、教会としても布教の必要からこれに近づき、そこに作曲や演奏の需要が生まれるとそれに携わる者が現われ、やがて彼らが教会音楽をも手がけるようになったのではないか。一方で、教会の権威をいただこうとする世俗勢力、すなわち王侯貴族や騎士団などによって社交界ができてくると、彼らの嗜みとしての舞踊や音楽が重く用いられ、それがのちの宮廷音楽への道を開いていったのではないか。その底辺には依然として庶民の歌や踊りがあって、それらは作曲家の着想や変奏の源泉を供給し続けた。このようにして、歴史的な考察の対象になりうる時代には、すでに教会音楽・宮廷音楽・庶民の歌という三層構造の原型ができつつあったものと思われる。これらが互いに影響を及ぼしあって、現代まで続く西洋クラシック音楽の大きな潮流になったのではなかろうか。
 実際には、教会としては典礼音楽を正しく決める必要があった。まずは正しい聖歌を歌うために、詩編の文句の上に、ルビのように音程の抑揚が書き入れられた。やがて布教の必要性から典礼劇その他のバリエーションが現れると、台本とともに歌が記録され、自ずから学士が集まって合唱や合奏が行われた。原曲つまりグレゴリオ聖歌の一部や、おそらく当時流行していたであろう名もない歌の一節などを基本に変奏が行われたはずである。多くの録音された典礼音楽を聴くと、単旋律のグレゴリオ聖歌のミサ通常文を歌い終わった後、多声による変奏が延々と続くからである。そこに音楽家の活躍の可能性があり、様々な楽曲の発展があったのであろう。要求される複雑な技法を伝達するために、音の記譜法が改良された。最初は音の高低やその度合い、動き方を示すだけのものだったが、やがて音の長さ、小節の分割という形でのリズムの表現方法ができてきた。大きな特徴は、音の長さを厳密に書き留める方法ができてきたことである。これによって、拍子やリズムを記録することができるようになって、それがさらに複雑な演奏を可能にした。このようにして聖歌や一部の世俗歌曲は、手書き写本の形で残された。写本の多くに世俗歌曲が多いことは、すなわち教会以外での音楽の演奏も、同程度かまたはそれ以上に重要だったこと、写本として残すに値する需要、すなわち演奏の機会が多かったことを意味している。逆に、写本の歌曲の多くに同じメロディやテーマと思われるフレーズが繰り返し現われるが、恐らくそれが庶民の歌を反映しているのであろう。それそのものとして書きとめられることがなかったか、あるいはできなかったのかもしれないが、滲み出しているのを見ることができる。
 音楽というものは、発せられた瞬間に消え去る運命を持つ芸術である。それを書き留める方法や動機は、このようにごく限られた人や機会にしか存在しなかっただけだと考える方が自然だ。記譜法の改良という大きな技術的進歩の功績は大きく、それらは複雑な多声音楽の、それぞれのメロディの絡み合いを克明に記録する可能性を示唆した。最初に現れた傾向は、単旋律聖歌の一つの音を長く引き伸ばしたところに、別の旋律で別の言葉を小刻みに乗せていく「オルガス・・・失礼・・・「オルガヌム」という手法である。歴史的な流れで言えば、パリに完成したノートル・ダム大聖堂を拠点に活動した「ノートル・ダム楽派」に属する作曲家たちの作品群が挙げられる。これはひとつの中世ヨーロッパ音楽の到達点だと思う。これを題材に演奏された作品は多く、それ以前のものを題材にしたものとの違いや、その良さはわかる。しかし、いまのところ、私の頭をぶっ飛ばしてくれるような演奏には出会ってない。でも面白そうなので、今後の探求分野になるだろう。しかし、これにはカネがかかりそうだ。
 音楽が技術的に複雑になっていく過程と、それを書き留めて演奏に反映させようとする努力は、互いに関連し合いながら進んでいく。14世紀のフランスで、さらにそれが推し進められた。「アルス・ノーヴァ」すなわち「新しい技法」と呼ばれる音楽の流れである。これは1320年頃に出版されたPhillippe de Vitryの理論書のタイトルが、そのまま音楽楽派の名前になったものである。この時代、西ヨーロッパでは、絶対的な精神的支柱であったローマ教会が二つに分裂し、ローマと、南フランスのアヴィニョンに分かれて対立した。このことは当時の人々にとって天が二つに割けるほどの衝撃であっただろうし、絶対的価値観というものが揺らいで多様化していく重要な過程でもあった。また、時代が相前後するが、この時代に全ヨーロッパを含む西アジアから北アフリカまでの広い範囲で、ペストの感染爆発が起こり、社会不安などという生易しい言葉で現象を語ることができないほどの崩壊、精神的にも物理的にも悲惨な状況が長く続いた。この頃、おそらく厭世観や終末思想から、極端に先鋭的で技巧的な形式を有する一連の音楽の動きが、そのアヴィニョンで発生した。「より繊細な技法」(artem magis subtiliter) を意味する「アルス・スブティリオル (ars subtillior)」である。
 その最も重要な曲集とされる「シャンティイ写本 (codex Chantilly) 」に収められた120曲もの世俗歌曲を、おそらく全部演奏してしまおうと考えているグループがある。 ≫Tetraktys ≫・・・後頭部を思いっきり後ろからはっ倒されたくらいの衝撃。出会った曲のタイトルがわからず、同じメロディを持つ曲をしらみつぶしに調べて突き止めた。リーダーの名前を調べて直接連絡を取って確認した。手軽にここでその音の素晴らしさを聞いてもらいたいのは山々だが、流出しているものはなく、著作権の関係でもめたくないから、勝手にアップロードするのはやめておく。mp3データでしか手に入らないが、iTunesでわずか\255なので、ぜひダウンロードして聞いてほしい。迫力が全然違うので調べてみると、ピッチそのものが全く違う。「a」が、なんと523Hzとされていて、現代の440Hzと比べると1音半も高い。さらにどの演奏もテンポが極端と言えるほど緩いので独特の情感がある。複雑に絡み合いながら進行するメロディ、どこでどう切れてどう繋がっていくのか予測できないリズム、不協和音へ落ちそうで落ちず、混沌に引きずり込まれそうでいて全体が穏やか・・・こんな実験的で美しい音楽がこの世に存在するとは思わなかった。この曲集の楽譜も残されているが、最早それは楽譜ではなく一幅の絵のようで、とてもそれを演奏することなど不可能ではないかとさえ思われる。そして彼らの急進性は、ルネサンス初期以降、ヨーロッパ音楽の和音の基調となる「四つの声部」の確立へと導いたのだが、それは単純化されて解消し、彼らが目指したであろう精神的な緊張感は受け継がれることなく消えた。
 キリスト教典礼音楽は、その後々の現代に至るまで西洋クラシック音楽の大きな基盤であり続けた。一つの宗教音楽が、これほどまでに文化的なレベルで多彩に受け継がれている例は、他の文化圏では見られない。その「聖なるもの」の観念が、多声音楽とリズム、すなわち澄んだ音に対する濁りを忌み嫌った傾向も、また現代に受け継がれているように思われる。そしてルネサンス初期における音楽の混沌を最後に、ヨーロッパ音楽は単純化される方向に向かい、むしろ精緻で構造的な美を求めるような傾向が見られる。しかしその大半を占める主題のない形式的な宮廷音楽など、私には単なる阿諛追従のグロテスクな塊としか感じられない。それがまさに「クラシック臭さ」なのではないかと思うのである。
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2020年05月11日

20200511 草刈り

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菜の花も食い尽くし、大根の花も終わった。畑にはもう何もないので、全て草刈りをして、いつでも開け渡せるように整地した。ここからどうするのか・・・それはムラが決めること。
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2020年05月08日

20200508 しゃのあ

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ときどきメシだけ食いに来る。食い終わると足早に去る。彼女は今、私と遊んでいる暇などない。子育てをしなければならないのだ。母の自覚と、再び女に戻った喜びを、その視線に感じる。
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2020年05月06日

20200506 Neige Blanche

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動力が失われた場合、人力で最も速く動ける手段は自転車である。機械を良い状態に保つには、手入れは欠かせない。愛用の自転車は年に一回はオーバー・ホールする。ホイール・バランスやセンター出しなどに手を出さなければ、ベアリングの調整だけ覚えてしまえば、あとはそう難しくはない。ダブル・ナットであたりの調整をする。要するに、二枚のナットを挟めば位置決めができるという理屈である。ただ、ネジが回るということは、ネジ山同士にわずかな隙間があるということで、きっちり位置決めしても、締め込んだ際にわずかに緩む。これを防ぐために、位置決めしたシャフトをレンチで固定し、その状態で反対側のダブル・ナットを調整する。わずかに締めすぎの状態で外側を締め込むと内側がわずかに緩んでちょうどよくなる。その感覚を見極める。早速試乗。動作快調。経済活動が止まってるためか、光が美しい気がする。

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20200506 初夏

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今年の春はコバエや蚊が早い。竹やぶに入って筍を掘り、湯がいて天ぷらにしていただく。夏野菜の苗ができつつある。ソラマメとエンドウに実がついた。若いエンドウで早速豆ご飯にした。ほったらかしていた大根に花が咲いた。初夏である。

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2020年05月05日

20200505 種下ろし

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ここ数日暖かいので順次稲の種籾が発芽、即席の苗代に下ろす。今シーズンは種取りだけなので・・・まあつまらんこっちゃ。

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2020年05月02日

20200502 能勢電1700系邂逅

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 今も運用されている阪急最古の車両系列といえば、1960年から製造された阪急の主に旧2000系が能勢電に譲渡された能勢電1700系がある。これらは1990-92年にかけて4両編成9本が譲渡されたもので、今も4両編成が4本残っている。能勢電は古くから阪急の旧型車両の博物館のようなところがあって、私が子供の頃は、まだ小型木造車が走っていた。1983-85年に、1962年から製造された主に旧2100系のうち4両編成6本が譲渡されて能勢電1500系となり、能勢電に初めての大型高性能車両が導入されることになった。これらは2016年までに全て廃車されているので、阪急時代から通算すると50年以上の長寿を誇ったことになる。また、それより車齢の古い1010-1100系が後になって譲渡され、これも2001年に廃車されて現存しない。その後、旧2000系・旧3100系や旧5100系が譲渡され、古き良きマルーン一色時代の阪急の姿が残されている。さてその能勢電に残る1700系は、すでにない1500系とともに阪急時代の編成単位での譲渡であったために、阪急時代の紆余曲折を経て組み込まれた別形式と入り混じった状態で移籍した。私は阪急鉄道少年であったので、その全ての車両の来し方行く末が頭に入っているのであるが、この二つのグループのすべての車両の一生は全く波乱万丈である。以下にそのあらましを述べる。

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 広義としての阪急2000番台は、2000系・2100系・2021系・2300系・2800系、さらには2021系が改造されて別形式を与えられた2071系が存在していて、登場時の外観はほとんど同じだったが内容はかなり異なる。

 2000系は1960年に登場した。阪急の現在の車両デザインを決定づけた形式である。回生ブレーキと定速度運転という最も特色ある機能を有し、2300系とともに1961年第一回ローレル賞の栄誉に輝いた。竣工時の第一編成は、2050-2000-2051-2001という4両編成であったが、系列を代表するトップ・ナンバーが大阪方から2両目の中間車であることが興味深かった。トップ・ナンバーなら先頭に持ってきてやっても良いものを、なぜ中間に、しかも運転台もない付随車なのかと子供心に思った。パンタグラフは電動車に2器搭載だったが、上の編成では2000と2001にあって、大阪に向かうときは逆向きに走っているように見える。これは、当時のラッシュ時の増結運転の計画では、大阪方に一両増結することが想定されていたのだが、その一両は単独走行できるパンタグラフ付きの電動車でなければならず、大阪方に電動車とパンタグラフがあると、それらが隣接して架線を押し上げてしまうので、それを防ぐために編成の向きを従来とは逆にしたのである。しかしユニット単位での編成の番号順は大阪方からとしたので、2050-2000-2051-2001の順となり、トップ・ナンバーは中間付随車に隠れる形になった。しかし一両ずつの増結計画を立てている間に沿線人口が急激に増えたので、増結よりも編成の長大化の方に計画は変更されて、2-4両単位での増備が続けられることになった。日本は高度経済成長、都市人口爆発の時代だったのである。しかし両運転台付きの2000系というものも見たかったものではある。

 2100系は1962年に登場した宝塚専用車両で、カーブが多くて速度の遅い宝塚線に適したように、出力とギア比を抑えた以外は全て2000系と同一である。

 2021系は1963-64年に製造された。2000系の追番を持つが、複電圧車という全く異なる性質の系列である。回生ブレーキと定速度運転という機能も持っていた。外観は、内側窓枠上部の直線化、扉のデザインに変更があり、のちの3000系と同じものになった。当時の宝塚・神戸線は架線電圧が600Vであって、上の2000系・2100系は、600V専用車であった。以前からこれを京都線と同じ1500Vに昇圧する計画があったのだが、公共交通機関なので、昇圧は一夜にして成し遂げられなければならない。2021系はそれに即応するために設計された車両だったが、構造が複雑すぎてトラブルが続出し、他形式との混結もできなかったので、編成としての運用は早くに打ち切られ、バラバラに電装解除されて単なる付随車として他形式の増備の代用に回された不運な系列である。1984年ごろから、組み込まれた編成とともに冷房改造され、それを機に改番されて2071系と称されるようになった。電装解除された元モーター付きの電動車2021-2040は車両番号に150を足して2171-2190に、元々モーターのない付随車2071-2090は、車番を変えずに存続した。当時、宝塚線の2100系は能勢電に譲渡中であったが、その車番は電動車が2114まで、付随車が2164までだったので、番号の重複はなかった。2171-2190 は2100番台を名乗っているが、もちろん2100系ではない。結局阪急線内では、2000番台として最も遅くまで存在した。

 2300系は1960年に登場した京都線用の車両である。2000系とともにローレル賞を受賞している。京都線は支線を含めて当時から1500Vだったので、登場時の外観は2000系と同じだったが中身は全く異なる。モーターもメーカーが異なるため全く異なる音がする。2000系はけたたましく唸りながら急発進するのに対して、2300系は上品でツヤのある音を発しながら徐に発車する。2000系が昇圧改造で早くに原型を崩してしまったのに対して、2300系は架線電圧の変更に関する大掛かりな改造を受けておらず、ローレル賞受賞の要因ともなった回生ブレーキや定速度運転という機能も残されて、原型の良さを留めたまま2000年まで一両も欠けることなく全車在籍していた。2305Fが2800系の車両を編入した以外は他形式との混結もなく、ごく短期間神戸線に転属した以外は一生を京都線とその支線で過ごした。これが全廃されたのは能勢電1500系 (主に阪急旧2100系) とほぼ同じ2015年なので50年以上の長寿である。原型をよく保っていることから2301-2352の2両が正雀工場で動態保存されている。編成順は、2000系・2100系・2021系と違って大阪方にモーターがあり、編成表記も電動車から始まる。

 2800系は1964年に登場した特急専用車で、2扉で転換式クロス・シート、窓が特徴ある二連になっていること以外は2300系と全く同じ車両である。子供の頃、母に連れられて月に一回梅田へ買い物に出かけたのだが、私は買い物よりも、その帰途で梅田駅を三線同時に発車して十三駅まで並走する電車を眺めるのが好きだった。特に淀川橋梁では京都線が一段高くて羨ましかったし、十三駅から分かれていく姿も美しかった。阪急京都線の特急といえば、この2800系が絶大な存在だった。1995年に編成としての運用は終わったが、3両だけが2305Fに組み込まれて2001年まで生き延びた。

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 阪急の運行形態は、宝塚線と神戸線は共通運用があるが、京都線とは余程の事情がない限り共用されてこなかった。まず1967年以前は架線電圧が違うので、両方の電圧で動作する複電圧車両以外は乗り入れそのものが無理だった。古いところでは、700・710・800・810系での、いわゆる「神京特急」・「神宝特急」という観光列車があった。その時代は、京都線の大阪方のターミナルは天神橋であって、淡路-十三間は支線だった。多くの車両が十三止まりであり、一部の優等列車が、宝塚線に無理を押して侵入し、ノロノロ運転で梅田へ乗り入れたらしい。その名残は、私が中学高校へ通った時期、京都行きの普通は十三発が多かったことに残されていた。

 全ての列車を統一規格にするための昇圧の必要性というのは阪急にとって大きな課題であった。1960年当時の神戸線用の2000系と宝塚線用の2100系は600V専用車であった。600Vから1500Vへの架線電圧の昇圧は、神戸線で1967年、宝塚線で1969年に行われた。これにむけて多くの旧型車両は淘汰され、残されたものは昇圧に耐えられるように改造されたり、2021系・3000系・3100系という昇圧に対応できる新車が製造されたりした。2000系と2100系は昇圧改造に入ったが、その際、輝かしいローレル賞の要因になっていた回生ブレーキと定速度運転という最も特色ある機能を捨てた。そのため電動車に2器搭載だったパンタグラフのうち回生ブレーキによる余剰電力を架線に戻していた1器が除去され、台座を残したままのもぎ取られた姿を晒し続けた。つまり、デビュー当時の先駆的機能と美しいスタイルを誇ったのは、当初の10年そこそこだったのである。

 そう、話が逸れたが阪急の運行形態は、宝塚線と神戸線は共通運用があるが、京都線とは余程の事情がない限り共用されてこなかった。その余程の事情というのは、上の観光列車を別にすると、1967年に神戸線の架線電圧が京都線と同じ1500Vに引き上げられた直後の応援に京都線から神戸線に2300系が入ったこと、1970年の万博輸送のための全線総力を挙げての相互乗り入れに、あらゆる車両が京都線経由で千里線を走ったこと、1972年ごろに当時の京都線100系 (P-6) が廃車されていく不足を補う形で神戸線用2000系が7両編成で主に京都線急行に投入されたことなど、いずれも期間限定運用であった。なお1971年から製造された本格的冷房車5100系は、三線共通運用を目指したもので当初京都線にも配置されたが、翌年から製造された5300系配置後に宝塚線に転属した。

 なかでも神戸線用2000系の京都線での運用は、中学高校時代を宝塚から高槻まで毎日通った時期の苦しい思い出である。京都線を共に走る同僚の2300系が最後まで二丁パンタの原型を留めたのに対して、早くから後ろのパンタグラフをもぎ取られた惨めな姿を晒し、冷房もなく、当時すでにかなりガタガタでよく揺れたし、発進時から響き渡る太くて馬鹿でかいモーター音、しかも高速力走時に発する焼けるような匂い、鋭い音を立てるブレーキ、車両間通路が広く扉がないので冬は強烈に寒く、走り方が荒っぽい、とにかく乗り心地の悪い車両だった。しかし力強くてよく走った。これが、いま能勢電を走っている能勢電1700系である。しかし、いまだに解けない謎が一つある。この頃までの一定期間、阪急京都線の急行の標識板だけは、車両正面に向かって左側にかけられていた。特急は全て二枚看板だったが、他のものは全て右側だったのに、なぜ京都線急行だけ左側だったのか、その謎が今も解けていない。

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 さて、彼らが京都線運用を終える頃、私も高校を卒業する頃になっていたが、京都線の特急には6300系が投入されはじめていて、京都線特急の代名詞だった2800系が3枚扉ロングシートの普通車用に改造されはじめたのには胸が痛んだものである。2800系の特急時代は意外に短くて最長で15年であった。最終的には8両編成7本56両が製造されたが、特急運用から外された後は主に急行、やがて前から2両目の2880番台をはずして7両編成で普通に格下げされた。このとき外された7両のうち、6両は5000系・5200系に組み込まれて神戸線に移籍したが、彼らの廃車やリニュアルとともに消えた。2885という1両は2305Fに組み込まれて京都線にとどまった。特急専用だったので累積走行距離が長く、経路も一定していたために更新が行われてこなかったので廃車は早かった。先述したように、1995年にさよなら運転が行われて編成が廃止されたが、その後も京都線の2305Fに2831・2841が組み込まれて、先に組み込まれた2885とともに2001年まで生き延びた。

 また全く特異な例だが、阪神淡路大震災の時に伊丹駅で被災した下り側先頭車3109の代車の調達にからんだやりくりで、廃車寸前の2842が数ヶ月だけ3072Fの編成に組み込まれたことがある。廃車になった下り側先頭車3109の代用に3072Fの中間に挟まっていた運転台付きの元下り側先頭車3022が充てられて二代目3109となり、その位置に廃車寸前だった中間電動車2842が充てられたのである。このとき3022の車体に事故車3109の機材を取り付け、2842の車体に3022の機材を取り付けて、両系統との互換性を確保した。このようなたらい回しが行われたのは、3100系に現役の下り側先頭車の余剰がなく、3022は中間位置だったがこんなこともあろうかと思って運転台を撤去していなかったからである。しかし当時中間電動車の余剰が全く別系統の2842しか見当たらなかっので三つ巴のたらい回しになった。1995年という年は忘れもしない阪神淡路大震災のあった年で、私は砂埃にまみれて生活再建に取り組んでいたのだが、たまたま乗り込んだ今津線で3000系6両編成に組み込まれた2800系を見てまず驚き、その車体から3000系の音がするのを聞いて再び驚いた。数ヶ月後、2842はその元3022の機材を付随車旧2171 (元2021) に渡して去っていった。死に際の最後の奉公であった。これによって再電装された旧2171は二代目3022に改番された。そんなことを知る由も無い私は、2842に入れ替わって入っていた3022の車両を見て三度驚いた。なぜなら阪急の厳格な付番ルールからすると、3022という車番は運転台のある電動制御車のはずであるが、それはどこから見ても運転台がなかったからである。そればかりか、側窓の大きさと内装の特徴から見て、明らかに2100系のはずなのに、モーターの音はまごうことなき3000系だったので、四たび、頭が混乱するほど驚いた。3022は阪急の歴史上唯一の「3022系3022形」ともいうべき一形式一車両の全く特異な存在だった。その状態で、驚いたことに3072Fはパンタグラフの一つがもげたまま13年後の2008年まで走り続けた。この3072Fという編成は、たいして阪急電車に詳しくもない私でさえ5回も驚かされたほどだから、多分当時の鉄道ファンの興味の的であったに違いない。

 さて、その二代目3022の種車であった旧2171は宝塚線用8両編成の3154Fという編成から抜かれたものだが、その位置は、能勢電1500系に譲渡された唯一の2021系2030の後釜で、この2030が抜かれた原因は、実は後で述べるある大きな事故がきっかけだった。3154Fは、2171が抜かれた状態で7両編成であれば竣工当時の姿に戻れたものを、3652も抜かれて6両編成となって、よりによって今津線に移籍した。つまり助けられた3072Fと助けた3154Fが同席したのである。まさに、事故による因果が宝塚線・能勢電・神戸線・伊丹線・京都線・今津線と巡りに巡ったのである。

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 また話が逸れてしまったが、1977年に京都線に移籍していた2000系は神戸線に復帰したのち、彼らは順次冷房改造され、振りかざしていたパンタグラフを後ろに引っ込めて、ちょっとマイルドな姿になった。しばらくは電装解除され冷房改造された2071系すなわち元2021系を挟んで8両編成を組んでいたが、やがて新型車両の増備に押されて支線運用に回され、6両・4両・3両などに分割編成されていくうちに、もともと誰が誰と組んでいたのかさっぱりわからんくらいに混乱してしまった。1990年、能勢電のために主に2000系を譲渡するのに合わせて、3000系・3100系が支線運用に回されることになった。2000系の譲渡は、主に今津南線・伊丹線用の3両編成を中心に、運用中の2000系の編成をバラバラにして、3000系・3100系の短編成化で余剰となる2000系・2100系・2021系の増備代行車を組み合わせる形で、4両編成を8本組み直して行われた。これが能勢電1700系である。そんなわけで、やっと話が最初に戻った。この話がこんなに紆余曲折しまくるのも、ことほどさように2000系が目まぐるしく改造されたり組み替えられたりして阪急線内を走り回ったからである。

 能勢電への譲渡は2100系の方が先だった。製造されたのは6両編成5本合計30両だったが、後述するように1967年から始まった神戸線の昇圧工事の際に、最終編成の2162Fが2000系と同一仕様に改造されて2000系の増備に出た。その際に、前後関係はわからないが、2055・2059の2両の2000系を受け入れて2153・2155の2両を放出した。これらは2000系に組み込まれたという資料もあるが、1978年ごろから始まった3000系の8両化増備の代車に出るまでの10年間の所在がよくわからない。で、2055・2059の2両の2000系を含む24両は、すでに1968年には8両編成3本を組んで、1983年ごろまで非冷房のまま宝塚線を走っていた。しかし線形の改良や高性能車の導入によって相対的に性能不足の状態に陥り、その全てが能勢電に譲渡されて能勢電1500系になった。それらの冷房化は能勢電で行われた。一方の2153・2155は、当時3000系8両編成に組み込まれていて、これらの編成とともにすでに冷房化されていた。阪急で冷房化改造を受けた2100系はこの2両のみである。これ以外の2100系を全て譲渡してしまったので、この2両は、二代目2055・2059に改番され、阪急2100系は消滅した。しかしこの2両も、若い車両に挟まれて阪急線内で生き延びられるかと思いきや、編成された3000系の支線運用の際にバラされて廃車されてしまい、結果的に能勢電に移籍した多くの元2100系の仲間たちより先にあの世へ旅立ってしまった。なにが運命を決めるかわからんもんですなあ。阪急2000番台の大まかな変遷は、だいたい以上のようなものである。

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 さて、能勢電1700系のうち廃車されてしまった第一編成の先頭車に1750というのがあって、これは阪急旧2092、宝塚線用の元2162であった。2100系最後の編成だったが、神戸線の2000系の昇圧工事の時に、全部の車両を一気に工事するのではなく、まず一編成分だけ部品を新調して組み込んで運用に出し、外した部品を改造して次の編成に組み込む・・・ということを順繰りにやって最後に残った部品を、この2100系最後の編成に使った。そのときの編成は、2162-2112-2163-2113=2164-2114であった。これによって彼らは2100系の車番を持っていながら2000系と同等の性能を持つことになり、既存の2000系の中にバラされて、私が中学高校似通った頃の京都線で急行として爆走していた。神戸線に戻って冷房改造された時にそれぞれの番号から70を引いて名実ともに2000系に編入されたのだが、なぜ70を引いたかというと、当時すでに戦力外通告を受けて2071系に改番されていた弟分2021系の最後の編成が2091-2041であったので、その続きにしたのである。したがって両者が続き番号として同時に存在した時期はない。バラされて改番された後の番号を、仮想的に元の編成に組んで並べると、2092-2042-2093-2043=2094-2044となる。これらのうち能勢電1700系には、上に述べた2092のほかに、2044と2042が阪急での編成のまま別々に譲渡されていたが、すでに廃車されて現存しない。これらはもともと同じ編成で生まれていながら、死ぬときはバラバラだった。しかしあの順繰りの改造がなかったら2000系に編入されることなく、能勢電1500系として先にあの世へ旅立っていたかもしれない。なにが運命を変えるか、全く分からんもんである。

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 で、現存する4編成のうちの1754Fの先頭車1754は、阪急の旧2050なのだが、この車番そのものは2000系第一編成の所属である。しかし実はこの車両は二代目なのである。そういえば、あれからもう36年、これは阪急電鉄の歴史に残る大事故であった1984年の六甲駅、山陽電鉄車両との衝突で大破した元2050が廃車されたために、能勢電1500系の一員として譲渡されるはずだった2154が急遽呼び出されて改造され、二代目2050になった。今ある1754はこれなのである。ちなみに初代2050は、竣工した直後の試運転で工場から出される時にも配管のつなぎ間違いでブレーキが効かず、900系に衝突して破損した。これを含む編成は阪急の輝かしい高性能車両2000系の第一編成であったので、これによってそのデビューが遅れたのである。初代2050は、事故に始まって事故に終わった。主に2100系を種車とする1500系は全廃されたので、この能勢電1754は、現存する元2100系最後の1両ということになる。この時呼び出されていなかったら、2154は1985年に能勢電に譲渡されて能勢電1585となり、そのまま2015年に廃車されていたはずである。この入れ替わりのおかげで、彼は元2100系最長の命を永らえている。いや本当になにが運命を変えるか分からんもんであることよのう。

 その2154の代わりに能勢電に譲渡されて能勢電1585になったのは3154Fに挟まれていた2030であった。これは電装解除された元2021系で、2071系に改番されなかった唯一の車両である。2180が欠番になっているのはこのことによる。これが選ばれたのは、ちょうど3154Fが冷房化改造の途中で、2030が未施工だったためである。かつては複電圧車としてデビューしながら早々に戦力外通告を受け、長い間黙って3100系に挟まれていじめられていたのが、性能の劣る元2100系とはいえ再び兄弟分とともに走れるようになった。しかし運転台は復元されず中間車の扱いだったため、後からやってきて先頭車として走る1754すなわち旧2154を、ほんまはお前がここに繫がれるはずやったのにと恨みながら、早々に2015年に廃車されてしまった彼の無念を思うと胸が痛む。ちなみに冷房改造中だった3154Fは2030を放出した後、電装解除された2021系のトップ・ナンバー2021を新たに迎え入れて冷房化された8両編成として復帰した。このとき2021は2171に改番されたが、12年後に起こった阪神淡路大震災の時に伊丹駅で被災した3109の代車の調達にからんだ例のやりくりで代打を務めた2842と入れ替わる形で再電装されて出ていった。二代目3022に生まれ変わって3072Fを援護したが、2008年にその編成の廃止とともに、後輩の名を冠したままこの世を去った。一つの系列のトップ・ナンバーの最期としては、あまりにも無念な消え方である。

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 能勢電に譲渡された1700系のうち1754F以外は、その直前までは全て3両編成で余生を今津南・甲陽の各支線で過ごしていた。さきにも書いたように彼らには輝かしい京都線急行時代もあるので、宝塚・神戸・京都の三本線と南北今津・伊丹・甲陽線を含む最も広い守備範囲を誇ったのではないか。で、彼らが4両化されるにあたって呼び出されたのが、2177・2187・2078という、既に2071系に改番されていた元2021系である。改番からおよそ7年が経ってさらに改番されて他社へ譲渡されたのである。このように現存する能勢電1700系4両編成には、その4本の全てに1両ずつ生まれの異なる車両が含まれている。先に全廃されてしまった3000系同様、清濁併せ呑んで阪急の発展を支えた車両として感慨深いものがある。

 しかもそのうち1754F (1754-1734-1784-1704)は、阪急旧2050F (2050ii-2000-2051-2014) であって、上に述べた2000系トップ・ナンバーを2両目に含んでいる。同じ時期に製造された車両がもう一両、1757Fの前から2両目に1737 (旧2002) として残っている。阪急の輝かしい高性能車両2000系の、1960年に製造された初期のモーター音がまだ聴けるというのは素晴らしいではないか。また、1754Fの1両目は現存する唯一の元2100系なので、他と内装が微妙に異なる。またそれ以外の3編成の前から3 両目は元2021系であり、これまた内装が微妙に異なる。たとえば窓の形やその内側のゴム、扉上部内装の縁取り、扉の持ち手金具の切り込みの形やローラーに当たる部分の銀帯など、他の廃車車両のものと交換されてしまったものもあるが、竣工当時の外観の違いなども楽しんでいただきたい。

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 2300系・2800系が、京都線内で最初から最後まで、ほぼ原型を保って走り続けたのに対して、2000系・2100系・2021系が原型を保っていたのは当初の僅か10年ほどだった。しかし改造と編成替えを繰り返し、代車扱いになったり他形式に改番されたり、改番されて改番され、挙げ句の果てに売り飛ばされて非業の死を遂げたものも多い。しかし生き延びたのは最終的に車齢の最も古い2000系で、製造時期の関係から、おそらく次に廃車されるのは1754Fと思われる。彼らのうち1734 (旧2000)・1784(旧2051)・1737(旧2002) は、あと半年で還暦を迎える初期ロットである。その姿を見、音を聞けるのもそう長いことではあるまい。

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20200502 阪急3000系全廃

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なんとまあ、コロナ騒ぎで外出を自粛している間に、我が懐かしの阪急3000系が密かに引退していたらしい。北海道のローカル線が廃線になったことはニュースで知っていたのに、大手私鉄の黄金時代を飾った阪急3000系列の廃止が報道されなかったのは、全くもって不公平だ。怒りを禁じ得ない !! 伊丹線で余生を送っていた3000系最後の3054Fは、なんとか自分で写真に収めることができたのでよしとしよう。なぜならこの編成の下り側3003号車は、私が幼稚園へ通っていた頃に、清荒神駅の踏切を渡りながら、試運転で停車中のピカピカの新車としてびっくりした記憶があり、それ以来、阪急の新車といえば3003号車を思い浮かべるからだ。

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私は1960年生まれ、この3003号車は3000系の初期ロットで1964年生まれ、私が5歳の時に竣工して宝塚線で試運転されていたものと思われる。その後神戸線に配属になって姿を見なくなったのを寂しく思ったものである。もっとも、竣工時にこの3003号車が含まれていた編成は3052Fであって、当初は大阪方から4両 + 2両の6両編成であった。編成表示は大阪方から表記するので、阪急3000系の付番ルールからすると大阪方先頭車にモーターとパンタグラフがなく、それらは神戸・宝塚方の先頭車にある。これは2000・2100系から始まったことで、その理由はラッシュ時に車両を増結する際に、まだ当時は1両ずつ増結することを想定していたのだが、作業は大阪方で行われるのが普通なので、大阪方にパンタグラフがあると、増結車の向きによってはパンタグラフが近接して架線を押し上げてしまうので、それを避けるためである。実際には、その後の開発経緯で、阪急では最小編成を2両単位とすることになったのでその心配はなくなり、5100系から従来通り、ほとんどの編成で大阪方先頭車にモーターとパンタグラフが配置されるようになった。

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というわけで、この神戸・宝塚方先頭車の3003号車には、まだ銀色に光り輝くパンタグラフが設置されており、その発車時には2000系とは全く異なる繊細で洗練されたモーター音が鳴り響いたのをはっきりと覚えている。先頭にパンタグラフを振りかざして居丈高に疾走する2000系もかっこよかったが、パンタグラフのない先頭で静かに滑ってくる3000系は魅惑的ですらあった。だからこそその引退を知らなかった自分に腹がたつ !! その後、私の中学生時代に輸送力の増強から7両編成に組み替えられるにあたって、整然とした付番ルールに基づいた編成に混乱が生じることとなり、3003号車の大阪方先頭は3054号車となって、それ以来紆余曲折を経て4両編成に短縮されて伊丹線で余生を送るまで、中間に挟まれていた相方を次々に見送る形でこの組み合わせは残ったのである。このように私は、阪急電車における車両番号のつけられ方と、それらの変遷、パンタグラフの配置に、幼少の頃から並々ならぬ興味があって、高校時代までは、すべての編成のすべての車両番号とその順列を記憶していた。ところが近視であった私には、走ってくる編成の先頭車の番号が読めないので、友人に頼んでその番号を読んでもらい、それによってその編成が何両編成か、また冷房付きかを言い当てて、扉の来る正しい位置を示すという下校時の日課を思い出す。この3054Fの最後の編成は3000系初期ロットの同窓生のみで編成されたが、その直前には3100系の付随車と隣接し、また過去には2000系や2171系と隣接したり、8両編成で神戸線特急の主力の座を誇っていた時期から、割と早くに6両編成化されて今津線普通に格下げされたかと思うと、数年後には8両編成化されて神戸線特急に返り咲くなど、全くその生涯に紆余曲折があった。ちなみに去っていったすべての3000系・3100系を通じて、阪急の主力であったにも関わらず純粋にそれぞれの系列車両のみで編成された8両編成はついに存在しなかった。常に旧型車の余剰車両を間に挟み、窓配置や寸法や性能の違いによってぎくしゃくしながら50年余りを走り続けた。美しくしとやかに登場したにも関わらず、その半生のほとんどをなりふり構わぬ姿で疾走した姿は、鉄道車両としては長い生涯がいかに多難なものであったかを物語って共感を覚える。

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参考文献: https://raillab.jp

 https://toyokeizai.net/articles/-/344141

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これは主に神戸線で活躍していた編成ですね。中学に上がった頃の京都戦は、まだP-6; 100系が走っていてびっくりしました。主力は、特急が2800系で、徐々に6300系が入ってきてました。急行と普通は2300系で、それにまじって本来神戸線用の2000系が7両編成で急行で走ってました。小学校の頃、長らく2000系を見なかったので再会できて喜んだものでした。京都線の3300系は、万博に合わせて製造されたので、今回話題の3000系より新しく、まだ走ってるはずです。さて、阪急の最高齢車両ということになると、いま能勢電に残る1700系がありますが、これらは旧2000系の改造車で、外観はほぼ、モーター音は全く同じものです。「それにまじって本来神戸線用の2000系が7両編成で急行で走ってました」と書きましたが、その時に使用されていたものが今も使われています。つまり、彼らのほとんどは、阪急の神戸・宝塚・京都戦を走破した挙句、今も能勢電で山を毎日上り下りしていることになります。彼らの初期ロットは1960年製ですので、我々と同年齢です。

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https://www.youtube.com/watch?v=5Axp-iiMs04

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20200502 GW幕開け

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とうとう、通り一本先までおいでなすったか・・・私の勤めるスーパーでは緊急事態宣言が発令されて以降、閉店時刻を一時間早め、一切の特売を中止しているが、隣の店が閉鎖されてからは客数がぐっと減った。同時に、別にここで働かなくても生活に支障のない人は辞めてしまい、動ける人員が激減した。クレイジーな客は増える一方で、ないものをくどくどと言い募るのはまだマシで、万引きも増え、強請りタカりの輩も出た。一人に捕まると一時間や二時間は拘束されるので作業は回らない。私はバイトだから良いが、責任ある社員はほぼ無休で通し勤務しても追いつかない。崩壊寸前だったものを、隣の店が閉鎖されたために敬遠されて客数が激減したのでちょっと楽になった。閉店時間を早めたのは店内の消毒を徹底するためで、本来ならば従業員は全員契約時刻までその作業に当たるはずだった。しかしこれは会社の判断で決定したことなので、感染の不安があって早退する人にも契約通りの賃金が支払われる。そうなると、同じ給料がもらえるのなら何も好き好んで居残る必要はなく、一時間早く店を閉めたらほとんどの人はさっさと帰ってしまうのだ。当初の目的とは全く異なる事態になっている。結局、感染防止のために力を尽くそうとする人はほとんどおらず、私とごく少数の社員だけで買い物かごを全て消毒し、カートや各扉、手すりなど、およそ不特定多数の人が触れるであろう場所をしらみつぶしに毎日拭く。私は売り場の商品も片っ端から拭いていたのだが、それだけでも白眼視されていたものを、給料も変わらんのに居残ってあちこち拭いてると変人扱いされている。まあ子供の頃からそういう扱いには慣れているので気にはしてないが、要するに専門家が侃侃諤諤やろうが、マスコミがそれをネタに煽り立てようが、政府がのらくら論点をずらしまくろうが、総体としての日本人の行動はだいたいこのようなものだ。ここ数週間ほど、スパゲティや小麦粉、バターや調理用油などの入荷はない。必要性の高い品目には欠品が多く、そうでないものの供給は確保されている。その結果、必要最低限の食材を揃えるためには複数の店を回る必要があるだろう。結局のところ、自給体制を確立できた私は幸運であった。向こう二年くらいなら手持ちの穀物と田畑だけでひもじい思いはしなくて済む。これを機に、全国民がまずは自給した上で、余力があるのなら経済を回しても良い、くらいのスタンスで国を作り直したらどうかな。まあ、今あるインフラはとても維持してゆけなくなるだろうから、それらをいかに無害化処分するかも含めて・・・

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