2020年05月08日

20200508 しゃのあ

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ときどきメシだけ食いに来る。食い終わると足早に去る。彼女は今、私と遊んでいる暇などない。子育てをしなければならないのだ。母の自覚と、再び女に戻った喜びを、その視線に感じる。
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2020年05月06日

20200506 Neige Blanche

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動力が失われた場合、人力で最も速く動ける手段は自転車である。機械を良い状態に保つには、手入れは欠かせない。愛用の自転車は年に一回はオーバー・ホールする。ホイール・バランスやセンター出しなどに手を出さなければ、ベアリングの調整だけ覚えてしまえば、あとはそう難しくはない。ダブル・ナットであたりの調整をする。要するに、二枚のナットを挟めば位置決めができるという理屈である。ただ、ネジが回るということは、ネジ山同士にわずかな隙間があるということで、きっちり位置決めしても、締め込んだ際にわずかに緩む。これを防ぐために、位置決めしたシャフトをレンチで固定し、その状態で反対側のダブル・ナットを調整する。わずかに締めすぎの状態で外側を締め込むと内側がわずかに緩んでちょうどよくなる。その感覚を見極める。早速試乗。動作快調。経済活動が止まってるためか、光が美しい気がする。

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20200506 初夏

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今年の春はコバエや蚊が早い。竹やぶに入って筍を掘り、湯がいて天ぷらにしていただく。夏野菜の苗ができつつある。ソラマメとエンドウに実がついた。若いエンドウで早速豆ご飯にした。ほったらかしていた大根に花が咲いた。初夏である。

KIF_7354.jpgKIF_7372.jpgKIF_7329.jpgKIF_7348.jpgKIF_7380.jpgKIF_7361.jpg

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2020年05月05日

20200505 種下ろし

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ここ数日暖かいので順次稲の種籾が発芽、即席の苗代に下ろす。今シーズンは種取りだけなので・・・まあつまらんこっちゃ。

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2020年05月02日

20200502 能勢電1700系邂逅

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 今も運用されている阪急最古の車両系列といえば、1960年から製造された阪急の主に旧2000系が能勢電に譲渡された能勢電1700系がある。これらは1990-92年にかけて4両編成9本が譲渡されたもので、今も4両編成が4本残っている。能勢電は古くから阪急の旧型車両の博物館のようなところがあって、私が子供の頃は、まだ小型木造車が走っていた。1983-85年に、1962年から製造された主に旧2100系のうち4両編成6本が譲渡されて能勢電1500系となり、能勢電に初めての大型高性能車両が導入されることになった。これらは2016年までに全て廃車されているので、阪急時代から通算すると50年以上の長寿を誇ったことになる。また、それより車齢の古い1010-1100系が後になって譲渡され、これも2001年に廃車されて現存しない。その後、旧2000系・旧3100系や旧5100系が譲渡され、古き良きマルーン一色時代の阪急の姿が残されている。さてその能勢電に残る1700系は、すでにない1500系とともに阪急時代の編成単位での譲渡であったために、阪急時代の紆余曲折を経て組み込まれた別形式と入り混じった状態で移籍した。私は阪急鉄道少年であったので、その全ての車両の来し方行く末が頭に入っているのであるが、この二つのグループのすべての車両の一生は全く波乱万丈である。以下にそのあらましを述べる。

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 広義としての阪急2000番台は、2000系・2100系・2021系・2300系・2800系、さらには2021系が改造されて別形式を与えられた2071系が存在していて、登場時の外観はほとんど同じだったが内容はかなり異なる。

 2000系は1960年に登場した。阪急の現在の車両デザインを決定づけた形式である。回生ブレーキと定速度運転という最も特色ある機能を有し、2300系とともに1961年第一回ローレル賞の栄誉に輝いた。竣工時の第一編成は、2050-2000-2051-2001という4両編成であったが、系列を代表するトップ・ナンバーが大阪方から2両目の中間車であることが興味深かった。トップ・ナンバーなら先頭に持ってきてやっても良いものを、なぜ中間に、しかも運転台もない付随車なのかと子供心に思った。パンタグラフは電動車に2器搭載だったが、上の編成では2000と2001にあって、大阪に向かうときは逆向きに走っているように見える。これは、当時のラッシュ時の増結運転の計画では、大阪方に一両増結することが想定されていたのだが、その一両は単独走行できるパンタグラフ付きの電動車でなければならず、大阪方に電動車とパンタグラフがあると、それらが隣接して架線を押し上げてしまうので、それを防ぐために編成の向きを従来とは逆にしたのである。しかしユニット単位での編成の番号順は大阪方からとしたので、2050-2000-2051-2001の順となり、トップ・ナンバーは中間付随車に隠れる形になった。しかし一両ずつの増結計画を立てている間に沿線人口が急激に増えたので、増結よりも編成の長大化の方に計画は変更されて、2-4両単位での増備が続けられることになった。日本は高度経済成長、都市人口爆発の時代だったのである。しかし両運転台付きの2000系というものも見たかったものではある。

 2100系は1962年に登場した宝塚専用車両で、カーブが多くて速度の遅い宝塚線に適したように、出力とギア比を抑えた以外は全て2000系と同一である。

 2021系は1963-64年に製造された。2000系の追番を持つが、複電圧車という全く異なる性質の系列である。回生ブレーキと定速度運転という機能も持っていた。外観は、内側窓枠上部の直線化、扉のデザインに変更があり、のちの3000系と同じものになった。当時の宝塚・神戸線は架線電圧が600Vであって、上の2000系・2100系は、600V専用車であった。以前からこれを京都線と同じ1500Vに昇圧する計画があったのだが、公共交通機関なので、昇圧は一夜にして成し遂げられなければならない。2021系はそれに即応するために設計された車両だったが、構造が複雑すぎてトラブルが続出し、他形式との混結もできなかったので、編成としての運用は早くに打ち切られ、バラバラに電装解除されて単なる付随車として他形式の増備の代用に回された不運な系列である。1984年ごろから、組み込まれた編成とともに冷房改造され、それを機に改番されて2071系と称されるようになった。電装解除された元モーター付きの電動車2021-2040は車両番号に150を足して2171-2190に、元々モーターのない付随車2071-2090は、車番を変えずに存続した。当時、宝塚線の2100系は能勢電に譲渡中であったが、その車番は電動車が2114まで、付随車が2164までだったので、番号の重複はなかった。2171-2190 は2100番台を名乗っているが、もちろん2100系ではない。結局阪急線内では、2000番台として最も遅くまで存在した。

 2300系は1960年に登場した京都線用の車両である。2000系とともにローレル賞を受賞している。京都線は支線を含めて当時から1500Vだったので、登場時の外観は2000系と同じだったが中身は全く異なる。モーターもメーカーが異なるため全く異なる音がする。2000系はけたたましく唸りながら急発進するのに対して、2300系は上品でツヤのある音を発しながら徐に発車する。2000系が昇圧改造で早くに原型を崩してしまったのに対して、2300系は架線電圧の変更に関する大掛かりな改造を受けておらず、ローレル賞受賞の要因ともなった回生ブレーキや定速度運転という機能も残されて、原型の良さを留めたまま2000年まで一両も欠けることなく全車在籍していた。2305Fが2800系の車両を編入した以外は他形式との混結もなく、ごく短期間神戸線に転属した以外は一生を京都線とその支線で過ごした。これが全廃されたのは能勢電1500系 (主に阪急旧2100系) とほぼ同じ2015年なので50年以上の長寿である。原型をよく保っていることから2301-2352の2両が正雀工場で動態保存されている。編成順は、2000系・2100系・2021系と違って大阪方にモーターがあり、編成表記も電動車から始まる。

 2800系は1964年に登場した特急専用車で、2扉で転換式クロス・シート、窓が特徴ある二連になっていること以外は2300系と全く同じ車両である。子供の頃、母に連れられて月に一回梅田へ買い物に出かけたのだが、私は買い物よりも、その帰途で梅田駅を三線同時に発車して十三駅まで並走する電車を眺めるのが好きだった。特に淀川橋梁では京都線が一段高くて羨ましかったし、十三駅から分かれていく姿も美しかった。阪急京都線の特急といえば、この2800系が絶大な存在だった。1995年に編成としての運用は終わったが、3両だけが2305Fに組み込まれて2001年まで生き延びた。

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 阪急の運行形態は、宝塚線と神戸線は共通運用があるが、京都線とは余程の事情がない限り共用されてこなかった。まず1967年以前は架線電圧が違うので、両方の電圧で動作する複電圧車両以外は乗り入れそのものが無理だった。古いところでは、700・710・800・810系での、いわゆる「神京特急」・「神宝特急」という観光列車があった。その時代は、京都線の大阪方のターミナルは天神橋であって、淡路-十三間は支線だった。多くの車両が十三止まりであり、一部の優等列車が、宝塚線に無理を押して侵入し、ノロノロ運転で梅田へ乗り入れたらしい。その名残は、私が中学高校へ通った時期、京都行きの普通は十三発が多かったことに残されていた。

 全ての列車を統一規格にするための昇圧の必要性というのは阪急にとって大きな課題であった。1960年当時の神戸線用の2000系と宝塚線用の2100系は600V専用車であった。600Vから1500Vへの架線電圧の昇圧は、神戸線で1967年、宝塚線で1969年に行われた。これにむけて多くの旧型車両は淘汰され、残されたものは昇圧に耐えられるように改造されたり、2021系・3000系・3100系という昇圧に対応できる新車が製造されたりした。2000系と2100系は昇圧改造に入ったが、その際、輝かしいローレル賞の要因になっていた回生ブレーキと定速度運転という最も特色ある機能を捨てた。そのため電動車に2器搭載だったパンタグラフのうち回生ブレーキによる余剰電力を架線に戻していた1器が除去され、台座を残したままのもぎ取られた姿を晒し続けた。つまり、デビュー当時の先駆的機能と美しいスタイルを誇ったのは、当初の10年そこそこだったのである。

 そう、話が逸れたが阪急の運行形態は、宝塚線と神戸線は共通運用があるが、京都線とは余程の事情がない限り共用されてこなかった。その余程の事情というのは、上の観光列車を別にすると、1967年に神戸線の架線電圧が京都線と同じ1500Vに引き上げられた直後の応援に京都線から神戸線に2300系が入ったこと、1970年の万博輸送のための全線総力を挙げての相互乗り入れに、あらゆる車両が京都線経由で千里線を走ったこと、1972年ごろに当時の京都線100系 (P-6) が廃車されていく不足を補う形で神戸線用2000系が7両編成で主に京都線急行に投入されたことなど、いずれも期間限定運用であった。なお1971年から製造された本格的冷房車5100系は、三線共通運用を目指したもので当初京都線にも配置されたが、翌年から製造された5300系配置後に宝塚線に転属した。

 なかでも神戸線用2000系の京都線での運用は、中学高校時代を宝塚から高槻まで毎日通った時期の苦しい思い出である。京都線を共に走る同僚の2300系が最後まで二丁パンタの原型を留めたのに対して、早くから後ろのパンタグラフをもぎ取られた惨めな姿を晒し、冷房もなく、当時すでにかなりガタガタでよく揺れたし、発進時から響き渡る太くて馬鹿でかいモーター音、しかも高速力走時に発する焼けるような匂い、鋭い音を立てるブレーキ、車両間通路が広く扉がないので冬は強烈に寒く、走り方が荒っぽい、とにかく乗り心地の悪い車両だった。しかし力強くてよく走った。これが、いま能勢電を走っている能勢電1700系である。しかし、いまだに解けない謎が一つある。この頃までの一定期間、阪急京都線の急行の標識板だけは、車両正面に向かって左側にかけられていた。特急は全て二枚看板だったが、他のものは全て右側だったのに、なぜ京都線急行だけ左側だったのか、その謎が今も解けていない。

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 さて、彼らが京都線運用を終える頃、私も高校を卒業する頃になっていたが、京都線の特急には6300系が投入されはじめていて、京都線特急の代名詞だった2800系が3枚扉ロングシートの普通車用に改造されはじめたのには胸が痛んだものである。2800系の特急時代は意外に短くて最長で15年であった。最終的には8両編成7本56両が製造されたが、特急運用から外された後は主に急行、やがて前から2両目の2880番台をはずして7両編成で普通に格下げされた。このとき外された7両のうち、6両は5000系・5200系に組み込まれて神戸線に移籍したが、彼らの廃車やリニュアルとともに消えた。2885という1両は2305Fに組み込まれて京都線にとどまった。特急専用だったので累積走行距離が長く、経路も一定していたために更新が行われてこなかったので廃車は早かった。先述したように、1995年にさよなら運転が行われて編成が廃止されたが、その後も京都線の2305Fに2831・2841が組み込まれて、先に組み込まれた2885とともに2001年まで生き延びた。

 また全く特異な例だが、阪神淡路大震災の時に伊丹駅で被災した下り側先頭車3109の代車の調達にからんだやりくりで、廃車寸前の2842が数ヶ月だけ3072Fの編成に組み込まれたことがある。廃車になった下り側先頭車3109の代用に3072Fの中間に挟まっていた運転台付きの元下り側先頭車3022が充てられて二代目3109となり、その位置に廃車寸前だった中間電動車2842が充てられたのである。このとき3022の車体に事故車3109の機材を取り付け、2842の車体に3022の機材を取り付けて、両系統との互換性を確保した。このようなたらい回しが行われたのは、3100系に現役の下り側先頭車の余剰がなく、3022は中間位置だったがこんなこともあろうかと思って運転台を撤去していなかったからである。しかし当時中間電動車の余剰が全く別系統の2842しか見当たらなかっので三つ巴のたらい回しになった。1995年という年は忘れもしない阪神淡路大震災のあった年で、私は砂埃にまみれて生活再建に取り組んでいたのだが、たまたま乗り込んだ今津線で3000系6両編成に組み込まれた2800系を見てまず驚き、その車体から3000系の音がするのを聞いて再び驚いた。数ヶ月後、2842はその元3022の機材を付随車旧2171 (元2021) に渡して去っていった。死に際の最後の奉公であった。これによって再電装された旧2171は二代目3022に改番された。そんなことを知る由も無い私は、2842に入れ替わって入っていた3022の車両を見て三度驚いた。なぜなら阪急の厳格な付番ルールからすると、3022という車番は運転台のある電動制御車のはずであるが、それはどこから見ても運転台がなかったからである。そればかりか、側窓の大きさと内装の特徴から見て、明らかに2100系のはずなのに、モーターの音はまごうことなき3000系だったので、四たび、頭が混乱するほど驚いた。3022は阪急の歴史上唯一の「3022系3022形」ともいうべき一形式一車両の全く特異な存在だった。その状態で、驚いたことに3072Fはパンタグラフの一つがもげたまま13年後の2008年まで走り続けた。この3072Fという編成は、たいして阪急電車に詳しくもない私でさえ5回も驚かされたほどだから、多分当時の鉄道ファンの興味の的であったに違いない。

 さて、その二代目3022の種車であった旧2171は宝塚線用8両編成の3154Fという編成から抜かれたものだが、その位置は、能勢電1500系に譲渡された唯一の2021系2030の後釜で、この2030が抜かれた原因は、実は後で述べるある大きな事故がきっかけだった。3154Fは、2171が抜かれた状態で7両編成であれば竣工当時の姿に戻れたものを、3652も抜かれて6両編成となって、よりによって今津線に移籍した。つまり助けられた3072Fと助けた3154Fが同席したのである。まさに、事故による因果が宝塚線・能勢電・神戸線・伊丹線・京都線・今津線と巡りに巡ったのである。

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 また話が逸れてしまったが、1977年に京都線に移籍していた2000系は神戸線に復帰したのち、彼らは順次冷房改造され、振りかざしていたパンタグラフを後ろに引っ込めて、ちょっとマイルドな姿になった。しばらくは電装解除され冷房改造された2071系すなわち元2021系を挟んで8両編成を組んでいたが、やがて新型車両の増備に押されて支線運用に回され、6両・4両・3両などに分割編成されていくうちに、もともと誰が誰と組んでいたのかさっぱりわからんくらいに混乱してしまった。1990年、能勢電のために主に2000系を譲渡するのに合わせて、3000系・3100系が支線運用に回されることになった。2000系の譲渡は、主に今津南線・伊丹線用の3両編成を中心に、運用中の2000系の編成をバラバラにして、3000系・3100系の短編成化で余剰となる2000系・2100系・2021系の増備代行車を組み合わせる形で、4両編成を8本組み直して行われた。これが能勢電1700系である。そんなわけで、やっと話が最初に戻った。この話がこんなに紆余曲折しまくるのも、ことほどさように2000系が目まぐるしく改造されたり組み替えられたりして阪急線内を走り回ったからである。

 能勢電への譲渡は2100系の方が先だった。製造されたのは6両編成5本合計30両だったが、後述するように1967年から始まった神戸線の昇圧工事の際に、最終編成の2162Fが2000系と同一仕様に改造されて2000系の増備に出た。その際に、前後関係はわからないが、2055・2059の2両の2000系を受け入れて2153・2155の2両を放出した。これらは2000系に組み込まれたという資料もあるが、1978年ごろから始まった3000系の8両化増備の代車に出るまでの10年間の所在がよくわからない。で、2055・2059の2両の2000系を含む24両は、すでに1968年には8両編成3本を組んで、1983年ごろまで非冷房のまま宝塚線を走っていた。しかし線形の改良や高性能車の導入によって相対的に性能不足の状態に陥り、その全てが能勢電に譲渡されて能勢電1500系になった。それらの冷房化は能勢電で行われた。一方の2153・2155は、当時3000系8両編成に組み込まれていて、これらの編成とともにすでに冷房化されていた。阪急で冷房化改造を受けた2100系はこの2両のみである。これ以外の2100系を全て譲渡してしまったので、この2両は、二代目2055・2059に改番され、阪急2100系は消滅した。しかしこの2両も、若い車両に挟まれて阪急線内で生き延びられるかと思いきや、編成された3000系の支線運用の際にバラされて廃車されてしまい、結果的に能勢電に移籍した多くの元2100系の仲間たちより先にあの世へ旅立ってしまった。なにが運命を決めるかわからんもんですなあ。阪急2000番台の大まかな変遷は、だいたい以上のようなものである。

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 さて、能勢電1700系のうち廃車されてしまった第一編成の先頭車に1750というのがあって、これは阪急旧2092、宝塚線用の元2162であった。2100系最後の編成だったが、神戸線の2000系の昇圧工事の時に、全部の車両を一気に工事するのではなく、まず一編成分だけ部品を新調して組み込んで運用に出し、外した部品を改造して次の編成に組み込む・・・ということを順繰りにやって最後に残った部品を、この2100系最後の編成に使った。そのときの編成は、2162-2112-2163-2113=2164-2114であった。これによって彼らは2100系の車番を持っていながら2000系と同等の性能を持つことになり、既存の2000系の中にバラされて、私が中学高校似通った頃の京都線で急行として爆走していた。神戸線に戻って冷房改造された時にそれぞれの番号から70を引いて名実ともに2000系に編入されたのだが、なぜ70を引いたかというと、当時すでに戦力外通告を受けて2071系に改番されていた弟分2021系の最後の編成が2091-2041であったので、その続きにしたのである。したがって両者が続き番号として同時に存在した時期はない。バラされて改番された後の番号を、仮想的に元の編成に組んで並べると、2092-2042-2093-2043=2094-2044となる。これらのうち能勢電1700系には、上に述べた2092のほかに、2044と2042が阪急での編成のまま別々に譲渡されていたが、すでに廃車されて現存しない。これらはもともと同じ編成で生まれていながら、死ぬときはバラバラだった。しかしあの順繰りの改造がなかったら2000系に編入されることなく、能勢電1500系として先にあの世へ旅立っていたかもしれない。なにが運命を変えるか、全く分からんもんである。

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 で、現存する4編成のうちの1754Fの先頭車1754は、阪急の旧2050なのだが、この車番そのものは2000系第一編成の所属である。しかし実はこの車両は二代目なのである。そういえば、あれからもう36年、これは阪急電鉄の歴史に残る大事故であった1984年の六甲駅、山陽電鉄車両との衝突で大破した元2050が廃車されたために、能勢電1500系の一員として譲渡されるはずだった2154が急遽呼び出されて改造され、二代目2050になった。今ある1754はこれなのである。ちなみに初代2050は、竣工した直後の試運転で工場から出される時にも配管のつなぎ間違いでブレーキが効かず、900系に衝突して破損した。これを含む編成は阪急の輝かしい高性能車両2000系の第一編成であったので、これによってそのデビューが遅れたのである。初代2050は、事故に始まって事故に終わった。主に2100系を種車とする1500系は全廃されたので、この能勢電1754は、現存する元2100系最後の1両ということになる。この時呼び出されていなかったら、2154は1985年に能勢電に譲渡されて能勢電1585となり、そのまま2015年に廃車されていたはずである。この入れ替わりのおかげで、彼は元2100系最長の命を永らえている。いや本当になにが運命を変えるか分からんもんであることよのう。

 その2154の代わりに能勢電に譲渡されて能勢電1585になったのは3154Fに挟まれていた2030であった。これは電装解除された元2021系で、2071系に改番されなかった唯一の車両である。2180が欠番になっているのはこのことによる。これが選ばれたのは、ちょうど3154Fが冷房化改造の途中で、2030が未施工だったためである。かつては複電圧車としてデビューしながら早々に戦力外通告を受け、長い間黙って3100系に挟まれていじめられていたのが、性能の劣る元2100系とはいえ再び兄弟分とともに走れるようになった。しかし運転台は復元されず中間車の扱いだったため、後からやってきて先頭車として走る1754すなわち旧2154を、ほんまはお前がここに繫がれるはずやったのにと恨みながら、早々に2015年に廃車されてしまった彼の無念を思うと胸が痛む。ちなみに冷房改造中だった3154Fは2030を放出した後、電装解除された2021系のトップ・ナンバー2021を新たに迎え入れて冷房化された8両編成として復帰した。このとき2021は2171に改番されたが、12年後に起こった阪神淡路大震災の時に伊丹駅で被災した3109の代車の調達にからんだ例のやりくりで代打を務めた2842と入れ替わる形で再電装されて出ていった。二代目3022に生まれ変わって3072Fを援護したが、2008年にその編成の廃止とともに、後輩の名を冠したままこの世を去った。一つの系列のトップ・ナンバーの最期としては、あまりにも無念な消え方である。

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 能勢電に譲渡された1700系のうち1754F以外は、その直前までは全て3両編成で余生を今津南・甲陽の各支線で過ごしていた。さきにも書いたように彼らには輝かしい京都線急行時代もあるので、宝塚・神戸・京都の三本線と南北今津・伊丹・甲陽線を含む最も広い守備範囲を誇ったのではないか。で、彼らが4両化されるにあたって呼び出されたのが、2177・2187・2078という、既に2071系に改番されていた元2021系である。改番からおよそ7年が経ってさらに改番されて他社へ譲渡されたのである。このように現存する能勢電1700系4両編成には、その4本の全てに1両ずつ生まれの異なる車両が含まれている。先に全廃されてしまった3000系同様、清濁併せ呑んで阪急の発展を支えた車両として感慨深いものがある。

 しかもそのうち1754F (1754-1734-1784-1704)は、阪急旧2050F (2050ii-2000-2051-2014) であって、上に述べた2000系トップ・ナンバーを2両目に含んでいる。同じ時期に製造された車両がもう一両、1757Fの前から2両目に1737 (旧2002) として残っている。阪急の輝かしい高性能車両2000系の、1960年に製造された初期のモーター音がまだ聴けるというのは素晴らしいではないか。また、1754Fの1両目は現存する唯一の元2100系なので、他と内装が微妙に異なる。またそれ以外の3編成の前から3 両目は元2021系であり、これまた内装が微妙に異なる。たとえば窓の形やその内側のゴム、扉上部内装の縁取り、扉の持ち手金具の切り込みの形やローラーに当たる部分の銀帯など、他の廃車車両のものと交換されてしまったものもあるが、竣工当時の外観の違いなども楽しんでいただきたい。

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 2300系・2800系が、京都線内で最初から最後まで、ほぼ原型を保って走り続けたのに対して、2000系・2100系・2021系が原型を保っていたのは当初の僅か10年ほどだった。しかし改造と編成替えを繰り返し、代車扱いになったり他形式に改番されたり、改番されて改番され、挙げ句の果てに売り飛ばされて非業の死を遂げたものも多い。しかし生き延びたのは最終的に車齢の最も古い2000系で、製造時期の関係から、おそらく次に廃車されるのは1754Fと思われる。彼らのうち1734 (旧2000)・1784(旧2051)・1737(旧2002) は、あと半年で還暦を迎える初期ロットである。その姿を見、音を聞けるのもそう長いことではあるまい。

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20200502 阪急3000系全廃

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なんとまあ、コロナ騒ぎで外出を自粛している間に、我が懐かしの阪急3000系が密かに引退していたらしい。北海道のローカル線が廃線になったことはニュースで知っていたのに、大手私鉄の黄金時代を飾った阪急3000系列の廃止が報道されなかったのは、全くもって不公平だ。怒りを禁じ得ない !! 伊丹線で余生を送っていた3000系最後の3054Fは、なんとか自分で写真に収めることができたのでよしとしよう。なぜならこの編成の下り側3003号車は、私が幼稚園へ通っていた頃に、清荒神駅の踏切を渡りながら、試運転で停車中のピカピカの新車としてびっくりした記憶があり、それ以来、阪急の新車といえば3003号車を思い浮かべるからだ。

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私は1960年生まれ、この3003号車は3000系の初期ロットで1964年生まれ、私が5歳の時に竣工して宝塚線で試運転されていたものと思われる。その後神戸線に配属になって姿を見なくなったのを寂しく思ったものである。もっとも、竣工時にこの3003号車が含まれていた編成は3052Fであって、当初は大阪方から4両 + 2両の6両編成であった。編成表示は大阪方から表記するので、阪急3000系の付番ルールからすると大阪方先頭車にモーターとパンタグラフがなく、それらは神戸・宝塚方の先頭車にある。これは2000・2100系から始まったことで、その理由はラッシュ時に車両を増結する際に、まだ当時は1両ずつ増結することを想定していたのだが、作業は大阪方で行われるのが普通なので、大阪方にパンタグラフがあると、増結車の向きによってはパンタグラフが近接して架線を押し上げてしまうので、それを避けるためである。実際には、その後の開発経緯で、阪急では最小編成を2両単位とすることになったのでその心配はなくなり、5100系から従来通り、ほとんどの編成で大阪方先頭車にモーターとパンタグラフが配置されるようになった。

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というわけで、この神戸・宝塚方先頭車の3003号車には、まだ銀色に光り輝くパンタグラフが設置されており、その発車時には2000系とは全く異なる繊細で洗練されたモーター音が鳴り響いたのをはっきりと覚えている。先頭にパンタグラフを振りかざして居丈高に疾走する2000系もかっこよかったが、パンタグラフのない先頭で静かに滑ってくる3000系は魅惑的ですらあった。だからこそその引退を知らなかった自分に腹がたつ !! その後、私の中学生時代に輸送力の増強から7両編成に組み替えられるにあたって、整然とした付番ルールに基づいた編成に混乱が生じることとなり、3003号車の大阪方先頭は3054号車となって、それ以来紆余曲折を経て4両編成に短縮されて伊丹線で余生を送るまで、中間に挟まれていた相方を次々に見送る形でこの組み合わせは残ったのである。このように私は、阪急電車における車両番号のつけられ方と、それらの変遷、パンタグラフの配置に、幼少の頃から並々ならぬ興味があって、高校時代までは、すべての編成のすべての車両番号とその順列を記憶していた。ところが近視であった私には、走ってくる編成の先頭車の番号が読めないので、友人に頼んでその番号を読んでもらい、それによってその編成が何両編成か、また冷房付きかを言い当てて、扉の来る正しい位置を示すという下校時の日課を思い出す。この3054Fの最後の編成は3000系初期ロットの同窓生のみで編成されたが、その直前には3100系の付随車と隣接し、また過去には2000系や2171系と隣接したり、8両編成で神戸線特急の主力の座を誇っていた時期から、割と早くに6両編成化されて今津線普通に格下げされたかと思うと、数年後には8両編成化されて神戸線特急に返り咲くなど、全くその生涯に紆余曲折があった。ちなみに去っていったすべての3000系・3100系を通じて、阪急の主力であったにも関わらず純粋にそれぞれの系列車両のみで編成された8両編成はついに存在しなかった。常に旧型車の余剰車両を間に挟み、窓配置や寸法や性能の違いによってぎくしゃくしながら50年余りを走り続けた。美しくしとやかに登場したにも関わらず、その半生のほとんどをなりふり構わぬ姿で疾走した姿は、鉄道車両としては長い生涯がいかに多難なものであったかを物語って共感を覚える。

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参考文献: https://raillab.jp

 https://toyokeizai.net/articles/-/344141

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これは主に神戸線で活躍していた編成ですね。中学に上がった頃の京都戦は、まだP-6; 100系が走っていてびっくりしました。主力は、特急が2800系で、徐々に6300系が入ってきてました。急行と普通は2300系で、それにまじって本来神戸線用の2000系が7両編成で急行で走ってました。小学校の頃、長らく2000系を見なかったので再会できて喜んだものでした。京都線の3300系は、万博に合わせて製造されたので、今回話題の3000系より新しく、まだ走ってるはずです。さて、阪急の最高齢車両ということになると、いま能勢電に残る1700系がありますが、これらは旧2000系の改造車で、外観はほぼ、モーター音は全く同じものです。「それにまじって本来神戸線用の2000系が7両編成で急行で走ってました」と書きましたが、その時に使用されていたものが今も使われています。つまり、彼らのほとんどは、阪急の神戸・宝塚・京都戦を走破した挙句、今も能勢電で山を毎日上り下りしていることになります。彼らの初期ロットは1960年製ですので、我々と同年齢です。

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https://www.youtube.com/watch?v=5Axp-iiMs04

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20200502 GW幕開け

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とうとう、通り一本先までおいでなすったか・・・私の勤めるスーパーでは緊急事態宣言が発令されて以降、閉店時刻を一時間早め、一切の特売を中止しているが、隣の店が閉鎖されてからは客数がぐっと減った。同時に、別にここで働かなくても生活に支障のない人は辞めてしまい、動ける人員が激減した。クレイジーな客は増える一方で、ないものをくどくどと言い募るのはまだマシで、万引きも増え、強請りタカりの輩も出た。一人に捕まると一時間や二時間は拘束されるので作業は回らない。私はバイトだから良いが、責任ある社員はほぼ無休で通し勤務しても追いつかない。崩壊寸前だったものを、隣の店が閉鎖されたために敬遠されて客数が激減したのでちょっと楽になった。閉店時間を早めたのは店内の消毒を徹底するためで、本来ならば従業員は全員契約時刻までその作業に当たるはずだった。しかしこれは会社の判断で決定したことなので、感染の不安があって早退する人にも契約通りの賃金が支払われる。そうなると、同じ給料がもらえるのなら何も好き好んで居残る必要はなく、一時間早く店を閉めたらほとんどの人はさっさと帰ってしまうのだ。当初の目的とは全く異なる事態になっている。結局、感染防止のために力を尽くそうとする人はほとんどおらず、私とごく少数の社員だけで買い物かごを全て消毒し、カートや各扉、手すりなど、およそ不特定多数の人が触れるであろう場所をしらみつぶしに毎日拭く。私は売り場の商品も片っ端から拭いていたのだが、それだけでも白眼視されていたものを、給料も変わらんのに居残ってあちこち拭いてると変人扱いされている。まあ子供の頃からそういう扱いには慣れているので気にはしてないが、要するに専門家が侃侃諤諤やろうが、マスコミがそれをネタに煽り立てようが、政府がのらくら論点をずらしまくろうが、総体としての日本人の行動はだいたいこのようなものだ。ここ数週間ほど、スパゲティや小麦粉、バターや調理用油などの入荷はない。必要性の高い品目には欠品が多く、そうでないものの供給は確保されている。その結果、必要最低限の食材を揃えるためには複数の店を回る必要があるだろう。結局のところ、自給体制を確立できた私は幸運であった。向こう二年くらいなら手持ちの穀物と田畑だけでひもじい思いはしなくて済む。これを機に、全国民がまずは自給した上で、余力があるのなら経済を回しても良い、くらいのスタンスで国を作り直したらどうかな。まあ、今あるインフラはとても維持してゆけなくなるだろうから、それらをいかに無害化処分するかも含めて・・・

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2020年04月30日

20200430 畑の観察

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菜の花が終わって種ができはじめる頃、葉は急速に落ちていくので取れるだけ取る。大根の花が終わったら、夏野菜ができはじめるまで端境期に入るので、タマネギやニンニクの葉、それもなくなれば土手の草を料理して食べる。それが硬くなる頃に、ぼちぼちキュウリや春蒔きの野菜の若葉、場合によっては葉を常食しないシシトウやピーマン、エンドウの葉なども食べることができる。百姓をしていれば、贅沢さえ言わなければ食う物に困ることはない。今シーズンの小さな畑では、青ネギの花が咲いて、一部種ができかけている。それに続くタマネギも根が太りはじめ、種取り用に植えたアカタマネギに葱坊主ができている。これから種を取って秋に種まきをして来年の梅雨入り頃に収穫する。ニンニクも順調。畝は変わって、手前から一寸空豆と、意外に白い花のついた赤空豆、その奥はどんどん蔓を伸ばすウスイエンドウ。メイクイーンは先日来の霜でおそらく全滅。
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20200430 醪と霉豆瓣

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醤油を絞った残り粕を乾かして粉砕し、調味料にする。塩の代わりに使うと非常にコクのある風味が立つ。自家製ソラマメの麹を乾かして、高度白酒と塩、ごま油を加えて一ヶ月寝かせて「霉豆瓣」を作る。網をかけてあるのは、本来は密封せずに屋外に放置するからである。しかしこれから雨の季節になるので、代替手段として網をかぶせて軽く蓋を乗せ、スチロールの箱で遮光して養生してみる。この方法でうまくいけば良いが・・・

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20200420 しゃのあ出産

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昨年10月にうちの前を通りかかった時はこんなにちっぽけだった黒猫の「しゃのあ」・・・初めは噛んだり引っ掻いたりという愛情表現に手加減がなかったのだが、やがて私の指を噛む時も、飛びかかってくる時も手加減できるようになって懐き、かわいいかわいいと思っているうちに、

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「そんなブサイクなおっさんやめとき」というようなオス猫を連れてきて、そいつが私を見ても逃げないばかりか、じっと脚を揃えて私を見つめているので、年頃の娘を持った父親の気分だなと思っていたら、みるみるうちにお腹が大きくなって食べる量も激増し、要求もエスカレートしてこれはこれはと思っていたら、先日ちょっと昼寝のためにベッドに横になったら、天井裏から「ミョオオオン」と低い声で私を呼ぶのだ。「どうした ??」と声をかけたら何度も低い不安げな声で返事をする。

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いよいよかと思ってここで安心して産んでもらえるように居場所を整えてやり、降りてくるように促したのだが、不安げに啼きながらそわそわして、その場所へは興味がないらしく、少し遠ざかっては私の方を振り返り、また不安げに啼く。「ついてきて」という風だったのでついていくと、私をあちこちの隠れ家に案内するように巡る。その度に低い声で鳴いて私を見る。「うちでええやんか」と声をかけるも、また私を導いて道を渡る。彼女の縄張りなのかもしれないが、その先は他人の家なので私が躊躇していると、何度も何度も私を振り返りながら、やがてその家の使われていない物置の陰に消えていった。もうかなり辛そうだったので、おそらく破水も近かったのではないか、

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その日から三日間、彼女は姿を見せなかった。先ほど畑へ出てみると、なんとその畔に彼女はいた。久しぶりなので声をかけると走り寄ってきて、いつもの高い声で啼く。お腹を見ると、もう普通の大きさだ。乳首が大きく膨らんでいる。どこに子供がいるのかわからなかったが、おそらく栄養補給に出たものであろう。こんなこともあるかと思って、実は今日外出した帰りに鯛の切り身をお祝いに買っておいたのだ。「ごちそうがあるからおいで」と促すと機嫌よくついてきた。いつもならその場でバリバリ音を立てて食べるものを、彼女はすっと咥えて出ていった。その足取りは確かだった。行くところがあるのだ。無事な姿を見られただけで十分、あとは追わずに仕事に戻る。

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20200430 愛車カリーナちゃん最後?の車検

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愛車カリーナちゃん最後 (になるかも) の車検UP !! 1986年登録、車齢34年、累積走行距離66万キロ超、市中走行燃費25km/ℓ超、高速走行燃費約35km/ℓという驚異的なエコ・カー・・・まだまだ快調 !! 長年これを見てくださった工場のみなさまに心からの尊敬と感謝を・・・
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2020年04月28日

20200428 種籾の温湯消毒と浸水

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引き続きまして稲の種籾の浸水であります。今年はタネの意地・・・失礼、維持だけが目的なので微々たる量、選別は去年のうちに粒よりで厳選しておいたので温湯消毒から。60℃の温湯に10分浸け、急冷してそのまま浸水に入る。一日の平均水温 x 日数分の積算で約100℃を目安に温湯に切り替えて催芽し、概ねGW明けくらいに苗代に降ろすことを目指す。苗代は現在準備中の田んぼの一角とし、それまでに表面の代掻きまで持っていくことにする。

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20200428 我试制作霉豆瓣

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 私の中国の友人の皆様にお尋ねしたい。この哀れな日本人は中国の本物の豆板醤を作ろうとしている。そこでまず霉豆瓣を作ってみたのだが、この写真のような状態で正しいのだろうか ? 親愛なる中国の友よ、できれば教えて欲しい。

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我想一下我所有的中国朋友。 个可怜的日本人正试图制作真正的中国「豆板醤」。 因此,我首先尝试制作「霉豆瓣」,但是在此片所示的状下正确亲爱的中国朋友,我是否可以。

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前に仕込んだソラマメ麹の乾燥が仕上がった。結論から言うと、あまり自分のイメージしていたものと異なる。まず上の段左のものは中国産ソラマメを煎っただけの市販品「はじき豆」である。これは水に浸して皮をむいて蒸して菌づけして養生したものを乾燥するまで干したものである。吐き気をもよおしそうな悪臭がするので多分失敗だ。原因は、おそらく蒸し時間が長すぎてやわらかくなり、麹菌の養生中の水分が多すぎて雑菌が繁殖したものと思われる。その右は鳥取産アカソラマメの皮をむかずに蒸して以下同左である。蒸し以降の工程は同じだが、皮をむかなかったので内容物が保持され腐敗を免れたと思われる。その右は先日絞り終えた醤油の醪の搾りかすである。原料は大豆なので、出来上がったものは豆板醤とは言えないのだが、試しに同じ工程でやってみようと思う。その下は自家製ソラマメを煎って皮をむいて蒸したものに菌づけをし、先日出麹としたものである。上二つの反省から蒸し時間を短縮してやや硬めで切り上げ、発酵促進剤として小麦粉を薄くまぶして菌づけしたものである。もう少し緑色が強く粉まみれになるかと期待したが、やや硬すぎたものと思われる。ちょうど両者の中間くらいの蒸し加減が適当か・・・これは醪とともにカラカラになるまで乾燥させる。醪は粉末にして調味料に、ソラマメは、試作「霉豆瓣(Méi dòubàn)」第一号として慎重に仕上げる。上の三品は作業を先に進める。この先の工程については全く諸説紛々である。いずれも一貫して最初から最後まで説明されていないか矛盾や不明点が含まれる。仕方がないので写真付きで最も親しみやすい複数の資料から矛盾のない程度のレシピを割り出して仮説としてみる。「霉豆瓣」500gを水洗いして、塩150g・高度白酒250cc・ごま油125gに一ヶ月漬ける。「はじき豆」のものは崩壊流失の恐れがあるので水洗はやめておく。醪の分はすでに塩分を十分含んでいるので加塩しない。とりあえずここまでやってみて様子を見る。

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2020年04月27日

20200427  田んぼの用意

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 田んぼの用意・・・とは言っても今年は箱庭みたいな小さい田んぼなので、ちょいちょいと鍬先仕事で完了。

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2020年04月20日

20200420 不要不急の外出x4

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 先日、不要不急の外出・・・でも4つまとめて片付けたら許してもらえるやろか・・・その1: 神戸ムスリムモスク前のハラル食材店にて冷凍羊肉購入。その2: 神戸南京町にて豆板醤の仕込み材料購入・・・南京町全体がほぼ閉店する中、地元の中国人御用達の食料品店も閉店・・・なのだが、そこはそれ文字通り勝手知ったるなんとやらで直接電話して裏口で手渡し・・・前回このような手を使ったのは1993年の記録的な不作による米騒動の時で、それまで米は「一粒たりとも輸入しない」という方針で日本でインディカ米は全く食べられなかったのだが、この時それはもろくも崩れてまずタイ米が輸入された。しかし大多数の日本人は不評で、当初タイ米と日本米の抱き合わせ販売、のちに出荷時にブレンドして販売されたのだが、なにごとも混ぜて良いものと悪いものがあって、廃棄されたタイ米があちこちのドブ川で悪臭を放つ光景が見られたものである。私はタイ米が欲しかったのだが、ほとんど日本米と混ぜられてしまっていたので単独では手に入らず、兼ねてから懇意であったこの食料品店に相談したところ、表立っては売れないから・・・と言って裏口で取引したのだ。そんなことを懐かしく思い出す。そこで必要な材料を揃えて西宮へ走り、その3: 愛車カリーナちゃんを車検に出す。これまで長年この古い車を見てくださっていた工場も来月で廃業される。したがって、引き続きこれを見てくれる工場が見つからなければカリーナちゃんもあと一年の命。それにしても、もと日産レーシング・チームのエンジニアであった一流の技術者に、こんなポンコツのオイル交換していただくのも心苦しい限りであった。代車に乗り換えて、その4: 不要不急のヘア・カットへ15時滑り込みセーフ・・・ずっと引きこもっていたので、なかなか爽快に走り回った一日であったことよ・・・

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2020年04月19日

20200419 Proensa: Paul Hillier

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 「引きこもりの美学」・・・実験的という観点から見れば、このアルバムは、もはや古楽というより現代音楽に近い。さすがECM、Manfred Eicherが仕掛けたんかPaul Hillierが持ち込んだんか書いてないけど、ものすごく良い。出典は、先にも出たGuillaume d’AquitaineやBernart de Ventadornなど、11-13世紀に活躍した吟遊詩人の曲ばかり。リュート、サルテリー、ハープ、ヴィエールという素朴な弦楽器の、なんと即興演奏がつけられている。この手の実験的な音楽は、まったく往々にしてつまらん駄作に落ちてしまうものだが、そこは楽曲の良さ、押しも押されもせぬHilliered Ensembleの指導者、ECMジャズの創設者、そしてStephen Stubbs, Andrew Lawrence-King, Erin Headley ‎という古楽の名演奏家たち・・・しかも一曲目が「本当のからっぽについて」という例のアキテーヌ公が書いた、男なんてものは取るに足りない存在だとつくづく思い知らされるような詩を、大真面目に朗々と朗読するところから始まる。ハープが飛び散る・・・闇が唸る・・・こういうことを名演奏家たちが堂々と大真面目にやってくれるところが懐深い。本来、音楽は作って演奏して楽しむもの。ヨーロッパでは10世紀頃から、教会での典礼用の聖歌集以外にも、音楽を書き留めたものや、それらを筆写した歌集のようなものが散見されはじめる。そこに共通の歌詞やメロディ、作曲者名が見出されるようになるが、これらの特徴は、定旋律定型文の聖歌とは違って、全く自由で、中には取るに足りないありふれた内容の歌詞が多く残されていることである。これは、ずっと昔からこのような民衆の歌が存在していて、それが文書に現れてきたものと見ることができる。現代の多くの演奏家は、これらの文献を研究して実際の演奏に具体化するのだが、ほとんど歌のメロディしか残されておらず。リズムもはっきりしないので、仕上がった音楽の大部分は想像の賜物である。しかしその旋律の動きに一定の法則が見られることから、そこに和声の存在、おそらく音遊びや偶発的に生じた効果などを弄んだものが定式化したと思われるものがあって、それは合唱だけでなく、器楽伴奏として著された時に魅力的な特徴を発揮する。また、その頃までは教会の権威が絶対的に強く、音楽は民衆が聞くためのものというより、信仰のため、神のために捧げるという性格が強かったが、典礼音楽としてのグレゴリオ聖歌も、聖務日課によって様々なバリエイションを要し、また布教にも民衆に寄り添う必要があって、その題材に民衆の歌やその旋法を取り入れた形跡がある。例えば聖母マリアの純潔性を歌いながら、それを現実の処女を賛美する内容にすり替えて楽しんだものが、逆に教会音楽の歌詞の中に散見されるなどである。このように13世紀頃までのヨーロッパ音楽は聖なるものへの指向性が強く、超現実的な響きを持ちながらも、その広がりや多様性を民衆の歌が支えるという、一見矛盾した性格を持っている。そして全体としてはシンプルで、神に対する生身の畏怖、異質なものに対する生身の恐怖、ありのままの混沌などが楽曲ににじみ出ているため、独特の感触を持って耳に響くのであろう。そこが、この次の時代に顕著になる、ヨーロッパ的な構成美を主眼とする音楽との大きな違いではなかろうかと思う。その後の合理主義的価値観が当たり前になってから作られた宗教音楽とは、出来がまるで違うのだ。一方の世俗音楽は、ほとんど記録が残されていないものの、中世の教会音楽を聞くとき、より下った時代のものを聞くよりも荘厳な感銘を受けるのは、おそらくそのためだろう。13世紀頃までは、いわゆる「大作曲家」として後世に名を轟かせるような人物は知られていない。作曲者の主体は、主に吟遊詩人であり、これらありふれた民衆の歌を口伝で集め、そこへニュースや珍しい話などさまざまに即興を取り入れて日銭を稼いでいたものと考えられる。彼らの歌は、南仏から北へ流行し、やがてドイツに入り、またイベリアへも渡り、西ヨーロッパ中に流行した。それを支えたのは当時勃興し始めていた騎士団であり、騎士団を支えたのは地方の王侯貴族であった。歌や詩や踊りは人間の根源的な喜びであったけれども、いや、だからこそ、それは時の宗教勢力や政治勢力に利用されて、民衆をコントロールしたり、自己の権力を誇示することに使われた。良い歌を歌い、詩をたしなみ、優雅に踊ることは、騎士道の嗜みの一つと捉えられ、それが王侯貴族の館での社交につながって文化として花開いた。そのような安定したヨーロッパ中世の絶頂期が、だいたい13世紀頃になる。この頃までの音楽を聴くとき、しかしそれはやがて複雑に変容して、豪勢な歌劇や舞踏などに代表される宮廷音楽に発展した。一方、教会音楽は13世紀頃までは単旋律だったが、やがて上のような世俗音楽の荒波をかぶって変容したり、あるいは取り締まられたりしながら入り混じり、複雑に変容し多声音楽へと発展していった。やがて宮廷音楽にメイン・ストリームが移り、作曲家や演奏家は宮廷に庇護されて教会の楽長も務めるという構造が出来上がった。その主流は、宮廷で上演される歌劇や催される舞踏会に用いられる音楽であった。歌や踊りはキリスト教の布教のための寸劇などから発展して、演劇文化としてヨーロッパの音楽の主要な要素となったことは自然である。しかしこのことが、クラシック音楽のすべての歌曲の発声法を支配し、器楽合奏の音感の序列にまで影響を与えてしまったことは否めない。その精神が、神への畏れから、宮廷への阿りに変化していくとともに、ヨーロッパのクラシック音楽は、どうにも鼻持ちならない「臭さ」を身に纏ってしまったような気がしてならない。それはおそらく、その中にいる人には気がつかない自分の体臭のようなもので、外の人間にはなかなか越えられない一線のように思われる。私の場合、その一線が、だいたい西暦1600年ごろにあるようなのだ。古楽のファンが必ずしもクラシック・ファンでないといわれているが、これが関係しているのではないかと思う。

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20200419 Cantigas de Santa Maria

Cantigas de Santa Maria, Des oge mais quer’ eu trobar, CSM 1

 「引きこもりの美学」・・・ピレネー以北に伝わった抒情詩人や吟遊詩人の音楽は、イベリア半島にも影響を及ぼした。特にカスティーリャ王アルフォンソ10世 (Alfonso X, 1221_1284) は、政治家としてはちょっと残念だったようだが知性を愛し、詩作や音楽に通じた。音楽における彼の功績は、「聖母マリアのカンティガ集(Cantigas de Santa Maria」という419曲からなる歌集を完成させたことにある。名前が示す通り聖母マリアを讃える歌が中心だが、古くからの民謡や俗謡など、当時知られていた古今東西の様々な楽曲の断片のほかに彼自身の作曲によるものも含まれていて、楽譜や挿絵とともに、現代に貴重な資料を残している。したがってこれを取り上げた現代の音楽家たちも多く、まさに演奏法が指定されていないからこそ許された多種多様な解釈が花開いて、古楽の楽しみ面目躍如の観がある。その醍醐味は、何と言ってもイベリア風の異国情緒であろう。当時、イスラム勢力からのキリスト教徒による奪還 (レコンキスタ) が進行中であり、二つの大きな文化が合流している。それは使われている弦楽器の響かせ方、打楽器のリズムなどに顕著に表れている。もちろん私の聴いたものはそのうちのごくごくひとかけらであるが、ここで取り上げたアルバムは、その中でもきわめて実験的でありながら、響きが繊細で美しく、全く他に類を見ない独創的なものだと思う。声・ハープ・ダルシマー・打楽器というシンプルな構成で、静かに、彫り深く、研ぎ澄まされた感覚の音世界が広がっている。これより100年くらい後になるが、バルセロナ近郊のモンセラート修道院に伝わる「赤い本」(Llibre Velmell de Monserrat) も、ほぼ同じ時代に広まっていた傾向の曲が集められている。また、ドイツのバイエルン近郊にある修道院から19世紀になって発見された「カルミナ・ブラーナ (Carmina Burana)」も、ほぼ同じ時期に書かれたものとされており、13世紀ごろまでの中世ヨーロッパ音楽を探索する上で、この三つは大きな道しるべとなるであろう。これらに関連するキーワードで探索していけば、キモチノヨイ音楽体験ができるに違いない。その代わり欲を出せばまた一財産くらい飛んでしまうであろうが・・・

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20200419 Thibaut de Champagne

Thibaut de Champagne: Chançon ferai, que talenz m'en est pris

 「引きこもりの美学」・・・中世ヨーロッパのキリスト教会で用いられていた聖歌のほとんど大部分はグレゴリオ聖歌だが、その発祥の紆余曲折や議論については無視したうえで、きわめて乱暴で大雑把にいうと、それは単旋律で詩篇を朗詠し定型句をひたすら繰り返すだけの退屈なものであった。それが退屈であったからこそ、そこにいろいろな工夫が生まれ、異なる要素を取り込んで複雑化することは自然であった。異なる要素とは、地域による差異、民族や宗教、身分などによる差異が挙げられる。当時の多くの人々は文字が読めなかったので、彼らに教義を伝えるにあたって、それをわかりやすく面白おかしく語って聞かせ、やがて演じて見せたことが、のちのバレエやオペラにつながる。その過程で、様々な地域の庶民に広まっていた歌が取り入れられ、また洋の東西を越えて往来する吟遊詩人の影響も取り入れられた。なにごとも、混ざりはじめが面白いのである。熟成された味というものは、好き嫌いが分かれる。そういう意味で、13世紀頃までの古楽はとても面白い。当時はまだ現代用いられている五線譜は存在せず、音の抑揚を記しただけの様々な譜面が断片的に残る。これらのほとんどはリズムが明確でなく、メロディ・ハーモニー・テンポという考え方もない。使う楽器も指定されていないし、そもそもどの音域のものかもわからない。全てが厳密に指定された現代の楽譜音楽とは全く異なるアプローチが必要になる。どんな響きが飛び出してくるか驚かされることが多い。演奏家によるところも多いが、元々の楽曲の良さが今に伝わるものも非常に多い。という点で、きわめて宗教的であり才能の塊であったドイツのHildegard von Bingenと同時代に、フランス南西部大西洋側のイベリア半島に近いアキテーヌ地方 (ボルドーが中心) が大きな役割を演じる。その領主であったアキテーヌ公ギヨーム9世 (Guillaume d’Aquitaine, 1071-1126) は最初の抒情詩人として世俗音楽と当時の典礼劇の即興に影響を与えたと言われ、その孫娘のアリエノール (Aliénor d'Aquitaine, 1122-1204) は自ら芸術を愛し自らも吟遊詩人として活動した。この時代にベルナルト・デ・ヴェンタドルン(Bernart de Ventadorn (1130?-1200?) など中世を代表する作曲家が多く庇護されて世に出ている。この後、彼女は姻戚関係からフランス王妃、さらにイングランド王妃にまでなり、このときイングランドはフランスの半分を領有して、のちの百年戦争、薔薇戦争へとつながることになる。これによって吟遊詩人の芸術が北フランスに伝わり、当時勃興しつつあった騎士団すなわち武装勢力と結びついて、ルネサンス期の宮廷音楽に代表されるフランス音楽文化の基礎となる。ただ、そっち方面へ行くとだんだん「クラシック臭く」なるので私は関心がない。そうなるずっと前、アリエノールが亡くなる数年前にフランス北東部に生まれたシャンパーニュ伯ティボー4世、Thibaut de Champagne (1201-1253) も姻戚関係によって、アキテーヌ地方の南西、ピレネー山脈を隔てる形で隣接するナバラ王国のテオバルド1世となるが、彼自身も吟遊詩人であり、この時代にしては珍しくその作品が多く残されていて、旋律のつけられたものもある。この後、14世紀に入ると少しずつ音楽の性格が変わってくる。教会音楽から派生して、自由な施策と作曲が出始め、それが熟成しつつある安定期として、これらの土地や人物を追うのもまた一興と思われ・・・

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20200419 Hildegardt von Bingen

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 「引きこもりの美学」・・・6年分録り貯めた「NHK古楽の楽しみ」の音源から選んだ私のベスト古楽10選。放送でかかったものから選んだものなので、全ての古楽録音をベースにしたものではない。選んだものが名演なのかどうかというより、全くの独断と偏見で、時代順に並べることにする。

 先にも書いたが、私は「クラシックくさい」ものが嫌いである。そこで一気に1600年以前に飛んでしまったのだが、とはいえグレゴリオ聖歌はあまりにも宗教的すぎて、もう少し人間的な匂いのするものから・・・ということで Hildegardt von Bingen (1098-1179) の最も好きなテイク、演奏しているのはBingenの研究に一生を捧げていると言っても過言のない愛が熱く伝わってくるSequentia (1977- ) 古楽の好きな人には常道の選択なので、興味のある人は詳細データについてはインターネットに譲る。とにかくこの音空間の異様さ、この強烈な匂いと不毛と安らぎ・・・反復がもたらす精神的高揚・・・これですわ。Sequentiaさんすんません合唱より器楽合奏の方が好きなもんで・・・

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