2017年05月15日

20170515 Kashgar

Uyghur-Pamir 2017.05.15.2 Kashgar

 昼寝が済むとじっとしていられなくて、早速外出して色々と調べまくる。カシュガル滞在は三泊だが、明後日の早朝にはタシュクルガンへ向けて発つので、実質今日と明日のみ。しかももう夕刻だから、中国新疆の旅を総括できるのは明日1日ということになる。

 まず急いで郵便局へ行き、ここで楽器を買ってEMSなどの国際郵便で送れるかどうか。宿泊しているY.H.は職人街を少し外れたところにあり、南下して人民公園の北を東西に走る大通り「人民東路・人民西路」へ出ると大きな郵便局がある。その二階のカウンターの反対側 (ドアに何も書いてないのでわかりにくい) に国際郵便を扱う部署があって、担当の女性は流暢な英語を話し、大変親切に教えてくれる。事前に調べたところでは、中国で楽器を日本へ送ることについて問題になる情報には当たらなかったのだが、基本的に楽器などの文化的産物を輸出するには政府の許可がいる。製造者や販売店が代行して発送する場合が多いが、個人では難しいし、お金を渡して後日の発送を待つことになる。これは信頼問題に関係するのでちょっと困難だなと思いつつ、国際郵便を発送できるギリギリの持ち込み刻限が19時であることを確認してそこを出た。

 次に楽器屋に立ち寄り、買う楽器を選ぶことにする。詳細は省略して結論だけを書こう。私が欲しいと思っていたのは、擦弦楽器の「ギジェック」と撥弦楽器の「ドタール」であった。いずれも、そこそこ良い状態のものは、ハードケース付きで3-5万円程度で手に入る。しかし、職人街に店を並べている楽器屋は、正直言って音楽のことをあまりわかっていない。あくまで観光客目当ての土産物屋だ。きちんと名刺をくれたところは数件、しかも国際郵便で発送するにあたって政府の許可が必要なことを知っていた店はなく、手続きを含めて後日の発送を確約 (つまり信用も含めて) してくれたところもなかった。他店はあしらわれた。だいぶ迷ったが断念した。まだ前途は長く、しかも険しいのである。

 次に旅行会社を訪ねた。これからホータン方面へ観光に行くので情報が欲しいと申し出た。もちろん偽りであるが、一般的な情報サービスの範囲なので問題なかろう。訊きたかったのは、個人旅行者である私が、なぜ何度も身柄を拘束されたかだ。ホータンでも数軒旅行会社に当たっているが、ほとんど使えなかった。カシュガルは、それよりずっとしっかりしていた。しかし彼らが口をそろえるのは、個人で交通手段だけを確保して単独行動をするのは危険だということである。つまり要約すると、新疆ウイグル自治区で人をコントロールする方法として、中国籍を持つ者は、そのIDカードによる。外国人は、基本的に政府に公認された旅行会社が管理する者と、個人で勝手に入国した者とに分かれる。中国籍を持つ者には行動の自由があるが、あくまでIDチェックによる検問を受ける。外国籍を持つ者は、中国政府が許可した範囲でしか行動できず、逸脱すれば拘束される。旅行会社が管理する外国人は、地方政府に提出された旅程に従って行動するので、多少の逸脱があっても多くの場合問題はない。しかし個人で勝手にうろつき廻っている外国人旅行者は、常に現場の警察組織が監視するので危険である。その運用は現場に任され、統一された基準がない。鉄道に乗って途中の駅で降りることは可能だが、おそらく現地警察に捕まってカシュガルへ送還されるだろう。あるいは、ホータンからウルムチなどへ脱出する有効な交通手段を持っていれば、ホータンへ送られる。いずれにせよ、ヤルカンドを含め、途中の街での滞在は不可能に近い。私が経験したのはまさにこれだったのである。

 さて旅の前半を総括する。今回の旅は、バイト先が改装のため2週間以上閉店することがきっかけであった。当初それは10月に予定されていたが、急遽5月に前倒しされ、準備不足のまま見切り発車した。この準備不足が全てに祟った。中国語やウイグル語の旅行会話すら習得できなかったことをはじめ、音楽に接するための周到な準備ができなかった。個人の力量では間に合わないと悟って日本で旅行代理店に相談したが、結局のところ、シルクロードの夢を遍歴する古代遺跡探訪の旅か、あるいは観光客用に村人が演じてみせる民謡鑑賞ツアーに参加するしか、事実上、選択の余地はない。それは国内手配で数十万円、カシュガルの旅行代理店でも1日1-2万円程度の出費を迫られる。

 仮に古代遺跡を個人で回るとするならば、公共交通機関の通っているところはほとんどないので専用車をチャーターするしかないが、彼らはまず外国人を国道より外へ連れ出せないだろう。トランクに潜むか、物流トラックの荷物に隠れるか・・・何れにせよ砂に埋もれた道を行くには専用の車が必要であって、それをチャーターするとなると、どうしても足がついてしまい、結局のところ十万円規模の出費となる。当初予定していた・・・それは夢想でしかなかったが・・・ダリヤブイへの旅なぞ、砂の沼を乗り切るための大型専用車を二台 (つまり一方が埋まってしまった場合の救援用) とドライバー、ガイドと食糧その他一式を装備したキャラバンとして出動しなければならず、軽く見積もって百万仕事、運良く客が集まってもせいぜい数十万という、まあ私には手の出ない旅になる。その手でせんずりこきながら寝てる方が余ッ程゜良い。

 新疆で音楽の旅というと必ず出てくるのが、カシュガル郊外の「芸術の村」として名の通る「麦盖提 (メルケト) 」で行われている古い「刀郎木卡姆 (ドラン・ムカーム) 」である。これはツアーで2万円程度、個人で村を訪ねようとしても、「麦盖提」という漢字が出てこなければお手上げである。困難を越えても行き着くところは、結局「刀郎木卡姆組合」であって、大枚な出演料を払って演奏会を催してもらい、経費と報酬を観客の頭数で分配する強固な仕組みが出来上がっていて、それ以上の音楽的触れ合いは、よっぽどの個人レベルのつながりがない限り不可能だ。その準備なしに闇雲に現地を歩き回ると、頻繁な検問と身柄拘束が待っている。アフリカやブラジルのように、行き当たりばったりに出歩いて素晴らしい音楽体験ができるなど、中国ではまず期待しない方が良い。

 準備不足と、最近の中国政府が推し進める開発がもたらす混乱、それを制圧するための体制・・・これを現場で思い知ったことが、旅の前半の総括といったところか・・・苦しい旅だったが、望んでできるものでないことは確かだ。中国という、複雑で巨大な国を実感する。これが58回目の誕生日を迎えた感想である。

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2017年05月14日

20170514 Yerkent-Kashgar

Uyghur-Pamir 2017.05.14.2 Yerkent-Kashgar

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  (Yerkent) ー喀什 (Kashgar) 間は「空調特別快速」という最高ランクの列車に乗った。それでも運賃は28.5元 (約530円) と格安である。時間にして3-4時間の旅。確かに空調が効いていて気密性も高かったので、砂嵐の中でも砂が入って来ることはなかった。しかし陽射しが強く、また混雑もしていたので、息苦しくて快適とはいえなかった。混雑の原因は、人民解放軍の一団が乗り合わせていたからである。軍服を脱いだ彼らは、見たところごく普通の青年たちで、ほとんどすべてがスマホ・ゲーム中、おそらく座席に関係なく気に入った連中とゲームしているのであろう、入れ替わり立ち替わりスマホを持ちながら機嫌よく盛り上がっていた。彼らは、周囲のウイグル人にも、付近で唯一の外国人旅行者である私にも、ほとんど関心を示さなかった。私の隣の席が空いていたが、手持ち無沙汰の誰かが座るということもなかった。

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 私は車窓に流れる風景に見入っていた。ヤルカンドを過ぎると、タクラマカン砂漠とはいえ緑地が多くなる。それに従って、農地や果樹園は言うに及ばず、工場や物流施設なども多くなり、それらを結ぶ道路が砂に埋没しないよう高架化されていたり、さらには高速道路までもが現れる。自然の形成である砂漠、その中に点在する人間の歴史的風景たるオアシス集落、それに挑みかかる現代の人工建造物・・・特に「英吉沙 (イェンギサール)」・・・ちょっと読めんよね・・・周辺は、風景の崩れ方が著しい。ここに私のイメージしてきたシルクロードやタクラマカン砂漠がものの見事に打ち砕かれる。シルクロードが日本に鮮明な映像付きで紹介されたのは、NHKの取材班がもたらした映像が初めてのことで、それは1980年のことだった。今は2017年、あれから37年も経っていて世界は大きく様変わりした。いくらそれをアタマでわかっていても、やはり当時の映像がもたらした印象は鮮烈で、悠久の時の流れの中で歩みを進めるラクダ隊商のイメージから逃れきれていない。そのアタマで目の前に展開される物流センターや高速道路の橋脚群、さらに建設中の新幹線の橋脚の間に在来線が入っていくところなど、自分がどこにいて何を求めているのか、まったく戸惑いを禁じえないのであった。列車はカシュガルに到着し、ここで向きを変えてウルムチを目指す。私はここで降りて市内を目指す。乗ってきた列車を外から見ると、外観はほとんど日本のブルー・トレイン24系客車と同じであって、クーラーの配置や形状までよく似ている。

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 さて、カシュガルの駅から外に出てまず感じたのは、ここは開かれた街だということだ。これまで巡ってきた他の町で常に感じた緊張感をほとんど感じない。旅人に開かれている。駅を降りてすぐにバス停の案内標識が出ている。こういう当たり前の設備があるかどうかで、その町が滞在しやすいかどうかがすぐわかる。案内に従って、駅前のロータリーを右から左に巻いて28路のバスを探していると、隣接する大通りの向こうのターミナルに「28」と表示のあるバスが入っていくのが見えた。いつの間にか集まってきた周囲のバックパッカーたちと「あれだあれだ」と指差しながら、そのターミナルの出口にほど近いバス停へ行って待つことにした。程なくそのバスがやってきて、問題なくカシュガルの老城区へGo !! やっと旅らしくなってきた。

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 この町を訪れるバック・パッカーならば大抵宿泊を検討するであろう旅情報の宝庫「喀什老城青年旅舎」へ、ほぼ団体御一行様状態で到着。大抵はドミトリーへ流れたが、私は長旅でもないし、ここでちょっと土産を買い込んで日本へ送るつもりでいたので、個室三泊をお願いした。ホータンへ着いてから、ずっと緊張のしっぱなしであったので、ここへきて疲れが出たことだし、出発前から不安のあった鼻と喉の状態が、砂のために悪化し続けていたことだし、今度の旅の中間地点にも到達したことだし、この先はタシュクルガンを経ていよいよパミールを越えんならんことだし、パキスタンへの国境越えをひかえて準備もせんなんことだし、明日は私の57回目の誕生日でもあることだし、まあ今夜はゆっくりしよかと、そこらでラグ麺を食べて、ビールとポテチ買ってきて飲んで良い気分で爆睡した。ああ平安。

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20170514 Yerkent

Uyghur-Pamir 2017.05.14.1 Yerkent

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 朝起きて階下に降りると昨日のねーちゃんが頑張っていて、笑顔で挨拶した。親しみついでに、漢字をつなぎ合わせ、身振り手振りを交えて、「今日夕方に列車でカシュガルへ発つのだが、いまチェック・アウトして荷物だけ預かってもらえるか」という意味のことをアピールしてみたら難なく通じた。全く問題ないという風で、むしろそのほうが部屋を早く掃除できるし、別に超過料金とったところで自分のポケットに入るわけじゃなし・・・とまあ、そんな暗黙の合意の笑みをかわして快く朝食をいただいた。まったく気持ちの良い対応だ。荷物を預けて外に出る。

 ヤルカンドの景観区以外の街中は、都会的で単調だ。歩道や車道が柵で取り囲まれ、大通りのほとんど全ての角に検問所があることはホータンと変わりない。ホータンでは、警察車両や軍の装甲車などの大掛かりな車列を組んでのけたたましい行進が頻繁に見られたが、ここはいたって静かだ。しかしそれは平穏を意味しているのではなく、より一層のアンダー・グラウンドな緊張感、殺気ともいえる程の何かを感じさせられるものだった。ケリヤの町では、国道の南北に広がる老城区を取り壊して開発が進められていたが、ここヤルカンドは町がそのような形になっておらず、町のはるか南方に位置する鉄道駅と市街地の間の田園地帯が開発されていた。町の北東部にある老城区は依然としてウイグル人たちのものであり、そこは非常に活気に満ちていた。これは、ケリヤやホータンのウイグル人居住区とその景観が、概ね漢人の開発の許に屈してしまったのとは対称的に、ヤルカンドのそれは、漢人の側から見れば未だ開発の途上、ウイグル人とのせめぎ合いの最中にあることを表しているようだった。昨日の漢人ガイドの「警察は外国人旅行者を見ると町から退去させる方針である」という言葉を思い出す。そう思うと、ケリヤやホータンの喧騒が、いわば漢人の凱旋歌のように思われてならない。

 ・・・などと考え事をしているうちに検問所に近づいた。「老城路」を東へ取ろうとしていた私は、ふと交差点の手前に地下歩道らしき入口があるのを見つけた。南疆にあっては、商業施設や交通ターミナルへの入口では保安検査がある。しかしそこで誰何されて身柄を拘束されることはない。そこはあくまで保安検査であり、検問とは異なるようだ。これを利用しない手はない。入口をよく見ると、どうやらその下は地下街である。「なるほどな・・・」とばかりに保安検査を受けてそこへ降りたのは正解だった。ヤルカンドには、「新城路」の一部と「老城路」の大部分を貫通する長い地下街が存在する。中は地上より賑わっていて、大阪の船場センタービルのような感じである。しかも重要なことに、地下街へ入ると、出るまでは、警察の検問を文字通り潜り抜けることができるのだ。賑わいはそのためだった。土産物はカシュガルで、と考えていたのだが、目の保養を兼ねて見物しがてら景観区への数ブロックをノーチェックで通過した。

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 景観区へ出ると、その内部は十分見たので、東の縁の路地に沿って北上し、バザールの本筋に合流する形で歩いて行った。ほとんどが生鮮食品と生活必需品ばかりなので、旅人に用のあるものはなかったのだが、楽器屋もいくつか見た。そこで値段も把握した。郊外から来るロバ車、土道から立ち上る砂ぼこり、機関銃のように飛び交うウイグル語、あちこちで展開される小競り合い、鼻をつく肉脂の匂い、整備不良車のエンジンオイルの焼ける匂い・・・ウイグルらしい活気に、やっと身を置くことができた。

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 どこをどう歩き回ったかよく覚えていないが、だいたい縦横に大通りで区切られているので迷うことはない。どうしてもわからなくなれば、拘束覚悟で検問所行きだ。そこで道を尋ねるくらいの度胸はできた。彼らは命までは取らない。昨日目星をつけた羊肉屋へ入ってみた。これがまったくの大当たり。麺の弾力は、おそらく讃岐うどんを凌ごうかというほど、太さは稲庭うどんより少し細め、玉ねぎ・ししとう・中国白菜・羊肉の炒めたものをトマトソースで絡めてある。おそらくパプリカのペーストも使われている。スパイスは黒胡椒・山椒・赤唐辛子・八角・クミン・ニンニクといったところか・・・ラグメンは、今のところほぼ全て10~15元 (約180~270円) 、いやこれは絶品でした。

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 途中小さなモスクをいくつか見つけたので、礼拝の時刻に合わせてその前で佇んでみたが、やはりアザーンは聞かれず、信者が入って行き、中からクルアーンの漏洩が聞こえるばかり、「アルトゥン・マザール」とその周辺へも何度も行ってみたが同じ。そのかわり老城区の中を散策している限り一度も検問には出会わず、ナンを買ったり羊挽肉の包子を食べたり、スイカで喉を潤したりしながら散策を楽しむことができた。ここは一種の治外法権状態で野放しされていた。

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 昨日より早く時間は過ぎて、17:57発のカシュガル行きの列車に乗るべく、16時ごろホテルに戻ったら、なんとまだ同じねーちゃんが頑張っていた。「疲れはないのか」と身振り手振りで聞いてみたがこれは通じなかった。そう、特に開発途上国といわれる国では、緊張して生きることは当然なので、弱音を吐くという場面をあまりみたことがない。そこでアプローチを変えて、ガッツ・ポーズで荷物を受け取り、別れを告げた。全くいいねーちゃんだった。9番のバスで鉄道駅へ向かった。私を連行して外出禁止を申し渡したのがウイグル人の警官、そしてそれを見逃して便宜を図ってくれたのが漢人のねーちゃん・・・旅は本当に色々あって、救われたり救われたりしながら少しずつ進む。時刻は夕方だが、ここでは昼過ぎといってよい。乾燥した灼熱の地、砂漠の中に忽然と都市が形成されているので、感覚が狂う。無駄に広大な敷地の真ん中に建つ、無駄に荘重な建物に、二回の厳重な保安検査を経て、なんとか無事にホームに這い上がった。慣れたとはいえ疲れる。もちろんライターは没収だ。

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2017年05月13日

20170513 Yerkent

Uyghur-Pamir 2017.05.13.4 Yerkent

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 日本人ツアーの添乗員とガイドに礼を述べて別れる。ツアー客は我々の会話を聞いても特に反応を示さなかった。典型的な「遺跡巡り玉石拾いツアー」のお客様なのだろう。しかし、それが最も安全で楽しい新疆の旅ということになりそうだ。さて、景観区を出て北方面へ歩きはじめる。表通りを避けて、なるべく裏路地を行く。アルトゥン王墓に入ると、美しく整備された庭の片隅から外に出られるようになっていて、当然私は出た。狭い路地を隔てて広大な墓地が広がっている。その傍らに、明らかに開発から取り残された老城区が路地から見下ろす形に広がっていて、周囲を高い壁に取り囲まれていた。その内部では、煮炊きをする家庭の気配、物音が立ち上っていてた。こういう緊張の町にあって、一種置き去りにされた楽園のような風情であった。

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 老城区は明らかによそ者を寄せ付けない風情であったので路地から眺める程度として、墓地に入った。中ではウイグル人のホームレスたちが穏やかに自活していた。廃墟となったモスクに住み着き、バザールで施しを受けて、それらを持ち寄って食いつないでいるようである。異国の闖入者である私を特に警戒するでもなく、虚ろで穏やかな目、中には視力の大半を失っていると思われる老人もいたが、特に話しかけられることもなく、こちらがにこやかであれば彼らもにこやかであった。お互いに何も持たないもの同士、私が廃墟となったモスクや廟の美しさに見とれていると、傍の木陰で私の姿をじっと見守っていた。互いに言葉がわからないので、黙って木陰の長椅子に腰掛け、ともに暮れかかる夕陽を浴びていた。

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 墓地を北東へ抜けるとバザールの真ん中だった。その通りの北詰めまで行った角に、実に美味そうな羊肉の匂いを漂わせたラグメン屋があったが、まだ腹が減ってなかったので、目星をつけただけで通過した。踵を返して、バザールのメイン・ストリートに沿って道なりに南下、一時間近く冷やかしながらそぞろ歩きをすると、団結路の東の端に出た。おそらくこれでヤルカンドの見所はほぼ把握し、使えるバス路線も見届けた。明日は集中的にこのエリアを歩くことにしよう・・・と決まると急に疲れが出て、軽い熱中症のような感じがあったので、人民公園の脇で休憩し、6番のバスが西の角を左折北上するのを見つけたので、その対向車線に来たバスに乗ってホテルに戻った。

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20170513 Yerkent

Uyghur-Pamir 2017.05.13.3 Yerkent

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 今回も殺気は全く感じなかった。むしろ彼らは片言の英語を話し、終始和やかだった。しかも、前回と違って、私を拘束した警官が一緒についてきた。検問ではなく、巡回中に外国人を見つけて拘束したからであろう。いろんな役割分担があるようだ。荷物の開封は要求されなかったし、一切の手荒な扱いも受けなかった。ただ今回は前回と違って、私の方が猛烈に不機嫌だった。なぜなら、わざわざホータンを早朝に出発して昼過ぎに着いたのは、「アルトゥン・マザール」でナクシュバーディというトルコ系スーフィズムの肉声のアザーンを聞くためだったからだ。その礼拝の時刻がせまっていた。身分は明かしてある。中国を尊重している。私は観光しているだけだ。だから早く解放してくれ。彼らは終始にこやかだったが、どうあってもその場では解放してくれなかった。護送車は、景観区の前を東西に走る「老城路」を西に走りはじめた。ほんの数分で警察署の敷地に入った。そこで二階に通され、前回同様の会議室のようなところで取り調べを受けた。それは、まったく意味のない型通りのものだった。路上で、ほんの数分で終わるものだ。なぜなら、パスポートの写真と私の顔を見比べ、リストに番号を書き写しただけだからである。そこで怒っても時間の無駄なので、私は急いで階下に降りようとした。すると、私を連行した三人の警官が、なんと私を拘束した場所まで送ると言う。・・・まあ当然でしょ・・・

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 ・・・で、14時前には私は元の場所にいた・・・そして礼拝が始まるのを待った。あるいは、もうアザーンは終わって、信者は中にいるのかもしれない。いずれにせよ、昼前後・午後・夕方と、あと三回アザーンは唱えられるはずだった。今日がダメなら、明日のカシュガル行きの列車が出る夕方までなら、早朝を含めて何度か聴くチャンスはあるはずだ。広場は閑散としている。よく晴れていて空気が焼け付くようだ。非常に静かで心は落ち着く・・・だが動きがない。人の気配とか、聖地ならどこにでもある喧騒が、全くないのだ。露店はおろか、広場を囲むアーケード街もほとんど営業していない。所々にある木陰に座り込んでいるウイグル人の老人がちらほら見えるだけだ。私はモスクの前に近づいて中をうかがった。やはり人の気配がなく、普通なら礼拝の時刻が記されているはずの掲示板もない。なんかおかしい。そこで、木陰で休んでいる老人たちのところへ行って、身振り手振りで礼拝はいつ始まるのか、と訊いてみた。彼らは怪訝な顔をした。私はモスクの屋上を指差し、そこから町中に呼びかけられるであろうアザーンの手真似をしてみた。すると、やっとこの異国の旅行者の意図を察したとみえたが、彼らは一斉に人差し指を口の前に立ててそれを横に振った。それは「そのことは喋るな」という意味にも、「アザーンは、ない」という意味にも取れた。私は訳が分からず、大きなモスクを指差して、どうなってるのか、というジェスチャをした。すると彼らは大きく腕で「X」印をしたのである。なんと、いずれにせよここにいても「アザーン」は聴けないらしい。落胆している私の心を察したのか、彼らは木立の脇にある小さなモスクへ私を導いてくれた。門をくぐってすぐにある長椅子に私を座らせると、中からイマームを呼んで来て、そこにいた信者とともに簡単な説法のようなものを聞かせてくれた。お互いに言葉がわからないので、十分に意図を探ることはできなかったが、おそらく入信あるいは導きの儀式の簡略なもの、あるいは祝福や道中の安全祈願のようなものをしてくれたようである。ともかく、儀式は終わって、和やかな空気の中でそこを後にした。

 外は灼熱だった。午後の日差しはより勢いを増していた。腹が減ったので、涼を求めて噴水の奥にあるレストランで昼食をとることにした。入口を入ると、階下と階上を分ける大仰な階段のあるホールになっていて、私には場違いなほど豪華な雰囲気だったが、中のねーちゃんが気さくに手招きするので、入って案内されたテーブルに着いた。メニューには英語も表記されていた。わりとこってりしたラグメンをいただいて、なんと珍しくコーヒーがあったのでストレートで頼んだら、そのまま飲むのがそんなに珍しいのか、出勤しているねーちゃんがほとんど全員出て来て珍しそうに眺めていた。コーヒー一杯が15元とラグメンと同じくらいの値段だ。味は・・・まあいわぬもがなだがインスタントではなかった。何人かは英語が話せたので、雑談などをしながら、さっきの「アザーン」のことを訊いてみた。彼女が言うには、最近になって、ここでの礼拝はなくなって商売も上がったりになった、このままでは私たちもクビになりそうなので、いま別の仕事を探している・・・ううむ、ここまで来て・・・そこで尋ねてみた。「この店でもいい、どこかでウイグルの音楽は聴けないのか ?? 」・・・すると彼女は首をすくめて、何もないという仕草をして見せた。・・・ううむ・・・確かに事前調査が足りなかったのは事実だが、ここまでなにもないとは・・・

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 とりあえず外へ出て、荷物を下ろすべく宿探しをする。事前調査で外国人宿泊可能なホテルは「喀什王后大店」だけだったが、それもポータルサイトにページがあるものの、なぜか予約ができなかった。とりあえずそれを目指して「老城路」を西へ歩きはじめた。景観区の広場の向かい側に、立派な「阿勒屯宾馆」というのがあった。目的とするエリアに隣接しているので、ここに泊まれれば万々歳なので大分ねばったのだが、頑として外国人は泊めてくれなかった。仕方なくさらに西へ大通りで1ブロック行くと「王后大店」があったのだが、なんと、玄関は閉鎖されており、中は荒れていて、つまり終わってた。こうなったら、あんまり気が進まんけど「莎青年旅舎」しかないので、とりあえずそちらを目指しながら、沿道の「酒店」・「店」・「宾馆」と名のつくもの片っ端から交渉した。「青年旅舎」との中間あたりに位置する、庭付きの広大な「莎车宾馆」もダメだった。あとは「青年旅舎」だけかと諦めつつそこへ辿り着いたら、なんとそこは先ほどお世話になった警察署の敷地内である。いややなあ・・・景観区まで遠いし、でもここしかないから尋ねるだけ尋ねてみよか・・・と入って行って訊いたら、なんとまさかの外国人お断り・・・お前らユースホステルちゃうのんか ?? 英語のわかるスタッフだったし、内にも外にも英語で「Welcome」て書いてあるのに、外国人お断り ?? なんども問いただしたが、相手は済まなさそうな顔をするばかりで全く埒があかない。仕方がないので、荷物を背負ったまま来た道を戻った。当て所なくぶらついても消耗するだけだし、列車の時刻は把握してるから、いざとなったら今夜中にカシュガルへ発つ覚悟で、ギリギリまで景観区周辺を散策することにした・・・しかし、どうにもやりにくい。

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 景観区はヤルカンドの町の北東側にあり、その南を東西に伸びる道を「老城路」といい、その大通りは、町の中心を境に西側を「新城路」といって名前が変わる。その道をとって返し、宿泊を断られたホテル群を横目に見つつあと1ブロックで景観区というところで、またしても検問に引っかかってしまった。しかも同じ「特警」である。私は「さっき捕まってお前らのボスに会って来たところだ」などと身振り手振りで説明しようとしたが、今度の警官は英語も漢字も全くダメで、上司に携帯電話で問い合わせているようだった。やはりお迎えが来るようで、またしても俺の時間を無駄にするつもりらしい。なんでそう邪魔ばっかりするかねアンタらは・・・ところが今度は護送車が到着してから、私の身柄をどうするかをめぐってかなりの時間やりとりが行われ、やがて出発した頃には陽が傾きはじめていた。やれやれ・・・しかしこれ以上時間を浪費しないためには、彼らに従う以外にない。これでこの町を叩き出されたとしても、まあ駅まで行く時間と労力が省かれたと思えばよかろう。ところが、警察署へ連行されるとの予想に反して、護送車は「老城路」を外れて南下し、大通りで一本南の「団結路」を西へ向かった。そして、なんと「速8酒店」という、ビジネス・ホテルのチェーン店の前で止まり、一人の警官がご親切にも私を案内して中に入った。そして私に代わって宿泊手続きをし、さらに携帯電話で上司とやりとりしてから、肩をポンと叩いて握手を求め、快活な笑顔で去って行った。レセプションのねーちゃんに訊くと、「こいつを外へ出すな」と言われたらしい。でもこうなってしまった以上しかたがない。またしても大枚280元 (約5,000円) を支払って荷物を部屋に入れた。しばらく横になって休んだが、こんなところでじっとしていたも、本当に仕方がないので、ダメもとで階下に降りてみた。レセプションへ行ってため息をついて見せると、さっきのねーちゃんはにこやかに手振りで「鍵を渡しなさい」という仕草をした。代わりにホテルの名刺と簡単な周辺地図を書いたカードを渡してくれた。またしても話のわかる漢人のねーちゃんに救われた。しかし遠いのだ。しかも無駄に高い。

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 時間は無駄にできない。とにかく景観区へ戻り、「アザーン」が聴けるかどうか、ダメでもその北東側に広がるウイグル人居住区の散策を少しでもやっておきたいと思って道を急いだ。景観区は依然として静かだった。少し涼しくなったからと見え、何軒かの食料品店が開いていたので水を買うついでに、モスクを指さして、身振りでどうなってるのかと訊いてみたが、やはり彼らは首をすくめるばかり。どうやらここでいくら頑張ってみても「アザーン」は聴けないようである。そこへ、なんと日本人観光客のグループが通りかかった。日本人の添乗員に引率され、日本語の話せる漢人のガイドがついていた。チャンスとばかり、許しを得てガイドに訊いてみると、悪い予感が的中した。彼が言うには、なんと数ヶ月前に政府からお達しがあって、中国国内のすべてのイスラム寺院における「アザーン」、すなわち礼拝を知らせる呼びかけが禁止されたと言うのである。なぜなら、信仰は個人の問題であって、それを他人に知らせることは信仰の自由の中立性が損なわれるからだそうだ。怒りを抑えてさらに訊いてみた。ここヤルカンドの町で外国人が宿泊できるところはなく、警察は外国人旅行者を見ると町から退去させる方針である、と・・・私が「速8酒店」に宿泊できたのは、その警官の特別な計らいでできたことであって、非常にラッキーなことだと・・・事実、それが故に彼らも今夜はホータンまで行って宿泊するとのことだった。で、さらに音楽のことについて尋ねてみたのだが、結局、中国政府はウイグル人がなんらかの機会に団結することを非常に恐れているので、基本的に彼らが集まることを許可しない。すなわち個人的なもの以外は、集まって音楽に興じるなどの会合はできない。音楽を聴きたければ、個人的に手を回してミュージシャンを呼ぶか、ツアーに参加して、許可を得た会合の場に出席するしかない、と・・・ダメだこりゃ。

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Uyghur-Pamir 2017.05.13.2 Yerkent

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 シルクロードの歴史の好きな人には「ヤルカンド」という日本語が定着しているが、現地では中国語で「莎」(Shāchē、シャーチェーと聞こえる) 、ウイグル語で「يەكەن」(Yerkent、人によって発音は異なり、主にイェケン・イェルケントゥ・ヤーケンなどと聞こえる)。「莎」は、漢の時代にこの付近に存在したオアシス都市国家の名前で、漢に服属したり背いたりしていたが、やがて西方の疏勒 (現在のカシュガルを中心としたオアシス都市国家) に服属するようになる。以後、この国名は歴史に浮上しない。漢人は、いまもこの街をイスラム以前の名称で呼んでおり、たとえば鉄道の切符を買う際などには、この名前を使わないと通じない。一方、「ヤルカンド」は、主に16-17世紀にこの地に存在したハン国の名称で、トルキスタンに於けるスーフィズムの発生と展開に大きな役割を果たしている。この街もケリヤと並んで、中国人とウイグル人の間で呼び名も意味するものも全く異なる街であるが、特にこの街は、イスラムの歴史を避けて通ろうとする漢人的感覚と、尊重するウイグル人的感覚の対立が顕著に表れている。中国政府は日本に対して「歴史を直視しろ」と言うが、おのれの裏庭では、直視どころか歴史も文化も破壊し葬り去る暴挙を繰り返している。現在進行形のその有様を、短いこの街の滞在中に垣間見ることになった。

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 南疆では、私は地区の大都市であるホータンよりもケリヤとヤルカンドを重視していた。ケリヤへの訪問は幻のダリアブイに少しでも近づきたいがために、そしてヤルカンドはウイグル人の音楽的ルーツである「ムカーム」に少しでも近づきたいがためだった。ホータンを早朝の一番列車で発ったのは、ヤルカンドの最も大きなモスクでの午後の礼拝に間にあわせるためであった。礼拝の前には必ず「アザーン」という呼びかけの声が聞かれる。これは宗派によって、また流派によって異なり、特にヤルカンドの「アルトゥン・マザール」では、他ではあまり聞けないナクシュバーディというトルコ系スーフィズムの流れを汲む流派の肉声のアザーンを聞くことができる。それを主眼に、ムカームの都といわしめるこの街で、そんな一風景にでも出会えたらと期待したのであった。

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 駅を降りてすぐ前の広場にいくつかの系統のバスが止まっていたが、アルトゥン・マザールへ行くにはどれに乗るべきかわからなかったので、声をかけて来たタクシーの運ちゃんに頼んだ。するとこいつが非常によくわかってくれて、まさにどんぴしゃの場所で私を降ろしてくれたのである。交差点の北側に公園が広がっていて、そこは歩行者天国になっていた。実に美しく整備された観光名所である。見事なイスラム建築に囲まれた一角は、規模こそ違え、ウズベキスタンのレギスタン広場を彷彿とさせる。サタールを弾く女性の彫像のたもとに英語で説明があったので、「Welcome…」から読みはじめたところで、肩をポンポンと叩く者があった。振り返ると、黒い制服姿の「特警」三人に取り囲まれて御用となった。ケリヤのテーマパークと全く同じパターンである。あんたらウェルカムなのかそうじゃないのか・・・まあそんなこと言うてもしゃーないんで、おとなしく護送車に乗せられて警察署へ Go !! (;_;)

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20170513 Hotan-Yerkent

Uyghur-Pamir 2017.05.13.1 Hotan_Yerkent

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 朝8:30の列車に乗るため7:30には駅に着いておきたいので、6:30には起きてホテルを出た。北京時間の6:30なので真っ暗で、タクシーを見つけるまでは焦った。ドライバーは漢字が読めないので、トルコ語で「エスタシォニ」と言ってみたが通じない。列車・鉄道・線路など、思いつく限りの単語を並べてみたがよくわからないみたいなので、地図を出してとにかくここへ行けと言ったらようやく車を出した。距離的には20分もあれば着くはずだったが、旅人の私からみても明らかに不案内で、通行人に訊きながら小一時間近く遠回りして、ようやく駅に着いた。まあその間朝まだきの街を観光できたと思えばいいか・・・時間がかかったのはお前が道に迷っていたせいなのに、長い距離を走ったからと多めに請求された。早朝だし選択の余地なかったんで、まあええか、と、なんか弱気になっとる。とにかく生きて返してくれたらええ・・・

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 駅の敷地に入った頃に夜が明けはじめた。ホータン駅の保安検査はウルムチ空港並みに厳しく、しかも手際が悪かった。下ッ端゜のウイグル人が流れ作業的に荷物をと身体を検査していくのだが、後ろで見ている漢人の上役らしき職員が、なんの脈絡もなく作業に割り込んで来て荷物を引っ掻き回し、イライラして罵詈雑言をウイグル人職員に浴びせ倒して立ち去る。私はあまりの振る舞いに肩をすくめて見せると、職員のウイグルねーちゃんが目をソーメンみたいに細めて「処置なし」という仕草をしてお互いに笑い合った。あんたらも大変やねえ・・・

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 保安検査そのものは、乗客同士の友好関係、つまり検査のために入り混じってしまった客の持ち物を、自発的に元の所有者に戻す根気のいる作業を協力してやったおかげで問題なく終了したのだが、その頃には発車時刻が迫っていた。しかし待合室に動きはなく、乗客はそれからかなり待たされることになる。

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 中国の鉄道職員はほとんど漢人が就いているが、例外なく極めて高圧的で、乗客に対して軍隊的に上から怒鳴り散らし、行列を作らせ、号令までかけて一糸乱れぬ行動を要求する。ウイグル人でなくても行列が苦手、特に私は幼少の頃からそのような行為に対してムラムラと反感が湧いてくるタチなので、ことあるごとに持ち場から離れて熱湯を汲みに行ったり、用を足しに行ったり、列車の写真を撮ったりして奴らに仕事を与えてやった。どうせ奴らには何もできないのだ。切符はあるし目の前に列車は止まってる。待合室の外は保安検査でごった返してる。

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 そんなわけで、鉄道に乗れば車両から車両へ、どんな等級のどんな設備か冷やかして歩きたいのに、一両ごとに鍵がかかっていて一人ずつ車掌が頑張ってるから、連結部へ行くことすらままならない。仕方がないので言葉の通じないウイグル人たちに混じって、過ぎ行く単調な風景を眺めていた。しかし一時間もしないうちに目や喉に異変を感じた。砂である。強烈な砂だ。暑くてたまらないが、窓を開けるなんてとんでもない。窓の密閉が不十分なのと、空調車両ではないので送風系が開放されているのであろう、天井のダクトからも砂が舞ってくる。ただでさえ人いきれで暑いところへ、目も開けていられないほどの砂埃、マスクなど到底役に立たず、水で濡らしたタオルをあてがってようやく息をつける状態である。乗客の多くも布やスカーフを口に当てている。初めての中国鉄道の旅は、こうして目や喉をやられながらの苦難の旅路となった。

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 皮山を過ぎたあたりから、砂嵐の深い砂漠を乗り越えたと見えて、風景に緑が広がり、客も一息つき、やがて窓を開けられるほどに外気も澄んできた。子供達は忍耐強く座っていたが、周りの気が緩みはじめるのをみて一斉に駄々をこねはじめた。たった一人言葉もなく座っている外国人の私に興味津々で、お菓子やおもちゃを持ってアプローチしてくる。なかでも丸坊主になったウイグル人の女の子は、どうしても私の膝に乗りたくて、でも恥ずかしくて出来ないようで、お母さんとともにその仕草を見て大笑いした。ウイグル人の女の子は、子供の頃に一旦丸坊主にされる。そうすると、新しく美しい髪の毛が生えてくるからだという。そんな風にして、ホータンからヤルカンドまでの4時間ほどの鉄道の旅の後半は、なんとか楽しいものとなった。

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2017年05月12日

20170512 Hotan

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 ホータンでの宿泊は、かねて調べておいた「和田塔西那宾馆 (Taxina Hotel) 」である。これまた外国人用の無駄にゴージャスなホテルなのだが、スタッフが英語の話せるウイグル人とのことだったので候補に挙げてあった。ホータンの町は、ケリヤより明らかに緊張度が高く、ザックを背負ったまま再び御用は御免被りたかったので、とっととチェック・インした。ここはおそらくウイグル人の家族経営なのだろうが、実際にレセプションを仕切っている息子たちは皆英語を話せる。しかも、そろって久しぶりにケツのアナが疼くほど美形なのだ。もうそれだけで、わざわざホータンまで飛んで来てここに宿泊する価値がありまっせ。顔立ちは明らかにトルコ系、色白に切れ長の目と彫りの深い顔立ちは最低限のスペックとして、不思議によく光る瞳・・・も、やめとこ。ぜひ見に行ってください後悔しませんから・・・

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 明日早朝にはホータン駅から列車で出発するので、実質ホータン観光は半日である。なんかねえ、もうほぼ見当がついたというか、見えたというか、興が冷めてしまったというか・・・どうせ中国政府の圧政を見せつけられるんでしょ、そのなかで自分の旅をどうするかってことよね・・・くらいに考えてたら、ホータンの街では、もっとえげつない警察車両のデモンストレーション走行とか、各交差点の検問所に待機する装甲車が発し続けるサイレンの音とか、横断歩道があるのに柵で遮られた交差点とか、さらにきつい、何人といえども一歩たりとも自由には歩かせまいとするかのような、四角四面の行動規制が現実のものとして目の前に文字通り立ちふさがってくる。そのなかで自分の旅をどうするかってことは、要するにそれらの関門をいかにすり抜けて先へ進むかという、極めて現実的で具体的な行動とならざるを得ない。ゆきずりの旅人である私でさえ、道を進むために地下に潜らざるを得ないようなこの街で、そこに住むウイグル人たちが地下に潜伏しようとするのは、あまりにも当然のことではないだろうか。そうせざるを得ないのに、その暗闇の袋小路にまで中国の警察は、それも同朋であるウイグル人たちを使って、殴りこみにかかってくるのだ。ここでも検問所で拘束されているウイグル人を多く見た。連行されるためにワゴン車に乗せられる際に激しく抵抗する者、それを棍棒で叩きのめすウイグル人警官、血まみれのシャツ・・・日常的にこのような光景が路上で繰り広げられ、市民の感覚は麻痺しているに違いない。その脇を、まるで何事も起こっていないかのように平然と人々は通行しているからだ。治安は保たれている。

 ホータンでもウイグル人居住区は囲い込まれており、いくつか外界へ通じるゲートがあって、そこには自動改札機のような装置が設置されていて、飛び越え防止用の鉄柵で覆われている。中国人民のIDカードがないと、ここを通過することはできない。おそらくは、そのICチップに民族識別データが記録されていて、特定の民族のコードを持つ者しか通過できないのであろう。ゲートには検問所もあって、改札口を通過した者は保安検査を受けるようになっている。もちろん私のパスポートではここを通過することはできないし、そもそも、いくらウイグル帽などかぶっていても、彼らの目には明らかに日本人なので、ゲートに近づいただけて追い払われる。カメラなど取り出そうものなら・・・

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 しかたなく壁の周りを回ってみることにした。主に納瓦格路の北側に広がる煉瓦色の老城区だ。大通りに面しては路面店が連なっていて、ウイグル人の商店が軒を連ねている。その裏にたいてい細い路地があって、その内側に壁が続いており、所々にゲートがある。路地は石畳であることが多く、ロバ車や三輪トラックなどが繁く行き交っている。もしそこが無人なら、世界の路地裏安全旅行者の常識としては、絶対に立ち入ってはならぬ通りである。表通りから裏路地へ通じる通路はいくつかあって、その中には警備の手薄なところもあり、中にはその奥の居住区へ通じている屋台の軒下などもある。角でナンを焼いている竃があったので、そこで焼きたてを一つ買って、歩きながら何食わぬ顔でその区画へ入り込んでみた。そこは小さなマーケットになっていて、表通りでは賄えない、日常の野菜や肉などが売られていて、非常に混み合ってにぎやかであった。しかし、その奥を見ると、やはりそこには壁があって、黒い制服がチラホラしていたので、迷惑がかかることを懸念して早々にそこを出た。やはり手強い街だ。ここではウイグル人たちが、その居住区を出て、外側で商売をしている店やバザールを冷やかして歩くか、大枚な代金を支払って、現地旅行社が企画する遺跡巡り玉石拾いツアーに参加するのが吉であろう。団体に属している限り、検問も身柄拘束もない。

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 いくつか下調べをしておいたレストランが全てなくなっていたので、まあそこそこ手頃で繁盛していそうな店でプロフを食べてホテルに戻ることにした。納瓦格路を東にとって文化路まで行き、そこから国際バザールを経てホテルに戻るつもりで歩きはじめたが、早くも検問中の交差点が間近にある。ちょっと考えて傍にいたバイク・タクシーに「バザール ?? 」と声をかけてみると頭を傾げて「乗れ」と合図するのでそれに乗って複数の検問をワープした。抜け道はいくらでもある。文化路と国際バザールの間に、暗くなってきたのでちょっと分かりにくかったが、肉を焼く煙の立ち上るにぎやかな老城区が広がっていた。そこのゲートは無人であり自動改札機も開いていた。苦もなくそこに入り込んで、様々な屋台を見て歩いたが、残念なことに先ほど脂っこくて重いプロフを食べたところなので、食指が動かなかった・・・

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 ・・・と、そこを出たあたりから、なんだか下腹の調子がおかしくなってきた。さっきの脂か・・・ウズベキスタンでもプロフを食べて下した経験がある。そのときは屋台で食べたので、それ以後、日程のタイトな旅では屋台には手を出さないようにしている。レストランなら大丈夫だろうと思ったが甘かったか・・・目測でホテルまで5分ほど、二、三の辻を越えれば到達できるので、通常なら我慢できない距離ではない。腹具合もさほど切羽詰まってはいなかった。ただこういう時に検問の列に並ばせられると厄介である。幸い夜になると人通りが減り、北京時間の5時 (新疆時間では昼過ぎ) を過ぎると検問も少なくなるので、二つの交差点は無事に通過できたが、そこらあたりでおかしくなってきた。やばい。辺りを見回し、グローブトロッターの第六感をフル稼働して、便所、あるいは排便できる暗がりを探した。角にある元映画館のような崩れかけた建物と建物の間に路地がある。そこから男が出てきたのを見て、その奥に公衆便所があると睨んだ。今から思うと、こんなところに公衆便所があるなどと睨んだ自分もおめでたいが、とにかくその奥の真っ暗闇に導かれるように、立て込んだ危険な暗がりの軒下を伝って、なんと地元の市場の共同便所のような代物を見つけたのである。ライトで照らしてみると、それはもう照らさないほうがよく、ここに書くこともはばかられるような状態だったのだが、それでも切羽詰まった自分には花園に見えたものだ。下腹を解放すると何事もなかったかのように体調が回復するのは、全くおめでたいかぎりであって、ここにまことにめでたくチリほどの粗相もなく用を済ませた。私が心からの感謝を込めて、汚物には直接手を触れない程度に、日本人のたしなみとして、そこを清掃させていただいたのはいうまでもない。建物から出る途中で、やはり切羽詰まったと思われる男一人とすれ違った。互いに苦笑みを交わして私はそこを出た。

 こうして夕刻から日が暮れるまで、より強固な鉄条網で隔離されたウイグル人居住区を中心に・・・なんというか、楽しい観光旅行とは相反する現実ばかりを見せつけられて、とても音楽を求める気分とか料理を味わうゆとりとか、そんな旅気分などふっとんでしまってはいたが、出歩いては捕まり、捕まっては続きを歩くということを繰り返しながら、町の概ね東半分を歩き回った。

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20170512 Kerya-Hotan

Uyghur-Pamir 2017.05.12.2 Kerya_Hotan


 ケリヤからホータンへのドライブは、今回の旅において核心的な経験になった。同乗者は二人の中国人だった。ウルムチ在住の青年実業家で、年齢は30代と思われ、一人は英語を流暢に話した。二人とも、元々は中国内陸部の出身で、新疆ウイグル自治区へ来たのは、御多分に洩れず西部開拓事業の旨味を知って一旗あげようとしたのである。初めは労働者として、そして機会をうかがい人間関係を広げて手配師に、そして元締めとなり、いまでは数百人規模で内陸の中国人労働者を工事現場に送り込み、それをベースにして、そこで開発されていく商業施設や工場などの従業員の人材派遣の可能性を伺っているという。今回もケリヤで建設されている大規模な集合住宅の管理・・・実は、彼の専門が建築であるので、元々は建築管理の業務委託を狙っていたのだがチャンスを逃してしまい、それなら住民の管理を引き受けるサービスを始めようと提案したら、意外とデベロッパーが乗って来たという・・・そういう意味での不動産管理サービスは、まだ中国では浸透しておらず、新しいビジネス・チャンスに繋げようとしているとのことだった。そして彼は言った。「この手法は日本の人材派遣業者のノウハウを参考にした。」そのとおりだ。私も20年ほど前まではその世界にいたからよく知っている。そこで話は大いに盛り上がり、彼のビジネス手法の詳細について、かなり突っ込んだ意見交換となった。彼の父上と私が同じ年だということも話題に花を添えた。同じ年の中国人と、私は心から話をしてみたい。

 ところで、中国では個人事業者が業務を請け負う場合の法的要件が日本ほど整備されていないらしく、法人格で受注しているか個人の資格で委託されているかの区別が曖昧である。したがって、日本ではキャリアを積めば積むほど、個人の資格での仕事の受注がやりにくくなる。なぜならそれは「職歴」に分類されてしまうので、組織人間を重視する日本社会では、逆に評価が下がってしまうからだ。しかし中国ではその区別が曖昧なので、仕事を受注すればするほど、しかも成功裏に納めれば納めるほど評価が上がる。これは欧米的な個人評価と通じるものがある。彼も非常に身軽に「事業」を起こし、それを発展させてキャリアを積み上げている。タクラマカン砂漠周辺の景気は落ち着いて来ているので、次はウルムチから西北へ、つまりカザフスタンから天山北路への進出を狙っているという。そこからアゼルバイジャンを通じて東欧へのルートは比較的安定しているし、万博が実現すれば、さらに大きなビジネス・チャンスになると夢を膨らませていた。

 30年前の私を思い出す。日本も当時、まだバブルが弾けたかどうか、まだ可能性を残した雰囲気の中で私は3年勤めた会社を退職してフリーになった。以来、食品業界の市場開拓と販売促進企画、人材派遣をセットにした新しいビジネスのあり方を、広告業界の中で試していくことになる。しかしそれは市場が拡大し続けることを前提としていたので、景気の悪化とともにあちこちで手詰まりとなり、やがてリーマン・ショックで壊滅的な打撃を受け、起死回生の努力もむなしく、業界の専門家集団を自負していた我々は、労働者派遣業界との間で繰り広げられた猛烈な価格競争に惨敗した苦い経験を持っている。それはまるで、匕首で互いの喉元を斬り合うようなものだった。いまではかつての同業者は、もはや時給に換算すれば最低賃金にも遠く及ばないような低価格で仕事を切り売りせざるを得ない状態だ。

 それはさておき、小日本がビジネスの上で飽和することは想像に容易い。しかし、彼はタクラマカン砂漠の果てしない広がりを前にして、中国がビジネスの上で飽和することを全く想像できないようだった。「想像したくもないよな」これは同時に口をついて出た言葉である。ビジネスが手詰まりになったときどうするか・・・これについては彼はあまり考えていなかった。30年前の私がそうであったように・・・そしていまやモバイルの時代、タクラマカン砂漠の真ん中でもインターネットが通じる。もちろん彼は信用できるVPN接続業者と契約していて、安定したネット環境を手に入れている。Facebookはもちろん、ビジネス上のやりとり、決済に至るまで、すべてiPhoneで賄う。日常的な買い物の支払いも、なんと友人同士のちょっとした金のやり取りまでもが、iPhoneを軽く触れ合わせるだけでできてしまう。インターネット決済の世界では、中国は日本よりはるかに先を行っている。インターネットに対して非常に慎重で、スマホはおろかガラケーもプリペイド、今回の旅でも端末は持参しているもののSIMは買ってないという状態で旅を続ける私を、ドライバーのウイグル人までが奇異の目で見ていた。そう、彼らから見れば、私はなにも知らずに旅をしているようなものである。例えばある中国人が、親切に私に道を教えてくれようとする。スマホで検索して道順を出し、それを日本語に翻訳して「はい、あなたのモバイル出して」と訊かれて初めて戸惑う。慌ててメモを出して書き写す私に呆れかえる彼らの目・・・いま、中国は、便利さのためならリスクを顧みない風潮があって、それが何十億と積み重なり巨大なバブルとなって中国全土を切り開いているのではないかと見える。少なくとも新疆においては・・・

 「ここは好きか」と彼に尋ねてみた。「大嫌いだ」と言う。なぜというに、暑いし砂埃がひどいし、(声を潜めて) ウイグル人は使えないし・・・「しかしビジネスは良い」・・・この後、ドライバーのウイグル人に配慮して、対話はモバイル筆談になった。要約すると、ウルムチと違って、南疆のウイグル人は、中国語を必要最小限しか話せないし聞き取れない。ましてや漢字の読み書きはほとんど不可能・・・ここで初めて私は、これまで出会ったウイグル人に漢字で筆談を求めた時の彼らの反応を理解した・・・したがって作業の指示を出してもほとんど理解されない。そのくせプライドが高く過ちを認めない。漢人はウイグル人を差別しているのではなく、ビジネスの場面においてパートナーになり得ないから組まないだけだというのだ。彼にとって、ここはただの仕事場だ。

 もちろん、これには歴史的にも政治的にも経済的にも、非常に複雑な問題があって、当然それを彼も理解していた。しかし彼にもどうしようもない。彼はビジネスマンなのだ。この地は、漢の時代から、中国やそのほかの主に遊牧騎馬民族勢力の攻防の場であり、即ちそれは商業の利をめぐるものだった。現在もその一局面に過ぎず、この地に暮らす少数民族は歴史的事実として、絶え間無く入れ替わる他民族の支配を受け続けて来た。歴代の中国王朝はその一つだったに過ぎない。と、彼はこういう歴史認識を持っている。それについては、ほぼ大筋で私の認識と共通する。

 しかし意見が分かれるのはそこからだ。つまり、彼は彼自身のビジネスのために、新疆が開発されることは善悪の問題ではなく前提条件なのだ。したがって、新彊のウイグル人の音楽や文化を体験するために来た私の立場とは大きく異なる。彼に言わせれば、ウイグルの文化は一定のショウケースとして保存されざるを得ず、観光客はそこを訪れれば良い、ということになり、一人で街をうろちょろする外国人の存在を理解できない。しかし・・・と、彼も日本人と直接話すのは初めてで、日本人の友人もない。中国と日本は政治体制も異なるし、ふたりの立場も歩んで来た人生も何もかも違うことは理解していた。ほんの一時間ほど前に同じ車に乗り合わせただけなのだ。しかし、我々は友人同士になれる。なぜならお互いよくわからないことが多すぎるし、まったく相反する常識を持っていたりするが、それを認め合って互いを尊重することは、ビジネスであれ旅行であれ互いの利益になるはずだから・・・と。

 いや、いいやつですよ。中国人については私もよくわからなかったのだが、個人レベルでは、ほとんどが良い人たちだと思う。そうでないと、戦争で孤児になった日本人を中国人が助けて育ててくれたりするはずがない。私はそう信じたい。そのうえで、私たちは非常に微妙な問題にまで立ち入ってかなりの間話し込んだ。聞かれてまずい場合は筆談で、しかし多くの問題で互いの意見の一致を見、我々が直接知らない、報道などで間接的に知る事柄の不確実さについて認識を共有した。

 例えば、日本でいう尖閣諸島の問題も、世間が騒ぎはじめるまでは誰も気にしてもいなかったし、騒いだところで相手にもされなかっただろう、それは数年前に「一帯一路」と称して政府が経済連携構想を打ち出してからの話だ、すくなくとも人の口の端に登るようになったのはその頃だという。では、おたがいつっこんで、尖閣諸島はどちらの領土だと思うか・・・と、この際だから恨みっこなしで訊いてみた。「わからない」と彼は答えた。正直な人だ。わたしにも「わからない」ことだ。

 もう一つ、お互いが対話の中で避けて通って来た話題がある。これも恨みっこなしだ。今度は私から本音を言ってみた。「南京大虐殺はあったと思うか、なかったと思うか・・・これも私にはわからない」と・・・つまり、私はこう述べた。あったかも知れないし、なかったかも知れない。歴史学的に議論のある問題について、その場に居合わせなかった者同士が、あったかなかったかについて対立することはナンセンスだ。あったとする人間は、日本人の残虐性を主張してその証拠を並べる。なかったとする人間は、日本軍の規律正しさを主張してその証拠を並べる。私はどちらも真実だと思う。規律正しく心優しい日本軍は現地人に感謝され尊敬されただろうが、戦争という非常事態にあって、心の平静を失い残虐行為に落ちて行った日本の軍人もあったはずだ。私は、この問題は、あったか、なかったか、という議論ではなく、あったという人間が、または、なかったという人間が、そう主張することで何を企んでいるのか、ということのほうが問題だ・・・と。うまく英語で伝えられたかどうかは微妙だったが、彼は考え込んでしまった。でも、初めに「ありがとう。よく言ってくれた」と言ってくれたことにはホッとした。彼は教育の中で、南京大虐殺を歴史的事実として教え込まれていたし、なにより中国が日本軍に占領されていたことは事実だからだ。そこで何が起こっていたかなど、当時の一般的な日本国民が知らなかったとはいえ、戦争という状況で何事もなかったと考える方が不自然だ。それを思うとき、日本人の子孫として、中国人の子孫に対して、申し訳ないという気持ちが起こるのは当然だと私は言い、彼もそれを受け入れてくれた。そして、戦争という状態は、どんな国民であっても、人間を勝者と敗者に分けざるを得ず、そうすると必ず不幸な事態を招く、と私は言ったが、ふと漢人とウイグル人の関係に思い至って、二人とも口をつぐんだ。おそらく彼も同じことに気がついたのだろう。

 タクシー・ドライバーは若くて快活な男だった。ケリヤからホータンまでの180kmほどの道のりを、休憩もせずに2時間半ほどでぶっ飛ばし、我々は北京時間では夕刻に近い真昼間の15時過ぎにホータンの東郊客运站に到着した。彼との対話はそこで途切れた。私は日本円を人民元に両替する必要があった。彼は熟知しているホータンの街で私を導き、顔なじみの中国銀行のセキュリティをフリーパスで通り抜けて、重役室から中国元の札束を持って来て直接両替した。そして、私があたりをつけておいたウイグル人経営の大きなホテルまでわざわざ道案内してくれ、夕刻のウルムチ行きのフライトに乗るべくタクシーを捕まえて空港へ去って行った。

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20170512 Kerya

Uyghur-Pamir 2017.05.12.1 Kerya

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 いろいろあったが望みの街でとりあえず一泊、中国のホテルのシステムはちょっと変わっていて、宿泊料の数倍程度のデポジットを「押金」といってチェック・インの際に支払わなければならない。これはチェック・アウト時に、ホテル側が部屋を点検して、粗相やミニバーなどから消費したものがあれば差し引く仕組みだ。したがって、一様にチェック・アウトに時間がかかる。中国のホテルには必ずといってよいほど部屋に湯沸しポットがあって、いつでも熱い茶を飲むことができる。ホテルだけでなく、駅や列車、バスターミナルなど、旅行者が必要とする場所に大抵熱湯を供給してくれる設備があって、しかも無料である。これは世界的にも珍しい。私は夜のうちに近所のスーパーへ行って、なかなかしっかりした保温ボトルを買った。これには、取り外しのできる茶漉しがついていて、店のねーちゃんが言うには、これは中国では当たり前のことで、中に茶葉を入れて、そこらで湯を注ぐと、大変旅行は楽しいものになるといって、店にある茶葉をいろいろ勧めてくれた。そこで薄荷茶 (ミントティー) と砂糖を買って部屋でじんわりと温まってみた。ねーちゃんの言う通り、これは、その後の中国の旅で何度も繰り返された職務質問や身柄拘束に耐える心の杖となった。

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 さて早朝にケリヤの街を散歩してみる。昨日拘束された一角に行ってみると、なにやら人だかりがあって、何台かのワンボックスのワゴン車にウイグル人が群がっている。日雇人夫の寄せ場とみた。漢人の手配師と思われる人相の悪い男たちがたむろしていて、私を認めると手で追い払う仕草をする。やがて警官が数人駆け寄ってきたので、私はそれを避けて手前の路地へ入った。そこは、テーマパークのようになったエリアの内部へ通じており、なんと検問所は無人だった。その後わかったことだが、検問所は、北京時間の9時前は無人であることが多い。こうして、昨日時間切れで彷徨い損ねたケリヤ北側のウイグル人旧市街を、存分に散策することができた。この風情は、全く涙の出るほど貴重な体験だった。そこは「尔班小鎮 (Kurban Town) 」という名の区画であった。むろん尔班」とは、ホータンの団結広場にあった、例の毛沢東と握手をしている像の主である。彼がケリヤ出身であるため、この街にウイグル人居住区の風情をテーマ・パーク化するにあたって、その象徴しとして名付けられたものと見える。

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 中国政府がケリアにおいて、伝統的な旧市街である「老城区」のどの区画を保存し、どの区画を再開発するのかは明確にされていて、現地のウイグル人たちはそれに従うしかないようだった。そのまま自分たちの勝手にはさせてはくれないのだ。「平安家庭」と題された表札が入口に掲げられた家があって、おそらく主人の顔写真とともに、政府からの許可証と思われる銘板や文書が掲示されている。いわば文化財として保護するという名目で、ケリアの場合、却ってこれらを過剰装飾し、テーマパークのように美しく設えて、「景観区」のような観光資源にしようとしているかのようだった。その有様は、チベットのラサのポタラ宮の前に派手に遊園地を建設した中国的なセンスに通じるものが感じられる。しかし、それでもなお、ここにはウイグルの「血」がひしひしと感じられたのである。整備された景観区においても様式の中に彼らの美的感覚が詰め込まれていたし、そこから外れた村の佇まいにも、もちろんポプラや胡の並木道を行くロバの荷車の軋む音にさえ、つまり麦畑から土壁、天空を舞う細かい砂塵、要するにそこにある全てがウイグルだった。私はその中に埋もれていた。その匂いや音や光は、全く私の感性と共鳴して揺さぶった。羊の皮下脂肪のようにこってりと分厚く濃厚なものだった。これほど確かで確固として変えがたいものでも、中国という力は、これを侵食し尽くして飼いならすのであろうか。長い歴史の中でもアイデンティティを失わなかったウイグルは、これだけの残り香を持ちながらも、中国と慣れ親しんで取り込まれていくのであろうか。それが歴史的必然という大きな流れなのだろうか、それは幸せなことなのだろうか・・・私一人の胸の内を語ったところでどうしようもない、非力な自分が、蚊の泣くよりもか細い声で、「時よとまれ、美しい」と叫んでみたところで何にらなる ?? あまりのことに、ただただ戸惑うばかりであった。

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 ホテルに戻って朝食バイキングをいただいた後、今度はケリヤ川へ行くことにした。通りを東へ向かうバイク・タクシーに頼んでみたが、誰も乗せてくれないので、仕方なく歩くことにした。町外れに検問所があったがノーチェックで通れた。だだっ広い車道を一人徒歩で行く姿はあまりにも奇異に映ったのであろう、沿道や車からの視線を感じざるを得なかった。公安警察のパトカーが数台、減速しては通り過ぎ、やがてUターンしては戻ってきた。明らかに監視されている。しかしそんなことを気にしても仕方がない、私はケリヤ川を目指して歩き、ようやくその畔に立った。川は大掛かりな造成工事が行われていて、この地方の風光の目玉ともいえる胡の森は全く見ることができなかった。あまりにも監視がきつくて、そこから脇道へ私を乗せて行ってくれそうな車を探すことなど、全く不可能だった。仕方なく、元来た道を戻り、フリーパスで出してくれたウイグル人の警官の導きで街に入った。

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 今日は、この街で週一回の農民バザールが開かれる。街に戻って、おそらく旧市街の中心であろうと思われる辺りを伺っていると、事実、次から次へと、農産物を積んだ三輪バイクがやってくる。それらが吸い込まれていく鉄門の検問所で、私はバザールを見たいから通してくれと掛け合ってみたが警官は首を横に振るばかりだった。その脇でナンを売る爺さんがいたので、柵越しにそのナンを売ってくれと身振りで示したが、爺さんはすまなさそうに両手をこちらに向けて私を制止する仕草をした。どうもやりにくい。

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 ホータンに戻ることにし、チェック・アウトのためにホテルに戻った。ホテルには、門とロビーに数人ずつ警官が配置されていたのだが、昨日と同じ顔ぶれで、お互いにこやかに会釈を交わし合う程度にはなっていた。早朝散歩に出たときは、彼らはその場に突っ伏して寝ていた。ある者はパイプ椅子で、ある者は縁石で、ロビーのソファを使えるのは、おそらく上役の者だろう。様子から見て大してもらってないと思われる。仮眠続きの疲労感と苛立ちが表情に表れている。チェック・アウト後、バス・ターミナルへ向かう前に、門の詰所にいる警官とタバコのやり取りをして別れを告げた。砂漠を走る高規格道路、巨大物流センターに取り囲まれた街、破壊された伝統的旧市街、管理される農民、日雇仕事にあぶれて縁石に座り込む労働者、疲れ切った警官・・・甘い香りのするミントティー・・・しかし、まさに、たしかに蠢き起き上がろうとするウイグルの魂・・・それが私がこの街で体験した全てだった。この街で起こったことを、どう解釈してよいかわからないまま混沌とした気持ちで、バス・ターミナルに入った。もちろん交通機関の停留する建物の入り口では保安検査がある。身柄は通ったが、荷物の中のライターは目ざとく見つけられた。思えばウルムチの空港でライターを見つけ出されて以来、ライターを持ったままでの保安検査は初めてだ。飛行機を降りて以来、初めての宿泊地がケリヤだったからである。朝食後にどうしてもタバコを吸わなければ排便できない私にとっては、ライターは必需品だった。ライターはこの街で昨日買い、今朝一回使っただけで没収された。中国の法律がそうなっているのだから、それは仕方がない。守ろう。それに配慮してか、ライターは1元 (約18円) と格安だ。許そう。しかしね、「らいたー !! らいたー !! 」と、ニホンゴまくしたてて他人の購入したライター没収しといてやね、そのライターで、あろうことかバス・ターミナルの施設内でスパスパとうまそうにタバコ吸うとんのはね、おいこらお前ら、どーゆーシンケイしとんかねお前ら答えんかいこら !! ゲート脇の段ボール箱にはうず高くライターが投げ捨ててあって、どうせこれらは転売されて奴らの余禄になるのであろう。叱られなければ何やってもOKなんだこの国は。

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2017年05月11日

20170511 Kerya

Uyghur-Pamir 2017.05.11.4 Kerya

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 身の危険は全く感じなかった。私は1991年に当時のザイール奥地Ileboの街で賄賂欲しさに入境料をとるイミグレに五日間ほど投獄されたことがある。あの時と比べたら、まず命まで取る気は無いなと感じた。なにも悪いことはしていないので、おとなしく逆らわずについて行くしかないのだこういう場合。車は5分ほど走って警察本部と思しき割と立派な建物に入ってゆき、正面玄関から通された。そこで他のウイグル人とは別の小さな会議室のような部屋に連れて行かれ、護送車に乗っていたウイグル人警官のひとりとともに椅子に座って待った。やがて荒々しくドアを開けて入ってきた漢人の警官に、ウイグル人警官がなにかを説明しようとしたが、漢人は彼を押しのけて直接私にまくし立ててきた。私は例の紙片を取り出して中国語がわからないと身振りで示したのだが、彼はあくまでも中国語で激しく怒鳴る。なにかにイラついているのは明らかで、こういう場合、恐れたり怯んだり、相手の調子に飲まれたりしない方が良い。だってわかんないんだもん。私は落ち着き払ってその紙をテーブルに置き、指で「わからない」という部分をトントンと叩いた。彼の怒りは頂点に達し、テーブルを激しく叩いて叫びはじめたが、どうしようもないので、私は彼の目をじっと見て、ただ座っていた。無表情に。彼もお手上げだという身振りをして黙ったときを見計らって、「English, OK ??」と尋ねてみた。すると彼はしばらく考え込んでから、どこかへ電話をかけた。10分ほど沈黙の時が流れ、やがて、もう少しマシな感じの警官が現れ、なんとにこやかに私に握手を求めてきた。私は立ち上がって敬意を評し、一部始終を手短に英語で説明した。彼は私のパスポートを持っていた。それをしばらく眺めてから、「OK, we are sorry, you can go out.」とわかりやすく言った。別室に案内され、テーブルに広げられてあった荷物をまとめ、私は解放された。

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 ・・・が・・・おい・・・ここで解放かよ !? もとの場所まで連れてけやお前ら、と抗議しようにも扉は閉められて広々としたロビーに誰もおらず、仕方なく通りに出た。まあ小さな街なので、すぐにアーケード街を見つけてその反対側から中に入れたが・・・とりあえずこの中でしばらく休憩しようと思って、休める場所を探したのだが、そんな店も設備もないのだ。そう、少なくとも今回の旅で訪れた中国の街には、食べるとか買い物をするとか宿泊するとか、なにかをする場所はあるのだが、何もせずにぼんやりできる場所というものがなかった。美しい公園はいたるところで見かけたが、それらは高い柵に囲まれて施錠されていた。仕方なく、店で飲み物を買って、縁石に座って休んだ。

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 街に着いていきなり身柄拘束・・・この事態を冷静に考えてみた。ホータンでも垣間見たのだが、検問は頻繁に行われている。街路の歩道は柵で仕切られていて、一辻ごとにテントを張った検問所へ誘導されるようになっている。柵の周辺には等間隔で警官が銃を持って立っているので、柵を乗り越えて検問を避けることはできない。そこで男女別にボディチェックがある。検問している警官のほとんどはウイグル人である。したがってウイグル人がウイグル人を誰何していることになる。拘束されている人を見ることも珍しくない。通行人は、何事もないかのようにその脇を通り抜けていく。拘束された人が抵抗したり、警官と口論になっているのを見たことはない。検問所に詰めている警官と、護送する警官は、明らかに役割が分担されている。拘束されるとパスポートを取り上げられるが、その前に詰所でノートに名前と番号を控えられる。しかし、彼らのほとんどはおそらく外国人のパスポートというものを見たことがないか、あるいはローマ字を読めないらしく、私の場合、きまって前回旅行したブラジルのビザ (顔写真付きなので) の番号を書き写しはじめるのがほとんどだった。そのたびに私はパスポートの2ページ目を開いて、彼 (女) の書き写すべき番号を指し示してやらねばならなかった。そんなわけで、初めて、そして最も頻繁にコミュニケーションをとったウイグル人は、皮肉なことに、頻繁に私を拘束する警官たちということになった。

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 まあだいたいわかった。一ブロックごとに検問があって、運が悪けりゃ拘束される。しかし無実なので解放されるが、その時間が勿体無いし気分も悪い。この街に一泊すべきか、とっととホータンに戻るべきか・・・とりあえずアーケードを出て、南の老城区のあるはずのあたりを散策することから始めることにした。中心部の南側に広がっているはずの旧市街は、その多くが取り壊されて廃墟となり、順次更地にされて、高層マンションが建設される途上にあった。旧居住区に隣接していたと思しき農地も宅地造成され、その遠方に未開発の農地が望まれ、小麦が花を咲かせていた。そこで踵を返し、街の北側を見ることにした。

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 旧市街の状態としては、街の北側の方が良く保存されていた。しかし、居住区は頑強な鉄門で閉ざされ、そこに検問所があって、外国人は通してくれない・・・と・・・表通りに面した商店の裏の路地から人がしげく出入りしているので行って見ると、なんと、開いた鉄門があったので、素早く中に入ってみた。寂れた感じだったが、まごうことなきウイグル的風景がそこに広がっていた。老城区の内側というべきか、市街地の外側というべきか、要するに鉄柵の向こう側にはブロックごとの検問所はない。私はウイグル帽をかぶり、ただブラブラと歩いた。やがて農地が始まり、道は延々と深みにはまっていく様子になった。日が傾きはじめていたので戻ることにした。同じ門から何食わぬ顔で街に入ると急に腹が減ったので、早速ウイグル料理のラグメンを食べてみることにした。要するに、手打ちうどんに具沢山のトマトソースがかけてある、あるいはスパゲティ・マルゲリータ、日本でいうナポリタンの原型と思えば良い。大変うまかった。

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 散策を続ける。西側へ行くと、やがて村の風情になり、農地が広がっている。門で閉ざされていないウイグル人居住区があって、そこへ入って行くと、水路やブドウの柵の連なる美しい街角に出た。家の軒先に縁側を出して涼んでいる家族があって、軽く会釈すると心が通じるようだったので、近づいて身振り手振りで「ここは美しいところですね」と伝えようとした。彼らは喜んでくれたが、明らかに私を警戒しているそぶりだった。邪魔してもなんだからと思って側を離れ、しばらく行ってから振り返ると、彼らは警官に取り囲まれていた・・・ううむ・・・やりにくい。

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 大通りへ戻ってそれを越えると、一部が美しくリノベーションされ、まるでテーマパークの様になった一角に出た。その入口に案内板があり、英語で解説が書かれていたので、私は近づいて文面を読もうとしたのだが、そのときに二度目の拘束を受けた。おいおい、まだ「Welcome…」から始まる文を読み始めたとこやで。もうちょいぼちぼちやってえな。今回は詰所で解放されたが、前回私を拘束した警察官とは服装が異なっていた。注意深く観察すると、「特警」・「武警」・「公安」とそれぞれ書かれた制服を着た警察官が街じゅうに展開しており、それらは別々に行動しているようだった。前回は「特警」、今回は「武警」である。英語は通じない。漢字も読んでくれない。今回は、警官がパスポート・ナンバーを本署 (??) に伝えただけで解放された。つまり、外国人の動向を把握しているようである。

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 そんなことに怯むような私ではない。テーマパークとはいえ、ウイグル人の居宅を丁寧に保存した空間は見所である。しかも、まだケリヤ川も見ていないのだ。私はこの街に宿泊することにし、宿探しを始めた。しかし大通りに面した安宿のおおくは、すでに開発のために大量に投入されている漢人労働者の宿泊所としてほぼ満室の状態だったが、空いている「宾馆」や「招待所」などは、どこも外国人を泊めてくれない。泊めるか泊めないかを簡単に区別できるように、外国人のパスポート番号は宿帳に記入できないようにしてある。つまり中国人民のIDカードの番号とは桁数が異なるため、これを記入すれば一目瞭然で違反がわかるようになっている。違反を厳しく捜査されるというよりも、わずかな利益のために面倒ごとに巻き込まれては叶わないという、賢明な事なかれ主義が蔓延することによって、外国人を一定の宿泊施設に集約して監視しやすくしている。中国政府の狡猾なやり方を垣間見る思いがした。仕方なく、街で唯一の外国人宿泊可能な、「于田天萌コ隆酒店」という、無駄にゴージャスなビジネス・ホテルに、289元 (約5300円) も払って宿泊することになった。

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20170511 Hotan-Kerya

Uyghur-Pamir 2017.05.11.3 Kerya

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于田、30年ほど前までは「于闐 (uten) 」、中国語でYútián、ウイグル語ではكېرىيەと書いてケリヤといい、同じ街でありながら、中国語とウイグル語では呼び方も指しているものも全く違う。于闐」は、古代中国の漢の時代から西域諸国のひとつとして出てくる国名で、歴史の好きな人にはこの方が通りが良い。しかし、その于闐国は現在のホータンを首都としており、なぜ180kmも東にあるこの小さな街がこの名を戴くようになったのかはわからない。一方、ウイグル語である「ケリヤ」は川の名前で、これを音写した「克里雅」という中国語もあるのでややこしい。

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 ホータンからケリヤまで4時間程度のドライブであったが、初めて実地に見るタクラマカン砂漠は、驚きの連続だった。もちろん西域南道を東に走っているのだから、大部分は砂漠の中なのだが、点在する小さな村の周辺には大規模に開発された住宅地や物流センター、工場群が並んでいる。「砂漠の道」・「シルクロード」といって懐かしむ気持ちはものの見事に破壊されてしまう。道路は高架にはなっていないものの、ほぼ片側二車線の高速道路に近い高規格道路であった。しかし、シルクロードを走っていることには間違いない。自分の先入観が粉砕されただけのことだ。途中、数回の検問があったが、パスポートを見せただけで特に問題なく通過できた。運良くタクシー組に回されたおかげで、乗客が多くて検問に時間のかかる先発のバス数台を追い越すことができた。喀拉克尔という村で休憩して田舎情緒を楽しんだ後は、ケリヤまでノンストップだった。

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 日本を出てから、かなりアクロバティックな旅の急展開でここまで来てしまって、このタクシーの数時間で少し疲れが出たようだ。私は百姓のくせにイネ科の花粉にアレルギーがあって、栽培品種の稲は大丈夫なのだが、いずれかの稗の花粉に感じるらしく、4月の終わりから5月にかけて、世間の人の花粉症が治る頃に発症する。しかしまあ空気が変われば治るだろうぐらいに軽く考えて出発したのだが、ここへ来て砂にやられたようだ。砂といっても日本でイメージするようなものではなく、もっと細かいチリのような、たとえば小麦粉をふるいにかけた時に舞い上がる粉塵のようなものが空間を漂っている。それは霧のように視界を閉ざし、数百メートル先が砂塵に消えているのである。それを直接吸い込んでいるのだから、日本の花粉症より厳しい状態だ。しかも、今朝のフライトで天山山脈を越えたり、砂嵐に翻弄されながらホータンへ降下したりしたときに、気圧の変化から耳をやられてしまい、それ以来ずっと平衡感覚がおかしいのである。右耳の聞こえがガンガンしていて、周囲の物事に現実感がない。疲れるとよく出る症状で休めば治るとはいえ、ここは異国である。喉が腫れ上がり、感覚の浮いた状態で、ケリヤのバスターミナルへ到着した。

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 ケリヤに来た理由は、ひとつには地球最後の秘境と言われるダリヤブイを一目見たいと思ったことと、崑崙山脈から流れ出て砂に消えるケリヤ川の河岸の風景が格別にシュールだったので、それを一目見たいと思ったことだった。もちろん前者は事前の調査で到底実現不可能なことがわかっていたのだが、少しでもその匂いが感じられればと思って諦めきれなかった。そして車をチャーターしてでも街から川筋に沿って、少しでも周辺の村を訪ね歩いて、その風情を楽しみたいと思っていた。しかし、結果から言って、それらの希望はことごとく打ち砕かれた。なぜなら、中国政府は、外国人が幹線道路を外れて周辺の村を単独で訪問することを事実上禁じており、それは検問という手段を通じて蟻の這い出る隙間もないほど厳しく取り締まられており、その禁を犯してまでこの外国人を車に乗せて連れ回そうというドライバーは一人もいなかったからである。

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 ここでもご多分にもれず観光開発のために膨大な労働者が投入されており、現地のウイグル人との間で緊張が高まっている。私は出発前に最新の航空写真を調べて、概ねウイグル人たちの住む旧市街、いわゆる「老城区」のあたりをつけておいたのだが、それらはすでに見渡す限りの更地となっており、おそらく立ち退きを食らったウイグル人浮浪家族がそこら中で絶望している様を目の当たりにした。それらを見られたくないので、当局は外国人を常に監視し、なるべく団体旅行の遺跡巡りと玉石拾いにカネとヒマをつぶして早々にお引き取りいただくか、さもなくば厳しい検問を繰り返して一定の範囲にとどめておこうとする。なぜなら、ここはタクラマカン砂漠最後の秘境への入り口であり、それはシルクロードの歴史遺産をサラミのように薄く切って高く売りつけたい中国政府にとってはドル箱だからである。

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 私はバスターミナルを出て東に歩いてアーケード街を見出した。事前調査でそのなかほどに外国人が泊まれるわりと安いホテルがあるはずだった。その入口に立ち止まって写真を撮っていたとき、警官の吹く笛が高らかに響き渡った。またたくまにあちこちから黒い制服を着て武装した警官が飛び出して私めがけて突進して来た。身構える隙もなく、刺股で私は首根っこを押さえられ、立木の幹に引きずり上げられて身柄を拘束された。その付け根が喉に食い込んで痛かったので、私は身振りでこれを緩めてくれと要求したが、彼らは口々に何やら叫ぶばかりで一向に緩めようとしない。やがて一人が駆け寄って来て銃の台尻で私のザックを小突いたので、荷物を置けと言っていると想像はついたのだが、首を抑えられて身動きが取れず、そのことをどうアピールして良いかわからないところへ、そいつが横から無理矢理にザックをむしり取って、中身を歩道にぶちまけようとした。しかし開け方がわからないので引きちぎろうとするから、私は激しくそれに抗議した。言葉が全く通じないので、とにかく「自分で開ける」ということを身振りで示し、「我是日本人游客。我不能中文。配合调查请调查行李。」と書いて用意してあった紙片をようやくポケットから取り出して示してアピールしていると、漢人の通行人がそれを見て助け舟を出してくれた。このときもまだ私は、彼らウイグル人が中国語の文字を解さないことに気がついていなかった。彼の取りなしで、私は刺股から解放され、自分で荷物を解いて全てを示し、危険物を所持していないことをアピールした。彼らは協議するために詰所の中に入った。私は背中に銃を押し当てられ、両手を挙げたまま、その場で待つしかなかった。助け舟を出してくれた漢人は姿を消していた。しばらくして黒い警察車両が横付けされ、別件か何かで詰所に拘束されていた数人のウイグル人とともに、私はそれに乗せられ連行された。

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20170511 和田 (Hotan)

Uyghur-Pamir 2017.05.11.2 Hotan

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 ホータンは中国語で「和田」と書いてHétiánと読む。ウイグル語では「خوتەن」と書いて「ホーテン」というくらいに読む。もちろん「玉」を産出することで有名で、巨大な滑らかな白い玉は一億円くらいするというので見せてもらったことがある。ただの石にしか見えなかったが・・・

 ホータン空港は一日数便しか発着がなく、乗降客は目の届く人数なので、出発も到着もひとつの建物でさばいている。到着後資料収集でもしようと思って建物の中を見回してみたが、本当に何もない。ボヤボヤしてたら出口の鍵を締められてしまって、鍵を持った兵士に開けてもらわねばならなかった。

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 ホータン空港から市街へのアクセスはタクシーによるしかない。台数も限られているので選択の余地はない。かなりふっかけてくるが、目測10km程度なので交渉して40元で手を打った。それでも高いくらいだ。ホータンのタクシーはメーター制ではなく、大雑把に行き先が決まっていて、客の行きたい方角や乗客の降りたい場所とが折り合えば乗せてもらえる。世界中によくある乗合白タクである。乗客は私を含めて3人であった。私は今日中に次の目的地である于田 (Kerya) へ移動してしまいたかったのと、明後日の目的地である (Yerkent) と、その翌日の移動となる喀什 (Kashgar) への鉄道切符を購入しておきたかったのとで、乗客と筆談しながらこの運転手に40元で全部回らせようと企んだ。ところが、なんか様子がおかしい。「客站」・「火票」・「団結広場」など、ごくごく基本的な中国語を書いて示しても反応が悪いのである。仕方がないので、これらを英語からいろいろに崩した発音で試してみたり、あるいはトルコを旅行中に聞き覚えた言葉に置き換えてみたりしたがなかなか通じず、結局市の中心部である「団結広場」でほぼ強制的に降ろされた。このとき私は気付くべきだった。多くのウイグル人は漢字が読めないということを・・・しかしそれはもはや手遅れだ。私は中国語で会話ができないし、アラビア文字の読み書きができない。ウイグル人は、中国語の会話はできても、漢字とローマ字の読み書きができない。盲点だった。これは今回の旅の準備不足のなかでも最も深刻なものだった。

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 ホータンの街は殺気立っていた。柵で封鎖され立ち入ることもできない広大な団結広場の中心には、ウイグル人の老人と故毛沢東主席が握手している像が小さく見える。この老人は尔班 (Kurban) おじさんとして知られていて、いわば中国共産党による民族宥和政策の象徴である。その周囲をパトカーや装甲車などの警察車両が取り囲み、それらは常にサイレンや、時折アジテイションを鳴らし続けていた。どうやらこの象徴は、ただの象徴にすぎないようだ。

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 事前に調べておいた旅行代理店は全て存在しないか開店休業状態で全く要領が得られなかった。のみならず多くのビルは封鎖されていた。なぜ代理店を頼んだかというと、中国では鉄道や長距離バスの切符が取りにくく、事務の不手際から長時間待たされると聞いていたから、多少の手数料を払ってでも時間を節約したかったのである。しかしどうやら現状はそんな穏やかなものではなさそあーうだ。仕方なく通りへ出てタクシーを捕まえ、「和田站 (ホータン駅) 」と紙に書いて見せると運転手は大きく頷いたのでそれに乗り、まずは明後日以降の移動手段の確保にかかった。

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 ホータン駅は、無駄に広い駅前広場があって、敷地に入る時と広場に入る時、さらに建物に入る時の三回も保安検査がある。駅舎は立派なのに一日数本しか発着がない。建物の中ほどに、左上に上がる階段を上がってすぐに入口があるが、これは第一次改札のようなもので、切符売り場は階段の反対側の別室にある。何も表示がないので、誰かに訊かなければわからない。

 窓口での中国語のやりとりに不安があったので、出発日・便名・目的地・座席の種類・購入数を書いたメモをあらかじめ用意して窓口に出した。すると、窓口の漢人のねーちゃんはとっても親切な子で、私の書いたメモに最近の改正で変更になった部分を訂正し、料金を計算した上で、目で「これでいい ? 」と合図してくれた。そのメモの下部には、「発車30分前に駅に来れば良いか ? 」と中国語で書いておいたのだが、それを「60分」に訂正して目配せしてくれる気の利かせようだった。大変気持ちの良い対応で感動した。こうして、結構難関と言われる中国での鉄道切符の購入は簡単に終わった。中国の鉄道運賃は強烈に安い。和田ーが普通列車でたったの18.5元 (約340円) 、莎ー喀什が特別快速で28.5元 (約530円) いずれも3~4時間もの長距離移動である。

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駅の敷地から出て、外にたむろしているタクシーに「東郊客站」と書いたメモを見せて回ると、そのうちの一人が「わかった」と手を挙げたのでそれに乗り、バスターミナルへ向かった。「東郊客站」は、ホータンから東方面へ向かう長距離バスのターミナルである。そこはウイグル人でごった返していた。切符売り場「售票処」は長蛇の列・・・というか、ずいずいと腕っ節で窓口に詰め寄っていくのだが、こういうときは荷物の軽い貧乏旅行者に若干の分がある。65元でチケット入手・・・と思いきや、保安検査を通過して引っ張っていかれた先に待っていたのはタクシーだった。しかも4人集まるのを待って発車、あーもすーもなく私が4人目で、押し込まれて出発。まあ良い。とりあえず計画通りに事は進んでいるのだから・・・あわただしくホータンを後にし、今回の旅の第一目的地のケリヤへ向かう。いよいよ旅の本番。


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20170511 乌鲁木齐ー和田

Uyghur-Pamir 2017.05.11.1 乌鲁ー和田

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 夜が長いだけに朝の明けるのも遅い。夜明けはだいたい北京時間で9時過ぎだ。しかしそんな時間には、まだ街は眠っている。生活実感としての現地時間のことを、「ウルムチ時間」または「新疆時間」というらしく、個人商店や市民生活は、だいたいそっちで動いてる。北京時間より2時間遅い。しかし、銀行や交通機関など公共施設は北京時間で動いているので、常に2時間のギャップを感じる。ウルムチ発ホータン行きの出発は9:30だが、大事をとって7:30に到着するべく、ホテルの朝食は断って6時過ぎには荷物を担いで通りへ出た。もちろんまっ暗だ。51路のバス停を探し、バスが来たらそれに乗り、タクシーが来たらそれに乗ろうと思っていたが、何も来ないので大きな交差点まで歩いてタクシーをやっと捕まえた。運転手は漢人の若者で、メーターが外れて接続がむき出しになっているのを、自分でつないでなんとか持たしていた。途中で外れて慌ててたけど・・・

 ウルムチ空港の保安検査は厳格をきわめていた・・・というか、無作法なまでに保安にこだわっていた。今回は往路最後のフライトになるので荷物は預けた。持ち込み手荷物でライターはご法度なのは世界共通だが、中国では受託手荷物の中にライターが入っていてもひっかかる。それを知らなかった私は、通常通りチェック・インの後すぐに保安検査に進んだ。ウルムチの保安検査は、検査官にとって目の前の物品が危険かどうかを判断して分類するのが仕事であって、それがどの乗客のものかを考慮しない。したがって疑わしき物品は順次専用のケースに投げ込まれてゆき、そこには他の乗客のものも混じっている。一方、検査を受ける乗客は、ほぼ下着になるまで脱衣させられ、靴の中敷や靴下の裏まで検査されるので、私のように腹巻きや靴に現金を分散して持っている場合は時間がかかる。問題なく通れたとしても、服を着ている間に他の乗客が先に進んでしまって、無造作に投げ込まれた検査済みのケースの中から、自分の所有物を一つずつ引っ張り出すことになる。そこへ割り込んで自分のものを探すのが大変で、当然乗客同士で揉めることがある。すると公安警察が飛んで来てその場にいる者を全員取り押さえるので、進むのにさらに時間がかかる。そこをすり抜けてやっとの事で出発ゲートに入ろうとすると、受託手荷物検査で私の荷物が止まっているのでチェックイン・カウンターまで戻れと言う。しかし保安検査を通過した客が戻るルートというものはないので、また公安に付き添われて外へ出て、一からやり直しになる。つまり、あの保安検査をもう一度やり直すのである。そんなこんなで、2時間以上も前に着いていたのに、出発ゲートに着いた時には、もう搭乗が始まっていた。やれやれ、でもとりあえず出発。いよいよ旅の本番だ。

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 中国南方航空CZ6853ウルムチ発ホータン行きは定刻通り出発した。機材はBoeing B313-7、これも国内線用で小さな飛行機だった。飛行機は飛び立つとすぐに天山山脈の東の端を飛び越えた。赤土のむき出しになった襞深い山並、雪をいただいた山脈が、打ち寄せる波のように彼方まで連なる。果てしない世界。タクラマカン砂漠の北、モンゴル高原と世界を隔てる広大な地の壁を見下ろしているのだ。中国の西の辺境、中央アジアへと続く世界のほんの一部を、今見下ろしている。旅の実感がいきなり吹き出すように湧いてきた。

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 機内食はスナック程度の簡単なもので、フライト時間は2時間弱。定刻にホータン空港に到着した。砂で曇っており、南に見えるはずの崑崙山脈どころか、視界は数百メートルほどしかない。ホータン空港は軍民両用空港であり、乗客はひとまとめにされて、兵士が護送する形で建物の外に出る。微妙な地区に来たんだなあ、との実感が湧く。

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2017年05月10日

20170510 成都ー乌鲁木齐

Uyghur-Pamir 2017.05.10 成都ー乌鲁

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 ウルムチへのフライトが18時なので17時には空港へ着いておくべく、大事をとって15時には黄溪を出た。渋滞もなく成都には16時前に到着し、歩いて空港シャトルバスの出る岷山店へ向かう。途中、川沿いに人だかりがあったので何かとのぞいてみると、小学校の正門、なるほど子供をお迎えに来た親たちか・・・過保護と言われる一人っ子政策の中国の名残を垣間見た思いがする。シャトルバスは、岷山店の北側の路地の奥から発車するので、表通りからは見えにくい。16:20発17時空港着。チェック・イン後、初めて中国の保安検査を受ける。あと一回乗り継ぎがあるので、今回もザック一つで機内持ち込みである。荷造り段階で、液体や金属など、検査に引っかかりそうなものはそれぞれまとめて別に出せるようにしておいたのだが、意外に検査は厳しく、乾電池は没収された。

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 四川航空3U8841便、成都発ウルムチ行きは定刻18時に出発した。機材はAirbus A319、もろに国内線で、窓側は頭がつかえるほど狭い。機内食は軽食で、ご飯にチリソース、牛肉の唐辛子炒めと、なぜかソラマメの揚げ菓子。ウルムチへは定刻21:40到着。いよいよ新疆へ来た実感がある。なぜなら22時前だというのにまだ陽があるからだ。北京とウルムチでは、実質的には2時間程度の時差がある。

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 ウルムチの宿泊も四川航空のフライト・チェンジが原因だが、どうせ宿泊するなら夜のウルムチを楽しもうと思って、繁華街に近い二道橋に突玛丽斯大店 (Tumaris Hotel) を予約しておいた。国際大バザール (新疆国大巴扎) にも近いし、少々高いが翌日の出発が早朝なので、交通の要所にあることで妥協した。場所は、ウルムチ市内中心部の南西側にあり、北東側郊外にある空港側から見ると街を縦断する形になる。事前に調べた結果、路線バス51番 (51路) が1時間ほどで到達すること、空港発の最終が23時であることから、アクセスについては全く心配していなかった。

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 ところが、ウルムチの空港を出て右手の駐車場入り口を渡った向こうにバス停はあったのだが、51路は21時で終わっている。まだ明るいというのに。そこへ別方向へ行く27路のバスが来たので、運転手に「新疆国大巴扎へ行けるか ? 」と筆談で訊いてみると、なんとこの運転手、メモを取り出してサラサラと、4つの路線を乗り継いで行く方法を走り書きし、「乗れ」と手招きした。その達筆なメモは、残念ながら旅のゴタゴタで紛失しまったのだが、今でも、その人柄と共によく覚えている。どの国へ行っても運転手という職業の人に嫌な思いをさせられたことがない。今回の一瞬の出会いも長く心に残るだろう。

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 二道橋へは問題なく到着した。しかし、なんと3時間近くを要したのである。運転手の言う通り、4つの路線を乗り継いで、空港から二道橋まで、たった4元で移動したのだから文句はない。道中、まずはその運転手に27路のバスから降りて前方の二つ目の角を・・・という風に教えられ探して見つけたバス停でバスを待ち、その運転手にそのメモを見せたら、また親切かつ快活に降りるときに大声で案内してくれて、一緒に降りたウイグル人のお母さんが、たまたま同じバスに乗るからと行って一緒に歩き、それが普通の道路を走る路線バスではなくて駅のような停留所で保安検査まであって、来たバスはトラムのように隔離された専用道を走るのにびっくりし、ウイグル人のお母さんは周囲の人にメモを見せて私の降りる場所を私に教えてくれるように段取りしてバスを降りてゆき、周囲の人は私に大声で「降りろ降りろ」と伝え、一緒に降りた人が次に乗り継ぐバス停まで私を連れて行ってくれ、そこへ来たバスの運転手にメモを見せて・・・という具合に、まことに至れり尽くせりの珍道中だったのだが、ホテルに着いた頃にはもうくたくたに疲れていて、もはや夜の繁華街なんてどうでもよくなっていた。しかし珍道中の間にバスがあちこち回ってくれたおかげでウルムチの夜の風景は堪能した。それは、バブルの頃の大阪心斎橋の風情で、今の日本とは比べるべくもないほど街からエネルギーが発散されていた。大都会、しかも非常に立派な路面店が軒を連ね、それらが生き生きと光り輝いていた。ウルムチ、是非次回は何日か滞在したいものだ。結局晩飯食いそびれて、近くのコンビニのような店・・・中国では「超市」といって文字通り「スーパーマーケット」なのだが、まあ日本でいう食品と日用雑貨が置いてある個人商店の総称のようなもの・・・で硬いナンと茶を買って、寂しく部屋で食べて寝た。ホテルの部屋も無駄にゴージャスなのに・・・

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20170510 黄龙溪

Uyghur-Pamir 2017.05.10 黄

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 ホテルに隣接する新南門バスターミナル (新南门站旅游客中心) は二階が切符売り場、一回が待合と発着場になっている。中国へ来て初めて中国人たちを観察する。印象としては、皆非常に規律正しい。声は大きいが、騒がしいとか乱れた様子はない。ターミナルも、今まで旅した国々では、たいてい混沌の中に放り込まれて、表示もなく、人に訊かなければ目的とする切符やバスにたどり着けないことが多いのだが、ここではきちんと案内が出ている。しかも感じなので、中国語でどうかくかを一定量覚えれば、難なく手続きは済ませられる。電光掲示板にバスの行き先と発車時刻が出ている。それをメモして窓口に出すと、難なく切符が得られた。成都から16元、1時間程度のバスの旅である。

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 切符にはプラットホーム番号と号車、座席番号まできちんと表示されているので、何ら迷うことはない。こんなに私の感性に合う旅は初めてだと言いたいくらいだ。とてもわかりやすい。促されるままにバスに乗り込み座席を確保し、周囲の中国人とにこやかに会釈を交わす。彼らは瞬時にして私が中国人でないことを感じ取り、あまり言葉をかけて困らせないように気遣いまでしてくれる。バスは定刻に発車。

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 まっすぐ南へ伸びる片側二車線の高規格道路の両側は、高層マンションの開発ラッシュだった。それを過ぎると線で引いたように田園地帯に変わり、小高い丘や草原の畑の中を進んでいく。川沿いの少しコンパクトで美しい景観に沿ってしばらくいくと、対面する山の坂の途中にあるバスターミナルでバスが停まった。

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 乗客とともに降りると、そのまま向かいで待っていた路線バスに自動的に導かれる。フロントガラスの表示には運賃は1元、運転手に払えと読める。乗客の誰かが細かいのがないと言い出したので、別の誰かが10人集めて10元まとめて払った。私もその中に連れ込まれた。この10人はこの瞬間から黄溪の友となり、この言葉の不自由な異国の旅人を案内することがこの日の彼らのイベントとなった。何人かは私が日本人であることに気がつかなかった・・・というか、誰も気にしなかったという感じだった。そんなことより、他国の旅より、一般の人々が合理的にテキパキしているという印象、そして当座の目的に向かって、細かいことに拘泥せずに割り切ってすんなり乗り越えようとする気風のようなものが感じられた。

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 歴史的建造物群を保存した、日本でいわゆる美観地区なるもののことを、中国語では景観区という。その入口の門でバスを降り、バスの乗客が一団となってどやどやと景観区に入って行った。入り口には花輪の売り子がたくさんいて、それを買って頭にかぶり、満面の笑顔で写真を撮らせている人も多い。楽しんでる空気満々。さて、古い聚落ということだったので、もっと鄙びた街並みを予想していたのだが、内部は料理店と土産物屋のオンパレード、要するにテーマパークであった。遊園地まで隣接しており、平日にも関わらず満員の大盛況で、騒がしいことこの上ない。一団となっていたバスの乗客達も、土産物の物色に散ってゆき、何人か残った塊も手持ち無沙汰の感が漂ったので、私はそのうちの一人に、身振りで「一人であちこち見て歩きたい」と伝えて別れた。いや、成都の人たちとても親切、私たいへん好きになりました。

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 黄溪は川沿いの集落であるので、雑踏から逃れて対岸へ渡ってみた。川沿いに農地が広がっていて、大型のコンバインで何か作業をしている。大根の種の収穫である。この農場では、大根を野菜として収穫せずに、あるいは出荷調整して残したものを、開花結実するまで置いて種を出荷しているようである。抜き取った大根をそのままコンバインにかけている。傍らにはパンパンになった籾袋が山積みになっている。強烈な大量生産、これが日本へ輸入されて小袋に分けられて数百円で売られるのであろう。せっかくなので黄溪でのおみやげに、道に散らばった種をいただいて来た。夏に撒いてみよう。

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 農地の向こうに集落が続いていたので、田舎道をたどっていく。ああ、なんとなく、なんの変哲も無い中国の田舎の長屋という感じの建物があって、そのなかには、おそらく対岸の観光地へ仕出しする業者だったり、そこで働く従業員の宿舎と思しき建物があって、生活の匂いがする。こういう状況では、ザックを背負った私は、明らかに日本人とわかるのか、ときどきちょっとした日本語で声がかかる。ニコニコしながら手招きするので行ってみると、地元の食堂である。ちょうど昼時で、何人かの客がすでに食事をしているので、これもなにかの縁だろうと思って入って行った。地元の人たちは、こんな風にして麻婆豆腐をガツガツ食っていた。唐辛子というより、山椒の効いた刺激的な味で、荒くちぎられたような豆腐が絶品、「うまいか ?? 」と訊かれたようなので「うまいうまい」と身振りで示したら、客一同えらい喜んだはった。実際とてもうまかった。成都、ええとこやね。

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 で、食事の後、茶と菓子が出て、これはサービスだというので、感謝の身振りをして支払いをすませると、おばちゃんが奥へ来いという。路地を挟んだ蔵のような建物があって発酵臭がするのでピンと来た。それをおばちゃん見逃さなかった。豆板醤は好きかねとでも言ったのだろう。おばちゃんを押しのけるようにして木の樽の中を覗き込むと、真っ黒な味噌が匂い立っている。無造作に長い木杓子を突っ込んで少し取り出し、舐めてみろという。まごうことなきソラマメ味噌だ。唐辛子が入っていないようなので、筆談で訊いてみると、たぶん、どうやら豆板醤というものは、すくなくともこの家では、唐辛子を入れずに仕込み、調理するときに加えるものだと見える。それは確かに理にかなっている。唐辛子は鋭い辛味と香気があるので、新鮮な状態の方がうまい。しかし熟成された辛味というものもまた捨てがたいので、別の仕込み方もあるのだろう。カメラを取り出すと、ちょっとそれは勘弁してくれという仕草をされたので、丁寧にお礼の気持ちを表してそこを後にした。店の周りで暇そうにしていたねーちゃんが景観区まで道案内してくれて、いやなかなか心温まる半日観光でした。

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20170510 成都

Uyghur-Pamir 2017.05.10 成都

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 成都の朝、初めて見る中国の朝である。なんとも感慨深い。ホテルからあちこち眺めてみる。高層ビルもよし、崩れかけた集合住宅もまたよし。早朝散歩。静かに走る電動二輪車、行き交う人々の表情は穏やかに見える。平和である。とても平和である。ホテルに戻って朝食をとる。出されたものは、白粥に蒸しパンにゆで卵・・・味というものがない。朝食に刺激物を取らないと調子の出ない私にとってはちょっと苦痛である。周囲の中国人達は、違和感なくこれを食べているので、中国の一般的な朝食というものはこういうものなんだろう。

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 四川航空が今日の早朝のフライトをキャンセルして夕方の便に振り替えてしまったので、通過するだけが目的だった成都で一日観光することになった。街を見て歩くのも良いが、せっかくだから中国の景勝地というものを訪ねてみようと思い立ち、新南門バスターミナルから南へ一時間ほど走ったところにある黄溪という古い集落へ行ってみようと思う。成都は四川省の省都だし、四川省といえば麻婆豆腐、麻婆豆腐といえば豆板醤、豆板醤といえばソラマメ味噌なので、俄然興味が湧いてくる。

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2017年05月09日

20170509 関空ー成都

Uyghur-Pamir 2017.05.09 関空ー成都

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 いざ出発。困難な旅を祝福するかのように朝から土砂降りである。荷物は中国の空港でのトラブルを極力避けるために、受託手荷物なし機内持ち込みのみで5kg未満のザック一つに削ぎ落とした。こいつ背負って雨具着て、自転車にまたがっての旅立ちである。

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 自宅から関空まで2時間半、ちょっと時間を読み間違えて余裕こいたんと福知山線おきまりの列車遅延が重なり、途中で腕時計忘れてきたのに気づいて、梅田でヨドバシカメラをうろつく羽目に・・・その最中にデジカメのSDカードの予備を持ち忘れてるのに気がついて、しかも古いデジカメなので、旧タイプのSDHCでないやつの2GBを探すのに大いに手間取り、結局空港に着いたのが4時間半後の19:21、ボーディングまで残り30分というタイミングで、ATMで10万円おろして約半分ずつ中国元とUSDに両替して、四川航空にチェック・イン。ここでもかなりしつこく帰国の手段について問い糾されたが、旅程表その他あらかじめ準備した書類を見せて説明して、なんとか搭乗手続きは完了したのはゲートの閉まる直前だった。旅の達人のはずが・・・

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 四川航空3U8088便、機材はAirbus A320、中央の通路の両側3列ずつである。定刻に離陸、機内食はコンビニ弁当のようなもので、白飯に四川味噌をつけたもの、魚のフライに牛肉のピカタ、亀田のあられにヨーグルト、パン、ケーキというなんとも言い知れぬ取り合わせであった。乗客のほとんどは中国人で女性が大半、中国のバラエティ番組を楽しみながら4時間ほどのフライトであった。定刻に成都空港に到着。ウィングには止まらずタラップで降りてバスでターミナルまで移動。

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 入国審査である。乗客のほとんどが中国への帰国者で、外国人は数えるほどしかいない。しかも外国人用の窓口はひとつしかないので、審査官の様子を見て選ぶこともできない。しかたなく一列に並んで待つ。前に並んだ人が色々訊かれてるので、私も緊張して用意してあった資料を整理し直して重要な部分は暗記する。入れてくれなければ旅も始まらない。私の番になり、英語で滞在目的と日数を訊かれ、やはり帰国便についても訊かれたので、旅程表とラホールから日本へのe-ticketを示したら、意外にすんなりと通してくれた。やれやれ。

 成都空港は小さな建物である。入国ゲートを出るとすぐ建物の出口がある。対面の通りにバス・ターミナルが並んでいて、右手の端の方に空港バスの切符売り場と停留所がある。タクシーの運転手やその手配師らしき男達が群がって来て、「バスはもうない」などと言って服を引っ張るがそれは嘘だ。成都の空港バスは深夜便が終了するまで運行されている。ただ、まさにシャトル運行なので、当着・発車時刻は一定していないようだ。切符売り場のキョーレツに不機嫌な短髪ねーちゃんから切符を買って10分ほどでバスが来た。

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 予約した成都交通店は新南門バスターミナルに隣接しているので、空港シャトルバスの1号線、岷山店行きに乗り、そこから歩く。

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 湿度が高く暖かい。どこか大阪と似た雰囲気の街だ。ちょうど中之島の川岸を歩いているような感じだ。深夜にもかかわらず、川沿いで人が散歩してたりする。いたって平和な雰囲気で、身の危険は全く感じない。10分ほど歩いて成都市交通店を見つけた。フロントは無人だったが、なんと不用心な事に開放されていて、通りかかった警備員が携帯電話でねーちゃんをたたき起してくれた。熟睡顔のまま、まあ精一杯愛想よく、なんとかチェック・インの手続きをしてくれた。160元の室料に対して推金は100元。無機質だが質素で清潔な部屋にたどり着く。面白いことに、サイドテーブルにデリヘルのチラシが綺麗に揃えて置いてあった。

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20170509 出発

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 最も楽しいのは、旅を準備している段階である。何が起こるかわからない。どんでん返しに一喜一憂する。

 実際にこの旅を実行するきっかけとなったのは、バイト先が改装のため二週間も閉店することが決まったからである。それを知ったのは2月のことだった。当初それは10月に予定されていた。10月ならば十分に時間があるから、中国語とウイグル語を勉強して、ゆっくり旅の計画を練るつもりだった。ところが3月の半ばになって急に改装が5月に前倒しされた。1ヶ月半では、とても準備が間に合わない。言葉の習得は諦めた。電子辞書は高過ぎて手が出ない。間に合わない部分は現地ツアーを手配するか、ガイドを雇うか、ルート作りと並行しながら計画を練った。ところがさすがブラック企業である。1ヶ月半しかないというのに詳細な日程が決まらないのである。誰に訊いても「まだ決まっていない」の一点張り。改装を口にすることすら禁忌とされる空気になった。そんな中で、いち早く日程を教えてくれたのは、なんと顔見知りの出入り業者だった。納品計画に支障が出るためだろう。センター便のドライバーにも確認した。当事者である我々は何も知らされず、出入り業者には通知している。ともに文書を見せてもらったから間違いない。日程は5/11-25とわかった。そこから具体的な手配が始まった。

 日本の労働者にとって二週間もまとまった休みが取れることは滅多にない。もっと短ければ単純な旅行で終わっただろうが、二週間ということで欲が出た。かねてから思い描いていた、中国の西の辺境からパキスタンへ陸路境越、その先は「ナウシカ」のモデルともなったという秘境フンザ渓谷だ。こんな夢のような旅が実現するなど、人生のうちにそうあるものではない。人生は一度きりだ。会社に義理立てしてなんになる ?? 改装など俺の知ったことか、俺は人生を楽しむために生きている。

 運の良いことに改装期間は木曜日に始まって木曜日に終わる。私の公休日は水・木である。ということは、一日休みをゴリ押しすれば火曜日に出て翌々週の金曜日に戻り、その夜から勤務というアクロバットもできるわけだ。旅程18日。なぜ火曜日かというと、四川航空の関空発成都行きが火曜日だからである。もうそれで大枠は決まった。その時点でも店の従業員には改装日程は知らされていなかった。そんな会社である。結局私がそれを聞いたのは、改装の数日前のことで、もちろんそのころには全ての手配を終えて出発を待つばかりになっていた。

 四川航空・・・これを使えば、なんと中国の西の果ての主要都市カシュガルまで往復でも2万円台、これを片道だけ購入して、あとは陸路でパキスタンへ、帰路はイスラマバードから飛ぶより、さらに南のラホールから飛んだ方が2万円ほど安く上がることがわかったので、大枠はこれで決定。

 ところが中国は、個人の自由旅行者に対して少々手強い国だ。まず、四川航空の片道航空券を発注する段階で手こずった。なぜなら、日本の旅券を持つ者は、中国国内では原則15日以内の観光目的の滞在ならば無査証で滞在できる特例がある。ところが、これは中国から15日以内に出国する手段が確保されていることが確約されていなければならないという、言外の条件を含んでいる。私の旅程では、中国から出国するのは陸路で、現地の交通手段によるから、事前に予約することができない。これが帰国手段の確約という条件に抵触し、四川航空は片道航空券の販売に難色を示した。ビザを取るか往復航空券を購入するかしてほしいという。なぜ四川航空が難色を示すかというと、なんらかの原因で私が15日以内に中国から出国できなかった場合、無査証である私は強制送還されることになるが、その費用は四川航空が負担しなければならないからである。しかし復路便に予告なく搭乗しなければ罰則規定があり、私の旅の場合、パキスタンに出国できるかどうかは、まさに出国間際までわからないから、ほぼ確実に事前連絡できない。無駄な出費は避けたい。しかも中国のビザは高く、15日以内の旅程では申請しても却下される。いろいろ調べたり問い合わせたり、ほとんど答えてくれない中国当局の出先機関にイライラしつつ、結局出国先であるパキスタンのビザと宿泊予定地の予約表その他を提示することによって、なんとかゴリ押しで四川航空の片道航空券を購入することができた。

 さて、次なる不安要素は中国の入国審査をパスできるかどうかであった。予約した四川航空のフライトは関空発成都行きと、成都初ウルムチ行きである。中国の法律では、乗り継ぎのみであっても最初の寄港地で入国審査を受ける。情報によると、成都の入国審査は厳しく、特に片道航空券で入国しようとする者に対しては別室で取り調べを受けるという。その対策として、航空券e-ticketのダミーや中国旅行会社のツアー日程表のダミーを用意することも考えたが、中国は国家機関のネットワークが日本以上に進んでいるので、もし嘘がバレた場合にどうなるか予測がつかなかった。したがって、すべての旅程を中国語と英語で併記し、求められればいつでも提示して説明できるようにまとめて準備した。要は、中国から直接日本には帰国しないが、パキスタンから帰国する便は確約されているという旨を要点として説明した書類である。これで正面突破しかない。

 その次なる不安要素は、成都での宿泊をどうするかであった。関空発成都行きは出発翌日の午前1時到着、審査に時間がかかった場合、入国できるのは午前2時ごろと考えなければならない。成都発ウルムチ行きは、その朝の8時出発である。野宿するには長くホテルを取るには短すぎる乗り継ぎ時間である。とりあえず中国の代理店で空港至近の安いホテルをネットで予約したのだが、到着が深夜というか、翌日未明になることを伝えるべくメールを送っても返事がない。しかも他のポータル・サイトを当たると、そのホテルの位置は空港から遠く離れていて、ピックアップサービスもあるらしいが、ユーザーのコメントが最悪だったのでこれをキャンセル、近隣のホテルを検索したが、成都空港に隣接すると称するホテルのほとんどは、地図に表示された位置にはないことがわかったので、バックパッカーの原点に立ち戻って、最悪空港建屋の軒先で野宿を覚悟した。空港至近をうたうホテルの多くは、空港建物の写真とホテルの写真を合成して、いかにも空港の近くにあるように見せているが、よく見ると同じ素材を使いまわしているので虚偽とわかる。省都の表玄関で、こんな商売がまかりとおるなんて、嗚呼これから中国へ行くんだなあという実感をしみじみと味わった。

 ところが、出発一週間ほど前に、自分の手配した予約に漏れがないかと、旅程を再点検していたところ、四川航空の自分の予約ステータスで、成都発ウルムチ行きのフライトが変更されていることに気がついた。予約した朝8時発ではなく、その日の夕方18時発になっている。なんの連絡もなかった。四川航空に問い合わせると、予約状況は常にサイト上で確認してほしいとのことで、私の予約した8時成都発ウルムチ行きのフライトはないというのである。慌ててそれ以下の予定をすべて変更しなければならなかった。その時点で、私は最初の目的地をカシュガルではなくホータンに変更していたので、中国南方航空のウルムチ発ホータン行きを予約してあったのだが、これをキャンセルして翌日の便に変更、成都での宿泊先とウルムチでの宿泊先を別途手配しなければならなくなった。日本のLCCをはるかに下回る激安航空会社である。なにがあってもおかしくはない。

 ホータンからパキスタンのラホールまでは基本的に陸路移動なので、ほぼ現地の成り行きであるから予約に関するトラブルはなく、パキスタンのビザも、大使館の指示に従って書類を作成すれば難なく得られた。それより五月蝿かったのは外野である。冬の間に田畑に積み込む予定だった古茅が、現場の都合で春先になり、遅れを取り戻そうとトラックを借りて一気に田畑に積み上げたため、それを見た近隣農家が深夜に怒鳴り込んできて、即刻撤去しなければ「集落から出て行け」大合唱が再び始まりそうになったり、忙しさのあまり冬用タイヤのまま菜種梅雨の時期に走行していたら、水溜りにタイヤが浮いて危うく多重事故を引き起こすところだったり、車検の代車を運転してたらあり得ないタイミングで路地から飛び出した車と接触しそうになったり、最後の仕上げに土手の草刈りをしていたらいきなり目の前に落雷、たぶん高圧鉄塔に落ちたと思われるが、その瞬間視界が真っ白になって草刈機のハンドルが強い衝撃を受けたり、出発間際になって、なんかもう嫌なことばかり続いていた矢先、ママからメールが来て「そんな危ないとこへ行っちゃいけない」・・・うちは厳しい家庭だったからねえ・・・というわけで全てブッチ切って出発 !!

 旅というものは、自分の心の呼び声に従って行動するものだと思う。一切の無駄を省き、旅程に必要なものを全て背負い、なおかつ軽快に、淀みなく、しかも警戒を怠らずに楽しむ。私には流れ者の血が混じっているらしく、あまり長いことひとところにとどまっていると、血が濁るような気がする。だからこうして何年かに一度は、チャンスを見計らって自分を極限状態に置きたくなる。命の洗濯だ。旅を思い立ってから約2ヶ月、準備に集中できたかというと決してそうではない。これはまあ、書ききれないくらいのどんでん返しや厄落としがあって、実は心身ともにボロボロなのだが、おかげで気持ちは落ち着いて、感覚は研ぎ澄まされ、体力気力ともに充実し、何事をも寄せ付けない力が体内から発散されている。体調はすこぶる良い。私は旅にガイドブックを持たない。拠点から拠点へ、移動する手段ややるべきことを調べ倒した情報を、全て一冊のノートに書き込んでまとめる。大抵巻末は、その国や地方で使われている言葉の抜書きだ。真ん中の空白のページは旅日記で埋まる。当然、脱ネット状態、連泊する場所でなら、多分インターネットに接続できるから、ちょっとくらいは経過報告くらい書くかもしれないが、まあそんな時間もないだろう。特に中国では、自前のネットワーク環境を持参しない限りFacebookにも繋げないので、再登場はパキスタンに入ってから。中国では私の古いブログにアクセスできるか、試しては見るつもりだ。乗り継ぎの手間を省くために、手荷物は持ち込み制限の5kgに収めた。これひとつを背負って旅に出る。最後の厄落としか、外は土砂降りである。カッパを着込んで自転車乗って、そろそろ行くか・・・

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2017年05月08日

20170508 Uyghur-Pamir

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出発直前、取り急ぎ2週間は放置できる程度に手を入れておく。


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圃場全体に下地のできたところは全て茅を敷いた。越冬作物が生育中の畝は、全て端にスタンバイした。


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タマネギやニンニクは色よく成長中、メイクインはようやく発芽、


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越冬ガルバンゾは生育が極端に遅く、やはり日本では無理なのかも。


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ソラマメとエンドウは実がつきはじめ、小麦は出穂している。


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育苗中の野菜は、特にウリ科の成長著しいので、出発当日に植え込みするかも。


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畝間の除草、周囲の草刈も全て終えのたで、これで二週間くらい放置しても問題なかろ。


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