
正月によく散策するルートがある。これは私の実家 (すでに人手に渡った) の前の坂を見下ろしたものである。私の家は高台にあって、最寄りの駅から歩いて15分ほど急坂を登る。毎日この上がり下りをしなければ生活できないので、おかげで私の足腰は丈夫である。

左を見上げれば、かつてはここに「うさぎ山」という小さな山があった。宝塚の平野部と西谷地区を隔てる「長尾連山」の最後の砦のようなものだ。昔は東の中山につながっていたはずだが、切り崩されて宅地造成された分譲住宅地に我が家はあった。1960年代前半、私が未だ子供の頃は、その斜面を伝って西へ行くと清荒神の参道に出られたもので、獣道に紛れ込んでは谷川に降りて沢蟹を捕まえたりして遊んだ。しかし「中国縦貫自動車道」が通るということになって、地元に説明会があった。その場所が知り合いの家で、そことは仲が良かったので、親に連れられた私も参加したことを覚えている。高速道路は、その丘陵の斜面の下をトンネルで貫通する。その取り付けのため、造成されたばかりの住宅地は、まるで胃がんの手術のように、不自然に斜め半分もぎ取られる形となり、地区の住民の半数近くが立ち退き対象になっていた。しかも、説明会の会場を提供した当の本人の家も立ち退き対象だったため、仲の良かった地区の住民たちはこぞって反対した。しかし、計画はすでに決定されており、巨大な力でそれはすぐそこまで押し寄せていた。場には投げやりな空気が漂った。説明しにきた役人たちは住民をなだめるしかなかった。ある人が排気ガスによる大気汚染を心配した。それに対する役人の答えを今でも覚えている。「なに車はすぐに走り去っていきますから・・・」私は幼友達の大半を失うことショックを受けていたが、そのときとっさに「でもまた走ってくるやん」と言ってしまった。役人がじろっとこっちを見た。親が私の太ももを叩いてたしなめた。「でも・・・走ってくるやん・・・」このやり取りは、私が大人に反抗した初めての経験として、よく覚えている。もちろんこの巨大公共事業が、一つの地区の反対で変更されることなどあり得ない。静かだった住宅地は連日のようにダンプ・カーが走り回る地獄と化した。そのなだらかな美しい丘陵は無残に切り崩された。しかし私にとって最も辛かったのは、仲の良かった友達のほとんどが立ち退いて、いなくなったことである。高速道路の開通と、山の住宅開発と、人口増加に対応した小学校の新設はセットになっていた。私はそれまで少し遠くて古い小学校に通っていたが、新しい学校ができたことで校区の分け方が変わった。

私の家から右上を見上げると、そこに三棟続きの社宅がある。私の家は立ち退きを免れた代わりに、地区の分け方が変わって、その社宅と同じグループに編入されることになった。そのときから、私の幼少期の地獄が始まった。その地区には、当時まだ社宅以外に同じ小学校に通う子供のある家が少なく、私はその社宅の子供達と遊ぶようになった。しかし、きわめて残念なことに、一つの会社の社員の子供という、私にはどうすることもできない連帯感が、たった一人「遊んでもらいにくる」私を疎外する方向に働くのに時間はかからなかった。それまでの、誰彼となく山に集まって走り回っていた、刺激的な楽しい毎日は、ダンプ・カーに怯えながら、柵で囲まれた小さな公園での軟禁生活に取って代わられた。しかも、相手は多勢の「組」をなしていた。そのボスにあいさつし、ボスの言うことを聞き、ボスのために働くのが、そのグループの「掟」であり「遊び」だった。いじめはすぐにエスカレートした。私はもともと鼻っ柱゜の強い人間である。壮絶な喧嘩が始まったが、所詮多勢に無勢、群れに従うか、立ち去るかの選択を強いられた。無論私は立ち去ることを選んだ。しかし当時、教育熱の盛んな新設小学校は、異常なまでに管理が厳しかった。具体的には、子供達は放課後、自分の属する地区内で遊ばなければならなかったのである。地区を出ることは許されず、地区の境界線上の要所要所には、保護者のボランティアが「交通安全」の旗を持って監視に立っていた。私の放課後の毎日は、その監視の目をかいくぐって地区をいかに脱出するかのサバイバル・ゲームとなった。

幸いにして、私の地区は校区の西北端にあったから、西北側へ脱出できれば自由の身になる。東と南は封鎖されている。しかも私の家は「うさぎ山」に隣接しているので、社宅の西の端に立つ大人の目さえ盗んで山に入ってしまえば、あとは獣道伝いに清荒神の参道へ脱出できる。そのルートは通い慣れた灌木の迷路だった。音も立てず見つかりもせず、石ころ一つ落とさずに、潅木や茂みに潜んで谷を渡ることができた。「うさぎ山」には私のサバイバル精神の源がある。しかし、しかし、この山が何十年か前に完全に潰されて宅地に造成されてしまったのだ。

山のランド・マークである大きな鉄塔は、すでに住宅地の中に埋没している。

山頂から見下ろした高速道路も、家と家の間から垣間見なければならない。

急峻な崖になっているために、何度も転落した北側の斜面は、造成されて遊歩道のついた公園になっている。

もはや辿る道も砂防ダムのコンクリートで埋められて見分けることもできないというのに、なぜか正月にはここにきて、楽しかった子供の頃を思い出し、辛かったその後のことを思い出し、理不尽な世に対する復讐の牙を研ぎながら山に潜んだ頃を思い出すのである。

清荒神の参道に入ってしまえば、往来する人が多いので紛れ込むのはたやすい。しかも有馬街道を越えれば校区が変わるので監視がない。その境界は人混みの邪魔になるから監視はいないのである。ただ、駅前はその校区の先生や警察がよく見張っているので、これを避けるために川へ降りてその際を歩く。

今では護岸が固められてしまっているが、そのころ車の通る道をくぐる水路を利用した細い路地がたくさんあったのである。今でも様子は変わっているものの、それらはほぼ残っている。その道を伝って当時の私はあちこちへ足を伸ばした。

有馬街道を西へとって、本当に有馬温泉まで行ってしまって帰れなくなったこともある。

最もよく遊んだのが川面 (かわも) 神社であった。なぜここだったのかはよく覚えていない。ただ、そこへ行けば仲良く遊んでくれる友達が集まっていた。彼らは私の校区や地区などを尋ねなかった。隣の学校の奴だなということはわかっていたようだ。しかし、よく遊んでくれた。

彼らに連れられて神社の参道を武庫川まで突っ切って、葦の原でかくれんぼしたりした。その道には、もう大きな国道や駐車場に変わり、タワー・マンションが建っている。そこから先のことをつぶさに書くことは憚られる。なぜならその付近一帯は、学校から「行ってはいけない場所」と教えられていた場所だからだ。しかしそこの子供たちと私は遊んでいた。そのことは学校には絶対に秘密だった。何人かの子供の家にも行ったことがある。昼から酒を飲んでる父親がいた。しかし優しい人たちだった。

暗くなると、思いっきり走って帰らなければ、しかるべき刻限に家に辿り着けない。しかも辿る道の後半は獣道だ。いまから考えると、よくあんな野生児のような毎日を暮らしていたものだと感心する。だから、正月にはその頃の記憶を新たにし、強く生きようと心に誓うのである。
2020.01.28 新型コロナウィルス武漢での死者100人超え中国全土で106人 (2020.04.20追記)